大和魂 ㉖

http://widetown.cocotte.jp/japan_den/japan_den180.htm 【大和魂】 より 

特攻対策 

1944年11月24日から26日までアメリカ本土で、アメリカ海軍省首脳、太平洋艦隊司令部、第三艦隊司令部による特攻対策会議がおこなわれた。その席で、アメリカ海軍諜報部航空諜報部が特攻の成功の要因を「日本軍はアメリカ軍がこれまで遭遇した最も新しく、かつ最も恐るべき問題を提起した。この捕捉しがたい接近と自殺攻撃は、ジャップの狂信的精神のみならず、それより遥かに危険な事には、防空や航空管制のレーダーと複雑性について完全に理解しているパイロットや戦闘要員が(特攻)志願している事である。」と分析した。海軍省のトム・ブラックバーン少佐は「カミカゼに対する最も有効な手段は、敵がパイロット切れになることだ」とも述べており、特攻作戦開始当初のアメリカ海軍の苦悩ぶりがうかがえる。

その後も、第三次ソロモン海戦で勝利に貢献した、レーダー砲術の権威ウィリス・A・リー中将を責任者とする特攻対策研究の特殊部隊を編成するなど、アメリカ軍は特攻対策に大きな力を注いだ。

整備された主な航空特攻対抗策としては以下が挙げられる。

   レーダーピケットライン

   戦闘機による迎撃

   射撃指揮レーダーや近接信管を駆使した対空砲火

   回避運動

   特攻機の出撃基地に対する攻撃

これらの対策により、特攻攻撃に対抗したため、日本軍搭乗員の練度の低下とも相まって、大多数の特攻機は目標突入以前に撃破され、戦局に影響を与えるほど戦果をあげることはできなかった。

■レーダーピケットライン

沖縄本島の残波岬を中心点とし、沖縄本島を取り囲むように16ブロックの海域に分け、各ブロックに複数の対空レーダーを装備した駆逐艦等のピケット艦を配置した。

さらに各ブロックは、中心点より70 - 100km離れた遠距離ブロックと、15 - 50kmの近距離ブロックに分けられた。そのブロックに、駆逐艦数隻と駆逐艦より多数の補助艦艇で編成されたピケットチームが配置されたが、各艦は警戒網に穴が出来ないように、ブロック海域内に円状に展開していた。また沖縄本島から離れた海域に展開していた第58任務部隊周囲にも、多数のピケット艦を配置した。ピケット艦が特攻機の接近を探知すると、その情報を旗艦の空母に連絡して艦隊の警戒を強化、やがて空母の充実したレーダーが特攻機を探知すると、設置された戦闘指揮所(CIC)で対空戦闘の指揮をとる戦闘機指揮管制士官(FDO)が、艦隊に所属する迎撃戦闘機を最適位置に迎撃に向かわせた。FDOは太平洋戦争開戦時から各空母に配属されていたが、それまでの戦訓からより権限が強化されて、指揮系統を一元化して効果的な対空戦闘の指揮ができるように、艦隊旗艦のFDOが艦隊全体の迎撃戦闘機の指揮権限を有することとなっている。また同時に、ピケット艦と戦艦・巡洋艦を特攻機進入海域に集中させ、対空砲火を濃密にした。

その為に沖縄戦では、常に多数の敵戦闘機が待ち受け、その追撃は執拗(しつよう)であったと海軍航空隊参謀安延大佐が回想している。

しかし、一部で誤解されているようにレーダーピケットラインに対して特攻機が何ら対策を取らず無力化されたわけでなく、以下の対策をこらしてアメリカ軍のピケットラインに対抗している。

