http://widetown.cocotte.jp/japan_den/japan_den180.htm 【大和魂】 より
4 戦艦大和からの帰還
S氏は1944年(昭和19年)4月の20歳のときに学徒動員で召集され、広島の大竹海兵団で2ヶ月訓練を受けたあと、6月に戦艦大和に配属となりました。所属は航海科で航行・信号・見張・操舵に関する任務を主とするそうです。戦闘態勢に入ったときにS氏が配置に付くのは司令塔の一番上のデッキ、つまり戦艦大和の一番高いところに立つのです。そしてここでS氏に与えられた任務は終始双眼鏡で敵機の来襲方向を見極め、すぐさまそばの機銃係りに伝達することなのです。S氏が乗艦してすぐさま始まったマリアナ沖海戦では双眼鏡で見える敵機が全部自分に向かって目掛けてくるように思われ、恐怖で思わず目をつぶっていたそうですが、有名なレイテ湾海戦の激戦では戦闘中にすっかり度胸がついてしまって敵機が双眼鏡から姿を消して頭上を過ぎ去って行くときもまったく目を閉じなくなったそうです。
マリアナ沖海戦では回りには味方の護衛艦、上空では味方の迎撃戦闘機も沢山飛び交って護衛していたので敵機も大和にはなかなか近づかなかったのに比べ、レイテ湾海戦では味方の護衛戦闘機が極端に少なくなって激しい敵雷撃機や戦闘機の銃撃を浴びながらも平気だったとは、「人間、何だって慣れるものなんですね」とS氏は笑って仰いました。
「レイテ湾海戦はもうとにかく凄い戦でした」とS氏が言われるので鹿児島沖の大和最後の戦いのときと比べて如何でしたか?と尋ねると、「鹿児島沖のときは戦艦大和と数隻の護衛艦だけですから、それに敵機が集中するだけですが、レイテのときはとにかく空を覆うばかりに敵機が飛び交い、味方戦闘機もほとんど無い状況の中、日本艦隊を攻撃し、日本の艦船も応戦するのです。大和にも敵機がどんどん攻撃をかけてき、とにかく艦船の大砲、高射砲、機関銃の音に飛行機の爆音、銃撃音、魚雷の爆発音ともの凄い騒音のなかで私は必死になって観測をしたものでした。
このときに私は近づいてくる敵機からの機銃掃射の発射した瞬間、光が横に棒状になっているときは別の方向に飛んで行き、それが点になっているとき自分に向かってくることに気づき、わずかの身のひるがえし方で顔のすぐ横を弾が飛び去っていったり、そのうちの一つが双眼鏡を持つ左手をかすったという経験をしました。このように今でも手に大きく傷の跡が残っています」
そう語って、S氏は手を見せてくれましたが、手の甲の指の根元の関節のところにこぶのようなものが盛り上がっていました。
恐ろしい、とは思わなかったのですか?と尋ねると、「そのときは無我夢中で、どんなだったかは今はよく覚えていないのですが、ただ、いつまで続くのだろうか、と思ったことだけは覚えております。それと、戦闘中に艦橋に配置されたものは全員、拳銃と短剣を帯びることを許されたのですが、飛行機相手には何の役にも立たないその武器二つを腰にしているという思いだけで凄く心強かったこともよく覚えております。不思議な心理ですね」「戦艦大和の主砲は仰角を45度にすると富士山の高さを越え、40キロの距離も飛ぶ脅威の大砲でありながら、実際に軍艦同士で撃ち合うことは無かったので無用の物のように思われていますが、この主砲を空中に向かって射撃すると、敵機もその発射音と弾道音の凄まじさに精神的に萎縮するのか大和への攻撃の手を緩める効果はあったようでした」S氏の話によれば主砲の射撃が始まるときは身近の乗組員は耳栓をするそうですが、それでも凄い音は振動と共に体に伝わるそうです。
レイテ湾海戦のときに偶然遭遇した敵空母に大和が主砲で撃沈したあと敵空母の乗組員が海上に浮かんでいるのを戦闘で興奮している大和の乗組員たちが機銃掃射するのを見て艦長が激怒し、すぐに止めさせたそうですが、これは後で私が調べてみると米空母は損傷はしたけれど沈没はしていないようで、戦闘中に海に落ちた乗組員が大勢いたのを見てS氏は勘違いされたのだろうと思います。ちなみに、このときの砲撃が戦艦大和の初めにして最後の敵艦船への主砲攻撃となりました。
S氏の話によればレイテ湾海戦で撃沈された大和の姉妹艦武蔵は、実際は航行不能に陥った時点で軍艦の秘密を守るため自軍の手で沈没させられたそうで、それは戦争が終わるまで極秘の事項だったとのことです。
これについてはその事実について私はいささか疑問に感じる面がありますが、S氏のお人柄を考えると、これは戦艦大和の乗組員の中ではその話が事実として伝わったのだろうと思います。
この自軍の飛行機が全然飛ばなかったレイテ湾海戦を経験してからS氏は日本軍にはもう飛行機が無くなったことを知り、この戦争は負けるな、と実感したそうです。このときのレイテ湾海戦で日本の海軍は事実上消滅したと言われております。
