「戦わずして勝つ」

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戦後70年:「国のため死んでいく制度は我慢できぬ」 俳人・金子兜太さんインタビュー2015年06月23日毎日新聞

◇トラック島で「捨て石」体験

 戦争における生と死の実態とはどのようなものなのか。そこに皇軍の誉れはあったのか。帝国海軍主計将校として、南洋のトラック島に“捨て石”とされた体験を持つ俳人、金子兜太(とうた)さん(95)に聞いた。【聞き手・高橋昌紀/デジタル報道センター】

  水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る

 敗戦を迎えたトラック島での1年3カ月の捕虜生活を終え、日本への引き揚げ船となった駆逐艦の甲板上で、詠んだ一句です。最後の引き揚げ者200人とともに、島を後にしました。小生の所属部隊を含め、戦死者はらくに1万を超していた。その人たちを思い、復員後の生き方を決意した一句です。

 海軍を志願したのは功利主義からでした。どうせ戦争にとられるなら、一兵卒は嫌だった。東京帝大経済学部在籍時に海軍経理学校の試験にパスし、1943年9月に入学します。その3カ月後が学徒動員でした。同輩、後輩が、随分と死んでしまいました。翌年2月に卒業し、配属されたのが、海軍の拠点が置かれたトラック島。第4海軍施設部の最年少の甲板士官(中尉)でした。

 軍隊は身分制の世界です。上からは将官、将校、下士官、兵卒。さらに募集・徴用で集められた民間の工員がいました。ある日、工作部が手製の手りゅう弾を製作しました。実験をすることになったが、将校・下士官はもとより、兵卒にやらせるわけにもいかない。そこで、工員にやらせろと。ところが、工作部は機械製造などが仕事で、熟練工が多い。貴重だ。施設部は道路工事などの単純な仕事だ。役に立つかどうかでも、命の価値に差があった。「金子中尉、お前のところでやれ」と。1人の工員を選びましたよ。

 ボーン。発火させた途端、手りゅう弾が爆発してしまった。その工員、田村の右腕は吹っ飛び、背中に白い穴がカアーッと開いた。隣にいた落下傘部隊の少尉も海に吹っ飛ばされて、即死でした。ところがね、それを見ていた工員仲間たちが田村を担ぎ上げ、「わっしょい、わっしょい」と病院に駆けだした。

 人間への認識が変わりました。もともと、一旗揚げようと南の島に来た工員ばかりでした。聖戦とか、大東亜共栄圏とか、そうした意識は薄い。けれども、明らかに死んでいても、仲間は放っておかない。俺は人生を甘くみていたんじゃないだろうか。人間って、いいもんだ。「わっしょい、わっしょい」の声は今も耳に残っています。

 サイパン島が陥落したとき、矢野兼武(海軍主計中佐。詩人で、筆名・西村皎三=こうぞう)という元上官が戦死したんです。この人が「金子、句会をやれ。(戦況悪化でトラック島は孤立し)今に食糧が逼迫(ひっぱく)する。皆が暗くなる」と言っていたことを思い出した。その遺言に従い、句会を開きました。

 すると散文詩をやっていた西沢実(戦後、放送作家)という陸軍戦車隊の少尉が、同僚将校を4、5人ほど連れてきた。最上級は少佐です。こちらは工員10人ほどですから、驚いた。しかし、西沢は「関係ねえ。おんなじ人間だ」。たったの3カ月でしたが、すっかりと打ち解けた。無季(季語のない句)も気にしなかった。ただ、戦場は戦場。神経は張り詰めていた。

  空襲よくとがった鉛筆が一本

 その時に詠み、今でも覚えている一句です。

 この句会が打ちきりとなったのは食糧不足が原因。周辺の島々に部隊を分散させ、食糧生産に従事させることになった。工員と事務職員が中心の200人を率い、日本名「秋島」に渡りました。年3回は収穫できる「沖縄100号」というサツマイモを持ち込み、自活するはずだった。ところが、これを食う虫がいることを誰も気付いていなかった。机上の空論でした。「南洋ホウレンソウ」と名付けた青草を海水で煮たりしました。ただし、これは食べ過ぎると腹を下し、体力を奪った。