ピケットライン分断のためにレーダーピケット艦を攻撃目標とする。

船首・船尾まで超低空飛行で接近し、突入直前に急上昇し目標の環境に突入を図る。

陸地を利用しレーダー探知を避けながら目標に接近する。

レーダー探知範囲の死角(海面スレスレなど)から接近する。

識別を困難とする為、アメリカ軍機の近くや後方からアメリカ軍機に紛れて接近する。

雲に隠れて進入するまたは太陽の方面から進入する。

最高速で一気に進入する。

複数機で接近し、囮機が迎撃や対空砲火を引き付けている間に他の機が突入を図る。

日本軍のこれらのピケット対策に対し、アメリカ軍はピケット艦自身に護衛機を付けたり、更なる早期警戒能力強化のため、沖縄本島の北部と沖縄周辺の小島に、レーダーサイトを多数設置するなどして対抗するなど日米両軍の間で激しい駆け引きが行われた。

沖縄戦でレーダーピケット艦として、アメリカ軍駆逐艦隊は特攻の矢面に立たされたため、特攻機の目標となることが多かった。アメリカ海軍は駆逐艦と上陸用舟艇などの小型艦艇を共同行動を取らせ、対空戦闘が開始されると、駆逐艦が沈められた時に生存者の救出を図るため、駆逐艦の周りを小型艇でびっしりと囲ませていた。そのためアメリカ海軍兵士はそのような小型艦艇のことを『棺桶の担い手』と呼んでいたが、実際にレーダーピケット艦の駆逐艦はつぎつぎと特攻で粉砕されていった。

沖縄戦中にアメリカ海軍は駆逐艦16隻を沈められ、18隻が再起不能の損傷を受けて除籍される甚大な損害を被ったが、文字通り自らを犠牲にして主力艦隊や輸送艦隊を特攻から守り切った。その働きぶりはアメリカ海軍より「光輝ある我が海軍の歴史の中で、これほど微力な部隊が、これほど長い期間、これほど優秀な敵の攻撃を受けながら、これほど大きく全体の為に寄与したことは無い」と賞されている。

しかし、レーダーピケット艦を早期警戒網に組み入れている限りは、レーダーピケット艦の犠牲は避けられず、アメリカ海軍はより有効な特攻対策を迫られることとなった。その対策とは『CADILLAC』と呼ばれた早期警戒機とデータリンクシステムを結合させた新システムであり、これまでレーダーピケット艦が担っていた役割を早期警戒機が担い、機上レーダーで特攻機を探知すると、そのデータをビデオ信号に変えて、旗艦空母のCICの受信機上にリアルタイムで投影するようにした。このデータリンクにより、旗艦空母は自らのレーダーが探知できていない目標に対しても効果的な対策を講じることができた。早期警戒機としてAN/APS-20早期警戒レーダーを搭載したTBM-3Wが開発され、データリンクシステムも1945年5月にはテストを終えて、1945年7月からエセックス級空母各艦に設置されていったが、本格的に運用する前に終戦となった。この必要に迫られて開発された極めて先進的なシステムは、その後もさらに洗練されて現在のアメリカ軍空母部隊にも受け継がれている。

■戦闘機による迎撃

第38任務部隊司令ミッチャー少将は特攻対策には艦載戦闘機の増強がもっとも効果が大きいと考え、会議で各方面に訴えた。

その提案を受けて、正規空母の標準搭載機の艦上爆撃機と艦上攻撃機を減らし、艦上戦闘機を倍増した。

艦爆・艦攻減による攻撃力低下は、艦戦(VF)の一部を戦闘爆撃機(VBF)として運用することによって対応し、増加搭載する戦闘機は海兵隊戦闘機(VMF)より補充した。しかし、海兵隊のパイロットは空母の発着艦ができないため、急遽集中訓練が行われたが、事故が多発し、空母エセックスだけでも、最初の9日間で13機の戦闘機が訓練中の事故で失われ、7名の海兵隊パイロットが事故死している。

沖縄では増強された大量の艦載戦闘機と、占領した沖縄の飛行場に進出した海兵隊の戦闘機部隊が前述の戦闘機指揮管制士官(FDO)に誘導されて、特攻機を優位な位置で迎撃する事ができたのに対し、一方の特攻機は、重い爆弾を搭載していた上に、操縦訓練も十分に行っていない促成搭乗員が増えたせいもあり、アメリカ艦隊にたどり着く前に次々と撃墜された。 アメリカ軍戦闘機対特攻機の空戦を見た従軍記者ロバート・シャーロッド(英語版)は「特攻機は退避運動も満足にできず、真っ直ぐ飛ぶだけだった。」「ジャップ撃墜は赤ん坊の手をねじる様に簡単な事だった。」と報道したほどであった。