そして最後の沖縄への出撃です。
出撃前に片道の特攻作戦であることは知らされていたのですか?との私の問いに、「今は定かには覚えておりませんが、多分知らされていたと思います。出撃前夜は艦内で祝宴をやるのが日本海軍の慣例となっており、いつもですとみんな大いに浮かれて宴を楽しむのですが、この沖縄行きのときは宴が通夜のように静かだったことを覚えています」
「鹿児島から出撃されたのですか?」
「いいえ、徳山からです。忘れもしません、4月6日、徳山を出港して豊後水道を通過するとき島々の桜が咲いているのを見て、『桜が見送ってくれてるぞ~』と皆々が声をあげて別れを惜しんだ光景が今でもありありと私の心の中に残っております。私は毎年4月になって桜を見るたびにいつもあの光景が蘇り、戦死していった二千数百人の乗組員たちのことを思わずにはおれないのです」
S氏のお宅は西宮市のあの桜並木で有名な夙川の河畔に建っているのです。このお話をお聞きしながら私は胸をこみ上げてくるものがあり、危ういところで落涙を防ぎ得ました。
戦艦大和には片道の燃料しか積まれなかったと言われてますが本当だったのですか?の私の問いかけに「違います。燃料は満タンでした。大和は沖縄で海に浮かぶ砦として長い期間、アメリカ軍と闘う任務を負わされており、艦船の機能を持続するためにも動力の必要があったのです。食料もかなり豊富に積まれておりました」とS氏はきっぱりと答えられました。
「それにしても、帰還をまったく考慮していないこの沖縄への突入作戦はひどい話です。艦長以下、誰もが理不尽さを抱いていたと思います」
「Sさんは大和の艦長に近くで会われたことがあるのですか?」の問いかけに、「私は気象状況を艦長に伝達する役目を仰せつかっていたのでしょっちゅう会っておりました」
「どんな方でした?」
「ひとつも威張ったところが無く、温厚で軍人というよりも文人肌の人でした。S君、明日の天気はどんなもんやろうな、と気さくに語りかけてこられてとても親しみの持てる方でした」
この艦長も当時の海軍軍人なら当然のこととして大和と運命を共にしております。
鹿児島沖での最後の戦いで印象深かったことは意外にも最初に雲間から現われたいくつかの敵機の姿だったそうです。
この敵機の姿が見えたとき、いよいよ最後のときが来たな、と思われたとか。不沈戦艦、海の要塞と言われた大和は沈められる、と若干20歳の青年でさえも感じたそうです。戦艦大和への集中攻撃は間断無しに行われたように思われがちですが、実際は途中で米航空隊は引き返し、30分ほどしてからまた再来し、このときの猛攻撃で大和は撃沈されたのだそうです。
大和の傾斜の度合いがひどくなり退艦命令が出されたのが午後2時ころとのこと。
「海に飛び込んだのですか?」
「私の場合は振り落とされました。大和がひどく傾いていたおかげで海面まで10メートルくらいだったと思います」
戦艦大和は最後は大爆発して沈没しますが、それまでにS氏はどうやって十分な安全地帯まで泳ぎ着くことができたのだろうかと尋ねたところ、「私を振り落とした大和は航行速度は落としておりましたがどんどん私の浮かんでいるところから離れて行きました。だから渦にも巻き込まれなかったのです。航行不能となってから退艦命令が出ていたらあの大爆発の巻き添えを食い、渦に巻き込まれて恐らく生存者はもっと少なかったことでしょう」
「大爆発の様子はどんなでしたか?」
「覚えておりません。大和から離れ去ることばかりを思いながら必死に泳いでいたから爆発の瞬間は見ていないのだと思います。後に写真で見る原子爆弾のきのこ雲によく似ている雲が漂っていたのはかすかに覚えております。それと凄い大音響も」
「ライフジャケットをされていたのですか?」
「いいえ。ただ、海に散乱している色々な浮遊物があり、それらの小さいのをポケットやズボンの間に入るだけ入れて浮き具代わりとしました」
「どうやって救出されたのですか?」
「護衛の駆逐艦のランチがやってきて私たちを引き上げてくれました。そばに上官がいたので多分、一緒に助けられたのだろうと思います。もっと遠くにも大勢浮いていたはずですが、私たちを救出すると急いでランチは引き上げて行きました。大和が撃沈された今、アメリカ軍の再三の攻撃がある前に急ぎ戦場から離脱するためだったのではないか、と思います」
「と言うことは沈没を免れた駆逐艦が時間をかけて救出活動をすればもっと生存者はいた可能性があったのですね?」
「はい。私は本当に運が良かったのだと思います。私と違って艦底深くにいた乗組員たちの中には大爆発の前に安全地帯までたどり着くのが間に合わなかった者も大勢いたのではないかと思うのです。本当に戦争はむごいものです」
「乗った駆逐艦は鹿児島に行ったのですか?」
「いえ、佐世保の軍港です」
「そこでSさんはお役目御免となったのですか?」
