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http://widetown.cocotte.jp/japan_den/japan_den180.htm 【大和魂】 より
13 戦艦大和からの生還
戦艦大和は、旧日本海軍が当時の最先端技術を結集して極秘裏に建造した世界最大の戦艦です。
全長二六三メートル、最大幅約四十メートル。四六センチの主砲九門を搭載し、重さ約一。五トンの砲弾を射程四二キロで撃つことができる巨大な鉄の城でした。
一九四五(昭和二十)年春、大和は呉軍港を出港し、沖縄特攻作戦に向かう途上、米艦載機の猛攻撃を受け沈没、乗組員三二三二名のうち三〇五六名が大和と運命を共にしました。大和から奇跡的に生還した二七六人の中に、加賀市山代温泉在住の川潟光勇さんがいました。
■母にも知らせず海軍志願 日の丸の小旗に見送られ出征
一九四一(昭和十六)年の初春。大阪の家具店で働いていた当時二十歳の川潟さんは、 一枚の海軍志願兵募集の張り紙を目にし、大阪で別々に暮らす母親にも知らせず入隊を志願したそうです。国のために戦争に行くことが誇りとされていた時代です。川潟さんの二人の兄も、それぞれ満州とソ連国境で軍務についていました。
大和に乗艦後の日々を川潟さんは記憶を辿るようにして私たちに話し始めました。
昭和十二年の五月、私は日の丸の小旗に見送られて故郷大阪を後にしました。神奈川県横須賀の海軍航海学校を卒業し、掃海艇の任務を経て四三(昭和十八)年二月、見張科の信号兵として大和に乗艦しました。艦橋で双眼鏡をのぞき、「大和の目」となったのです。戦局は急激に悪化していました。大和に乗艦した翌年のフイリピン沖海戦では、重巡洋艦「摩耶」が撃沈されるのを目の当たりにしました。浮沈戦艦と謳われた「武蔵」も海底深く沈み、連合艦隊は壊滅的な打撃を受けていました。
■戦艦大和、特攻作戦最大の悲劇へ出航
四五(昭和二十)年四月六日夕刻、大和は軽巡「矢矧(やはぎごと人隻の駆逐艦に伴われて山口県の徳山沖を離れました。「夜陰に乗じて沖縄を攻略した米軍艦隊を攻撃する」というのが作戦の骨子で、燃料は片道分のみ、航空機の援護もない水上特攻でした。生きて再びふるさとの土を踏むことはないだろうと誰もが覚悟しています。船上から眺める瀬戸内の山々には、山桜が自くほころび始めていました。海上生活ばかりで桜など愛でる機会はなかった。これが見納めになるだろうと心の中で桜に別れを告げました。
宮崎沖にさしかかった頃、すでに海は蒼茫と暮れていました。星明かりひとつない夜、艦隊は漆黒の海上を走ります。ここから全速で甑島(こしきじま)列島を西に抜け、沖縄列島の機雷敷設原の左端を大きく東シナ海に突破し、針路が黄海にあるように見せかけて反転直下南に向かい、沖縄の米軍泊地を急襲する戦略でした。米軍の上空吟戒、潜水艦の日、電探(レーダー)の網をくぐり抜けることができるかどうか。作戦の成否はまずこの一点にかかっていました。
午後八時三十分、駆逐艦「朝霜」より「ワレセンスイカンノムデンフキク」と連絡が入りました。まもなく「朝霜」が米潜水艦から傍受している無線電話がそのまま艦橋に流れました。早日の英語の会話の中に、「ヤマト」という言葉が数度聞き取れました。私の全身に電流のようなショックが走りました。「大和はすでに米軍の網の中にいる―」。参謀は、「長官、つけられましたな」と落ち着いた声で一言。伊藤整一司令長官と有賀幸作艦長は沈黙を守りました。艦隊はそのまま任務を続行します。重苦しい空気の漂う中で、数多くの計器の夜光塗料だけが青白く、にぶい光を放っていました。
艦隊は大隅海峡を抜け、まだ明けきらぬ太平洋へ。私は「水上戦闘配置につけ」の号令とともに艦橋のひとつ上の防空指揮所に上がりました。海面は比較的穏やかでしたが、いつ魚雷が自い航跡を引いて襲ってくるかと、乗組員三千人の目は血走っていました。甑島列島の左端が見え始め、今しばらくで米国機の哨戒圏外に出られるという七時四十分、低くたれこめた雲の切れ日に、米軍マーチン哺戒飛行艇二機が姿を見せました。すかさず各艦の対空砲火が火を吐きます。マーチンは姿を消しますが、もう偽(ニセ)航路で敵を欺く作戦に意味はありません。
