大和魂 ㉝

http://widetown.cocotte.jp/japan_den/japan_den180.htm 【大和魂】より 

紫式部の大和魂

 

■紫式部の大和魂 1

「大和魂」 という言葉が文学の上で一番さきに出て来るのは、『源氏物語』 で、それ以前にはありません。

源氏の息子の夕霧が大学へ入ります。

あの頃は大臣の息子なら、大学などへ入らなくても、出世はきまっていた。だから、大学へなど入らなくてもよいという反対も随分あった。

その時源氏が 「才(ざえ)を本(もと)としてこそ、大和魂の世に用ひらるる方も、強う侍(はべ)らめ」 と言うのです。

「才」 とは学問ということです。大和魂をこの世でよく働かせる為には、やはり根底に学問がある方がよろしかろうというのです。

「大和魂」 と 「才」 とは対立するのです。大和魂とは学問ではなく、もっと生活的な知恵を言うのです。

 『源氏物語』 より大分あとになりますが、『今昔物語』 にも 「大和魂」 という言葉が使われています。

或る博士の家に泥棒が入り、家の物を全部取って逃げてしまった。

博士は床下に隠れてのぞいていたのですが、余りに口惜しいので、泥棒に向って 「貴様らの顔はみんな見た。夜が明けたらすぐ警察へ届けるから覚えていろ」 と大きな声でどなった。

そうしたら、泥棒たちは引き返して来て、博士を殺してしまった。

そういう話があって、『今昔物語』 の作者は、こういう批評を下していうのです。

「才はめでたかりけれども、つゆ大和魂なかりける者にて、かかる心幼き事をいひて死ぬるなり」 と。

学識がある事と、大和魂を持つことは違うのです。今の言葉でいうと、生きた知恵、常識を持つことが、大和魂があるということなのです。

■紫式部の大和魂 2

オリンピックの時とか、ワールドカップの日本人のサポーターとか見ていると、応援の一環で、 たまに(いやしょっちゅうか) 鉢巻をしている人がテレビの画面に映ったりします。

で、その鉢巻の中に「大和魂」って書いてある鉢巻を見たりすることがあります。

おそらくみなさんも大和魂の鉢巻をしている人を見たことがあるんじゃないでしょうか。

ところで質問なのですが、大和魂の言葉の意味、知ってます?

武士道とか、日本人の持つ不屈の精神とか闘争心とか根性とかああいう精神を表現したような意味のように思っていませんか?

そう思っているのであればそれは間違いです。それは大和魂の意味ではありません。

そもそもが大和魂という言葉で一番古い記述はいまのところ誰か書いたものか知ってます?

紫式部さんなんですよ。源氏物語の中にその大和魂が出てきます。

式部さんは光源氏に「才を本にしてこそ大和魂の世に用いらるる方も強うはべらめ」と言わせました。 

大和魂をこの世でよく働かせるためには学問があったほうがよろしいでしょう。」ということです。

みなさんのよく知っている逸話に枕草子を書いた清少納言と紫式部は非常に仲が悪かった、という話がありますよね。

紫式部日記に清少納言のことを「ちょっとくらい漢字を知ってるからと言って得意げにあちこちでワーワー喋り捲って、自分が教養があるのをやたら誇示しまくっていけ好かない女だわ。」と書いてあります。

で、そういう清少納言のように漢字を知って漢籍の(中国の詩文)読めるような教養を漢才(からざえ)と言いました。

それに対して、そうした中国のものでもなく、加えて学問でもなくて、ちょうどその180度対角線上にあるような日本人としての生活の知恵とか心遣いのこと を式部さんは大和魂と呼んだのです。

そういう生活上の知恵があるとか、細かな心配りができる人間になるためにはまずその人に学問とか教養というようなものがきちんとあってその上にはじめて成り立つものだから「大和魂を働かせるためには学問があったほうがよい」と紫式部さんは言ったわけです。

