沈丁花

https://plaza.rakuten.co.jp/tapotapo/diary/201002270000/  【沈丁花 (4)】より

春を連想する花っていろいろありますが、香りで春の訪れを感じさせてくれるのは、私にとってはなんと言っても沈丁花。

ここ数日、南風が連れてきた暖かさで、沈丁花が香り始めました。

といっても、これはよそのお宅の玄関先の鉢植え。

そこにはおばあちゃんが一人で住んでいて、たびたび心臓の発作を起こして救急車で運ばれていました。

でも、いつも10日からひと月の入院で帰って来ていたので、昨年の秋に入院された時も、きっと大丈夫だろうと思っていたのですが、残念ながら、数日後に亡くなってしまいました。

それから半年、お世話をする人がいなくなったというのに、いつもの春と同じように沈丁花が咲きました。菅原道真の「東風吹かば・・・」の和歌を本歌取りして。

 南風(まぜ)吹かば 匂いおこせよ 沈丁花   あるじなしとて 春を教えん


https://san-tatsu.jp/articles/363342/ 【『光る君へ』で脚光を浴びる大宰府。京都から遠く離れた地で詠まれた、万葉集の歌】より

大河ドラマ『光る君へ』がそろそろ最終回を迎えようとしている……なかでも注目されているのが、物語の最後の舞台の1つとなった、大宰府。実際に紫式部が大宰府に行ったことがあったかどうかはともかく、当時の大宰府を大河ドラマにおいても再現しようとしていたことは間違いないだろう。

都から遠く離れた地で暮らした人たち

大宰府で和歌を詠んでいた歌人たち

さてそんな大宰府が日本文学のなかで脚光を浴びていた時代がある。『万葉集』に和歌がおさめられた時代だ。

『万葉集』とは、『源氏物語』よりもさらに昔、7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた歌集である。全20巻あり、なんと4516首もの和歌が収録されている。詠み手が幅広いことも特徴。天皇が詠んだ歌もあれば、防人歌(さきもりのうた)といって地方に赴任した民衆が詠んだ歌もあり、庶民から貴族にいたるまでさまざまな人の歌によって編纂されている。

さてそんな『万葉集』において、実は大宰府をはじめとして九州の筑紫(つくし)で詠まれた歌が、実は多数収録されている。特に中心となったのは、大伴旅人(おおとものたびと)。彼は大宰府に60歳を過ぎてから赴任し、大宰帥(だざいのそち)となっている。そんな彼は大宰府において、山上憶良(やまのうえのおくら)や坂上郎女(さかのうえのいらつめ)や沙弥満誓(さみのまんせい)や小野老(おののおゆ)らと交流を深め歌を詠み合った。

——このような旅人を中心とする大宰府の歌人たちを「筑紫歌壇」と呼ぶこともある。それくらい、720年代の大宰府では、和歌が盛り上がったのだ。

大伴旅人の酒の歌

ちなみに大伴旅人は酒の歌をよく詠んでいる。『万葉集』には「大宰帥大伴卿の酒を讃(ほ)むる歌十三首」なんて歌群もあるのだ! 大伴旅人がただひたすらに酒を褒めた十三首。楽しそうだ。一首だけご紹介しよう(以下、訳は筆者意訳)。

〈原文〉

験なきものを思はずは一杯の濁れる酒を飲むべくあるらし(巻3・338)

〈訳〉

どうにもならないことを考えるより、濁り酒を飲んだほうが良いよね

そうだよね、とうなずいてしまう方もいるのでは。案外奈良時代の人も、現代人と感覚は近いかも、なんて思わせてくれる歌である。実はこの歌、旅人が妻を亡くしたときに詠んだ歌だというので、気を紛らわせようとしているのだろうが……。

元号「令和」の元ネタ

さてそんな大宰府で活躍した筑紫歌壇の和歌。それは、実は「令和」の元号の元ネタでもあるのだ。

「令和」は、『万葉集』梅花歌三十二首の題詞「初春令月 氣淑風和」が出典。この「梅花歌三十二首」というのがまさに、筑紫歌壇の歌人たちが梅を見ながら詠んだ歌、という意味なのである。

ちなみに「題詞」とは、和歌の前に付される「この歌を詠んだ状況を解説します」という、いわばあらすじ説明である。この題詞には、こう記されている。

天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。于時、初春令月、氣淑風和。

書き下し文:天平二年の正月十三日に、帥老の宅に萃(あつ)まりて、宴会を申(の)ぶ。時に、初春の令月(れいげつ)にして、氣淑(よ)く風和(やはら)ぐ

この「令」と「和」を用いて元号は選定された。が、題詞をよく読んでみてほしい。日付が「正月十三日」。旧暦「正月十三日(天平二年)」とは、太陽暦では「2月4日(西暦730年)」のこと。……大宰府で梅を見ながら酒を飲んで歌を詠む宴会にしては、早すぎない? まだ、寒いのでは?

