ひるがほに電流かよひゐはせぬか

https://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20160804 【ひるがほに電流かよひゐはせぬか 三橋鷹女】より 

歩道の植え込みなどに細い蔓をからませてピンクの花を咲かせている「ひるがほ」を見るたび思い起こす句。朝顔に似ているのにそのはかなさはなく、炎天下にきりりと花を開き続ける様子は電流が通っているようでもある。鷹女の句は機転や見立てが効いている表現が多いように思うが、それだけで終わってはいない。ひるがほを見ている自分もひるがほであり、ひるがほを通う電流は鷹女の身の内をも貫いている。しばらくは「電流かよひはせぬか」と「ゐ」をすっとばして覚えていたが、「かよひ」でしばし立ち止まって「ゐはせぬか」と自問自答することで、「ひるがほ」の存在感をたかめ、読み手にも「そうかもしれない」と思わせる呼び水になっている。鷹女の「雨風の濡れては乾きねこぢやらし」からスタートして十年、増俳木曜日を担当させていただいた。このサイトの一ファンであった私に書く機会を与えてくださった清水哲男さんと、拙い私の鑑賞を読んでいただいた方々に感謝します。ありがとうございました。『三橋鷹女全集』(1989)所収。(三宅やよい)


http://furansudo.com/archives/176 【三橋鷹女】より

 前回取り上げた星野立子と、三橋鷹女の句はある意味で対照的といえる。立子が温雅、平明と評されるのに対して、鷹女は激烈、特に富澤赤黄男の影響下に編まれた『羊歯地獄』については難解と評されることが多い。昭和期に活躍した立子、鷹女、汀女、多佳子ら女流俳人を、それぞれの頭文字を取って4Tと呼ぶが、鷹女の立ち位置はその中でも特異と言っていい。ちなみに、山本健吉の『現代俳句』では、赤黄男も鷹女も立項されていない。

 鷹女にも、夫や子への愛情を詠いこんだ、温雅な作風の句も散見される。たとえば「子に母にましろき花の夏来る」(『白骨』)などは、母の無償の愛を感じさせ、ピエタ像も想起させる、名句だと思う。だが、やはり何と言っても鷹女の句で取り上げられるのは、激越な調子で自我を押し出した句である。

 平成期の俳句の特色に、自我の表出には消極的である、ということが挙げられる。4Tの中では、星野立子に共感する作家が多いということだろう。そのような時代において、三橋鷹女の強烈な作風が、敬遠されがちになっているとすれば、これは不幸なことだ。身のまわりの何気ない自然や、平穏な人生の記憶は、もちろん庶民の文芸としての俳句の大切な題材であるが、鷹女のように日常性を越えた詩的世界を十七音によって構築する試みも、放擲してはならないだろう。現代俳句の可能性を広げ、豊かにしてくれた鷹女俳句に、平成に生きる私たちはもっと畏敬の念を抱くべきだ。

 私がもっとも好きな鷹女の一句は、次の句である。

ひるがほに電流かよひゐはせぬか  『向日葵』

 昼顔は蔓性の植物である。蔓はまるで電線のようでもある。花は、蔓の途上に咲く。電線のような蔓に咲く花には、電流が流れ込んでもおかしくない、というのである。

 もちろん、現実的に考えれば、そんなことはあるはずはない。そもそも、昼顔の蔓が電線に見えるというのは、一種の奇想であり、独善的とすら言える。それでも、読者はこの着想を受け入れてしまう。読者を説得するやり方ではない。言うなれば、力技である。「ゐはせぬか」の語気によって、読者を力づくで納得させているのだ。

 「ゐはせぬか」と呼びかけている相手は、昼顔であり、自分自身である。対詠的に答えを求めているようでありながら、自分の中ではすでに確信があるのだ。電流は流れているだろうか、いや、流れていないはずはない。そしてもし、電流の流れていないような、つまらない花だとしたら、枯れてしまえ、と命じるような覇気すら感じられる。口語では、けっして出せない力強さだ。

 つい、「ひるがほ」と「電流」を結び付けた発想の奇抜さに目を奪われるが、この句の主眼は「ゐはせぬか」によって表出される、主体の強烈な意識である。触れた者に激しいショックを与える「電流」が、自我の強さをよく感じさせる。

