首洗池

http://www5b.biglobe.ne.jp/~karate/html/sub_html.htm/study-busido/rekishi-4.htm 【斎藤別当実盛】 より

実盛は保元の乱、平治の乱ともに、源義朝に従って戦ったが源氏が滅んだ後は平家に仕えました。彼は平宗盛に仕え、その武勇と重厚で実直な性格が見込まれ重用されました。以前源氏に仕えていた多くの武将が頼朝の旗揚げに駆け参じましたが、義理にからまれ実盛は源氏方に付く事が出来ませんでした。

 義仲征伐のため京都を出発する際に、「『錦を衣(き)て故郷に帰る』と言った古語があります。越前は私の故郷で有ります。私の身分では錦の直垂(ひたたれ)(注四)を着る資格はありませんが、願わくば老後の面目にこれを来て越前に帰ることを許していただきたい。」と願い出、許しを得たのです。実盛は今回の戦を最後と覚悟し、死出(しで)の晴れ着に錦の直垂を選んだのです。平宗盛も実盛の心情を察し、手ずからさし与えました。

 実盛は、出陣前から死を覚悟し「髪を黒く染めて、若やごうと思うのだ。というのも、若武者たちと争って先駆けするのも大人げない、かといって老武者といわれて侮られるのも口惜しい」といって白髪を黒く染めて出陣していました。

 平宗盛が率いる平氏軍は倶利伽羅峠の戦いで木曾義仲に敗北し、京方面へ北陸道を上っていったが、源義仲軍はすぐに追撃を始め、加賀篠原の地で平氏軍を捉え、総攻撃を仕掛けました。敗走中に追撃を受けた平氏軍はほとんど交戦能力を失い、義仲軍が大勝しました。この戦いにおいて、平氏軍の老将斎藤実盛は自陣が総崩れとなる中、最後尾の守備を引き受け、老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将、手塚光盛によって討ち取られました。

 この戦いに先立ち、実盛は関東の武士たちと酒を酌み交わしながら「よくよく情勢を判断するに源氏のほうは益々勢いがさかんになり、平家の負け色は火を見るよりも明らか、どうだ、みんなで木曾方に寝返らないか」と語りかけみんなの信義を計りました。これは仲間を試す誘いかけでした。翌朝、実盛は酒を酌み交わした者達に気持を聞くと、俣野五郎影久が「我々は東国ではこの人有りと名が知れ渡っている者だ、情勢によってあっちへ付いたり、こちらへ加勢したりするのは見苦しい事である。影久はすでに今度の戦で平家に付き、討ち死にする覚悟が出来ている」と言いました。これを聞いた実盛は真意をうち明け、自分も同じ死ぬ覚悟であると伝えました。その場に居合わせた関東出身の武将二十数名はすべてこの時の戦で討ち死にしました。平家物語では「今度北国にて一所に死にけるこそ無慙(むざん)なれ」と彼たちの行動を憐れんでいます。

「平家物語」卷七「実盛最期」の場面は屈指の名場面の一つです。実盛が討ち死にの時に着用していたと言われる兜と具足が石川県小松市の多太神社に奉納されており、国宝に指定されています。奥の細道の旅の途中に立ち寄った芭蕉は実盛の兜を見て「むざんやな、甲(かぶと)の下のきりぎりす」の一句を読みました。

https://japanmystery.com/isikawa/kubiarai.html  【首洗池】 より

首洗池

【くびあらいいけ】

寿永2年(1183年)、倶利伽羅峠の戦いで敗れた平家軍は、篠原の地で軍勢を立て直し、再び木曽義仲軍と矛を交えた。しかし木曽軍の勢いはとどまるところを知らず、敗走の憂き目となった。その中にあって、大将と思しき出で立ちで奮戦する平家の武者が一騎。それを見た義仲の家臣・手塚光盛が一騎打ちを申し入れると、武者は名乗りを敢えてせず挑み掛かってきた。だが、手塚によって討ち取られてしまったのである。

首実検をおこなった義仲は、その武者が、自分が幼い頃に命を助けてくれた斎藤別当実盛であると認めた。しかしその髪は黒く、70を越えているはずの実盛とは思えなかった。そこで近臣の樋口兼光に尋ねると、かつて実盛は「年老いて戦に出る時は髪を黒く染めて、老人と侮られないようにしたい」と申していたという。そこで首を洗わせると、果たして髪は白くなり、実盛であると確かめられた。義仲は涙を流し、実盛の甲冑を多太神社に奉納したのである。

篠原の古戦場には斎藤実盛にまつわる遺跡が点在する。実盛の首を洗ったとされる池も現存する。池のほとりには、首実検をする木曽義仲・樋口兼光・手塚光盛の中央に、実盛の兜が置かれた銅像が作られている。

<用語解説>

◆斎藤実盛

1111-1183。越前生まれの関東の武将。源義朝に属していたが、源義賢とも親交があったため、その遺児である義仲を助けて木曽に送り届けた。平治の乱より後は関東の有力武将として平家に属し、源頼朝の挙兵後も平維盛の後見として平家軍に従った。富士川の戦いで味方が戦わずして敗走したことを恥とし、故郷に近い篠原の合戦で討ち死にを覚悟して、手塚光盛に討たれる。

実盛討死の際、騎乗の馬が稲の切り株につまずいたとされ、その怨みから実盛は死んで後に稲を食い荒らす害虫となったという伝承がある。ウンカのことを実盛虫と呼ぶのは、このためだと言われる。

◆手塚光盛

木曽義仲の家臣。粟津の戦いでは、最後まで義仲に従った騎馬武者の一人とされるが、戦死。漫画家の手塚治虫は、光盛の子孫であると称している。

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