Facebook青山 典生さん投稿記事
神とは言葉
駆使するのは人間
https://ameblo.jp/platinum-dimension/entry-12273830081.html?fbclid=IwAR381C1sq7s3A1gW2GRzPY8xOMu9ouePVuBV0xn9CYXyw2sYrjrO8prwSfU【日本語の秘密 言霊】より
日本語は創造言語だった
私たち日本人なら誰もが普段使っている日本語、この深遠な秘密をご存知でしょうか?
言葉、特に日本語は発音そのものに、創造するパワーが宿っています。
言葉の使い方を変えることで、望む人生を創造することが可能な背景には、とりわけ日本語が創造言語であることも、大きく起因しています。
日本語の一音をローマ字で表現すると、子音と母音の組み合わせになります。
このことを言霊学では、父韻(ふいん)と母音の組み合わせが子音を生むと考えます。
ここでいう「父韻」とは、一般にいう子音であり、「子音」とは一般にいう子音と母音の組み合わせによって生まれるお馴染みの五十音の各音のことを指します。
『父(韻)と母(音)があって子(音)が産まれる』
つまり、言葉の構造そのものに創造が産まれる力を秘めていることが、「日本語」の大きな特性なのです。
このような成り立ちの言語は世界に二カ国しかなく、文法がきちんと機能して現存しているのは日本語しかありません。
そして、この父韻と母音の起源を遡ると、量子論の世界に繋がります。
詳しくは、過去記事「性エネルギーと音」をご覧ください。
鳥居に隠された秘密
古来日本人は、日本語の一音一音は神そのものであり、それぞれの音が創造する力を宿していると認識していました。
ですから、日本語の一音一音には、神様の名前が付けられています。
アは、神産巣日神(かみむすびのかみ)
ウは、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
ワは、高御産巣日神(たかみむすびのかみ) といった具合にです。
これ以外にも、もちろんすべての50音に神様の名前が付けられています。
それが形に現れ、今も文化として遺されているのが神社の鳥居です。
鳥居とは、言霊という神様の通り道なのです。神様の通り道、神域への結界である鳥居は、
その縦の柱が母音であり、横の貫が父韻を表し全体で日本語を構成しています。
父韻には意図する機能・特性が、母音には意図を伝達する力があり、
それぞれの組み合わせが子音を生み出しています。
つまり、各音が独自の能力を携える「言霊」という神なのです。
この創造する力を持つ日本語のことを、古の人々もしっかりと認識していたことが、
歌集からも読み解くことができます。
「神代より 言ひ伝て来らく そらみつ 大和の国は 皇神(すめかみ)の厳しき国
言霊の 幸(さき)はふ国と語り継ぎ 言い継がひけり」
神代の昔から言い伝えられてきたことだ。 日本という国は、言霊によって幸をもたらす国だと 語り継ぎ、言い伝えてきたのだ。
山上憶良
「磯城島(しきしま)の 大倭(やまと)の国は 言霊の助くる国ぞ まさきくあれ」
日本という国は、 言霊が助けてくれる国である。 幸多かれ。 柿本人麻呂
神とは言葉、駆使するのは人間 わたし達が日本語を使うということは、実は「神の名を発して創造する」という行為そのものなんですね。
神とは言葉に宿った言霊であり、それを駆使して共に現実を創造しているのは、私たち人間の存在なのです。
天地創造、宇宙そのものを創造する、となると中々実感が湧くものではないですが、自分の健康を維持したり、目標・夢を叶える、といった創造ならどうでしょうか?