「いえ、とんでもない。戦艦大和の沈没は国民の戦意を喪失させるため極秘とされたのです。佐世保の海軍療養所に乗組員全員が隔離されました。ただし、戦艦大和の生き残りとして皆から大切にされながら治療を受け静養をし、すっかり元気になったあと、徳山に戻されました」
「また、軍務につかれたのですか?」
「はい。しかし、徳山で招集兵の教官を命じられ、二度と戦地へ駆り出されることはありませんでした」
ここまで話されてS氏はおかしそうに言われます。
「招集兵と言いましてもその頃に入隊してくるのは40代や50代の人が多いのです。みんな私よりはるかに人生の先輩の方であるのに、一様に私に尊敬の眼を寄せるのです。どうも上官たちがSはマリアナ沖、レイテ湾の大海戦を経験してきた海軍の猛者なんだ、と吹き込んでいたのに違いありません」
そこで私は言いました。
「それもあるでしょうが、戦艦大和の司令塔の上で最初は恐怖ですぐに目をつぶっていたSさんがレイテ湾、鹿児島沖と凄まじい激戦の中で冷静におれるようになったその身に付いた度胸が風貌に表れて人の畏敬を招いたのだろうと思います」
S氏は一つの編纂されたアルバムを持ってこられました。
戦艦大和乗組員の中の航海科に所属した仲間たちで作った航友会のアルバムで毎年、生き残った仲間たちで集まって一緒に旅行されるその記念写真が沢山載っておりました。十数人の男女が写っている去年の写真の中のご自分とその後にいる人物を指差して、「この二人が大和最後のときに乗艦していたのです。戦艦大和沈没時の生き残りはどんどん減っていっております」
どの写真にも「戦艦大和・航友会」の旗が一緒に写っており、私は尋ねました。
「旅先や旅館でこの旗を見た人たちがみんな尋ねませんか?戦艦大和の乗組員だったのですか、と」
「はい、しょっちゅう尋ねられます。皆さん、戦艦大和にはそれぞれ色々な思い入れを持っていらっしゃるようですね。感に堪えぬ表情をされます」
アルバムにはこの航友会が靖国神社に献燈した模様の写真も掲載されていました。
それについてS氏は言われました。
「私は個人的には靖国神社を肯定しているわけではありません。しかし、あそこに我々の戦友が祀られている以上、弔いに行かなければなりません。そういう意味で私たちは献燈したのです」
S氏のお話を聞いていて言葉の端々に戦争は残酷なもの。二度と戦争なんて起こしてはいけない、の反戦の思いだけでなく、大東亜戦争への否定の気持ちが伺われます。
お聞きしませんでしたが、今度のイラク戦争に対してもS氏は私とは違った反応をされたことでしょう。
しかし、戦争で死んでいった同胞への鎮魂は絶対に忘れてはならない、という強い思いも感じられました。
S氏は最後に、こう言われました。
「今までに何度も戦艦大和の話をして欲しい、と講演を頼まれましたが、すべて断ってきました。生き残りの1人が講演しているのを聞いたことがありますが、自慢めいた話で聞いていて不愉快でした。戦艦大和を民族の魂のように考えたり、英雄視するような風潮は好ましいものではありません。私がそのように思っていることは是非、あなたの心の中に留めておいてください」
私の受け応えから愛国的心情と戦争も場合によってはやむを得ず、という私の考え方を敏感にもS氏は察知したようなそのご発言でした。
私は複雑な思いでS氏のお言葉を受け取ってお宅をあとにしました。
S氏と私では政治的思想・信念で若干の相違があることは事実のようです。mitiko姉の私と仲の良かった亡夫と私の間にも相違があったように。
私はS氏の感動的なお話をお聞きしたからとて私の信念、考え方を変えるつもりはありません。私にとって戦艦大和はやはり日本人としての心の琴線に触れる類の存在です。間違った戦争と言われますが大東亜戦争は日本人が民族の存亡をかけて戦った戦であり、負けましたが一方的に我が日本が悪いとは決して思わない、その私たち日本人の誇りを失いたくない、その象徴が戦艦大和だと私はやはり思います。
しかし、S氏も私の義兄も軽率な戦後進歩的文化人や安易な反戦運動をやる輩とは全然違うタイプの人たちです。
戦艦大和の最後に立会ったS氏、そして戦争末期、家族からは引き離されて鹿児島でいつ出撃か、いつ自分の確実な死が身近にやってくるのかと脅えながらの予科練の訓練中に敗戦を迎えた義兄たちの激しい戦争への反撥に対して私は反論するべき言葉を失います。こういう方々へにはやはり敬意を表し、そのお気持ちを尊重します。
S氏は戦後、西宮市の小学校の教師になったそうですが、教え子たちにとって大変印象深く、大きな良き影響を与えた教師に違いない、と確信しております。
■5 三大海戦からの生還 池田武邦さん
■海軍兵学校に入学
──池田さんは大正13(1924)年生まれの現在92歳とのことですが、子どもの頃はどんな暮らしだったのですか?
