愛という土壌

Facebook・清水 友邦さん投稿記事

人は愛を必要としています。

最初の愛の経験は両親からもたらされますが、そのもっとも愛して欲しい両親が子供を傷つけてしまいます。

子供の頃にひどい暴力を受けて育つと、苦しみを感じたくないので感じる通路を塞いでしまいます。そして育った環境に適応した仮面をつけて生きるようになります。そのために感受性が希薄になり、他人の苦しみや悲しみを感じることができません。相手に苦痛や被害を与えても平気になってしまうのです。

独裁者たちは子供の頃に暴力を受け取っていました。

サダム・フセインは生まれる前に、実父を亡くしていて、母親の再婚相手からひどい暴力の体罰を受けて育てられていました。サダム・フセインは子供の頃に虐待を受けていたのです。

子供の頃に虐待を受けた独裁者で思い出すのがスターリンです。スターリンの父親はアルコール依存症で、気に入らない事があると妻とスターリンをムチで虐待していました。父親だけでなく母親のエカテリーナもスターリンが言うことを聞かなければ容赦なく殴っていました。父親と母親の両方から虐待をうけて成人したスターリンもまた気に入らない相手をすぐに殴りつける性格を持っていました。

シリアルキラー(連続殺人犯)は愛情のない機能不全の家庭に育っていることが明らかになっています。

シリアルキラーは幼児期に見捨てられたり、支配的な母親に育てられた人が多く、ほとんどの人が子供の頃に虐待を受けていました。

シリアルキラーはたいてい、人との関係がうまく築けない者が多いので長く仕事が続かなかったりします。

もちろん虐待を受けて育った人々が、必ずしも全員が暴力的になるわけではありません。内側に蓄積された膨大なエネルギーを暴力ではなく芸術活動に使う人もいます。

そのエネルギーを創造的ではなく外側に向かって破壊的に使われると暴力的になり、内側に向くと他人ではなく自分自身を傷つけるようになります。

何れにしても溜め込まれたエネルギーは何かをきっかけに解消しようと表出します。

子供の頃に十分な愛を受けとることができなければ愛を与えることは難しくなります。

暴力を使うことしか知らないで育てば、暴力をふるってしまうでしょう。

マインドは機械なので暴力のプログラミングが入れば問題解決に暴力をふるってしまうのです。

もし子供に愛という食べ物が与えられなければ、愛を与えることも受け取ることも困難になってしまいます。

子供は愛を必要としています。

愛を受け取れずに自分の感情を切り離したとき、世界は愛すべきものではなく自分を脅かす敵となってしまいます。

自分の内側に潜む恐れ、心の奥底にある感情の痛みに気がついて、あるがままの自分を受けれることができなければ、世界に敵対して戦い続けてしまいます。

マインドから自由になるには、私たちはマインドではなく、マインドを超えた存在だと気づくしかないです。

本当の自分の存在に気がつけば否定的なプログラミングを変えることができるようになるので暴力的なマインドに支配されることはなくなります。

以下、連続射殺事件を犯した人物の母親と祖母の3代に渡る長い記事ですのでお時間のある時にどうぞ

「愛という食べ物」

1968年に連続射殺事件を起こした永山則夫死刑囚のTV特集を見る機会がありました。何百本ものカセットテープに記録された永山則夫の肉声が残されていました。

死刑囚で彼くらい詳しく生い立ちが鑑定されたことはありませんでした。

子供時代に必要なだけ抱きしめられ愛されなければ人を傷つけて刑務所に入ってしまうか精神を病んでしまいます。

それは誰にでも起きる可能性があります。

永山則夫は永山家の7番目の四男として北海道網走に生まれました。

永山の生まれた家は8人の子供がいて、さらに高校生の長男が作った子供まで引き取り育てていたので11人の大所帯でした。

父親の武男は腕の良い、りんごの枝の剪定師でしたが、稼ぎの大半を博打につぎ込む無類の博打好きでした。たまに帰れば有り金を全部持ち出すので夫婦の仲は破綻していました。母親のヨシは一日中行商をして日銭を稼いでいました。母親が則夫に愛情をかけることはありませんでした。