 自我の強さといっても、作者である鷹女そのものの自我ではない。次の句には、等身大の自分を拒むという、鷹女ならではのメッセージが色濃く出ている。

この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉   『魚の鰭』

 能の演目「紅葉狩」には、美女に化けた鬼が登場する。能では、はじめ女の姿で現れた鬼が、やがて本性をあらわすが、ここでは女が鬼に変化する。一介の女であるよりも、鬼女の方を選びたいというメッセージが、ここに示されている。「夕紅葉」の妖しい美しさからすれば、鬼女への恐れよりも、憧れの念の方を強く感じとることができる。

 紅葉と言えば、次の句も忘れがたい。

薄紅葉恋人ならば烏帽子で来  『魚の鰭』

 ありふれた恋人など要らない、自分にふさわしいのは、貴人風の「烏帽子」の恋人の他にありえない、と言うのである。「紅葉」は鷹女に、われならぬ身へ、そしてこの世ならぬ場所への憧れを掻き立てるのだろうか。

 鷹女の句には、静よりも動を、日常よりも非日常を、そして平穏よりも狂気を、というモチーフが散見される。「蝶とべり飛べよとおもふ掌の菫」(『向日葵』)が鷹女の処女作であったというのは、重い意味を持つだろう。可憐な「菫」として自分の手にあるよりも、あの「蝶」のように乱舞せよという指令は、自分自身へも向けられているのだ。「菫」よりも「蝶」であれ、貞淑であるよりも、奔放であれと、自らを鼓舞している。鷹女はこれを出発点にして、平凡な自己のあり方から自らを解放しようと、苦闘し続けるのである。

 「ひるがほ」の句にもまた、同じモチーフを認めることができる。「ひるがほ」はうす桃色の優しげな花だが、それでは鷹女は満足しない。そこで、「電流」を流して見せたのである。文字どおり、電気ショックによって、「ひるがほ」を蘇生させようとした。つまり、「ひるがほ」が「ひるがほ」であることの限界を超えさせようとしたのである。そしてそれは、句の対象物にとどまる話ではない。自分自身が「三橋鷹女」であることから、解放されたいと希求する心の表れなのである。

 第一句集『向日葵』には境涯性が目立つが、第二句集『白骨』以降、次第に別の何ものかへと変貌しようとする志向が目立つようになる。

老いながら椿となつて踊りけり     『白骨』

枯蔦となり一木を捕縛せり       『羊歯地獄』

ひまはりかわれかひまはりかわれか灼く 同

老鴬や泪たまれば啼きにけり      『ぶな』

 花をみずからに仮託する手法は詩歌においてよく取られるが、一句目や三句目には、花自体へと変容する過程が示されている点が目を引く。二句目や四句目は、「枯蔦」「老鶯」それ自体を描いているようでありながら、やはりそれは鷹女が変化した姿と見るべきだろう。

鷹女俳句に、勝気だったという鷹女自身の気質が反映していることは、しばしば指摘されることだ。確かに「夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり」(『向日葵』)や「初嵐して人の機嫌はとれませぬ」(同)といった句には、作者鷹女の本心を、俳句を通して発露したように見える。また、「日本のわれはをみなや明治節」(『向日葵』)「詩に痩せて二月渚をゆくはわたし」(同)などのように、一句の中に「われ」「わたし」が入ってくる場合も多い。ここで言う「われ」「わたし」を、鷹女自身を指しているとみることもできるだろう。しかし、こうした強い感情や自意識が、あえて俳句と言う小さな形式を通して表現されていることの意味を考えてみたい。鷹女俳句では、俳句形式が一種の“舞台”として機能しているのではないだろうか。一本の紅葉の木を登ることで鬼女に変化するように、鷹女は俳句によって自らを“舞台”上の“主人公”として生まれ変わらせた。鷹女俳句は一つの情熱的な“演劇”なのである。