 官僚組織とはひどいもんです。「栄養失調による病死」にしてしまう。実態は「餓死」。しかし、皇軍に「餓死」は禁句だった。はったりをきかせていた工員たちがみるみると弱っていく。やせ細った餓死者の顔は仏様のようなんですよ。本当に可哀そうでね。他の島との連絡にポンポン船を出せば、見回りの米軍のグラマンが機銃掃射してくる。ズタズタにされる。

 ところが、「あと何人か死ねば、残りを生かすだけの食糧はあるな」などと冷静に考えている自分がいた。人間なんて、浅ましいものです。幹部将校たちはサイパン島が陥落した時点で、この戦争はもう駄目だと思っていた。そうなると女房と子供の顔を見るために内地に帰ることしか、考えていなかった。

 「虚無の島」でした。軍事的価値を失っていましたから、米軍の主力は素通りし、友軍が増援部隊や物資を送ってくるはずもない。工員たちは「捨て子」と自嘲していました。軍事教練などなく、日々の仕事は食糧生産ばかり。やることがない。人間が無感動になっていく。生きる意味を見いだすことができない。レイテ沖海戦で海軍の象徴たる戦艦武蔵が沈没しても、沖縄が陥落しても、仕方がないとの気持ちだけです。

 この島での11カ月間、俳句を一句も詠まなかった。無意識にです。なぜだろうか。それ以前も、その後も、そんなことはなかった。幼少時から、七五調の「秩父音頭」を聞いて育ちました。実家では父が水原秋桜子(俳人、俳句雑誌「馬酔木」=あしび=を主宰)と知人で、句会の支部を作ったりもしていた。俳句がアイデンティティーとして、私は存在している。それがまったく失われていたのに、島では気付きもしなかった。それが戦争なのでしょうか。

  椰子の丘朝焼けしるき日々なりき

  海に青雲生き死に言わず生きんとのみ

 終戦の詔勅を聞いた後にやっと、俳句が自然と湧いてきた。米軍の収容所では食糧がきちんと与えられましたね。米軍に没収されないように句を書いた小さな紙を丸めて、配給されたせっけんに押し込んで内地に持ち帰りました。

   ◇     ◇

 戦後は日本銀行(従軍前に3日間在籍)に復職しましたが、組合活動をやるなどして、にらまれた。課長にもなれずに退職しました。しかし、東大を頂点とする学閥を軸に作り上げられた人事体制は身分制そのものであり、半封建制だと思った。トラック島で共に過ごした工員たちの生々しさに比べ、この官僚たちは何なのかと。日本は戦争に負けたのに近代化されていなかった。

  彎曲し火傷し爆心地のマラソン

 日本人は何を学んだのでしょうか。長崎支店時代の一句です。

 戦後を共に生きた仲間たちも徐々に鬼籍に入っています。皆の名前を毎朝唱え、皆に向き合う「立禅」を続けています。振り返るに戦場での死のむなしさ、異常さを考えずにはいられません。それは「自然死」ではない「残虐死」です。

 集団的自衛権の名の下で、日本が戦争に巻き込まれる危険性が高まっています。海外派兵されれば、自衛隊に戦死者が出るでしょう。政治家はもちろん、自衛隊の幹部たちはどのように考えているのでしょうか。かつての敗軍の指揮官の一人として、それを問いたい。

 トラック島に残した部下たちには実は墓碑などなかった。個々人が生き延びるだけで精いっぱいの中で、できるのは小高い丘の上の穴に埋めることだけでした。国のために働かされ、死んでいくという制度や秩序は我慢できません。無理に生きる必要のない、自由な社会を作っていく。それが俺の思いです。


Facebook・梶間 亙さん投稿記事

 ·選り抜き:今日の読みました(その1)『毎日新聞』2017/8/15

【余録】

 「畑中の檸檬(レモン)の一樹輝かに」。俳人の金子兜太(かねこ・とうた)さんの句だが、戦争末期、海軍の根拠地トラック島での作である。この地には珍しいレモンの木を見つけた金子さんは誰にも告げず、その輝きを自分だけの秘密にした

▲当時、すでに米軍はサイパンへ侵攻、トラック島は戦線の背後に取り残されて補給は絶えていた。金子さんが指揮する200人の部隊は近くの秋島に移駐して自活を強いられ、栽培したイモは夜盗虫と呼んだ毛虫に食われて全滅する