永山則夫に父母の記憶はなかったのです。

19歳年上の長女セツが進学を諦めて家事と育児のすべて引き受けて、幼い則夫の母親代わりをしていました。

則夫の年上の兄姉は皆そろって成績優秀で学校で3番以内の成績を残しています。

長女セツは、網走女学校入学から卒業まで首席でした。

長女セツは、恋人の実家の助けを得て大学へ進学する夢を抱いていました。ところが永山が4歳の時、長女セツは婚約を破棄され泣く泣く子供を堕ろしたあと、精神を病んで精神病院に入院してしまいました。

1954年(昭和29年)10月、お金を入れないどころか明日食べる米まで持ち出して金に換えてしまう博打三昧の父親との離婚を決意した母ヨシは実家のある青森県板柳に帰ってしまいました。

しかし、一緒に連れて行ったのは女の子3人だけで、14歳の三女、12歳の次男、5歳の四男則夫は網走に残されたのです。

子供達は母親に捨てられたのです。

則夫は常に腹をすかして漁港で魚を拾ったり、ゴミ箱を漁ったり乞食同然の生活をして真冬の網走なんとかしのぎました。

どうして則夫の母親ヨシは子供を捨てたのでしょうか?

そこにはヨシの母親である則夫の祖母マツの生い立ちも関係してました。

母親ヨシは1910年(明治43年)、北海道利尻島で生まれました。

ヨシの母親で則夫の祖母になるマツは島根県から利尻に移住してきた漁師の娘でした。ヨシは2才の時に海難事故で父を失い母マツとともに樺太へ渡った。

日露戦争で南半分が日本領になっていた樺太には大勢の日本人が移住していました。ヨシの母親マツはカニの缶詰工場で働き、幼いヨシは学校に行かず女工の子供達の子守をさせられていました。

母親と同棲していた男は酒癖が悪く焼酎を飲むと、幼いヨシを天井に吊るしたり叩いして、毎晩ひどい暴行を加えました。

則夫の祖母マツも子供を虐待しました。

「こうして苦しんで生きていても何もならない。おまえ死んでしまえ」とヨシは母親の祖母マツからたたかれていました。

生活の苦しさに耐えかねた則夫の祖母マツは娘のヨシと川へ飛び込んで心中を図ったこともありました。

その後、男と別れて大工と再婚した祖母マツは10歳のヨシを樺太に置いたまま、旦那の実家がある板柳へ帰ってしまいました。

則夫の母ヨシも母親からネグレクト・育児放棄(いくじほうき)を受けていたのです。

2年後の12歳のときシベリア地方の極東の町を放浪していたヨシはシベリア出兵から引き揚げ途中の日本軍の憲兵に助けられて青森県板柳町の祖母マツのもとに送られました。連子だった幼いヨシは家から出て町の酒屋で住み込みで子守りを続けました。

永山則夫は母親ヨシから捨てられ放浪しましたが、その母親ヨシも母マツに捨てられ放浪していたのです。

因果は巡るです。

春になって、やっと動いた福祉事務所が母親ヨシの居場所を探し出し、則夫たち4人は青森の板柳に送られました。

板柳では長男が音信不通、長女セツ(23歳)は網走の精神病院に入院したまま、次女と三女は学校を出ると逃げる様に家から出てそれ以降板柳に寄り付きませんでした。

板柳の家にいたのは次男(11歳)、三男(9歳)、四男則夫(4歳)、四女と孫(ともに1歳)の5人でした。

次男は成績が優秀でしたが、家が貧しく修学旅行もいけないし、高校に行ける見込みがなく、鬱憤した感情が一番幼い弟の則夫に向い、則夫はサンドバック状態で毎日殴られました。