元々僕の父母が住んでいた家は鎌倉にあったんですが、大正12(1923)年の関東大震災で倒壊しちゃって静岡県に避難しました。僕は翌年の1月、その避難先で生まれました。その後、2歳の時に神奈川県藤沢市に引っ越して、中学校まで過ごしました。当時の藤沢は田んぼと畑が広がり、池や小川が流れるのどかな田園地帯で、人々の暮らしや子どもたちの遊びも江戸時代とそれほど変わらない感じでした。その頃住んでた家も江戸時代の家と同じような感じの家でね。これが後の僕の人生に大きく影響することになるんですけどね。それはまた後でお話しましょう。
子どもの頃から海が大好きで、父も海軍士官で山本五十六と同期で明治37、8(1905、6)年の日本海海戦(日露戦争)にも参戦しているから、大きくなったら海軍に入りたいと思っていました。中学入学の翌年に二・二六事件が起こったので、子ども心にも世の中が不穏な空気に包まれていることは何となく感じていましたね。
中学5年生の時、かねてから希望していたとおり、江田島の海軍兵学校に入学。兵学校はそれはもう厳しかったですよ。毎日理由もなく最上級生からぶん殴られてましたからね。しかし、そこには戦場で死に直面した中でも冷静に行動しうるための修練の意味があったと僕は考えています。
太平洋戦争が始まったのは入学の翌年です。もうアメリカとの戦争は近いと肌で感じていたので、いよいよ始まったかと気が引き締まる思いでした。開戦すれば我々は最前線に出撃していく立場ですからね。ただ、真珠湾攻撃があった日、兵学校の井上校長が「戦争は始まったけれど、今は戦争のことは考えずにひたすら兵学校の生徒としての本分を尽くすことに専念せよと」という訓示を述べられた。いまだに覚えてますね。
ただ、戦争が始まったことで、本来なら4年で卒業するのが2年8ヶ月に縮まり、そのせいでアメリカまで船で行く遠洋航海実習がなくなったことが残念でしたね。今はみんな当たり前に飛行機で太平洋を横断するけど、当時は船でしか横断できなくて、横浜からシアトルまで2週間かかったんですよ。飛行機で太平洋横断しようと特別な飛行機を設計してチャレンジした若者が3、4人いたけどみんな行方不明になってたしね。そんな技術力でよくもまあアメリカのような大国と戦争しようなんて考えたよね。
卒業後は、当時建造中だった帝国海軍最新鋭の軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」の艤装員として配属されたんだけど、「矢矧」は超極秘裏に建造された船だったから、完成して進水式をした時も「矢矧」という名前は出さないで矢と萩の葉をあしらった手ぬぐいが振る舞われた。僕が着任したときもまだ矢矧という正式名称は公にされていなかったんだ。
■マリアナ沖海戦
何度かの訓練を経て、昭和19(1944)年6月、マリアナ沖海戦へ出撃。当時僕は20歳の海軍少尉で、これが初めての実戦となった。連合艦隊の水雷戦隊の旗艦として駆逐艦8隻を率いた矢矧の任務は、第一航空戦隊の護衛だった。その時、帝国海軍が誇る連合艦隊は健在で、巨大戦艦「大和」「武蔵」をはじめ、「翔鶴」「瑞鶴」などの空母も全部そろってた。連合艦隊は各艦の距離1000m~1500mくらい離れて編隊を組んで航行するんだけど、矢矧の艦橋から前を見ても後ろを振り返っても水平線の彼方まで日本海軍の艦が見えたんだよ。それは勇壮な景色だったねぇ。この無敵の連合艦隊がこの時からわずか1年足らずで全滅しちゃうんだから。あれほどの負け戦はないと思うし、この時は想像すらできなかったよ。
──矢矧でどのような職務を担っていたのですか?