みんな夢雪割草が咲いたのね  『向日葵』

 一句の言葉自体が、芝居の中の台詞の様だ。「みんな夢」と呟きのように中途半端に終わってしまう感じ、そして「雪割草」の字面の儚さと、「~のね」という柔らかい語り口ゆえに、この句の主体は奇妙に肉感がない。あらゆる時代、あらゆる場所に遍在する、女の普遍的な哀しみを、この句は訴えているようだ。

白露や死んでゆく日も帯締めて  『白骨』

 ここに描かれているのは、理想の死にざまだろう。ただの「露」ではなく、「白露」という美称を用いていることからも、それは言える。実際には、このように死ねる人は、多くはないはずだが、このような完璧な死にざまを描くことができたのは、鷹女があくまで“舞台”の上の人物だからだ。

鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし   『白骨』

 さきほどの句が理想の死なら、こちらは理想の恋愛である。「鞦韆は漕ぐべし」と「愛は奪ふべし」とがさりげなく並べられているが、「愛を奪ふ」という行為は、ぶらんこを漕ぐように簡単にはいかないはずだ。多くの人が傷付き、自分もただではすまない。だからこそ、ラブ・ロマンスを私たちは必要とする。この句も、愛にまっすぐな一句の“主人公”に、読者は惹きつけられるのだ。

堕ちてゆく 炎ゆる夕日を股挟み  『羊歯地獄』

 夕焼けに真向かう程度であれば驚かないが、女性らしからぬ「股挟み」には迫力がある。「炎ゆる夕日」にも引けを取らない、女の情熱が漲っている。とはいえ、「墜ちてゆく」は、女の衰退も暗示しているから、老いてゆく者の胸中に滾る、儚い情熱と映る。

白馬を売らんと来しが葦の花   『ぶな』

 「白馬」を売るとは、ほとんどの人が経験しないことだろう。売りに行く白馬とともに、川辺を歩いている。高貴なる白馬を手放すことに、まだ迷いがあるのだろう。なぜ白馬を売らなくてはならないのか、背景はまったく書かれていないが、静かな悲しみが伝わってくる。

 鷹女は、俳句という“舞台”にのぼることで、女の普遍的な姿や、理想の姿を俳句の上に作り出してみせた。それは、あくまで一句の主体は自分自身であるという前提を固持した俳句では実現し得ない、画期的な方法だったと言える。しかし、どのような俳優でも、舞台から降りるときは来る。次の句の湛える悲しみは、現役を退いた老俳優の悲しみである。

藤垂れてこの世のものの老婆佇つ   『ぶな』以後

 「藤垂れて」と、あえて藤の花が「垂れて」いることを示して、その重く垂れ下がったさまを強調することで、「老婆」の悲しみが際立ってくる。

 鷹女が仮に、“舞台”の上で完全に自由な“主人公”であったならば、晩年の鷹女俳句に、「老」のモチーフはこれほど多くなかったに違いない。その点で、「この世のものの」という限定を受けた「老婆」は、どこへも行けなくなった……“舞台”に立つことのできなくなった鷹女自身であるのだ。果たして、俳句の上に、完全に自由な“主人公”を立たせることは、できるのか。鷹女作品は、大きな課題を私たちに残している。


https://pegasushaiku.exblog.jp/28004278/ 【雑考つれづれ】より 

―三橋鷹女を追って①― 羽村 美和子

 「4Tのうち誰が好きですか」と、初学の頃、先師高井泉(『像』主宰・平成十一年終刊)に、聞かれたことがある。4Tとは、大正末から昭和初めに活躍した四人の女性俳人の頭文字を取って山本健吉が付けた呼称で、三橋鷹女、橋本多佳子、中村汀女、星野立子のことである。先師の問いに、すかさず三橋鷹女と答えた。

<夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり><みんな夢雪割草が咲いたのね><鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし>口語調の自由な物言いがたまらなかった。<一句を書くことは 一片の鱗の剝脱である>の言葉に、訳も分からず心が高鳴った。いろいろな作家の作品を知る毎に、その時々で好きな作家も増えたり減ったりしたが、三橋鷹女はコンスタントに私の心の比較的奥の方にいた。