鼻血を流せば止めましたが、それがなければ気絶するまで続く暴力を日常的に受けていたのです。

仕事から疲れて帰ってきた母は泣いている則夫を「また、泣いて」と理由も聞かず殴っていました。

博打好きの父親に則夫は似ていたので母親のヨシはしゃくにさわったと証言しています。

母ヨシは則夫を殴るときに、決して自分の手で殴らず、かならず物で殴りました。

則夫と母親との間にスキンシップはなかったのです。

則夫は夜になると家の外を徘徊したり、汽車に乗って函館や福島まで家出をしました。度重なる家出で、迎えに行く母親は仕事ができなくなり、困り果て、次男に暴力を止めるように注意して以降、次男のリンチはピタリと止まりました。

家出は俺の勝利だと則夫は思ったのです。

則夫は孤独な生活を送り、友だちと遊ぶという自然な環境が皆無でした。

小学校の5年生の時に長女セツが精神病院から退院して則夫の学校の宿題を教え面倒を見ました。則夫は小学校の6年間、不登校が続きましたが長女セツが家にいた5年生のときだけは登校しています。

ところがある日、長女セツに男が出来て則夫は自宅でセックスしている場面を見てしました。長女は妊娠しましたが男が逃げたので堕胎して則夫がその子を墓に埋めました。則夫にとって唯一、愛を与えてくれた姉でしたが男と寝ていた姉に嫌悪感をもってしまいました。兄貴に殴られるのとは違う何か嫌なものを食べた感じがしたと証言しています。

セツの心は再び不安定になり精神病院に入院しました。

則夫は再び不登校を続けました。

その頃、網走以来行方不明になっていた父がひょっこり永山家に顔を見せましたが、兄たちは父を木刀で殴り、家から叩き出してしまいました。

翌日永山は、町の映画館の前で父に出会い父から「100円やろうか」と声をかけられましたが怖くなって思わず逃げてしまいました。

父親はそのまま駅に向かい列車に乗って二度と板柳に現れることはありませんでした。

則夫の目には、母が言うほど父が悪い男には見えませんでした。

永山則夫が中学1年のとき に父が死んだという報せが届きました。

岐阜で行き倒れポケットには10円しか入っていませんでした。

警察の現場検証の父親のひどい死に顔の写真を見てから永山に自殺願望が生まれました。

「その頃だよね。何で俺生まれてきたんだろうって思ってね。何度も死のうと思ったよ。天井から縄をぶら下げてね。いつ死のうかそればかり考えてた」(永山則夫)

兄2人が集団就職で家を出てゆくと、逃避の形で一時的に蓋をしてきた則夫の内部のエネルギーが、妹に向かって放出しはじめました。

今度は則夫が妹や姪を木刀で繰り返し打ちのめしたのです。

妹を繰り返しなぐることで、劣等感を解消しようとしたのです。

暴力を振るわれて育った則夫は妹への接し方が判らず、暴力でしか自分の気持ちを表現できませんでした。

母親のヨシは則夫を疎ましく思い、早く出て行け、出て行けと、そのことばかり考えていました。

永山則夫は後にこの頃の様子を小説「木橋」にしています。

そして最後にこう書いています。

悲しみが降る

シンシンと音もなく降る降る

悲しみの根雪が積もりくる

津軽の十三歳は悲しい

昭和40年3月、集団就職で青森を発つ則夫を見送る家族は誰もいませんでした。

則夫は東京で職に就くが被害妄想が強く、誰とも打ち解けることはありませんでした。

「みんな俺が来ると、黙っちゃうんだよね。あ、俺のこと噂してたのかな、とか思うよね。嫌でたまんなかったね」(永山則夫)

永山は3年半の間に20回近く転職を繰り返しました。

しかし何処へ行っても同じで、他人への猜疑心に苛まれ、家出の時のように、嫌になれば荷物を残したまま、職場から逃げ出したのです。

永山は人に優しくされたりほめられた経験がほとんどありませんでした。

唯一優しくしてくれたのがセツ姉さんでしたが堕胎をきっかけに精神を病み永山は必要な愛を受け取ることができませんでした。

「とにかく独り。どんどん独りになっちゃったんだな。夜になるとさびしくてね。親父みたいに死にたくなくて、怖くて、俺もいつかは野垂れ死にだって」(永山則夫)