ユージンA.バレンシアジュニア(英語版)中尉の12.5機撃墜(総撃墜数23機 アメリカ海軍3位の撃墜数)を初めとして、沖縄だけで5機以上撃墜したエースが93名も出ている。特に特攻対策として増強されたF4U コルセアが特攻機撃墜に威力を発揮し、「カミカゼ・キラー」とも呼ばれた。F4U コルセアの日本軍機との空中戦によるキル・レシオは、アメリカ軍側の主張によれば1:11であるが、撃墜した多くの日本機が特攻機であった。

それでも沖縄戦序盤は、大量に来襲する特攻機を防ぎきれず多くの特攻機のアメリカ艦船への攻撃可能範囲内への突入を許している。例えば1945年4月6日 - 4月7日の菊水一号作戦においては、特攻未帰還機356機の内200機までに沖縄周辺海域への突入を許している。また出撃機数が減った沖縄戦後半以降は、複数の編隊による陽動作戦や、早暁や日没前後の視界が十分でない時間に攻撃の軸を移すなどの対策で、アメリカ軍戦闘機の迎撃を分散させている。

アメリカ軍戦闘機パイロットは、艦隊まで進入を許した特攻機に対して、艦隊上空でも味方からのフレンドリー・ファイアも恐れず徹底的に追い回した。とあるF4U コルセアは特攻機を追撃しすぎて駆逐艦ラフィーのレーダー・アンテナに接触し、それを叩き落としたこともあった。

■対空砲火

下表(略)はアメリカ軍が比島戦時に通常攻撃と特攻に対して、対空砲火の有効性を判定したものである。ただしアメリカ軍側からのみの判定であり、特攻と通常攻撃が一部混同されている可能性が高いことを付記しておく。

一般的に特攻に対して絶大な効果を挙げたと評価されている5インチVT信管が、実際には特攻に対して大きな効果を挙げておらず、対してボフォース 40mm機関砲は通常攻撃より少ない投射弾数で撃墜判定に至っていることがわかる。つまり通常攻撃機は追い払うか攻撃を失敗させれば良いが、特攻機は突入を図ってくるため確実に撃墜しなければならないこと、高角砲のレンジ(射程)では有効な打撃を与えきれずにボフォース 40mm機関砲のレンジへの突入をしばしば許していることがこの判定結果に現れている(さらに言えば撃墜判定数が少ない場合は小数機に多数の砲が集中されているということであり、結果的に消費弾量が大きく増加している)。

その為、近接火力を強化すべくボフォース 40mm機関砲が大幅に増設された。エセックス級空母では、当初は4連マウント×8基=32門だったのが、最多で18基=72門まで増設された。ボフォース 40mm機関砲は先進的なMk.51 射撃指揮装置 により射撃管制されていた。最接近する特攻機に対してはMk.IV 20㎜対空機関砲(エリコンFF 20 mm 機関砲のアメリカ海軍仕様)の大幅増設と連装化で対抗した。竣工時46門であった同機関砲も、特攻の脅威が増大した1945年には76門上と大幅増になっている。さらに、エセックス級空母では一旦は搭載が見送られたM45四連装対空機関銃架も応急的に設置して対空火力の強化をはかった。

これら近接用の対空火器は相応の効果を上げたが、アメリカ軍は決死の覚悟で突入してくる特攻機に対して、小口径砲弾では十分な破壊力がないと考えた。より威力のある近接用の対空火器が必要と考えたアメリカ軍は、Mk 33 3インチ砲の開発を開始したが、配備は大戦に間に合わず、戦後にアメリカ海軍艦艇は、大半のボフォース 40mm機関砲以下の機関砲や機銃を取り外し、Mk 33 3インチ砲を装備している。