▲「栄養失調者は眠ったまま死ぬ。朝、必ずといっていいほど2、3人が起きなかった」。部隊長の頭を占めたのは、畑の生産力と人数をにらみ、あと何人死ねば食っていけるかという推計だった。今も悔いる「破廉恥(はれんち)な計算」である

▲「椰子(やし)の丘朝焼しるき日日なりき」という句がわいたのは敗戦の報を聞いた朝だった。「水脈(みお)の果(はて)炎天の墓碑を置きて去る」。トラックには多くの餓死者を含む日本人戦没者8000の墓標が残った(「悩むことはない」文芸春秋)

▲ある歴史学者の推計によると、先の戦争での日本の軍人・軍属の戦没者230万人のうち餓死・戦病死が6割にのぼる。「死は鴻毛(こうもう)よりも軽し」は軍人(ぐんじん)勅(ちょく)諭(ゆ)の一節だが、それを兵士らに用いて恥じない戦争指導の無能と非道であった

▲内外の戦没者に平和を誓う終戦の日だが、今年は東アジアに飛び交う好戦的な言葉が心を騒がせる中で迎える。人の生命を道具としか思わぬ軍事指導者と今も向き合わねばならない戦後72年の夏である。


Facebook・新田 修功さん投稿記事

銃を持たない日本人……⁉️

チベットで酷いことを平気で行うような恐ろしい国だから、中国がいつ攻めてきてもおかしくない 😱

中国が攻めてきたらどうするのか❓

北朝鮮にミサイルを撃ち込まれたらどうするのか 😰

国を守るためには軍隊が必要だ‼️「本当にそうなんやろか❓🤔」……と、ずっと疑問に思っていました。

アメリカの多くの家庭では、ピストルを持っています。でも、私たち日本人は家にピストルを持っていません。アメリカの人たちは、家に強盗が入った時に身を守るためだと、武器を持つことを正当化しています。

では、何故日本人は銃を持たないのでしょうか……⁉️銃を持つことに規制が薄いアメリカでは、銃による犯罪が多発して多くの死者が出ています 😱武器を持っている国同士が戦争をしています 💀😎日本でも家に強盗が入ることはあるし、凶悪犯の場合は殺されることもあります。だからと言って、「みんなの家庭に銃を‼️」「自分の家は自分で守るのだ‼️😡💨」

……、なんてことにはならないのは何故でしょう⁉️🤔

肉食動物は相手の恐怖心や敵愾心を察知して襲ってくるといいます。

争いの気持ちや、憎しみや憎悪、恐怖心こそが、さらなる争いを招きます。

戦いに勝つということを限界まで追求した日本の武士が、ついに無刀流という素晴らしい兵法を確立しました。

「戦わずして勝つ」という最強の武道の極意です。

私たちが家族を強盗から守るために銃を持たないのは、武道のほかに日本人の持っている品格とか、美徳とか、良心があるからだと思います。

終戦後、中国から引き上げる時にロシア兵や中国人から酷い目にあって殺された人たちが大勢いました。

沖縄でも壮絶な戦いが繰り広げられ、悲惨な出来事が歴史に刻まれています。

本土大空襲で犠牲になった民間人の人たちや、広島、長崎で被爆した人たち。

特攻隊として出撃して死んでいった若者たち。

そんな人たちが、「中国や北朝鮮が攻めてきたら、もう一度戦争をして、今度こそ勝ってください」「そのために、今のうちに軍備を増強して徴兵制度を復活させて、強い兵隊さんを育てて、戦争に備えましょう」なんて言うでしょうか……。

戦争体験者のお年寄りのみなさんは、口を揃えて言われます。「2度と戦争はしてはいけない‼️」どうしても軍隊を増強して、戦争ができる国にしたいと言う人たちは、まず自分が兵隊さんとなって、攻めてくるであろう中国軍と戦ってください。

若いお笑い芸人さんが、番組で戦争を容認するような話になった時に、「絶対戦争に行かないお年寄りに言われても説得力がない」と見事に反論したそうです。

ジョンレノンやマイケルジャクソンなどのアーティストが歌っている平和へのメッセージソングを思い出してください。

日本のアーティストも頑張って世界に発信して欲しいと思います。

世界を平和にするのは私たち日本人の使命であり、責任でもあるのですから……。

日本人としての誇りや美徳を取り戻しましょう。

子供たちに美しい地球を残すために……👶👦👧🌎✨💕

今日も読んでくれてありがとう🙏😊💕


Facebook・白鳥 哲さん投稿記事

2015年8月22日 ·

「私たちは兄弟であり、家族であり、世界そのもの。

私たち一人一人は世界に光をもたらす存在。

さぁ、今から、与え合おう!