永山は18回自殺未遂をしています。

日本から逃げ出そうと外国船に忍び込んで自殺を図り発見されて少年鑑別所に入れられました。そこで全員から耳から血が出るほどのリンチを受けました。

「全員にやられたんだ。あと一時間やられてたら死んでたかも知れないな」(永山則夫)

出所したけれど、もう何処へも行くあてのない彼は、二度と戻らぬつもりでいた母親のいる板柳に戻りました。しかし、疲れきって帰った則夫に母は罵声で迎えました。

「俺はもう何もかも嫌になってたんだ。もう少しお袋が静かにしてくれてたらよかったのに」(永山則夫)

そのあと19歳の永山は寝るところもなく放浪し、横須賀基地に侵入して拳銃を盗んだあと、東京,京都,函館,名古屋と次々と4人を殺害し逮捕されました。

永山の鑑定書は次のように述べています。

「劣悪な成育環境と母、姉らの生き別れ等による深刻な「外傷的情動体験」と放浪時の睡眠障害、孤立状態、無知が複雑に交錯し、増強しあった結果である。」

読み書きがほとんどできなかった永山は獄中に入ってノートの使用が許可されると独学で孟勉強して最初の小説「無知の涙」を執筆しました。

1869年から48歳で死刑執行になるまで間に気が遠くなるような努力をして16の著作を出版して1983年には小説『木橋』で第19回新日本文学賞を受賞して世界に知られる作家となりました。

一審は死刑でしたが二審が始まる頃に獄中で結婚して、1981年の高等裁判所判決において被害者遺族に本の印税を送り続けたことが情状の一つとして考慮され、無期懲役への減刑につながりました。

しかし、最高裁の判決は死刑でした。

その理由を裁判官はこう述べています。

「永山が極貧の家庭で出生・成育し、両親から育児を放棄され、両親の愛情を受けられず、自尊感情を形成できず、人生の希望を持てず、学校教育を受けず、識字能力を獲得できていなかったなどの、家庭環境の劣悪性は確かに同情・考慮に値するが、同じ条件下で育った他の兄たちは概ね普通の市民生活を送っており、また上京から3年以上社会生活を送った後に保護観察措置を自ら拒否して逃避した末に連続殺人の犯行を犯していることから、生育環境の劣悪性は4人連続殺人を犯した決定的な原因とは認定できない」

普通の市民生活を送っていると裁判官に言われた永山家の兄弟姉妹の人生はどうなったかというと

長男は、則夫が逮捕される前年、詐欺罪で逮捕され、宇都宮刑務所に服役後、出所してから実家には帰っていません。

次男は、卒業後、東京の機械制作会社に就職しました。その後。長男に誘われ、住宅販売会社のセールスマンをして、結婚もして1児をもうけましたが、離婚しました。その後稼ぎのある女性を乗り換えながら、パチンコ三昧の日々を送りました。

 しかし、その日暮しの生活も限界に達し、42歳の時、末期の胃ガンで川崎市内の路上で倒れているのを病院に運ばれ、誰にも看取られることなく亡くなりました。

次女は美容師を通信教育で取り、長男を頼って上京しました。そこで、新宿の美容院で働いているうちに木型職人と結婚し、1児をもうけました。その後、離婚し子どもは相手が引き取りました。