繰り返しますが大和魂とは決して日本人が持つ根性とか不屈の精神というような意味なんかではありません。言ってみれば生活の上での気配りとか生活の知恵のようなもののことを大和魂、と言ったのです。大和魂とはそういう意味です。

謙譲の精神とか、相手に対する心配りのようなものなのであって闘争心とか根性とかそういうようなものとは全然違うものです。

ひょっとしたら一番スポーツなんかとは縁遠い言葉かもしれません。

大体が大和魂、という言葉の用例も、そういうふうに最初、紫式部とか今昔物語といった中古文学(平安時代の文学)で遣われた後、とんと用例がなくなってしまいます。

中世には大和魂という言葉は出てきません。それからずいぶんが経過して江戸時代ですから近世になって再び用例が出てきます。

それでもまだ、近世の大和魂は、中古の意味を持っていたのですが、、。それでもあの時代は武士道、というものがありましたからそれと結びついて少しずつ意味が変わってきていたのでしょう。

それがはっきりと大和魂の意味が変わったのは江戸期に国学があって少しずつ変化をしていたのが明治になってから近代国家になっていく過程で富国強兵政策をとるようになってから一気に変化をしたのだと思います。

だから本当の大和魂というのは最近のことでいえば、ワールドカップの試合後に自分たちのいた観客席のゴミの清掃をして世界中から称賛されたあの行為とかおもてなしの心とか、ああいうようなもののことを指すのです。

よく漢字の意味を知らない外国人が、日本人から見て理解不能な熟語のTシャツを着ていたり、意味不明な四文字熟語をタトゥしている人のことを日本人が変だ、って面白がっている記事を見かけますが、、。

でもね、ネイティブな日本人だって大和魂の意味でさえ結構誤解しているような人がすごく多いので、外国人のことは言えないんじゃない?って思ったりするんですけれども。

■「源氏物語」と大和魂 3

「才を本としてこそ大和魂の世に用ひらるる方も侍らめ」と紫式部はその著『源氏物語』乙女の巻の中で<大和魂>という用語を用いている。

歴史学者の上田正昭さんは“日本の古典でもっとも早く大和魂について述べている”と指摘している。

ここで用いられる<大和魂>とは“日本人の教養や判断力を指しての大和魂”であると述べ、“「才」とは「漢才」のことで文学者である紫式部は漢詩・漢文学を内容とする「漢才」を意味した。私なりにいえば、漢才すなわち海外からの渡来の文化をベースにしてこそ、大和魂がより強く世の中に作用してゆく”と解説している。

「日本人の教養や判断力」この“まことの「大和魂」をいまのわれわれは失念してしまったのではないか”と述べているのは興味深い。

「和魂漢才」 その意味“権力者のみずからを守るためのたわごとに惑わされてはならない”、何度読み返しても尽きることはない。

■大和魂とは 4

大和魂は、近年というか、戦前の軍事教育に代表されるように、「決してあきらめない」とか、「自らの命を張って国を護る」精神の象徴のように表現されてきた。

しかし、「大和魂」と言う言葉が、我が国の最初に登場した文献としては、源氏物語の「少女」の帖になる。太政大臣の娘、葵の上と光源氏の子供である夕霧が元服の儀を行い、いざ官位の設定を行うにあたり、父源氏をはじめとして世間の大方は「四位から」と考えたが、父源氏が考え直してしまった。

「夕霧はまだ弱年なのに、いくら自分(光源氏)の思いのままになる世の中だからといって、いきなりそうした高い位を与えたりするのも、かえってありふれたことになる」として、思いとどまり、「六位」を与えたのである。

源氏としては、

「権勢におもねる世間の人から、内心では鼻であしらわれつつ、表面では追従されて、ご機嫌をうかがわれながら付き従われているうちに、自分自身は知らず知らず尊大となってしまう(本来の実力もないのに)」