マイケル・ジャクソン」

マイケル・ジャクソンの声を担当させて頂いたときに、戦慄が走り、深い共鳴をしました。

今、地球のために出来ること…それは、全ての生命体が繋がっていることを思い出すこと。

動物も植物も微生物も…みんな。

地球に生きる一員…。

人間も例外ではなく、その一員。

なんの違いもないし、それぞれが尊く、それぞれが愛しい存在…。

この歌を聴くと、繋がっている何かを思い出します。

「WE ARE THE WORLD」

お聴きください。

We Are The World - Michael Jackson Lionel Richie Cindy Lauper

https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO3115046030052018000000  【孫子と生物学に学ぶ「戦わずして勝つ」】より

山田英夫氏

 企業では、競争することは当たり前のように考えられてきたが、他の分野では、競争はどのようにとらえられてきたのであろうか。ここでは、孫子と生物学(生態学)の2つの視点から、それを見てみよう。

 ビジネスで用いられる「戦略」「戦術」や「ロジスティックス」という言葉は、もともとは軍事・戦争用語である。また、営業部門でしばしば用いられる「ランチェスターの法則」も、軍事・戦争の定石の応用である。その意味で戦争は、競争の概念を理解するために度々参照されてきた。その戦争に関する基本的な要諦を述べた書として、『孫子』が挙げられる。

 一方、企業は人間から成る組織であることから、生物学(生態学)のアナロジーで組織や企業を考えるアプローチは以前から行われてきた。『組織化の心理学』(ウェイク)、「組織の個体群生態学」(ハナン&フリーマン)、『企業進化論』(野中)などがその例である。

孫子の教え

 『孫子』は今から約2500年前に、中国の孫武によって書かれたと言われる兵法書である。

 孫子の有名な言葉に、「百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」(諜功編〈第3〉)というものがある。これが世に有名な「戦わずして勝つ」の原文である。

 百戦百勝は一見最善に見えるかもしれないが、勝った方にも被害が出るため、戦わず勝つのが最善だと言うのである。企業の競争で言い換えれば、全面的な直接競争をすると、自社にも競争相手にも、マイナスのインパクトが大きいということである。

 かつてのオートバイにおけるHY戦争(ホンダ対ヤマハ)、出版における音羽・一ツ橋戦争(講談社対小学館)などの全面競争は、勝った側にも組織疲弊を招いた。さらに、予備校業界では、1980~90年代に代々木ゼミナール、河合塾、駿台予備学校の3大予備校が、人気講師の引き抜きなど仁義なき戦いを繰り広げたが、2014年に代ゼミはこの後遺症から、大幅なリストラを余儀なくされることになった。

 孫子は、(1)競合の方が弱い場合、(2)ほぼ対等な場合、(3)競合の方が強い場合に分けて、いくつかの戦略定石となる言葉を残している。

 第1に、競合の方が弱い、すなわち自社の方が強い場合は、業務提携を迫って競争をなくしたり、M&Aによって傘下に収めたりしてしまうことが望ましい。

 第2に、ほぼ対等である場合には、相手のエネルギーが小さい間に摘み取るか、相手が戦うエネルギーを自社に向けてきても、それをうまくかわすことをすすめている。

 そして第3に、競合の方が強い場合には、逃げるか、戦わない算段をして、生き残りを図ることをすすめている。例えば、強い者の協力者となって生き残りを図ることは、この戦略の1つである。

 このように3つの状況における戦略定石を見てみると、どの場合にも全面競争をするという作戦は示されておらず、「戦わないこと」の重要性が説かれていると言えよう。

生物学(生態学)からの教え

 生物において、最も重要なことは「生き残る」ことである。

 生物は、異種の生物との「種間競争」と、同種の生物との「種内競争」の2つの競争に立ち向かわなくてはならない。前者の競争では、強い者が生き残り、弱い者は滅んでしまう。その結果、ナンバーワンしか生きられないというのが自然界の掟である。