僕は航海士として、船位測定、操舵、見張り、信号、戦闘の記録、敵潜水艦のスクリューの水中聴音など、航海長をサポートするための仕事は全部やってた。
──戦闘はどんな感じだったのですか?
戦場は「惨憺」という言葉しか思い浮かばないような残酷な現場だった。矢矧はほとんど無傷で、大鳳や翔鶴など他の船の負傷した兵を救助して手当てをしたり、戦死した兵を水葬したりしていたんだ。当時はよく新聞で「壮烈なる戦死を遂げ」なんていう言葉が使われたけれど、そんな華々しさは微塵もなく、実態はこれ以上むごたらしいものはないというくらい全部むごたらしい死だった。だから「壮烈なる戦死」という言葉がいかにイメージを変えるかということだよね。初陣となったマリアナで、戦争ってこういうものなんだということが初めてわかったんだ。
この時、戦闘記録も取ってたんだけど、後で読み返したら誤字脱字が多くて恥ずかしい思いをしたなあ。矢矧自体はほとんどやられていないにも関わらずだよ。自分では平気なように思っていても相当緊張していたんだろうね。いかに修業が足りないか痛感したよ。
結果は、空母3隻と搭載機のほぼすべてに加えて、多くの潜水艦も失う壊滅的敗北だった。これにより、西太平洋の制海権と制空権を完全に失うことになった。だから、今から考えたらこの時点で勝敗は決していたといえるかもしれないね。
■レイテ沖海戦
その4ヶ月後のレイテ沖海戦の時も矢矧の航海士(中尉)として参戦したんだけど、この時はもうほとんど航空機もないし勝てるなんて思ってないよね。戦(いくさ)をどのくらい長引かせるかということしか考えてなかった。連合艦隊はアメリカ海軍の航空機と潜水艦の両方からやられたからひどいもんだったよ。出撃してから帰還するまで1週間くらいだったけど、その間敵の猛攻にさらされて立ちっぱなし。仮眠なんてとてもできなかった。いつ敵の攻撃が来るかわからないから。
──よく体力と精神力がもちましたね。
いやいや、そりゃあ当然だよ。そのために兵学校からずっと鍛えてるんだからもたなきゃおかしいんだよ(笑)。
戦闘の方は、今度は矢矧も敵の攻撃を受けて、兵学校のクラスメートや上官が次々と目の前で死んでいった。戦争で死ぬというのはね、交通事故なんて比べ物にならないくらいむごたらしいものだよ。そこら中に手足や肉片や内臓が飛び散って、甲板なんてまさに血の海。でも僕らは戦闘中はそれを放置したまま戦わなきゃいけない。血と硝煙の匂いがすごいんだ。
敵機の爆撃が収まった少しの合間に応急食料の乾パンを食べようとしたら赤黒い色になってるんだよ。爆撃や機銃でやられた仲間の血糊で染まってたんだ。その中から血がついていないものを選んでかじりながら戦闘記録を取ったり、艦の位置を海図に記してた。
死体を処理したり内臓を集めてバケツに入れたりしていると、生と死が紙一重すぎて同じことのように感じるんだよ。立ってる位置が10センチ違っただけで生死が別れる世界。戦場における人の生き死になんて完全に運だよ。どこにいたら安全なんてことは全くない。今目の前にある死体が自分であっても何の不思議もない。本当に生も死も一緒。だから自分は今日は生き延びられたけど、明日はダメだろうという感じだった。
──そういう状況の中で死に対する恐怖は全く感じなかったのですか?
死の恐怖なんて全くなかったなあ。そんなことよりも強烈にもっていたのは使命感かな。軍人として国を守るという職務を全うしなきゃならんという使命感だよ。
この時の戦闘記録は、大した爆撃もなくて全員無傷だったのに誤字脱字だらけだったマリアナ沖海戦と正反対で、かなりやられて修羅場だったのに客観的にしっかり書けていたんだよ。マリアナからわずか数ヶ月しか経っていないのに。たぶん、マリアナの時は死の恐怖なんて感じてないつもりだったんだけど、本当は心の奥底では感じていたんだろうね。レイテの時は自分自身はちっとも変わっていないと思うんだけど、ちゃんと書けてた。やっぱりね、1回実戦を経験すると人間ががらっと変わっちゃうんだろうね。度胸がつくのかな、かなり冷静になった。これは自分でもびっくりしたし、随分自信がついたんだ。だから平時に何年もかけて一所懸命修業するよりも、わずか数日間でも死と直面する実戦を若い時にどんどん経験した方が別物になるくらい成長するってことだよね。
結局この史上最大の海戦は武蔵をはじめ愛宕、摩耶など戦艦、空母、巡洋艦、駆逐艦合わせて約30隻が沈められ、事実上連合艦隊は壊滅。矢矧もボロボロにやられて戦死者・行方不明者合わせて47名も出してしまった。
■沖縄海上特攻
──昭和20(1945)年4月の日本海軍最後の戦い、沖縄海上特攻(坊ノ岬沖海戦)に出撃する時はどういう心境でしたか?