 数年前、ある書家が拙句を揮毫して下さった。成田山書道美術館に展示してあるということで、拝見に伺った。その帰りに新勝寺の参道を歩いていると、着物姿の女性の、等身大と思われるブロンズ像が立っていた。像は着物をきりっと着て帯の辺りに両手を重ね、やや右前方をじっと見つめている。よく見ると三橋鷹女ではないか。傍らの石には、鷹女の略歴と、<この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉>の句が刻まれていた。懐かしい人に出会ったような気分だった。揮毫された拙句を見ての帰りだったので、何だか励まされている思いもして嬉しかった。

鷹女の像は平成十年に「鷹女の像を造る会」の手によって建てられ、三橋家の人や中村苑子らによって除幕されたことを、後に知った。長年鷹女に心惹かれながらも、鷹女に学んでこなかった。遅ればせながら、私の視点で鷹女を追ってみたいと思った。

三橋鷹女の来歴を、『橋本多佳子・三橋鷹女集』(朝日文庫 現代俳句の世界11・昭和五十九年)の略年譜より抜粋してみる。三橋鷹女は明治三十二年十二月二十四日、千葉県印旛郡成田町(現、成田市)に生まれる。本名たか子、幼名文子。父は成田山新勝寺の重役を勤める一方、成田市助役として三十年間も勤めた。家系に歌人が多く、鷹女も成田高等女学校卒業後、上京して次兄の師事する与謝野晶子・若山牧水に私淑し、作歌に励む。

大正十一年、歯科医師東謙三(俳号・剣三)と結婚。短歌より俳句に力を注ぐようになる。当初の俳号は東文恵。原石鼎の『鹿火屋』、小野蕪子の『鶏頭陣』、同人誌『紺』を経て高柳重信の勧誘で富沢赤黄男の『薔薇』(のちに『俳句評論』)に参加。昭和四十七年没。享年七十三。句集『向日葵』『魚の鰭』『白骨』『羊歯地獄』『橅』。

第一句集『向日葵』は、昭和十五年三省堂より発刊。作者名東鷹女。大正十三年から昭和十五年まで、鷹女二十五歳から四十一歳までの作品三百四十句が収められている。自序に

…その時々に於ける作品は貧しくとも、履き古したわらじのやうには捨てきれないものがある。とは云へ限られた頁の中に到底収録しきれるものではないので、……二千句に近い中から自選し、これに最近の作で未発表のものを択び加へた

とある。第一句集ともなれば思い入れが強い。そうでなくても、二十年近くの作品を有する句集ともなればどの句も捨てがたい。鷹女は、二千句に近い句を潔く絞り、尚且つ近作未発表句を加えたという拘りである。

実際『向日葵』最初の章「花笠」(大正十三年~昭和三年)には十句しかない。第二章「風ふね」(昭和四年~昭和九年)には三十四句、第三章「いそぎんちゃく」(昭和十年~昭和十一年)には五十八句、第四章「蛾」(昭和十二年~昭和十三年)には百九句、第五章「ひまはり」(昭和十四年~昭和十五年)には百二十九句。第四章、五章の四年間の句が句集の三分の二を占めている。一人の俳人として、納得のいく作品を載せたいとの思いであろう。

 すみれ摘むさみしき性を知られけり 「花笠」

 折りあげて一つは淋し紙雛 「花笠」

 吾もまた淋しき性よ秋袷 「風ふね」

 羽子板の裏絵さびしや竹に月 「風ふね」

第一章、二章の少ない句の中に、<さみしき性><淋し>の措辞が目立つ。俳句に於ける感情表現は出来るだけ避けた方が良いと言われているが、鷹女の場合はかなりある。<淋し><さみしき性>とはどういうことであろうか。

 <淋し>については、次の句群がヒントになろう。

 

かたげこぼす壺の水より秋のこゑ 「風ふね」

髪おほければ春愁の深きかな 「いそぎんちゃく」

 颱風の底ひ眼のなき魚が棲む    〃

これらの句には、私淑していた与謝野晶子や若山牧水と原石鼎等の影響が感じられる。特に<髪おほければ>の句は<その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな 与謝野晶子>の、<颱風の>の句は、<海底に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の恋しかりけり 若山牧水>の本歌取りのように読めるし、同じく青春期特有の愁いやナルシシズムと同時に詩的発想がある。それを以て第一章第二章の<淋し>を捉えると、鷹女の思いがすとんと胸に落ちる。<かたげこぼす>の句には、詩的発想の飛躍があり、句の世界が広がる。原石鼎の影響もありそうだ。それらの感覚は、皆<淋し>へと繋がっていく。