 それにもかかわらず、自然界には多種多様な生物が暮らしている。そこには、「棲み分け」および「共生」があるからである。

 第1に、棲み分けによって棲んでいる世界が異なれば、共存は可能である。ある生物種が生息する範囲の環境を、生物学では「ニッチ」と呼んでいる。1つのニッチには、1つの生物種しか棲むことができない。

 ニッチ(niche)という言葉は、ラテン語の「nidus」(巣)を語源としているが、昔は花瓶や偶像などを置くために造られた壁の「くぼみ」という意味で使われていた。それを生態学の用語として最初に定義したのがグリンネルであった。彼はニッチを「ある種または亜種が占有する生息地の究極の単位」と定義し、生態学でニッチという用語が広く使われるようになった。

 さらに生態学のハッチソンは、「ある種が利用する生活資源や環境要因の範囲によって囲まれる領域」をニッチと定義し、ニッチを定量化する研究の端緒となった。

 こうしたニッチの概念を個体群生態学(特定地域の個体全体を対象とする生態学)の分野に広げたのがハナン&フリーマンであった。彼らは制約された空間の中の特定の区域をニッチと定義し、その区域では他のあらゆる個体群に競り勝つことができると述べた。

 そして、こうした概念がマーケティング分野に拡大され、コトラーは、ニッチを「より小規模で特定化されたセグメント」と定義した。また、ダルギッチとレーウは、ニッチ市場を「似通った特徴やニーズを持った個々のユーザーまたは小さなユーザー群で構成される小規模な市場」と定義した。

 さらに「ニッチ・マーケティング」という言葉も生まれた。シャニーとチャラサニは、「市場の中で未だニーズが満たされていない小さな部分を切り出す過程」を、さらにスタントン、エッツェルとウォーカーは、「小さな市場に製品やサービスを適合させることで顧客のニーズに応える方法」をニッチ・マーケティングと呼んだ。このようにして、ニッチという言葉は、生態学から企業の戦略を表す言葉として展開されてきたのである。

第2に生物学では、異種の生物間での棲み分けだけでなく、共生という形で異種の生物が生きていく途も示されている。ベルギーの動物学者ヴァン・ベネーデンは、共生者(guest)が宿主(host)に害を与える場合を「寄生(parasitism)」、共生者だけが利益を得て宿主は有害でも有益でもない場合を「片利共生(commensalism)」、双方に利益を与える場合を「相利共生(mutualism)」と定義した。

 そして、ドイツの植物学者ドゥ・バリーが、「異なる生命体が一緒に生活すること」を共生(Symbiosis)と呼び、寄生・片利共生・相利共生を包括する概念がここに生まれた。

 こうして生物学において共生という概念が使われるようになったが、本書で扱う競争戦略における共生は、複数企業の持続的関係を前提としており、双方に利益のある相利共生に近いと言えよう。

競争しない3つの戦略

 先に述べた孫子や生物学(生態学)の教訓を企業にあてはめると、資源の劣る企業が生き残っていくためには、より強い者と戦わない戦略をとるか、より強い者と共生を図るかという2つの選択肢がある。前者は「(競争しないで)分けよう」という「棲み分け」の発想であり、後者は「(競争しないで)和していこう」という「共生」の発想と言える。

棲み分け――ニッチ戦略、不協和戦略

 棲み分けが可能になるためには、リーダー企業が同質化できないことが必要である。そのためには、

(1)リーダー企業の持つ経営資源と、当該企業がしかける市場とが不適合になる場合

(2)当該企業がしかける競争のやり方と、リーダー企業の経営資源もしくは戦略が不適合になる場合

の2つがありうる。

<FONTBOLD />ニッチ戦略の図式</FONTBOLD></p><p>

ニッチ戦略の図式

 (1)の市場との不適合とは、リーダー企業の持つ経営資源から見て、当該企業が開拓した市場が規模的に小さすぎて、そこに参入するとリーダー企業の高い固定費により赤字になってしまう場合や、その市場を開拓するための経営資源が非常に特殊で、リーダーは相対的には豊富な経営資源を持っているが、その市場開拓のための資源を今から保有するのは割に合わないような場合などに発生する(上図参照)。