「時勢が変わり、後ろ盾もいなくなると、運勢も落ち目になることが多い」

「それだから、学問を基本として、(大和魂)実務の才を磨き、世間から自然に重んぜられることが、やがては国家の柱石となるような心構えが大切」という理屈である。

この中で表現されるのは、大和魂とは、「知恵とか実務」の力になり、これこそが本来の意味になる。

これに対して「漢才」は、大唐伝来の「知識」になる。

つまり、源氏(作者紫式部)の意識としては、大唐からの知識以上に、我が国の実情にあうような知恵や才覚を意識していたと思われる。

尚、現在、「天神さま」として名高い菅原道真は「漢才」の典型的な人物、菅原道真を「追放した」とされる藤原時平は「大和魂」の持ち主であったと言われている。

歴史というか民間伝承上は、評価は逆転してしまったが、実際は「漢才」に優れるがゆえに、優柔不断な道真と、応用力抜群で度胸もあり、臨機応変の時平の関係だったらしい。

紫式部の人物設定の中に、この関係の掌握があったのか、それは計り知れないけれど。

 

■紫式部・諸話

 

■紫式部の学問観

紫式部の学問観は、「少女」の巻で大学教育を夕霧に受けさせた条によく述べられています。夕霧が十二歳になり元服するとき、親王の子は四位に、一世の源氏の息は五位に叙する慣例を破り、六位に叙して、浅黄(うす緑)の袍(ほう)で、もと殿上童でしたから、再び殿上の間に出仕できる、還(かえり)昇殿をするということにしたのです。そうしたのは、大学での学問を学ばせるためです。

源氏は二条の東院に大学寮の博士や教官を招き、字(あざな)を付ける儀式や入学式を行ない、『孝経』や『論語』『史記』以下の漢籍を学ばせます。聡明で努力家の夕霧は、大学寮での寮試に合格して、擬文章生となり、翌春には式部省の課試をとき、文章生(進士)となり、秋には晴れて五位(紅色)に叙せられ、侍従に任命されます。

当時の貴族の子弟は元服の折、なんなく四位・五位を授けられるのですから、苦労して学問などする者はほとんどおりませんでした。源氏自身も父の桐壺帝から習ったものの、根本から学習したわけではないと謙遜しています。そして「はかなき(学問のない頼りない)親に賢き子のまさる例は」めったになく、それが子々孫々につづいていけば、将来は心細い状態になってしまうだろうと心配します。

つぎに、気ままに遊んで、思いのままの官職位を授けられて昇進しても、権勢におもねる人々は、内心鼻であしらいながらも、お追従を言います。しかし時勢が移って、頼っていた人が亡くなったりすると、人から軽んぜられても、学問のない悲しさ、なんの対応もとれずに没落すると語っていますが、これは当時の貴族社会の人々の怠慢さへの紫式部の痛烈な批判であるといえます。

結論として、式部は「才をもとしてこそ大和魂の世に用いらる方も強う侍らめ」と述べています。才は漢才(学問)で、大和魂はその学問をもとに発揮する実務の才を言います。学問があるからこそその実務の才が世間から重んじられると言っているのです。

■源氏物語の「もののあはれ」

よく『源氏物語』は「あはれ」の文学であり、『枕草子』は「をかし」の文学であると言われます。「をかし」は動詞「招(を)き」の形容詞形。好意をもって招き寄せたい気がするの意が原義。招き寄せたい、興味が引かれて面白い、美しくて心が引かれる、かわいらしい等々の意味になります。実は『源氏物語』の「をかし」の用例の方が『枕草子』の用例数より多いのですが、『枕草子』は『源氏物語』の五分の一ほどの頁数ゆえに、「をかし」の出て来る頻度が大きいので、「をかし」の文学とも称されるわけです。

「あはれ」は本居宣長の『源氏物語玉の小櫛』に、「『あはれ』といふは、もと見るもの聞くもの触るる事に心の感じて出づる嘆息(なげき)の声にて、今の俗言(よのことば)にも、『ああ』といひ、『はれ』といふ、これなり」とあるように、感動詞「あ」と「はれ」との複合した語です。その原義は広く喜怒哀楽すべてにわたる感動を意味しました。平安時代以後は、多く悲しみやしみじみした情感、あるいは仏の慈悲なども表すようになりました。なお、「もののあはれ」の「もの」は広く漠然というときに、その語の上に添えることばで、「もののあはれ」といっても本質的には「あはれ」と同じことだと宣長は説いています。