これらの対空火器を使用した対空戦闘については、対空火器の1基ないし数基が固定照準器を用いて個別射撃をしていた日本軍と違い、アメリカ軍は捜索・測定・照準用のレーダーを導入し、先進的な射撃指揮装置を使用した艦全体での統制射撃をおこなったため、射撃の精度は非常に高かった。各射撃要員にはマニュアルのほか、理解しやすいように動画を使用した教育も行われたが、個別の専門的な技術に加えて、「とにかく撃ちまくれ」と徹底されている。

沖縄戦で、特攻機を撃退しようとして大艦隊の10,000門を超す大小の火砲が信じられない速度で一斉に砲弾を打ち上げる様子は、我を忘れて見とれるほど壮観だったという。とあるアメリカ兵は夜間攻撃をかけてきた特攻機に対し一斉に打ち上げられた高射砲の曳光弾で空が真っ赤に染められているのを見て「独立記念日の花火を何百も併せたようなもので、何とも素晴らしいカーニバルだった」と感想を述べている。また白昼に攻撃してきた特攻機に何百万発という対空砲火が撃ちこまれ、その砲煙や爆煙で昼なのに空は薄暗くなっていたという。またアメリカ軍自身も想定外の量の対空砲火であったため、対空砲弾の破片が艦隊に降り注ぎ、中には艦艇が対空砲弾の破片により損傷したり火災を起こしたりすることもあった。また、その落下してきた破片により4月6日だけでアメリカ軍水兵が38名も死傷したほどだった。

特攻機の方も激化する対空砲火対策のため戦術を工夫しており、少数の特攻機で多大な戦果を挙げた硫黄島の戦いで、第2御盾隊の攻撃を受け大破した正規空母サラトガの戦闘報告によると「この攻撃はうまく計画された協同攻撃であった。攻撃が開始されたとき、4機の特攻機が同時にあらわれたが、各機は別々に対空砲火を指向させなければならないほど、十分な距離をとって分散していた。もしこれが自殺攻撃による一つの傾向を示しているのであれば、自殺機のなかには対空砲火を指向されないものが出てくる可能性があり、対空射撃目標の選定について混乱を生じさせることは確実なので、この問題はおざなりにできない」とあり、特攻機数機が連携をとりながら対空砲火を分散させる巧みな戦術で攻撃したことがうかがえる。第2御盾隊はサラトガに接近する際も、真っ直ぐサラトガには向かわず、同艦の真横35マイルに達した時点で、急角度で方向転換して、同艦の上空を覆っていた雲の中から降下し迎撃されることなく接近に成功している。

既存の対空火力では特攻対策に不十分と考えたアメリカ軍とイギリス軍は艦対空ミサイルの開発を本格的に進めた。先に開発されたのがイギリス軍のフェアリー・ストゥジであったが、実戦への投入は間に合わなかった。アメリカ軍は1945年7月に地対空ミサイルKAN リトルジョーを試作した。これは近接信管を装備し手動指令照準線一致誘導方式の指令誘導ミサイルであったが、性能が軍の要求を下回った上に、完成後まもなく終戦となったため、その後開発が中止されている。また、より先進的なセミアクティブ方式の誘導ミサイルとなったラーク(SAM-N-2 Lark) (英語版)の試作は太平洋戦争中に間に合わず、完成したのは1950年になってからだった。特攻対策で開発が加速した艦対空ミサイルは、その後ジェット機や対艦ミサイルに対抗するために高速化されるなど進化を続け、現在では高射砲に取って代わり艦隊防空システムの中枢に位置することとなった。

■回避運動

航空特攻による被害が問題になると、アメリカ海軍のオペレーションズ・リサーチ部門はただちに特攻機の攻撃を受けた艦のデータ収集に着手した。短期間のうちに477件が収集され、このうち有効なデータは365件であった。分析に当たっては、攻撃を受けた艦を大型艦(空母・戦艦・重巡洋艦)と小型艦軽巡洋艦・駆逐艦等に層別化して、まず艦の回避運動の有無に応じて、特攻機の突入成功率と、対空砲火による撃墜率を分析して、下表のような結果が得られた。