そして言葉という音がなければ、創造は不可能であるのと同時に、言葉を駆使する存在がいなければ、またなにも創造されることはありません。
言わば、神と人間は共同創造者なのです。ですから、唯一無二の独自能力を発揮する神に対し、敬意や感謝の念を抱くのはとても自然なことだと思いますが、崇め奉るとなると些か違和感が出て来ます。
私たちも、独自の波動を髄液振動として響かせているという点で、対等の機能を宿した存在なのですから。
あなたもまた、私という音を響かせて独自の世界を創造している、唯一無二の神なのです。
FacebookTaiki Shimizuさん投稿記事
日本語の五十音は、かつて五十神でした。そして 神代の日本語の音は 宇宙波動の元であり、
その一音一音を神の音(姿)と捉え、神名(神音=かな)としていた時代があります。
この五十神は、伊勢神宮と石上神宮にも深い関わりがあります。
五十鈴川に隣接する伊勢神宮内宮は、かつて磯宮(いそのみや)と呼ばれていましたが、
歴史を遡ると 五十宮(いそのみや)であったことがわかります。
五十宮(伊勢神宮)と関わりの深い 天皇とは『天が下知食(しろしめ)す スメラミコト』であり、
スメラとは統一であり、ミコトとは 御言(美琴)すなわち 言葉(音)を意味するので、天皇とは 神々と人民を繋ぐ言葉の統一者であり、言霊(音)を使って国を治める者…ということになります。
(英語の横書きに対して)
日本語が縦書きであるのは天の神様からいただいた音のエネルギーを表現したものだからだというのがトーングラム的解釈です。
天から授かった『音(ひらめき)』を 『言霊』といい、それを言語化すると『言葉』になります。ですから本来文字とは書くものではなく、書かされるもの。
つまり 宇宙空間に存在する言霊波動(神)が紙の上に乗って現れます。
かつての日本人は天の声(宇宙語)を聴くことができました。
天の声(宇宙語)を聴くことができたからこそ生まれてきたのが 実は 日本語なのです。
日本語というのは 元々宇宙言語だったのです。
FacebookYuriko Ohnoさん投稿記事
私たちが普段おしゃべりしている日本語には実はすごいパワーが秘められています。なので、大切に、真心のこもった言葉をつむぎたいです。パワーがあるということは、使い道を注意しなくちゃですから。
https://ameblo.jp/iunityyuri/entry-12320287964.html?fbclid=IwAR1cTyG1zSiIOlkGfxsKBapBf_dLOM8UqFWL2yNOxieLfZ3aoIGiUZNENNg
【日本語パワー & 東京10社巡りのお知らせ】より
日本語をしゃべっているだけで、統合されていく!?
ノウイングでお伝えしている古代の叡智は、26000年より以前から、日本文化の中に伝えられてきました。
興味深いのは、日本神道には、きっちりとノウイングのキーワードが使われてきていることです。
たとえば、 今、ここ は 「中今」 トライアードとダイア―ド は「魂魄」
葛藤は 「異心(ことごごろ)」など。
古代の叡智のコンセプトを完全に伝えている 六根清浄大祓」の祝詞にはこんな文言があります。
目に諸々の不浄を見て、心に諸々の不浄を見ず
耳い諸々の不浄を聞いて、心に諸々の不浄を聞かず
中略
心に諸々の不浄を思ひて、
中心(なかごころ)に諸々の不浄を想わず
この中ごころという言葉、中心ですよね。
Centered Awareness と呼ばれるノウイングでは一番大切な意識状態、ニュートラルな中心意識とおんなじなんです。ドキドキ
しかも、日本語は、一音一音に多次元的な意味があります。
「う~」と口にするだけで、自分自身にはわからなくても、いろいろなエネルギーと共振しているということです。
さらに、ゲリー曰く、 日本語はユニティに自然につながれるようにデザインされているんだよ!と。
すごくないですか。
普通に話しているだけで、統合が進む言葉。❤️👍
もちろん、私たちそれがわかってて?日本に生まれてきたに違いない。楽ちんに目覚めるために目
そんな和の叡智で、東京10社巡りを企画しました。
江戸時代、江戸そのものは風水にのっとってデザインされています。
そして、鍵になる場所には、重要な神社がたてられ、目に見えないエネルギーで、エネルギーが流れ、クリアにするためのすばらしい仕組みになっています。(略)
https://hakken-japan.com/columns/yamatokotoba1/ 【やまとことば~心を癒す美しい日本語の意味と語源が知りたい】より
普段、私たちが何気なく使っている日本語。たとえば「おめでとう」や「ありがとう」という言葉が、いつ頃から使われていて、どうしてそう言われるようになったのか、考えてみたことはあるだろうか?