『源氏物語』には「もののあはれ」の情調が至るところにあふれています。自然描写といい、人事描写といい、文章や和歌の表現といい、どこを取り上げても感動しないというところはありません。「(ものの)あはれ」の文学といわれるゆえんです。

■源氏物語にあらわれた宿世観

「宿世(すくせ)」とは、過去の世を意味し、転じて宿世の因縁の意に用います。つまりこの世の事実はすでに生まれる前において運命づけられているものだとする思想です。過去の因は現在の果となり、それはまた当然未来にも及ぶものと考えられたわけです。

『源氏物語』には、全編にわたって、この「宿世」の語が六八回、「御宿世」が四六回、それに「宿世宿世」他が七回、合計一一九回も使用されています。(『源氏物語大成』索引篇による)。 女が男を恨んで姿を隠したものの、「宿世浅からで、尼にもなさで、(男が女を)尋ね取りたらむも」(帚木)とあるのは、トラブルがあっても、男女が別れずにすんだのは、前世からそう定められていたからだと言うのです。

夕顔の四十九日の法事を比叡山の法華堂で源氏が誰の法事とも明かさずに催したところ、僧侶たちは、「かう思(おぼ)し嘆かすばかりなりけむ宿世の高さ」と言ったとあります(夕顔)。源氏をこれほどまでに嘆かせるのも、前世の因縁がとりわけ高かったのであろう、つまりこの故人(=夕顔)と源氏とのこうなるはずの前世からの因縁が、とりわけ深かったのであろうと、僧侶たちは言っているのです。

「若紫」巻の明石入道の噂が話題になっているところで、「『その心ざし遂げず、この思ひ置きつる宿世違はば、海に入りね』と常に(娘に)遺言し置きて侍るなる」とあるのは、入道が娘に自分のかねて思い定めた運命のとおりにならなかったら、海に投身せよと言っているのです。そう入道が考えたのも、これすべて前世からこうなるべく定められていたからなのです。

これらの例を通してわかることは、この世における事実が痛切で、人間の考えではとうてい理解できないような場合には、そのもとは前世によってもう決まっていたという宿世観で乗り切ることになります。強引に男が女と契りを結んだような場合、「これも宿世なめり」ということになって、男は自分の行為を宿世だといって女を説得し、逆に女もこうなったのは前世から定められていた宿世なのだと、あきらめるのです。

したがって「宿世観」によれば困難な状況も、人知の及ばぬ前世の因縁によるものだとして、そう深刻にはならぬという長所があります。一方、困難な問題・状況を真剣に考えることもなく、無反省になるという短所もあるということになります。王朝貴族の決断力のなさや無分別な行動をとる向きもあるのは、こういう宿世観が信じられていたからなのです。

■紫式部の生涯

紫式部は円融天皇の天延元年(973)に生まれました。父は式部丞藤原為時、母は常陸介藤原為信の娘です。父方も母方も式部が生まれた当時は、いわゆる受領階級で、中流貴族の家柄でありました。姉と弟惟規のほか、異母弟二人と異母妹一人がおります。

式部は幼時より聡明で、父為時が弟の惟規に漢詩文を教えていた時、傍で聞いていて、惟規よりも早く覚えたので、「そなたが男の子だったらな」と、父を嘆かせたと『紫式部日記』に記されています。

母は早世したようですが、一条天皇の長徳二年(996)父為時が越前守に任じられ、式部も弟惟規とともに同行。福井県武生(たけふ)の国司館に居住。その間親戚でもあり、また父の以前の役所の上役でもあった左衛門権佐藤原宣孝(のぶたか)から求婚を受け、長保元年(999)上京して結婚。このとき式部は27歳、宣孝は48歳でした。