三女は、離婚して水商売をし、北関東にある雀荘のおかみとなりましたが、その後は連絡がとれなくなりました。

三男は、大手出版社の名古屋営業所に勤務し、課長補佐となり、二十名の部下を使う身になりました。

40歳の時、則夫の裁判で兄姉の中でただ一人裁判に証人として証言をしましたが、後に退職し、永山姓を捨てて妻の姓となり、周囲との連絡を断ちました。

四女は、名古屋で針子をしていましたが、則夫の事件から5年後、母が倒れたので青森に戻りました。その後、弘前市で看護婦見習いとして働き始めましたが、23歳の時、望まない妊娠をして未婚のまま男児を出産しました。バーのホステスとして働きながら、借金を重ね転職を繰り返しました。結局、青森に帰ったものの、母の世話は一切していません。四女は心を病み、子どもは乳児院に預けられました。

長男の子供で則夫の姪は、埼玉県にある工場に集団就職して結婚しましたが、その後離婚し、相談しに行った次男の手によって置屋に売られ、行方不明となっています。

結局、年老いた母のいる板柳へ立ち寄る兄弟姉妹は誰一人いませんでした。

東京拘置所で、母も自分と同じようなひどい目に遭いながら生きてきたことを聞かされた永山は「お袋の手記を知ってたら、事件なんか起こさなかったよ」と呟きました。

則夫は母に読めるようにカタカナで手紙を書き、母親ヨシと姉のセツに本の印税を送り続けました。

姉のセツが亡くなった平成4年の翌年に老人ホームに入居していた則夫の母親は83歳で亡くなりました。

裁判官は4人を殺した永山を死刑にしなければ、これが判決の前例となって、今後、凶悪犯罪を裁くにときに、死刑が出せなくなることを恐れました。

永山則夫を死刑にする9つの項目が後に死刑を選択する判断の基準となり永山基準と呼ばれるようになりました。

ドイツの作家同盟が彼の恩赦を望む書簡を日本政府に送っていましたが1997年8月1日、東京拘置所において永山の死刑が執行されました。

享年48歳でした。

心血をそそいで書かれた鑑定書が無視された石川医師はその後、鑑定から身を退きました。

絞首刑の際、永山が「殺されてなるものか!」と力を振り絞って巨漢の刑務官数人に激しく抵抗したとする複数の証言があります。

このため、永山の遺体は全身に無数の打撲痕と擦過傷などを負い、無惨な姿だったので拘置所内で即座に火葬されたと言われています。

生前、永山は知人に「刑が執行される時には全力で抵抗する」と述べていました。

永山の遺灰は遺言で網走の海に撒かれました。

自分は生きる価値がない駄目な人間だという思い込みが、すべて外側から植え付けられたものだということに永山は気がつきませんでした。

永山則夫は刑務所に入所して初めて自分を取り戻しました。

それまでは無意識に埋め込まれた否定的な感情のエネルギーに支配されて、それを解消しょうと機械的な行動をとり続けたのです。

そこには沢山の心の痛みがありました。

本当の自分に気がつくまで苦しみが終わることはありません。

子供は愛を必要としています。

愛という土壌が、美しい花を咲かせるのです。

コメントのやり取り(抜粋)

刀根 健

ヒトラーも、父親から虐待されていたと読んだことがあります。

清水 友邦

刀根 健 さんそのようですね。彼の残酷さの根底にあるヒトラーの痛ましい子供時代

https://voi.id/ja/memory/45846/read  【彼の残酷さの根底にあるヒトラーの痛ましい子供時代】

刀根 健

そのエネルギーがユダヤの人たちに向かい、大虐殺が起こったと考えると、父親のからインストールされたプログラミングがどれだけ世界に多大な影響を与えてしまったかという恐ろしい事実だと感じます。そして、アウシュビッツの生き残りの人たちも、自分の子供を虐待してしまっていたという事実もどこかで読んだことがあります。

清水 友邦

刀根さんが全身の末期ガンを克服して人々に希望を伝えているように、私たちは環境を破壊することも美しい調和された世界を創造することもできる存在なんですね。

刀根 健

ありがとうございます!

清水 友邦

利根さんのインタヴュー記事とってもいいですね。

病気前と後で何か変わりました?