それもそのはず、彼らが詠んだ歌は決して実物の梅を見ながら詠んだ歌ではない。ただ宴会をして、想像上の梅を詠んでいる。そのため「雪降る日の梅」が詠まれる歌も、「梅が散る日」が詠まれる歌もある。

都から遠く離れた地で暮らした人たち

おそらく彼らは、妻を亡くした大伴旅人を慰めるために宴会を開いたのであろう、と言われている。梅が咲いたかのように、歌を詠む。みんなで慰め合いながら、都から遠く離れた土地で、酒を飲み、歌を詠み合う。そうしているうちに赴任先での孤独が和らぐ、と思っていたのかもしれない。

〈原文〉

年のはに春の来らばかくしこそ梅をかざして楽しく飲まめ(巻5・833 大令史野氏宿奈麻呂〈だいりょうしやじのすくなまろ〉)

〈訳〉

毎年春が巡ってきたら、このように梅を髪に挿して、またみんなで楽しく飲みましょうね

たしかに大宰府は、都から遠かった。家族から離れて暮らす人もいた。しかしそんな寂しさを和歌で慰め合っていた人々がいた。

千年以上前から、そういうことをしている人々がいたのだ、ということに、現代の私も励まされる気がする。大宰府に行った際は、『光る君へ』の名シーンに思いをはせるとともに、ぜひ旅人たちの宴にも思いをはせてみてほしい。旅人たちふうに、お酒を飲みながら大宰府を思い浮かべるのもまた、いいかもしれない


https://ootunomiko.blog.fc2.com/blog-entry-565.html 【 柿本人麻呂(26)】より  

 (3)人麻呂の長歌④

人麻呂の相聞長歌と巻13長歌にある類句を、①泊瀬を舞台にした哀歌(3225番)と②海人娘子(あまをとめ)の歌(3243番)を例に述べて来ました。もう一つの類句を挙げて見ます。

3240番歌

 大君の 命畏(みことかしこ)み 見れど飽かぬ 奈良山越えて 真木積む 泉の川の

 速き瀬を 竿さし渡り ちはやぶる 宇治の渡(わたり)の 滝つ瀬を 見つつ渡りて

 近江道の 相坂山に 手向して わが越え行けば 楽浪(さざなみ)の 志賀(しが)の韓崎(からさき) 幸(さき)くあらば また還(かへ)り見む 道の隈(くま) 八十(やそ)くまごと 嘆きつつ わが過ぎ往けば いや遠に 里離(さか)り来ぬ いや高に 山も越え来ぬ 剣刃(つるぎたち) 鞘(さや)ゆ抜き出でて 伊香胡(いかご)山 如何にかわが為(せ)む 行方知らずて

 3241番歌(反歌)

 天地を 嘆き乞ひのみ 幸(さき)くあらば   また還り見む 志賀の韓崎

 (左注)この短歌はある書にいわく、穂積朝臣老(おゆ)の佐渡に配(なが)さえし時作れる歌なりと言えり。

(解訳)

 大君の御命令を畏んで、 見飽きない奈良山を越え、 真木を積み流す泉川の急流を、掉(さお)さして渡り、 宇治の渡し場の 流れの速い瀬を見ながら渡って 近江道の相坂山に手向けして、越えて行くと さざ波の滋賀の韓崎よ  幸(さいわい)いに無事ならば、また帰り来て見よう 道の角(かど)の多くの角ごとに 嘆きつつ過ぎて行くと 一層遠く、里は離れてきた ますます高く、山も越えて来た 剣太刀を鞘から抜き出して (射掛ける)伊香胡山を どのように私は越えよう 行方も知らずに

(反歌の解訳)