この時はね、測的長という、主として電探を担当する最高指揮官の職責で大和はじめ駆逐艦8隻で沖縄に向かったんだけど、上層部からは特攻だから片道分の燃料で行ってこいと命令された。死んでこいと言われているのはよくわかっていたよ。その頃はわずかに残った戦闘機も特攻で出撃していたけど、こっちは軍艦による特攻だよね。今度こそ間違いなく死ぬと思ったけど、さっきも話した通り死ぬ覚悟なんてものはもうとっくの昔にできているから別にどうということはなかったよ(笑)。戦争が始まって、本当に自分の命に未練はないか確かめたくて刀を抜いて自分の腹に当てたことがあったけど、いざというときは躊躇なく切腹して死ねるなと思った。だからこの出撃の時も、これでやっと終わるなという非常にさわやかな気持ちだったね。遺書も書いてない。
海軍が、撃沈されるとわかっていても大和を出撃させたのは、敗戦後大和が残っていたらアメリカに拿捕されて見世物にされてしまう。それを防ぐためだった。大和は日本帝国海軍の象徴だったからね。僕ら矢矧と駆逐艦8隻の使命は大和を守ること。もし沖縄本島まで到達できたら湾に艦を押し上げて最後まで撃てと命じられていた。だからどこに押し上げたらいいかを考えていた。でも沖縄に辿り着く前に鹿児島沖で敵機に発見されたんだ。
■矢矧、大和、轟沈
矢矧は大和の盾になろうとしたけど敵航空機の猛攻で直撃弾12発、魚雷7本を受けて船は大きく左に傾いた。もはや操縦不能となって、水兵が脱出用のボートを降ろそうとしたんだけどものすごく傾斜してるからボートの滑車がうまく機能せず、なかなか降ろせなかったんだ。そんな中でも敵機が爆弾を落としてくるし機銃掃射もすごかった。それでたまりかねて僕が指揮して降ろそうとしたんだけど、水兵に大声で怒鳴ってもバンバン大砲を撃ってるから聞こえない。それでラッタルを降りて現場に行って、ボートのところで指図してようやく着水させた。やれやれと思ってるところに敵機の爆弾が降ってきて、3、4人乗ってたボートが吹っ飛んだんだ。矢矧自体も傾いているところにさらに魚雷が直撃。それで最後は傾いてる側が逆に上を向いて沈み始めた。そして4月7日午後2時5分、完全に沈没。僕ら生き残っていた兵たちは燃料の重油が漂う海に飛び込んだ。
海に入って数十分ほど経ったとき、大和が巨大なキノコ雲に覆われたのが見えた。さしもの世界一の巨大戦艦も数百機の航空機に一斉攻撃されたらひとたまりもなく、被雷8本以上、直撃弾10発以上を食らって沈没。その大和が沈みゆく姿は今でもはっきりと覚えてるよ。
■わずか1年で連合艦隊全滅
──目の前で大和が沈むのを見たときはどういうお気持でしたか?
沖縄の前に、レイテ沖海戦で大和と双璧をなしていた巨大戦艦・武蔵がやられて、最後に大和でしょ。僕らが世界最高だと思っている戦艦が目の前でどんどん沈んでいく。それはね、ショックというよりは、さもありなんという感じだったよ。だって、当時の海戦はすでに空母、航空機の時代。マリアナ沖海戦以降、日本側には航空機がほとんどなかった。船を護衛してくれる航空機がいないってことは丸腰で戦いに赴くのと同じだからね。でも、航空機が戦艦なんかよりも強いと最初に真珠湾攻撃で証明したのは日本の方だったんだから皮肉なもんだよね。
そもそも沖縄海上特攻の時の彼我の戦力差は15倍。刀しかもっていない武士が近代兵器を装備した軍人に挑むようなもの。いかに大和が宮本武蔵級の最高の剣豪だとしても、機関銃をもった軍人相手ではどうにもならんよ。
僕の初めての実戦だったマリアナ沖海戦の時には勇壮を誇っていた日本帝国海軍の連合艦隊がわずか1年足らずでほぼ全滅するのを全部目の前で見たわけですよ。それがショックといえばショックだったかな。
──海に投げ出された後はどうやって生き延びたのですか?