この年一人娘の賢子(大弐三位〈だいにのさんみ〉)が生まれましたが、同三年(1001)宣孝が病死。そのころから『源氏物語』を執筆。式部の才能が認められて、寛弘二年(1005)十二月鷹司殿倫子(左大臣藤原道長室)の要請で一条天皇中宮彰子(あきこ)に出仕しました。女房名は藤式部(とうしきぶ)。

寛弘五年(1008)十一月一日の敦成(あつなり)親王御五十日(いか)の賀宴で、当時の文壇の大御所の左衛門督藤原公任(きんとう)から「若紫やさぶらふ」と声をかけられ、これがきっかけで、のちには紫式部と呼ばれることになりました。翌六年『源氏物語』五十四帖完成。同七年(1010)には『紫式部日記』を、長和二年(1013)には『紫式部集』を著わしました。

長和三年(1014)清水寺に参詣して皇太后宮彰子の病気平癒の灯明を献上。同年二月42歳の生涯を終えました。

■紫式部の名の由来

『源氏物語』の作者とされる紫式部の呼称は、実は彼女が長和三年(1014)に亡くなって、その後『源氏物語』が広く世間に知られるようになってからのニックネームです。彼女自身は自分が紫式部と呼ばれたことは知らなかったのです。

紫式部は一条天皇の寛弘二年(1005)十二月二十九日に、彰子中宮の許に出仕したのですが、そのときの女房名は、藤式部と称されました。これは父藤原為時が花山朝(984‐86在位)で蔵人式部丞の任にあったので、その姓と官職名をふまえて、藤式部と呼ばれたのです。

『源氏物語』より百年近くあとに成立した『栄花物語』には紫式部として登場します。この紫式部の呼称の由来は、寛弘五年(1008)十一月一日の後一条天皇生誕五十(いか)日の儀の饗宴の席上で、当時の文壇の指導者であった藤原公任が式部に「わか紫やさぶらふ」と話しかけた事実にもとづいたものと思われます(『紫式部日記』参照)。ヒロイン紫の上の物語の作者として、紫式部の呼称はふさわしいものとされ、時代とともに知られていったのでしょう。

なお、紫式部の本名はわかっておりません。当時の風習として、結婚以前は為時の大君とか中の君・三の君などと呼ばれていたことでしょう。紫式部には早世した姉がいたとされます。成人式のときに披露された名前は、当時の慣例で父の為時の字をもらって、長女が為子、二女の式部は時子といわれた可能性はあります。

■紫式部の教養

村上天皇の宣耀殿女御芳子(―967)は姫君のとき、父の小一条左大臣師尹(もろただ)から、「一つには御手を習ひ給へ。つぎには琴(きん)の御琴をいかで人に弾きまさらむと思せ。さて『古今』の歌二十巻を皆うかべさせ給はむを御学問にはせさせ給へ」と言われたといいます(『枕草子』)。当時の姫君は、書道と音楽と和歌をマスターすることが教養の基本であったことがわかります。

『源氏物語』でもこの三つが教養の基本であったことは明白ですが、女性の場合、裁縫や染色の技術なども重視されています。「帚木」巻の雨夜の品定めに登場する左馬頭の妻であった指食い女は、染色は秋の女神の立田姫に、裁縫は七夕の織姫にもたとえられるほどの上手であったと称えられています。

紫式部も自室で、「内匠(たくみ)の蔵人は長押(なげし)の下にゐて、あてきが縫ふものの、かさね・ひねりなど、つくづくとしゐたるに」(『日記』寛弘五年十二月条)と記していることから推しても、裁縫には相当自信があったことでしょう。

管絃(音楽)の場面は『源氏物語』の至る所に記されていますが、『紫式部集』には知人から「参りて、御手より得む」と、筝の琴の教授を依頼されたことが記されています。彼女の演奏の腕前が想像されます。