日本語には、古くは中国大陸から入ってきた漢語を中心とした「外来語」と、はるか縄文・弥生時代にまで歴史をさかのぼる日本固有の「やまとことば」の2種類がある。
「やまとことば」は、主に話し言葉として使われつづけ、後付けで入ってきた漢字から離れて「音」そのものが意味をもつことが多い。そこがひとつの特徴でもある。
数千年という長い時を超えて、今もなお使われ続けている「やまとことば」の世界を、ほんの少しだけ紹介しよう。
誰もがよく知っている、あの言葉の本来の意味とは?
●春夏秋冬(はる・なつ・あき・ふゆ)
●おめでとう
●ありがとう
●たのしい
●家(いえ)
●人体と植物の呼び名が一致
●手当て
春は芽が「はる」、秋は食べ「あき」る
四季のある国、日本。それぞれの季節を示す日本語は「春・夏・秋・冬」、それぞれの語源・由来は諸説あるが、こんな考え方はどうだろう。
万物が芽吹く季節、「春」の語源とは、芽が「はる(張る)」。植物をはじめとして生命力があふれ出す季節を表現している。
「夏」の語源は、はっきりしないが「あつ(暑い)」が変化したもの、という説がある。
そして収穫の「秋」は、一年でいちばん「あき(飽き)」るほどに食べ物があることを意味しているのだという。
「冬」は、春から始まる作物づくりのために力を蓄える季節。古代の日本人は、ものを振ることによって霊力が増えると考えたため、「ふる(振る→増える)」が語源という説がある。
いまも使われる日本の四季を示す言葉。そこには、季節の訪れを喜んだり身構えたりしていた、遠いご先祖様たちの暮らしや感情が息づいている。
「おめでとう」は「めでた=芽出た」から
「おめでとう」とは、「めでた」、すなわち「芽が出た」状態を表すという説がある。芽が出るのは、それだけ成長したということ。
人生のステップを一つ登った、あるいは新年を迎えて一つ年を重ねた、などの状態を示す言葉が、転じてお祝いの言葉になったと考えられる。
たとえば就職も結婚も人生のひとつの節目だが、そこで贈られる「おめでとう」という言葉には、新しい家族や仕事という「芽が出たね」というお祝いの意味。加えて、出た芽をしっかり育ててほしいという願いも込めた、励ましの言葉でもある。責任重大だ。
「ありがとう」=「有り難い」こと
「ありがとう」を漢字で書くと「有り難う」。有ることが難しいものがそこに存在し、めったに起こらないような嬉しいことが起こるから「ああ、有り難い!」「有り難う!」となる。
現代では当たり前に感じられる「健康に生きていること」「食べ物があること」は、大昔の日本では文字どおり「有り難い」ことだった。
だからこそ、そんな奇跡のような計らいをしてくれているのは、きっと「神様」にちがいないと人々は考えた。
私たちが毎日なにげなく使う「ありがとう」という言葉は、本来は目に見えない神様の存在や、その計らいへの感謝だったと考えられる。
「たのしい」=食べものが「手の上にいっぱい」!