 天地の神を嘆きつつ祈り願い、命無事ならば、また帰りに見よう。この志賀の韓崎を。

この長歌3240番歌の反歌(3241番歌)には、作者に関する左注が付いています。人麻呂歌集に関する題詞を除けば巻13の中で唯一、作者に関する注釈です。内容は、「ある書に、この反歌は、穂積朝臣老という人が、佐渡に流される時に作った歌とある」と述べているのです。穂積朝臣老は、703年に山陽道巡察使として日本書紀に初めて見えます。佐渡に流罪になったのは、722年(養老6年)で、謀叛誣告等の罪によるものでした。万葉集には、本人の歌が別に載っています。次のような歌です。時期は不明ですが、志賀行幸の従駕で詠った歌のようです。

巻3―288番歌(穂積朝臣老作)

 「我が命し 真幸くあらば またも見む   志賀の大津に 寄する白波」

 この歌が流罪時と結びつけられて、上記反歌(3241番歌)の作者に関連づけられたとも考えられます。穂積朝臣老の流罪は、奈良時代の初期です。巻13雑歌が時代順に並んでいると推測すれば、15歌群中11歌群に位置する歌です。巻13の作歌年代は、古い時代と新しい時代が交錯して解釈されているので、この歌も左注に基づく穂積朝臣老作に信を置く研究者が多いのです。 とはいえ、反歌だけを穂積朝臣老作としている左注は不自然です。編纂者が288番歌との類似性に気付いて、反歌に注釈を入れたような気がします。このような穂積朝臣老の流罪時の歌も頭に置いて、上記長歌を解釈して類句を考えて見ます。

 「志賀の韓崎」は、壬申の乱で近江朝方(大友皇子)が敗けて滅んだ悲劇の場所になります。柿本人麻呂の「荒れたる古都を偲ぶ歌」(巻1-29番歌)で有名な場所です。人麻呂は奈良時代の穂積朝臣老よりも一時代先の歌人ですから、二人の類句の関係で言えば、人麻呂が影響を与えたのは明白です。なので、長歌も老の歌ならば、これはもう私が類句を取り上げて来た根底が崩れ去ることです。石見国相聞歌と巻13の3240番歌の類句は、人麻呂の歌が先になるからです。でも、編纂者は反歌だけに限定しているのです。それに、長歌は流罪者の悲歌とは趣が違います。3240番歌は、次に美濃(3242番)、あごの海(3243番)という道行をつないで行くのです。各土地の民謡と解しても、奈良時代の流罪者の悲歌が唐崎の地に残されたということになります。万葉集巻13長歌の民謡収集説と奈良時代後期の朝廷歌謡説を両立させますが、巻13雑歌を直接見て行けばとても納得できる説ではありません。

 3240番長歌の内容は、命を受けた作者(男)が、大和から近江に向かって旅し、志賀の韓崎で荒れたる古都を偲びます。さらに北に向かって行くのでしょうか。無事ならば帰りも見ようと、嘆きつつ通過して行くと、一層里も遠く離れ、ますます高く山も越えて来たことだ。剣を鞘から出して「伊香後山」と自問するのです。「私はどうしたものか」と。作者は誰かに逢いに行くべく旅出したのですが、行くべき所もわからずに逡巡している。そんな風なのです。

 反歌は、「神に嘆き祈りながら、自分が再び志賀の韓崎を見れますように願ったことだ。」のような趣旨です。そのため流罪者の悲劇的な場面の短歌を引用したと言う書もある。と、言うのが編纂者の左注だと思えるのです。

 巻13の中では、特定な男性作者の一連の近江道旅歌と見ます。同一人の歌だとすれば、なぜか、だんだん悲痛な心情が吐露されて来ているのです。この長歌にある4連句(5句-7句=1連句とみなす。つまり8句)が、人麻呂の「石見国相聞歌」にある章句と類似するのです。

 さらに言えば、3240番長歌に続く3242番長歌にある「わが通う道の於吉蘇(おきそ)山、美濃の山、なびけと、人は踏めども…」という章句は、「石見国相聞歌」のキーワードとなる最終詞章「なびけこの山」を彷彿させる類句なのです。


https://kemanso.sakura.ne.jp/sakikusa.htm 【万葉の植物 さきくさ を詠んだ歌】より                                      

ミツマタ (ジンチョウゲ科)、 ジンチョウゲ (ジンチョウゲ科) 、イカリソウ (メギ科)、 フクジュソウ ( キンポウゲ科)、マツ(マツ科)、ヒノキ(ヒノキ科)、ミツバ(セリ科) など。