式部の和歌の実力が抜群であったことは、『後拾遺集』以下の勅撰集に六十一首も採られており、『源氏物語』中の約八百首も含めて、千首近くの詠草が残されている事実によっても証明されます。和泉式部を「まことの歌よみざまにこそ侍らざめれ」と評し、赤染衛門を「われかしこげに思ひたる人」とも評しています。

紫式部は囲碁や漢詩文にもすぐれていました。あの高名の清少納言を「真名書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいとたへぬこと多かり」と批判しています。漢詩文に断然自信のあったことがよくわかります 。

■紫式部と藤原道長

紫式部は寛弘二年(1005)十二月二十九日に、時の権力者左大臣藤原道長の長女の一条天皇中宮彰子に出仕しました。もっとも厳密にいうと、道長の北の方の鷹司殿倫子家の女房として迎えられ、中宮彰子の女房として仕えたのです。

『紫式部日記』寛弘六年(1009)夏条によると、式部が渡殿の局に寝た夜、一晩中道長に戸をたたかれたけれども、「恐ろしさに、音もせで、明かした」その朝に、

「 夜もすがら水鶏(くひな)よりけになくなくぞ真木の戸口にたたきわびつる(一晩中水鶏にもまして泣く泣く真木の戸口をたたきあぐねたことだ) 」

返し

「 ただならじとばかりたたく水鶏ゆゑあけてはいかにくやしからまし(そのままではすますまいと熱心に戸をたたく水鶏〈道長様〉のことゆえ、戸を開けたらどんなに後悔することになったでしょう) 」

という歌の贈答が行なわれています。

同じ『日記』に、式部は道長から「すきもの」と言われたり、式部の気持ちしだいで愛してあげようといった類の贈答も見えています。

さらに後世のものですが、『尊卑分脈』には、式部一家の系図が載っており、式部につけられた注記の中に「御堂関白道長妾云々」という一条があります。

そこで一部の人の説に、紫式部は道長の愛人だったというのがあるのです。ただし先述の『紫式部日記』には、式部が道長の求愛を受け入れたなどとは、どこにも書かれておりません。さらに『日記』寛弘五年十一月一日条に若宮の御五十日(いか)の日、酔った道長に同僚と一緒にとらえられたとき、紫式部は思わず「いとわびしく恐ろしければ」と書いているのです。この一言だけでも式部が道長を愛していたなどとは考えられないことがよくわかります 。

■紫式部の墓

紫式部の墓は、四辻善成の『河海抄』(1362~68年ごろ初稿本成立)に、

「 式部墓所ハ在雲林院。白毫院の南、小野篁ノ西也。 」

と書いてあります。現在地は下鴨神社の方から来ている北大路と、南北に通ずる堀川通りとが交差したところ、堀川の西、そこが紫式部の墓地とされています。ここはノーベル賞を受けた田中耕一博士が勤めておられる島津製作所の敷地の一角で、ここだけが京都市に寄贈され、公共の場所となっている所です。

ここには、紫式部墓と、その右側手前に小野相公(篁、802~52)墓との二つが並んでいます。

実はこの篁はあの世に行ってからは閻魔庁の第二の冥官として、閻魔大王の側近になったとされているのです。善良な行ないをした人などが早死にすると、篁は閻魔さんに申し上げて、その人を生き返らせてくれていたと言われています。

篁がかかわったとされる寺の一つに、船岡山の西麓近くに引接寺(いんじょうじ)があって、当寺のご本尊も閻魔さんであります。しかも境内には紫式部の供養塔があります。紫式部が小野篁に関わっていることがよくわかりますね。

紫式部は人々をたぶらかす狂言綺語の『源氏物語』を書いたために地獄に堕ちたという“堕獄説”があります。一方に石山寺伝説のように、式部は観音菩薩だという説もあります。前者の堕獄説は『源氏物語』の熱烈なファンにとっては大変心配なタネとなり、遂には地獄に堕ちた式部を、冥官である小野篁に救ってもらおうということになったのです。