 「別人です。思考とか感情に巻き込まれないようにエゴを客観視できるようになりました。エゴは私の一部であって、エゴ=私ではない。以前より、上から自分を見詰められるようになった。エゴが不安を感じたら、幼稚園児にヨシヨシするように頭をなでてやるんです。作為的に何かを計画してやることもなくなった。ひらめいたことだけをやる。あとは、ニコニコしながら過ごす(笑)」

https://www.chunichi.co.jp/article/15097  【全身末期がんから奇跡の生還を果たした元ボクシングトレーナーに会いに行く:中日スポーツ・東京中日スポーツ】

刀根 健

ありがとうございます。光栄です。

原田聖子

子どもは愛されたか、愛されなかったかで人生にこんなにも差が出てしまうのですね。永山則夫の兄弟も心痛むことです。

清水 友邦

永山則夫と同様の心は誰にもあると思います。

誰もがあらゆる可能性を秘めて生まれてきます。

王女として育てられれば王女のように振る舞うでしょう。

そして永山則夫と同様に人を傷つけることも小説を書いて人を助けることもできるんです。

Kyoko Hernandez

ここに書かれたことだけ読むと、まるで最初から最後まで彼には何一つ良いことがなかったように、読めてしまいます。

彼の兄弟や両親にしてもそうです。

でも、神様はそんなに意地悪なのでしょうか?

親は可愛がったつもりでも、可愛がられていない、別の兄弟だけえこ贔屓していた、と思っている人はごまんといるはずです。

そう言った人々は一生人を恨み、当たり散らして生きていかなければならないのでしょうか?

どんな人にも幸せな瞬間と、そうでない瞬間はあると思います。

親に愛を得られなかったからと言って、その人生を最低なシナリオにしてしまうのはどうでしょう。人は、なくなる瞬間、自分の人生が間違ってなかった(幸せなものであった)と思って死ぬと聞いたことがあります。どんな経緯があったにせよ、この方も、彼の人生という修行を終え、静かな世界に旅立たれたことを祈ります。

大角千佳

天童荒太さんの「永遠の仔」を思い出しました。私も幼児教育に携わり、虐待児に関わることもあります。「かあちゃん、○○のこと嫌い、言う、父ちゃん叩く。先生は○○のこと、好き?」毎日毎日、「先生、〇〇の事好き?」と尋ねてくる子に「大好きだよ」と抱きしめ続けると、朝、登園すると、身を投げ出すように、私の胸に飛び込んで来るようになりました。無条件の愛ー自分に出来る事は、ただそれだけでしたが、いつもいつも「いいんだよ」という気持ちでいました。子供の頃に、愛情をしっかり注ぐ重要性は強く感じています。

清水 友邦

大角千佳 さん 人間の本質は人格ではありませんから子供のころに虐待を受けても変わることはできるんですね。

悩み苦しむ子供たちのために

https://news.mynavi.jp/article/20201226-nekketsu_osho/   【悩み苦しむ子供たちのために最期まで…“熱血和尚”の姿をコロナ禍の今、放送する意義 (1)】

大角千佳

清水 友邦 さん 素敵な情報を頂き、ありがとうございますm(_ _)m繊細な子供達の心ーわかるような気がします。また、虐待を受けても、しっかりとした大人の愛情の下で、素直な心を育んでいけることもその通りだと思います。素晴らしい和尚様ですね。

ありがとうございますm(_ _)m

清水 友邦

自分は永山則夫のように犯罪を犯さないと思う人が多いと思います。

ところが誰もが同じ環境に置かれた時に永山則夫と同様なパターンに陥る可能性があります。

それを知らずに心を切り離してかわいそうな永山則夫として見てしまいます。... もっと見る

山内 恵美

子供は自ら親を選んで生まれてくると言いますがその辺はどうなのでしょう?

過酷な人生を選択したと言うことでしょうか?

清水 友邦

山内 恵美 さんその知識が他人の知識の場合、マインドで自己正当化として解釈してしまいます。本当はどうなっているかどうかよく調べる必要があります。

真実はマインドの世界を超えているので自分の無意識に入って確認する必要があります。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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