「一路南下せよ」との指令が発せられました。
■米軍戦闘機による波状攻撃開始
張り詰めた時間が流れます。「朝霜」から「艦爆見ゆ、機数四十機」と無電が入りました、やがて四、五十機ずつの爆撃機が数群、疾風のように現れ、ごうごうと艦隊の上空を回り始めました。敵機は一機、二機と雲間から急降下で襲い掛かってきます。艦隊も機銃、高角砲で応戦し、あたりは爆裂音と水柱に包まれました。「矢矧」は至近から爆撃を受け、くるくる回りながら艦隊から離れていきます。魚雷をまともに受けた駆逐艦「浜風」は、船体が真っ二つに折れて海中へ。大和も後部マスト付近に爆弾二発が命中し、もうもうたる黒煙に包まれました。あちこちで戦傷者のうめき声が起こり、飛び散る肉片が艦橋近くにまで上がってきました。
第一陣の攻撃は三十分ほどで潮のように引きました。各艦が大和のもとに集まってきましたが、すでに駆逐艦二隻が欠けていました。それでも艦隊は二十二ノットの速力で南の一点に舶先を向けて進みます。
第二陣の攻撃は午前十一時過ぎ、また百数十機が来襲しました。先の攻撃で大和の左舷対空砲火がおとろえていることを看破した米軍機は、執拗に左から回り込んで左舷に攻撃を集中させました。中型爆弾二発によって左舷後部対空砲火はほとんど破壊され、上、中甲板後部マスト付近は火の海となりました。
「副砲弾庫火炎に包まれるL左舷中部魚雷命中」「左舷罐室浸水」―。防空指揮所には次々と危急を告げる電話が入ってきます。突然、艦橋へと迫り来る攻撃機が私の視界に入りました。私のすぐ隣にいた若い乗組員が声も無く足元から崩れ落ちました。銃撃を受けて一瞬で絶命していたのです。
■これは戦闘ではない連合艦隊の葬列だ
第二陣が去った後の艦上には数知れぬ重傷者が身を横たえ、戦死者の遺体が始末もつかぬまま放り出されていました。戦闘の恐怖に耐え切れず、正気を失ったのでしょう、飛び去って行く攻撃機を指差して「突っ込んでくる、突っ込んでくる」と叫び続ける下士官もいました。かつての整然とした大和の勇姿は跡形もなく、血と硝煙の匂いの中で、次の戦闘に備えて応急食が配られました。次が艦隊の最後になるだろうと誰もが覚悟していました。それはもう戦闘ではありませんでした。連合艦隊の墓場への葬列でした―。
新手の攻撃機が水平線に姿を現しました。海面すれすれに飛ぶグラマン雷撃機が左右から十数機一度に放ってくる魚雷が、くもの巣のように大和の巨体を提えました。万事休す。魚雷は続けざまに左舷に五発命中。大和の優れた注排水装置を駆使しても、左に著しく傾斜した艦体を立て直すことはもはやできませんでした。
艦内下部にいる乗組員に退避の号令がかかりました。しかし汗と油にまみれて這い上がつてきた者は、ほんの一部に過ぎませんでした。艦が傾斜しているため通路が確保できず、千数百名に及ぶ乗組員は、生きたまま艦内に閉じ込められてしまったのです。
■不沈艦・戦艦大和の最期
いよいよ大和が最期を迎えるというとき、私は水上から二十四メートルの高さの防空指揮所に艦長らとともに立っていました。その手に恩賜のたばこが手渡されました。 一本取って次に回します。やれるだけのことはやったという安堵と諦めの交じった思いで、私は大きくたばこをふかしました。もう普通に立っていることすらできない状態でしたが、誰も一言も語りませんでした。空を見上げればすでに一機の飛行機の影もありません。上甲板に目を落とすと、数百名の兵員が滑り込むように海中に身を躍らせていました。有賀艦長は「諸君はできる限り頑張つて生き残ってくれ」と言い残し、軍刀を下げて艦長室に姿を消しました。
四月七日午後二時三十分、大和は大きく左に傾き、紺碧の海に横倒しになりました。私は足元から勢いよく上がつてきた海水に全身を包まれました。いったん海中から空中に押し上げられ、再び海中へ―。呼吸を止めて十数秒、真っ黒な海水を通して稲妻のような閃光が眼底に差し込んできました。大和に積まれた弾薬が海中で誘爆を起こしたのです。強烈な水圧のため、私の胸はちくちくと痛み始めました。どうにもならなくなって海水を一口。「もう二、一二回続けて海水を飲めば死ねるかもしれない」。しかしその苦痛は受け入れ難いものでした。過去の出来事が私の頭の中を走馬灯のように走り抜けます。「おかあさん―」。