 リーダーの資源と当該企業が攻める市場とが不適合である例としては、リーダーの武田薬品工業に対して眼科領域に特化した参天製薬、大日本印刷に対してディスクロージャー書類に特化したプロネクサス、セブン-イレブンに対して北海道に特化したセイコーマート、日本生命保険に対して税理士チャネルを固めた大同生命保険などが挙げられる。

こうした戦略は、一般に「ニッチ戦略」と呼ばれている。なおニッチ戦略の場合、リーダー企業にとってその市場は魅力的ではないため、当該市場に参入すべきか否かというジレンマは生じない。

不協和戦略の図式

不協和戦略の図式

 (2)の競争のやり方との不適合とは、当該企業のとった戦略に同質化をしかけると、リーダー企業が保有する経営資源や、リーダー企業がこれまでとってきた戦略との間に不適合が生じるケースである。リーダー企業が持つ「資産」が、事業を進めるにあたって「負債」になってしまう戦略や、リーダー企業が進めてきた戦略と逆行するような戦略が、これにあたる(右図参照)。

 年齢よりも若めの訴求が常識であったファッション通販で、年齢相応の訴求をしたドゥクラッセ、日本生命に対して営業職員を持たず保険料の内訳を開示したライフネット生命保険、日本コカ・コーラが追随できない特保コーラなどがこうした戦略の例である。

 これらの戦略は、リーダー企業内にジレンマを起こすことが特徴であることから、「不協和(ジレンマ)戦略」と呼ぶことにする。

共生――協調戦略

 経営資源が劣る企業のもう1つの戦略として、より強い企業と共生し、攻撃されない状況を作り出す方法がある。リーダー企業にとって、当該企業に同質化をしかけたり、攻撃したりするよりも、当該企業と手を組む方が得になる場合、両社間に共生が成立する。

 例えば、セブン銀行はATMに特化した銀行であるが、競合行はセブン銀行と提携し、セブン銀行のATMで現金が引き出せるようにし、同時にコスト削減のために自社のATM店舗を縮小している。こうした戦略を以下、「協調戦略」と呼ぶことにする。

 以上述べた「競争しない競争戦略」を図示すると、上図のようになる。

《参考文献など》

Weick K. E. (1969), The Social Psychology of Organizing, Addison Wesley(金児暁嗣訳(1980)『組織化の心理学』誠信書房)

Hannan M. T. and J. Freeman (1977) The Population Ecology of Organizations, American Journal of Sociology, No.82

野中郁次郎(1985)『企業進化論』日本経済新聞社。より生物学に近い分析は、野中郁次郎・山田英夫(1986)「企業の自己革新プロセスのマネジメント」『ダイヤモンド・ハーバード・ビジネス』Feb. - Mar. を参照

金谷 治訳注(2000)『新訂 孫子』岩波書店

伊丹敬之(2014)『孫子に経営を読む』日本経済新聞出版社

守屋 淳(2014)『最高の戦略教科書 孫子』日本経済新聞出版社

稲垣栄洋(2014) 『弱者の戦略』新潮社

Grinnnell J. (1924)Geography and Evolution, Ecology, No.5

Hutchinson, G.E. (1957) Concluding Remarks, Cold Spring Harbor Symposia on Quantitative Biology. No.22

Kotler P. (1991) Marketing Management 7th.Edition, Prentice-Hall(村田昭治監修、小坂 恕、疋田 聰、三村優美子訳(1996)『マーケティング・マネジメント 第7版』プレジデント社)

Dalgic T. and M. Leeuw (1994) Niche Marketing Revisited : Concept, Applications and Some European Cases, European Journal of Marketing, Vol.28, No.4

Shani D. and S. Chalasani (1992) Exploiting Niches Using Relationship Marketing, Journal of Services Marketing,Vol.6, No.4

Stanton W. J., M. J. Etzel and B. J. Walker (1994) Fundamentals of Marketing, McGraw-Hill

van Beneden P. J. (1876)Animal Parasites and Messmates. Henry S. King, London

de Bary H. A. (1879)Die Erscheinung der Symbiose : Vortrag gehalten auf der Versammlung Deutscher Naturforscher und Aerzte zu Cassel. Verlag von Karl J. Trubner

山田英夫 著 『競争しない競争戦略』(日本経済新聞出版社、2015年)第1章「競争しない競争戦略」から

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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