要すれば、大型艦では回避運動をとった方が突入を受けにくいのに対して、小型艦ではむしろ回避運動をとった方が突入を許しやすく、かつ、これは対空砲火による撃墜率と相関しているとの結果であった。この結果は、下記のような理由に基づいていると考えられた。

1.特攻機の阻止には回避運動よりも対空砲火による効果のほうが大きい

2.大型艦では回避運動中でも艦が安定しているため、対空砲火に与える影響が小さいのに対して、小型艦では艦の動揺が激しく、対空砲火の射撃精度への悪影響が大きい

また特攻機の攻撃経路(急降下か低空か、艦のどの方位から攻撃してきたか)に応じた突入成功率を分析した結果、艦首・艦尾方向から急降下突入を受けた場合には突入を許す危険性が増大すること、また艦の真横方向から低空突入を受けた場合にも同様の傾向が見られるとの結果が得られた。

急降下突入の場合は艦首・艦尾方向から入射すると対空砲火が減少すること、低空突入の場合は対空砲火が減っても突入面積が減る艦首・艦尾を向けた方が有利であることが理由だと思われる。

これらの分析結果に基づき、下記のような勧告がなされたことにより、勧告に従った艦艇に対する突入成功率は29%に低下した。なお勧告に従わなかった艦艇に対する突入成功率は47%という高率を保っていた。

大型艦には回避運動を推奨する一方、小型艦には対空砲火に悪影響を与える回避運動を避けさせる。

特攻機が高空から攻撃してきた場合には艦腹を、低空から攻撃した場合には艦首尾線を向けさせる。 

■特攻隊員

 

■構成と戦死者数

1945年1月25日までのフィリピンでの航空特攻は、特攻機数は海軍333機、陸軍202機。戦死者は海軍420名、陸軍252名であった。沖縄への航空特攻は海軍1026機、1997名、陸軍886機、1021名を数える。

特攻隊は主に現役士官/将校(含む海軍特務士官)と予備役士官(将校)と准士官、下士官で構成されていた。

海軍では現役士官は主に海軍兵学校卒業生と下士官からの昇進者である特務士官からなり、陸軍では主に陸軍士官学校・陸軍航空士官学校(士官候補生)の卒業生と准士官・下士官のうち陸士に短期間学び少尉に任官した者(少尉候補者)で構成されていた。予備役士官は海軍は主に飛行予備学生、陸軍は主に甲種幹部候補生と特別操縦見習士官出身者から構成されていた。下士官は主に海軍は海軍予科飛行練習生、陸軍は主に陸軍少年飛行兵出身であり、特攻出撃人数は圧倒的に多く、特攻隊編成上の主軸となった。

特攻隊員で最年少は海軍甲種飛行予科練習生第12期後期生の西山典郎2飛曹であり、1945年3月18日に所属の762空攻撃262飛行隊で編成された「神風特別攻撃隊・菊水銀河隊」の一員として、指揮官松永輝郎大尉の乗機銀河の電信員で特攻出撃した時の年齢は16歳であった。最高齢且つ最高位は、玉音放送後に沖縄に突入して消息不明となった宇垣纏中将で、享年55歳であった。

第4航空軍司令官として特攻を含むフィリピン航空戦を指揮した冨永恭次陸軍中将の長男である冨永靖を始め、阿部信行朝鮮総督(陸軍大将、第36代総理大臣)、松阪広政司法大臣といった陸軍および政府高官の子息も特攻隊員ないし特攻で戦死している。

海軍の全航空特攻作戦において士官クラス(少尉候補生以上)の戦死は769名。その内飛行予備学生が648名と全体の85%を占めた。これは当時の搭乗員の士官における予備士官の割合をそのまま反映したものといえる。

あ号・捷号・天号作戦期間中の海軍搭乗員の戦死者数を下表に挙げる。比島戦期間中の数字には同時期に行われた501特攻隊・第一御盾隊の戦死者数が含まれる。

※海軍の戦死者の内、特攻戦死者として認定されたのは捷号作戦期間中戦死者数1,873名中419名(22.4%)、天号作戦期間中戦死者数2,866名中1,590名(55.5%)。