■隣り合う生と死
途端、すっと体が浮き上がるのが感じられました。本能的に手足をばたつかせると、海面にぽつかりと頭が出ました。「ああ、助かった」。胸いっぱいに吸い込む空気のおいしかったこと。私は再びこの世に生を得た思いがしました。
海面は重油に一面覆われていたものの、激しい戦闘がうそのように静まり返っていました。海面のうねりの間には仲間の真っ黒な顔がぽつぽつと見えました。
私が後で聞いたところによると、大和の爆発によつて海上に頭を出していた兵士の頭上に容赦なく大小の鉄片が降りかかり、頭を割られたり手足を切断されたりした者が少なくなかつたといいます。海中に深く巻き込まれていた者だけがこの災いから免れることができたのです。
海中には多くの兵士がもがき苦しんでいました。私の腰や足にしがみついてくる者もいましたが、助ける術もなく、振り放すしかありませんでした。生への執着。これが真実でした。
あてのない救助を待つ静かな時間が流れました。「どのくらい持ちこたえられるだろう」。すると静寂を破って誰かが軍歌を歌い出しました。「海行かば水漬く(みづく)屍(かばね)、山行かば草むす屍―」。それに合わせて歌い出す者が続き、三曲、四曲と合唱は続きました。やがて歌声はだんだん小さく細くなり、もとの静かな、黒い海に戻りました。
突然、前方に駆逐艦「雪風」が姿を現しました。しかし救助に来た様子ではありません。甲板に立つ兵員たちは海中に漂う者に向って別れを告げるように帽子を振っています。私は、駆逐艦だけでも沖縄に突入するのだとすぐに了解しました。そして水中から大きく手を振り返しました。「しっかりやつてきてくれ、さようなら」。
いよいよ助かる見込みは絶たれました。時が経つにつれ、波間に沈むのか、うねりに流されるのか、海上に出ていた仲間の真っ黒な顔もひとつ、ふたつと減っていきました。
■「くもの糸」の如き救助の手
どれだけ漂流したでしょう。見送ったはずの「雪風」が幻のように姿を現しました。 一度は沖縄に向ったものの、生き残った兵士を救助して帰港するよう指令が出されたのです。しかし米軍の攻撃を警戒して停止はせず、ロープや縄梯子を下ろしたのみでした。私は艦までの百メートルほどを無我夢中で泳ぎ、縄梯子を掴みました。ここにはもう七、人名が寄り集まっていました。私は縄梯子の下に体を入れ「背中を踏んで上がれ」と促しました。
三、四人が私を踏み台にして上つていきます。「さあ替わるぞ」と声を掛けてくれた人がいました。私はその背中を借りて縄梯子を上りますが、もう少しで甲板に手が届くというところで縄の片方が切れました。下を見ると片方切れた縄梯子に、数人がぶら下がつていました。その重みに耐え切れず、もう片方の縄も「くもの糸」のようにぶっつり切れ、私達は海中になだれ落ちました。
次に海上に頭が出た時は、ゆっくり前進する駆逐艦の最後部に架けられていた本の梯子が見えました。ァ」れでこそ本当に最後だ」と、私は必死で梯子にしがみつき、鉛のように重い体を甲板に引き上げてもらいました。
海中に取り残されて漂流する者がいれば、甲板にたどり着きながらもそこで息絶えた者もいます。どちらに目を向けても凄惨な光景がありました。日没まで間近。撃ごは一路、佐世保軍港へと向いました。
以上が九死に一生を得た川潟さんの歴史的な体験談です。
■生き残った者の義務を果たしたい
その後、川潟さんは終戦まで広島県。呉の海兵団で過ごしますが、生き残った罪悪感に苛まれる日々が続いたといいます。大和沈没の事実は軍機として秘密にされました。
大和での体験を文章に残そうと思ったのは、戦後三十年余りが経ってからのことだそうです。
「大和から生還した者には、悲惨な教訓を後世に語り継ぐ義務があるのではないか」と、生々しいエピソードを綴った『戦艦大和と共に』を執筆、出版されました。(昭和五十八年)
加賀市の子どもたちに体験を話すこともあります。「悪夢のような戦争によってどれほど多くの若い命がゴミのように捨て去られたか。戦争を知らない世代に伝えていきたい」。海の底に眠る数千人の戦友の思いを、川潟さんはこれからも代弁していきます。
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