したがって堀川通りの側にあった紫式部の墓は、中世以降、紫式部堕獄説が盛んになってから作られたものであろうと推定されます。

それでは、紫式部のほんとうの墓はどこにあったのか? おそらく当時の風習で、式部は母方の実家の宮道(みやじ)氏の墓に入ったことでしょう。それは現在の京都市山科(やましな)の勧修寺の近隣の、宮道神社のある周辺にあっただろうと考えられます。

■紫式部堕獄(だごく)説

紫式部は『源氏物語』に、むやみと浮薄でなまめかしい話を書き集めて、多くの読者を堕落させたので、地獄に堕ちて苦しんでいるという伝説です(『今鏡』参照)。平安末期から鎌倉時代にかけて盛んに説かれました。

『源氏物語』は現在でこそ世界的な名作の一編として尊重されていますが、実はこの作品は光源氏の好色物語であるという見解も、この物語の成立当初からあったのです。

たとえば『源氏物語』が全部完成した直後の寛弘六年(1009)夏ごろ、左大臣藤原道長は中宮彰子(あきこ)の前にある『源氏物語』を見て、「すきものと名にし立てれば見る人の折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ」(そなたは好き者だと評判に立っているから、見る人が自分のものにしないで、そのまま見過すことはあるまいと思うことだ)と、紫式部によみかけています(『紫式部日記』参照)。

もちろんこれは冗談で言ったのですが、『源氏物語』が正当に評価されなかった一面を伝えています。これが平安末期以降になると、前述の堕獄説に発展するのです。

紫式部のファンたちはこの堕獄説に心を痛めました。地獄に堕ちている式部を救済しようと、『源氏一品経(いっぽんきょう)』(永万二年〈1166〉直後成立)のようなお経を作って、式部の善行を称え、『法華経』を書写して、平安な成仏を祈願しました(『宝物集』『今物語』参照)。

また閻魔(えんま)庁の役人になった小野篁(たかむら)に救ってもらうために、篁の墓の傍に紫式部の墓を作ったり(京都市北区西御所田町に所在)、篁ゆかりの千本閻魔堂に式部の供養塔を設けたりしているのです。

■紫式部観音化身説

『源氏物語』のすぐれていることを強調して、女性の紫式部が一人でこんな大作品を書けるはずはない。これは観音菩薩などが、式部に変身してこの物語を書き、その教えを説いているのである。紫式部は実は観音様なのだという説です。

平安時代末期、末法思想なども流布して、仏教の信仰が盛んになった時代に考えられた説なのです。嘉応二年(1170)に書かれたことになっている『今鏡』に、紫式部が女の身で、あれほどの源氏物語を書いたのは、妙音菩薩や観音菩薩などが女性に変身して、仏法を説いて、人を導いているのだろう、と記されたのが、この説の最初です。

つづいて『無名草子』(1200年ごろ成立)に、「この『源氏』作り出(い)でたることこそ、思へど思へど、この世一つならず(前世の因縁にもよろうかと)めづらかにおぼほゆれ。まことに、仏に申し請ひたりける験(しるし)にや(仏に祈願したお蔭)とこそおぼゆれ」とあります。仏が変身したわけではありませんが、仏の力で『源氏物語』は出来たもののようです。

さらに『源氏物語』の注釈書である『河海抄』(1362年ごろ成る)にも石山寺に参籠して、観音菩薩によい物語が書けるようにとお祈りをしていたところ、十五夜の月が湖水に映って心は清澄。突如「須磨」巻の着想を得たので、仏前にあった『大船若経』の料紙を借用して、これを書いたとあります。この場合、観音様が紫式部に乗り移ったようでもあります。

紫式部を観音の化身とする考え方は、能作者によって一般化され、『源氏供養』には、「紫式部と申すは、かの石山の観世音」とあります。観音様は現世の利益(りやく)をかなえてくれるといいます。『源氏物語』を読めば、何かご利益があるようです。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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