顕著に増加したのは天号作戦期間中の予備士官の戦死である。これは、海兵・陸士出身の現役航空士官がそれまでの激戦で多大な戦死者を出し枯渇していたのに対し、この頃から予備士官の実戦配備が軌道にのり、天号作戦時点では士官の数的主力を占めていた為である。

下表は昭和20年4月1日と7月1日現在の海軍航空隊の搭乗員構成比率である。すでに予備士官は現役士官の5倍近い数に達しており、この後さらに終戦までに海兵出身士官の補充0名に対して予備士官は実に6279名が新たに戦列に加わった。終戦時点で海兵出身士官1034名に対して予備士官は8695名にも及んでおり、全体の9割を占めるに至っていた。

一部で海兵や陸士の現役士官/将校は、予備役士官/将校と比較し温存されていたとの指摘があるが、特攻主体の作戦となった、捷号作戦や天号作戦の搭乗員戦死者の現役士官と予備士官の構成率は、上記の通りの大戦末期の海軍航空隊士官における、現役士官と予備士官の構成率と変わらず、数字を比較する限りでは現役士官が温存されていたという事実は読み取れない。特攻に限らず海兵卒業生の戦死率は非常に高く、海兵68期卒業生288名の内191名が戦死し戦没率66.32%、海兵69期卒業生343名中222名戦死し戦没率64.72%、70期は433名中287名戦死し戦没率66.28%と高水準となっている。特に、航空士官の死亡率が高く、例えば1939年に卒業した第67期は全体では248名の同期生の死亡率は64.5%であったが、そのうち86名の航空士官に限れば66名死亡で死亡率76.6%、特に戦闘機に搭乗した士官は16名のうちで生存者はたった1名、艦爆搭乗の士官の13名に至っては全員死亡しており、温存という言葉とはかけ離れている。これらは陸軍でも同様である。

なお、回天搭乗員については、海軍兵学校と海軍機関学校卒の現役士官の戦没者数が予備士官の戦没者数を上回っており、戦没率も約2倍に達している。

   特攻隊員戦死者数 合計:3,948名

      航空特攻海軍航空特攻隊員:2,531名

      陸軍航空特攻隊員:1,417名

   海中特攻 合計:546名

      回天特攻隊員:106名

      特殊潜航艇(甲標的・海竜)隊員:440名

   海上特攻 合計:1,344名

      震洋特攻隊員:1,081名

      海上挺進戦隊員(マルレ):263名  

■選抜方法

 

■日本海軍

海軍では、特攻は志願を建前に編成していたが、募集方法や現場、時期、受け取り方により実態は異なっていた。中島正飛行長によれば、特攻の編成はだいたいこれだと思うものを集めて志願を募っていたという。「たとえ志願者であっても、兄弟の居ない者や新婚の者はなるべく選考から外す」とされたが、戦局が極度に悪化した沖縄戦後半頃の大量編成時には、その規定が有名無実化した部隊もあった。また大戦末期には、飛行隊そのものが「特攻隊」に編成替えされた。

終戦後のアメリカ戦略爆撃調査団の事情聴取で、海軍兵学校卒の現役士官4名、学徒出陣の予備士官2名が、アメリカ軍ヘラー准将の「特攻は強制であったか、志願であったか?」との質問に対し、兵学校出身の現役士官は「全て志願であった、しかしフィリピンでは戦況によって部隊全部が特攻出撃したこともある。」「内地で募集した際も殆ど全員が熱望し、中には夜中に学生から何度も起こされて自分を第一番にしてもらいたいと言われたこともある。また一人息子だから対象者から外したら、母親から息子を特攻隊員にしてほしいとの嘆願書が来たこともあった」と答えている。また学徒出陣の予備学生の2名も「学徒出陣の我々は軍人精神を体得した者とは言えないが、一般人として戦況を痛感し、特攻が最も有効な攻撃法と信じた。我々が身を捧げる事により、日本の必勝を信じ、後輩がよりよい学問を成し得るようにと考えて志願した」と答えている。このやり取りの中で「アメリカの青年には到底理解できない。生還の道を講ずることなく、国家や天皇の為に自殺しようとする考え方は考える事ができない」と言っていたヘラー准将も、最後には「特攻隊の精神力をやや理解できた。君らのいう事は理に適っており、アメリカ人にも理解できると思う」と話している。

