https://blog.goo.ne.jp/jiei62/e/f3a2056209bf731436b45f390271986e 【妻沼の聖天さま 斎藤別当実盛 熊谷市】 より
「平家物語」は、中学生の頃から好きだった。吉川英治が「週刊朝日」に連載していて、単行本になるたび一冊残さず読んだ。日本の超長編小説の魅力に魅かれたのはこのシリーズからで、「大菩薩峠」や「富士に立つ影」にも挑んだ。
「平家物語」の中で、不思議に強く印象に残っている武蔵武士が二人いる。熊谷次郎直実と斎藤別当実盛である。直実の場合は、姓が熊谷なのですぐ分かる。実盛が同じ熊谷出身だったとは、この歳になるまで知らなかった。いい歳をして知らないことばかりだ。
聖天さまは仏教の宗派で言えば、高野山真言宗で、その準別格本山。縁結びのご利益があるとかで、地元の商工会などは「縁結びのまち」として盛り上げようと、縁結びキャラクターの「えんむちゃん」も、商工部青年部が公募して登場した。。
聖天さまを入ってまずくぐるのが貴惣門。横に回って見上げると、大小の切妻屋根三つに破風(はふ・合掌型の装飾板)がついている重層の組み合わせで、全国的にも例が少ないという。国指定重要文化財だ。
くぐるとすぐ右手に、左の手に鏡を持った老人の座像が目に入る。白髪と鬚(ひげ)を染めている、最後の出陣前の姿だ。これが1179年、この寺を創建した武将実盛である。この銅像は1996(平成8)年建立された。
尋常小学校の唱歌に
年は老ゆとも、しかすがに 弓矢の名をば くたさじと
白き鬢鬚(びんひげ)墨にそめ 若殿原(ばら)と競ひつつ
武勇の誉を 末代まで 残しし君の 雄雄しさよ
という「斎藤実盛」の歌があったという。
昔の小学生は難しい文句を歌わされていたものだ、ほとほと感心する。
実盛は悲劇の主人公である。
1111年、越前生まれ。13歳で長井庄(ながいのしょう)と呼ばれていた妻沼の斎藤実直の養子になる。
保元の乱(1156年)では、熊谷直実らと源氏の源義朝に従い出陣、武勲を挙げた。平治の乱(1159年)では、平家の平清盛に敗れ、長井庄は清盛の二男宗盛の領地になる。宗盛の家人になって、宗盛に代わる別当として長井庄を管理する。
1179年、実盛は仏教の守護神の一つである歓喜天を祭った聖天宮を、長井庄の総鎮守として建立する。東京・浅草の待乳山(まつちやま)聖天、奈良・生駒市の生駒聖天とならぶ「日本三大聖天」の誕生である。
待乳山聖天は、浅草寺の子院のひとつの本龍院のことである。
1180年、富士川の戦では、平家側に参戦、周知のとおり、平家勢は水鳥の羽音に驚いて敗走する。
1183年、木曽義仲を討つため、平家軍に従った実盛は生まれ故郷越前に向かう。しかし、平家軍は倶梨伽羅峠の合戦に大敗、篠原(現加賀市)で義仲軍と戦い、また敗走する。「篠原の戦い」である。篠原は、実盛一族同門の地だった。
義仲軍の武将手塚太郎光盛は、侍大将が着る萌黄威しの鎧(もえぎおどしのよろい)の下に、錦の直垂(ひたたれ・鎧の下に着る)を着用した老武将と一騎打ちになる。名乗るよう求めても「木曽殿はご存じである」としか、答えない。
光盛は討ちとって、首を義仲の前に持参した。白髪を洗わせて、実盛と分かった時、義仲は人目をはばからず号泣する。
実盛と義仲の縁は1155年にさかのぼる。この年、鎌倉に住んでいた源氏の棟梁源義朝と大蔵館(埼玉県嵐山町)に住む弟の義賢は武蔵国をめぐって対立、大蔵館の変が起きた。
義賢は義朝の長男悪源太義平に討ちとられる。「殺せ」との命に背いて、義賢の遺児で二男の駒王丸は、畠山重忠の父重能と実盛の情に助けられ、信州の木曽に落ちのびた。成人したのが木曽義仲である。