僕自身も当然、助けられるとは全く思っていなかった。海面を漂っていたら米軍の航空機が僕たち目掛けて執拗に機銃掃射してきてね。この野郎と怒りが湧いてきた。僕らはそういうことは武士道に反すると思って絶対にしなかったからね。周りでもどんどん仲間が撃たれて、あるいは力尽きて海の底に沈んでいった。
僕には運よく当たらなかった。敵の航空機が去った後、最初は浮遊物に捕まっていたんだけど、徐々に浮力がなくなって使い物にならなくなり、立ち泳ぎをせざるをえなくなった。立泳ぎもけっこう疲れるんだよ。そのうちだんだん冷えて感覚がなくなってきてね。当時は4月だから海の水がすごく冷たくてね。苦しいという感覚すらもなくなるんだよ。ああ、凍死というのはこういうものか、こういう感じで死ぬのかなと静かに死を待つという心境だったな。だからもう立ち泳ぎもやめようかなと思ったんだけど、人間、なかなか自分からは死ねないもんだよね。それで結局5時間半くらい漂っていたところで、生き残っていた冬月という駆逐艦に救助された。作戦が中止になって、司令部から10隻中4隻残った船に生存者を救出して帰れという命令が出たんだ。船から救助ロープを降ろしてくれたんだけど、もう体力は限界だし、重油で滑るしでなかなか登れないんだよ。でも何度か挑戦して何とか登りきれた。その時点まで生きていたけど登りきれずに海中に沈んでいった仲間もいたよ。結局矢矧の乗組員のうち、446人が戦死してしまった。
──よく生き延びられましたね。
これはもう運だよね。本当に、運以外の何物でもないと思うよ。
■矢矧が沈んだ日が自分の命日
──ロープを登りきって船に上がったときの心境は?
よかったとかほっとしたとか、これで助かったという安心の感情はこれっぽっちもなかったよ。負け戦というのはこういうもんかと、逆にみじめな気持ちだった。
──多くの戦友が亡くなったのに自分は生き残ってしまったというような感情ですか?
いや、そういうことよりもともかくみじめだったな。つらかったのは、船に救助はされても佐世保港に帰還する間に息絶えた戦友もたくさんいた。通常ならご遺体はちゃんとお棺に入れて陸揚げして埋葬するんだけど、矢矧に関することはすべて極秘事項で、一般の人に見せちゃいけないから大きな釘樽の中にご遺体を押し込めて物資を輸送しているように偽装して陸揚げしたんだ。死体とはわからないように。それが悲しかったな。
──沖縄海上特攻の様子も非常に克明に覚えていらっしゃいますが、やはり冷静に記録なさってたのですか?
うん。沖縄の時も非常によく見えていて、戦闘中も、矢矧が沈む時も、戦死者の状況も、海に放り投げられて泳いでいる時も実に客観的に見てよーくわかるわけ。この時も実戦に放り込まれたら修行なんてしなくても人間が変わるんだなという実感があったね。
──港に着いたときはどういうお気持ちでしたか?
佐世保港に着いた時、燃え尽きて抜け殻状態だった。20歳で死ぬ覚悟を決めて出撃したのに死にきれなくて、連合艦隊も全滅しちゃったからね。生きる目的を完全に失ってしまってた。矢矧が沈んだあの日が僕の命日で、これからの人生は余生だなって思った。まだ21歳だったけどね。
■何かに生かされたとしか思えない
──マリアナ、レイテ、沖縄の三大海戦に全部参加して生き延びたのは奇跡としかいいようがないですよね。
そうね。これはちょっと考えられないよね。生きてるのが不思議なくらいだったよ。3つの海戦に全部出て最後は船もめちゃくちゃになって沈んでるのに生き残ってるんだからね。兵学校のクラスメートの中で僕1人ですよ。何かに生かされたとしか思えなかった。戦場での生き死には自分の意志でどうにかなるものじゃないからね。
■顔に大やけどを負う
──ケガはなかったのですか?
矢矧に命中した魚雷がすぐそばで爆発した時、とっさに軍手をした手で顔を覆ったけど、爆風で顔が焼けただれちゃってね。軍手は焼けてなくなって顔に手の跡がついていた。それほどの大やけどなら普通はケロイド状に火傷の痕が残るんだけど、佐世保に着いて海軍病院の軍医に診てもらったら最高の応急処置をしてますねと褒められた。軍医の言うことには、やけどを負った時、やるべきことは2つ。1つは患部から空気を遮断すること。もう1つは冷やすこと。これが応急処置だと。その時は激戦のまっただ中だからもちろんそんなことは何にもできなかったんだけど、その2つとも偶然にもやってたらしいんだな。
──どういうことですか?