特攻兵器の部隊は比較的早い段階から特攻要員が集められ、実験や訓練に従事していた。

坂本雅俊(回天要員)は戦局を挽回する兵器とだけ知らされ志願したという。竹森博(回天要員)によれば、志願は希望する者は○を、しないものは白紙を出し、志願したのに選出されなかったものは教官に詰め寄ったという。決まった後も回天を見せられ、特攻の説明があり、もし嫌なら原隊へ返すと説明されたという。

桜花搭乗員の募集は、1944年8月中旬から始まっており、海軍省の人事局長と教育部長による連名で、後顧の憂いのないものから募集するという方針が出されている。台南海軍航空隊では、司令の高橋俊策大佐より、搭乗員に対して「戦局は憂うべき状況にあり、中央でとても効果が高い航空機が開発されているが、それは死を覚悟した攻撃である」との説明があり、「確実に命を落とすが、現状打破にはこの方法しかない、海軍としてはやむを得ない選択であり志願を募る」と告げた。ただし妻帯者、一人っ子、長男はその中から除外された。3日間の猶予を与えられたが、鈴木英男大尉は「自分の命を引き換えに日本が壊滅的な状況になる前に、有利な講和交渉に持ち込める一助になれば」という気持ちで志願したという。他の桜花搭乗員では、佐伯正明によれば一人ずつ呼ばれ説明を受け行くか聞かれて志願したという。湯野川守正によれば、詳細は伏せられて、必死必中兵器として募集があり、志願したという。

最初の神風特攻隊編成では、編成を一任された玉井浅一によれば、大西の決意と特攻の必要性を説明して志願を募ると、皆喜びの感激に目をキラキラさせ全員もろ手を上げて志願したという。しかし当時の志願者の中には、特攻の話を聞かされて一同が黙り込む中、玉井中佐が「行くのか行かんのか」と叫び、さっと一同の手が上がったと証言するものもいる。志願した浜崎勇によれば「仕方なくしぶしぶ手をあげた」という。志願者した山桜隊の高橋保男によれば「もろ手を挙げて志願した。意気高揚した。」という。志願した佐伯美津男によれば強制ではないと説明されたという。志願者の井上武によれば、中央は特攻に消極的だったため現場には不平不満がありやる気がうせていた、現場では体当たり攻撃するくらいじゃないとだめと考えていた、志願は親しんだ上官の玉井だからこそ抵抗もなかったという。

特攻第一号の隊長関行男大尉は海軍兵学校出身者という条件で上官が指名したものであった。人選に関わった猪口力平によれば副長の玉井浅一が関大尉の肩を抱くように軽く叩きながら「零戦に250kg爆弾を搭載して敵に体当たりをかけたい(中略)貴様もうすうす知っていると思うが、この攻撃隊の指揮官として貴様に白羽の矢を立てたい」と涙ぐみながらたずねると、関大尉は両肘を机の上に付き頭を両手で支え、5秒程度黙止熟考した末に、静かに頭を持ち上げながら「ぜひやらせてください」とよどみのない明瞭な口調で答えたという。しかし、その玉井浅一によれば関は「一晩考えさせてください」と即答を避け翌朝受けると返事をしたという。報道官に関は「KA(妻)をアメ公(アメリカ)から守るために死ぬ」と語った。

フィリピンの201空の奥井三郎は志願は氏名を書き封筒に入れ提出する方法で募集されたという。クラーク基地で神風特攻隊の志願者は前へと募集がかかると全員志願したため、多いので選考し連絡するということになった。志願者杉田貞雄によれば葛藤もあったが早いか遅いかの違いで行くものは誇るように残るものは取り残された気分になったという。