「たのしい」の「た」とは、「て(手)」の音が変化したもので、「手の上にたくさんものがのっている状態」を示しているという説がある。
古語である「たのし」を古語辞典で調べてみると、「満腹で満ち足りた気持ちである」と書かれている。
私たち現代人の多くが「楽しい」という言葉から連想するのは、レジャーや買い物などのお金を使って得られる喜びや、日常・非日常のもっと刺激が多い状態ではないかと思う。しかし、本来「たのしい」とは、たくさんの実りに恵まれて、お腹いっぱい食べられる状態のことだった。
古代の人たちの暮らしと、そこかから来る価値観は、もっとシンプルなものだったのだ。(以下下記投稿記事と同じ)
Facebook竹元 久了さん投稿記事
🌷やまとことば~心を癒す美しい日本語の意味と語源が知りたい
●「いえ(家)」は、ハウスじゃなくてホーム
国語辞典で「いえ(家)」を引いてみると、最初に「人が住む建物。家屋」と出てくる。しかし元々の意味を調べると、ちょっとニュアンスが違う。
「いえ」は、古語では「いへ」と書く。「い」という言葉は、それだけで「神聖なもの」という意味を持ち、「へ」は「辺(あたり)」の意味。つまり、いえとは「神聖な辺り」、生きていくパワーが集まる場所のことをいう。
ちなみに「建物」の方は、「や(屋)」。やど(宿)の「や」で、物理的に雨風をしのぎ体を休ませる場所、という意味だ。
いえは「や」である以上に、人が生きていく活力を養うために帰るべき場所。英語でいえば「Home」ということになる。
●「からだ(体)」は幹で、手足は「えだ」
人間の身体(からだ)にある「め=目」「はな=鼻」「は=歯」「み=身」。これと同じ音で別の言葉が、私たちのよく知っている、身の回りにあることに気づいているだろうか。
それは植物。「め=芽」「はな=花」「は=葉」「み=実」、人体を示す言葉と似ている。たんなる偶然とも思えない。
からだの中心のことを「幹」ともいう。本体そのものを意味する言葉だが、幹といえば「木の幹」で、面白いことに古代人は手足のことを「えだ」と呼んでいた、という話もある。
もしかすると大昔の日本人は、人の体(からだ)を植物に見立てて、同じように名前を付けたかもしれない。それくらい植物は大事で身近なものだった。
●手を当てるから「てあて」、心で痛みを和らげる
子どもの頃のことを思い出してみてほしい。どこか痛かったり具合が悪くなった時に、お母さんはやさしく手で触れて「痛いの痛いの飛んでいけ!」と言わなかったか。それこそが「てあて(手当て)」だ。
手のひらは、昔の言葉で❤「たなごころ=掌」ともいう。これは、「手の心」という意味。
ケガや病気をした時に処置をすることを「手当て」というが、昔は、痛みがあれば実際に手を当て、掌を通して痛みを和らげようとした。
掌から伝わる温もりには、心が感じる痛みを癒す力がある。体ではなく心に苦しみを抱える人の背中に、そっと手を当てる。それもまた「てあて」。
ちなみに、漢字の「看護」の「看」は、「手」と「目」を組み合わせた字を書く。つまり、手を当て掌で相手をみる、という意味だ。
●「ことば=言の葉」には神聖な力が宿る
「ことば」の語源は、奈良時代以降に生まれた「ことのは(言の葉)」。それ以前にどう表現していたかというと、「こと」。ただそれだけ。
物事や事柄などに含まれる「事」、こちらも古くから「こと」。その昔、日本では「言葉」と「出来事」は、どちらも「こと」という同じ言葉で表されていた。
どうして同じなのかというと、日本に古くから伝わる「ことだま(言霊)信仰」というものがある。口に出した言葉、心に思った言葉は、本当の事として実現してしまう、そんな風に昔の日本人は考えたのだ。
うれしいこと、たのしいこと、嫌なこと、悲しいこと。言葉に宿る神聖な力が、実際の物事をも動かす。
ネガティブな言葉は、ネガティブな事態を招くかもしれない。そう考えたら、使うのを極力避けたくなるはずだ。
ことばの元々の意味や成り立ちを知らなくても、「やまとことば」は長い時を超え、いまも使われ続けている。
声に出して言ってみて、さらに本来その言葉が持つ意味を知る。そうすることで、なぜだか背筋が伸びるような、自分の中心にきゅっと力が入るような気持ちにならないか。
何か辛い状況に陥ったときも、大事な誰かの手のぬくもりを思い出せば、少し安心して、がんばれそうな気持ちにもなってくる。
「ありがとう」とお礼を言うときにも、それは本当に「有り難い」ことなのだと思えば、いつもよりも気持ちを込められそうな気がするのでは。
膨大な情報、すなわち言葉が溢れる時代だからこそ、私たちのご先祖様が贈ってくれた素朴でポジティブな「やまとことば」を大事にして、そこに宿る不思議な力に癒されてみたい。
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