1つ目は、魚雷を食らって海に投げ出されたんだけど、その海は沈没した船の重油であふれていたからやけどを負った顔も重油で覆われていたこと。2つ目は、まだ4月で海水の温度が低体温症になるほど冷たかったこと。この2つの偶然が最高の応急処置になったんだ。
ただ困ったのは眉毛が燃えてなくなったこと。眉毛ってなかなか生えないんだよ。救助されて半年間、鉛筆で眉毛を描いてた。それとね、長時間重油の海を漂っていたから毛穴に重油が染みこんじゃってなかなか取れなかった。重油って風呂に入って石鹸で洗ったくらいじゃ落ちないんだよ。海軍病院から退院して、数ヶ月経っても「池田は重油くさい」っていろんな人に言われたもんね(笑)。
■潜水学校の教官に
──傷が癒えた後は?
もう乗る艦がないけどどうするんだろうと思ってたら、広島の大竹にあった潜水学校の教官を命じるという辞令が降りた。僕は潜水艦なんて乗ったこともないのにどうして教官をやれなんていうんだろうと思ってたら、当時の潜水学校では予備学生を特攻潜水艇の乗組員にするための教育をしてたんだ。
──特攻潜水艇といえば「回天」が有名ですがそのような船の乗組員ですか?
そうそう。海の特攻隊だよ。当時の日本は最後の最後まで戦争をやめようとしなかったからね。
■原爆が落ちた日
その教官をしているときに原爆が落ちた。1945年8月6日午前8時15分。その日のこともよく覚えてるよ。潜水学校は爆心地から30kmくらい離れているんだけど、ちょうど朝の授業を始めるという時間だった。学校の自分の机で今日はどんな講義をしようかと考えていた時、突然部屋がビカッ! と光ったんだよ。どこかの電線がスパークしたのかと思って机の下をのぞいた瞬間、ズシーンと衝撃が来た。その時は海軍が極秘で近くの山をくり抜いて火薬庫を作っていたからそれが爆発したのかと思った。もちろん原爆なんて知らなかったからね。
僕らは内火艇を出して瀬戸内中を走り回って、ご遺体の収容作業に当たった。河口付近は流されてきた真っ黒焦げのご遺体であふれててね。まさに地獄だったよ。また、当時勤労動員で大勢の一般のおばさんたちが広島に行ってて、そういう人たちがみんな被曝して夕方、帰ってくるんだけどもう惨憺たる状態でね。そういう人たちのお世話もしたんだけど、みんな大やけどをして、皮膚が剥がれ落ちちゃっているんだよね。そこに白いものがたくさんついてる。よく見るとウジ虫でね。ウジ虫ってあっという間に湧くんだよ。そのウジ虫をね、傷口からずいぶん割り箸で取ったりした。そういう覚えがあるんですよ。
■終戦
──終戦の日はどのように迎えたのですか?
潜水兵学校で12時から重大な放送があるから教官室に集まれというアナウンスがあった。でもあの頃、重大な放送といったって負け戦ばっかりしてたから、また気を引き締めてやれというようなくだらない訓示だろうと思ってサボっちゃった。それがあの終戦の詔勅だったんだ。だから直接は聞いてないんだよ。部下が伝えに来て初めて日本が負けたことを知ったんだ。
──その時はどういうお気持ちでしたか?
周りはみんな悔しがってたりショックを受けてたりしてたけど、僕はホッとしたね。なぜかというとね、教官をやってるときに、日曜日に外出するとそこらへんでまだ4、5歳の子どもたちが無邪気に遊んでるわけ。当時はよもや日本が敗北を認めるなんて想像すらしてなかったから、当然本土決戦になって敵がどんどん上陸してくるだろうと思っていた。そうなったとき、この子たちはどうなってしまうんだろうと、非常に子どもたちのことが気になったのをよく覚えてる。もうその子たちも70歳くらいになってるけどね(笑)。また、戦争が終わった以上、僕が教えていた生徒も特攻に出ていたずらに命を落とすこともない。だから「これで町の子どもたちも、若者たちも大丈夫だ」と思ってホッとしたんだよ。
そして、生き残ったからには国のため、死んでしまった戦友のために何かせにゃならんなと思ったね。
──大本営への恨みとか怒りとかはなかったんですか?
そんなものはないない(笑)。そもそも大本営なんて雲の上の存在であんまり知らないしね。僕らはひたすら海の上で使命を果たすということしか考えていなかったから。
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