菅野直大尉は特攻に再三志願したものの技量が高く直掩、制空に必要なため受理されなかった。杉田庄一は笠井智一とともに、玉井浅一司令に特攻を志願したが、却下され、代わりに墓参りを頼まれて内地への帰還命令があった。

角田和男少尉によれば特攻出撃前日の昼間に喜び勇んで笑顔まで見せていた特攻隊員たちが、夜になると一転して無表情のまま宿舎のベッドの上でじっと座り続けている光景を目の当たりにし、部下に理由を尋ねたところ、目をつぶると恐怖から雑念がわいて来るため、本当に眠くなるまであのようにしている。しかし朝が来ればまた昼間のように明るく朗らかな表情に戻ると聞かされ、どちらが彼らの素顔なのか分からなくなり割り切れない気持ちになったという。角田少尉は1944年11月11日に神風特別攻撃隊「梅花隊」「聖武隊」の誘導任務に就く予定であったが、搭乗予定の零戦のエンジンが不調で飛行できないために、僚機に「俺が行くから、お前が残ってくれ」と何機かに声をかけたが、どの特攻隊員も出撃を譲らなかった。仕方なく航空隊指揮官に隊長名で誰か交代する者を指名して欲しいと申し出したが、隊長の尾辻中尉は「我々は死所は一つと誓い合ってきた者同士です。今ここで誰かに残れと言う事は私にもできません。分隊士(角田少尉の事)は他部隊からの手伝いですから残ってください。(中略)長い間ご苦労さまでした。」と征く者の方からご苦労さまと言われた角田少尉は、「梅花隊」「聖武隊」の不動の決意を思い知らされ、出撃を見送る時は、自分の不甲斐なさを一生後悔すると言う気持ちがわき上がったという。

高知海軍航空隊は練習機白菊による搭乗員訓練の航空隊であったが、戦局も逼迫した1944年末に横須賀鎮守府より特攻隊編成の訓示があり、航空隊司令加藤秀吉大佐から各員に「特別攻撃隊を編成するから、志願する者は分隊長に申し出るように」との指示があった。一応は各人の意志に委ねられた形式で積極的に志願した者もいたが、搭乗員である以上は勇ましい志願をせざるを得なかったと言う。それでも分隊長代理木村芳郎大尉は、一人息子や長男は“技量未熟”との名目で特攻隊に編成せず訓練隊になるべく残すようにした。司令の加藤秀吉大佐は終戦後の1945年8月20日の高地空解隊まで司令として残務をこなすと、8月30日に責任をとって自決している。

桑原敬一は、民間航空機搭乗員を希望して乙種海軍飛行予科練習生第18期生として土浦海軍航空隊に入隊したが、ある日他の搭乗員と共に講堂に集合させられ、参謀より「戦局悪化により特攻隊編成を余儀なくされたので、諸君らの意思を確認したい。各人に用紙を渡すから明日までに特攻志願する場合は所属部隊名と氏名を用紙に書き、志望しない場合は白紙で出すように」と言われた。各隊員は来るべきものが来たという気持ちで、複雑な心境ながら翌日に大多数は志願したが、一部白紙で提出した隊員もいたという。しかし参謀からの言葉は「諸君の意思は全員熱望であり、一人の白紙もなかった」という意外なものであった。その言葉を聞いた桑原は憤りで頭にカアッと血が上ったと言う。桑原はこの自分の体験により、末期の特攻志願は似たような「志願の強制」事例が横行していたと推量している。

早稲田大学より学徒出陣した江名武彦少尉は、ある日突然に黒板に特攻隊に指名すると書いてありそれを見て血の気がサーッと引いたという。その後上官より訓示があり、日本のため家族のためと覚悟し命令した軍を恨む気持ちはなかったが、やはり死について割り切れず未練が出てきたとのこと、江名は以上の経緯より自分に関しては特攻出撃は「命令」であったと証言している。

末期にはパイロットはすべて特攻要員に下命されたが、田中国義は何度でも行くからせめて爆撃をやらせてほしかったが誰にも言えることではなかったという。清水芳人によれば、海上特攻は否応なしの至上命令であったという。 

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