2人とも、当時2歳だった幼児を殺すに忍びなかった。実盛は義仲の命の恩人だったのだ。嵐山町の鎌形八幡神社には「木曽義仲産湯の清水」の石碑が立っている。武蔵武士の本拠地だけに埼玉県には源氏関係の遺蹟が多い。
この実盛の話は、平家物語だけでなく、「源平盛衰記」や歌舞伎、謡曲に取り上げられ日本人の琴線に触れてきた。
無役の実盛が侍大将の身なりをしていたのは、生まれ故郷に帰るのに衣装だけでも錦を飾りたいと、宗盛の許しを得たもの。髪などを黒く染めたのは、年老いた武士とあなどられないようにとの配慮からだった。死に装束だった。享年73歳。
500年後、この篠原の古戦場を訪れた松尾芭蕉は
むざんやな 甲(かぶと)の下のきりぎりす
と詠んだ。
義仲もその翌年、範頼の軍に攻められ、粟津(滋賀県大津市)で一生を終えた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%AE%9F%E7%9B%9B より
斎藤 実盛(さいとう さねもり)は、平安時代末期の武将。藤原利仁の流れを汲む斎藤則盛(また斎藤実直とも[4])の子。越前国の出で、武蔵国幡羅郡長井庄(埼玉県熊谷市)を本拠とし、長井別当と呼ばれる。
生涯
武蔵国は、相模国を本拠とする源義朝と、上野国に進出してきたその弟・義賢という両勢力の緩衝地帯であった。実盛は初め義朝に従っていたが、やがて地政学的な判断から義賢の幕下に伺候するようになる。こうした武蔵衆の動きを危険視した義朝の子・源義平は、久寿2年(1155年)に義賢を急襲してこれを討ち取ってしまう(大蔵合戦)。
実盛は再び義朝・義平父子の麾下に戻るが、一方で義賢に対する旧恩も忘れておらず、義賢の遺児・駒王丸を畠山重能から預かり、駒王丸の乳母が妻である信濃国の中原兼遠のもとに送り届けた。この駒王丸こそが後の旭将軍・木曾義仲である。
保元の乱、平治の乱においては上洛し、義朝の忠実な部将として奮戦する。義朝が滅亡した後は、関東に無事に落ち延び、その後平氏に仕え、東国における歴戦の有力武将として重用される。そのため、治承4年(1180年)に義朝の子・源頼朝が挙兵しても平氏方にとどまり、平維盛の後見役として頼朝追討に出陣する。平氏軍は富士川の戦いにおいて頼朝に大敗を喫するが、これは実盛が東国武士の勇猛さを説いたところ維盛以下味方の武将が過剰な恐怖心を抱いてしまい、その結果水鳥の羽音を夜襲と勘違いしてしまったことによるという。
寿永2年(1183年)、再び維盛らと木曾義仲追討のため北陸に出陣するが、加賀国の篠原の戦いで敗北。味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られた。
この際、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、「最後こそ若々しく戦いたい」という思いから白髪の頭を黒く染めていた。そのため首実検の際にもすぐには実盛本人と分からなかったが、そのことを樋口兼光から聞いた義仲が首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったため、ついにその死が確認された。かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだという。この篠原の戦いにおける斎藤実盛の最期の様子は、『平家物語』巻第七に「実盛最期」として一章を成し、「昔の朱買臣は、錦の袂を会稽山に翻し、今の斉藤別当実盛は、その名を北国の巷に揚ぐとかや。朽ちもせぬ空しき名のみ留め置いて、骸は越路の末の塵となるこそ哀れなれ」と評している。
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