一方<さみしき性>については、鷹女自身が「わたくし曼陀羅」(『鶏頭陣』昭和十一年)と題して書いている。

 …私は人の風評にいち〱〱耳をとめる必要を感じない。人の作った流行に関心は持たれない。結局私は大の我儘者なのである。そこで私といふ何の変哲もない人間からこの我儘を取り除いてしまったら、いつたいあとに何が残るといふのだらう。さう思ふと自分は自分の我儘を守り育てゝゆくしかないことを思ふさみしさに住まなければならない私なのである。…

即ち「自分の我儘を守り育てゝゆくしかないことを思ふさみしき性」ということになる。自分は自分でしかないという矜恃、今の時代であれば当然のような思いである。そうは言うものの、貫き通すことは平成も終わろうとする今でも難しい。しかしそれを鷹女は貫こうとする。人と相容れない<さみしき性>である。<さみしき性>は、第三章の次のような句となる。

夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり 「いそぎんちゃく」

  初嵐して人の機嫌はとれませぬ   〃

  つはぶきはだんまりの花嫌ひな花  〃

 暖炉灼く夫よタンゴを踊らうか   〃

 ひるがほに電流かよひゐはせぬか  〃

 特に掲句前半三句には、これほどまで自由に言い切って良いのだろうかというたじろぎと、共に湧いてくる小気味よさがある。自分は自分でしかないという矜恃の表明に圧倒される。しかも鷹女と言えば必ず挙げられる句群である。それが、こんな初期にあったことにも驚かされる。読み手によっては、「もの」がないのに俳句と言えるのかとか、この時代であったからこそ新しいとされたという人もいる。果たしてそうであろうか。

掲句一句目は、言い切りの会話文そのままのように思われるが、<嫌ひなものは嫌ひなり>と韻を踏みリズムを生み出している。掲句二句目三句目は字余りである。二句目は<初嵐>とすればすっきり五七五となるのに、<初嵐して>と敢えて七七五としている。また三句目は下六である上、中七の<だんまりの花>という響きの悪さがある。それも<花>を重ね韻を踏むことでリズムを作り、バランスを取っている。だがそれ以上に、鷹女の心から突き上げてくる内在律を感じる。内在律はおもねることを知らない。俳句形式の五七五という外在律と内から突き上げる内在律が、せめぎ合いきしみ合い噛み合わさった時、それは圧倒的パワーとして読み手に迫る。

掲句四句目<暖炉灼く夫よタンゴを踊らうか>は、俳句というより、内から溢れ出すタンゴのリズムを感じる。また五句目<ひるがほに電流かよひゐはせぬか>の斬新な発想は、<電流かよひゐはせぬか>という内在率によって鷹女の矜恃を押し出している。

『向日葵』の巻末の「伝」には、<従来の俳句に不満寂寥を感じ、敢へて冒険的なる作句を試み始め>とある。句作に於いても<淋しき性>は膨張していくのだ。

日本の我はをみなや明治節 「風ふね」

掲句はきっちりと作られ、先の三句とは異なるように見える。『鶏頭陣』に入ってすぐ巻頭を取った作品で、初出は<日本の我もをみなや明治節>であったようだ。この<も>と<は>には大きな違いがある。<は>は他と区別して言う意を表す。「我こそは」という矜恃である。それに対して<明治節>と置かれると、すぐに「女大学」を思ってしまう。封建体制下の家を支える女性の教育で、名称を変えながら第二次世界大戦終了時まで実施された。この矜恃は、良妻賢母として常に自分への鼓舞となる。

<人の機嫌はとれませぬ>という鷹女にとって、掲句は居直りにも取れるが、抗いようもないものはとことん引き受けるのも、<淋しき性>の一つなのだろう。着物をきりっと着て立つ鷹女の像が、脳裏に浮かぶ。 (次号へ)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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