候補として挙げられる植物は10指に余ります。ここでは代表的なものを4種挙げました。

万葉集に歌われた「三枝(さきくさ)」が現在のどの花に当たるのかはっきりしていません。ふさわしいものとしてミツマタ、ジンチョウゲ、イカリソウ、フクジュソウなどの名前が挙げられています。

歌から受ける印象とミツマタの古名や地方名が近いことから、現在さきくさ=ミツマタとする説が有力。しかし中国から渡来した時期が万葉以前ではなく、後代16-17世紀という記録もあり、確定は難しいようです。

 ミツマタ(三椏)は中国原産のジンショウゲ科の落葉低木です。枝先で3本分かれるので、ミツマタ。早春葉が出てくる前に黄色い手毬のような花をつけ、まだ枯れの目立つ景色を彩ってくれます。

樹皮は和紙の原料としても知られていて、紙幣などの上質紙に欠かすことが出来ない原料です。山地で栽培され、一部野生化したものが見られます。樹皮を叩いてほぐし良質の強い繊維を利用して織物や布を作った記録も見られます。

晩秋のころ、白銀色のビロードのような短毛に覆われたつぼみが、ひっそりとうつむきかげん に佇む姿は風情があり、茶花として使われます。

春めくと急速に開花する姿は、いかにも「さきくさ」に相応しいと思うのです。

 ジンチョウゲ (沈丁花)は、今日「サキクサ」と目されているミツマタと同科の植物。姿形が似ていて、早春、枝先ごとに多数の小花を咲かせ、芳香があることも共通項として認められます。

沈香と丁子を併せた香り=沈丁花・ジンチョウゲ。

中国原産の常緑低木で、雌雄異株。日本には雄株のみ伝えられました。花に見えるのはガク。ミツマタの代用として和紙の原料としても使われます。

イカリソウ (碇草) 三つに分かれた枝、春に咲く、薬効がある。これらから、サキクサ=イカリソウの説が唱えられますが、花の咲く時期が八重桜のころと、他の3首に比べやや遅く、存在感を感じさせません。

しかし「サキクサ」の「クサ」を「草」だと考えるとこのイカリソウ説もうなずける部分があるようですね。

フクジュソウ(福寿草)  めでたい名前の花ですね。春を告げる花の代表でしょう。

元日草や朔日草の別名も持ちます。

咲き始めは花茎が伸びず、まるで地面から直接花を咲かせているように見えます。日が当たると開き、曇りの日や夜間は花を閉じる陽気な花。それもそうです。何枚もある花びらは開き切るとまるでパラボラアンテナのようで、太陽熱を集めせっかく受粉した種子を大事に守っているのです。

スプリング・エフェメラル --- 春の妖精の一つ。

しかし、下に記した山上憶良の歌の「さきくさの なかにを寝むと」の表現に合致しません。個人的にはこの花が大好きで贔屓にしたのですけれど。

さて、あなたはどの花が「さきくさ」に相応しいとお思いでしょうか。

 

『万葉集』には、2首に登場します。花そのものではなくて、枕詞として使われています。

男子名は古日に恋ふる歌三首のうち

  世間の 貴び願ふ七種の 宝も我れは何せむに 我が中の生れ出でたる白玉の 我が子古日は明星(の 明くる朝は敷栲(の 床の辺去らず立てれども 居れどもともに戯れ夕 星の夕になればいざ寝よと 手を携はり父母もう へはなさがりさきくさの 中にを寝むと 愛しくしが語らへばいつしかも 人と成り出でて悪しけくも 吉けくも見むと大船の 思ひ頼むに思はぬに 邪しま風のにふふかに 覆ひ来れば為むすべの たどきを知らに白栲の たすきを掛けまそ鏡 手に取り持ちて天つ神 仰ぎ祈ひ祷み国つ神 伏して額つきかからずもかかりも 神のまにまにと立ちあざり 我れ祈ひ祷めどしましくも 吉けくはなしにやくやくに かたちつくほり朝な朝な 言ふことやみたまきはる 命絶えぬれ立ち躍り 足すり叫び伏し仰ぎ胸打ち嘆き手に持てる我が子飛ばしつ世間の道  

                         (長歌) 山上憶良 巻5-904                                              

(三という数字が重要で、「中」にかかる枕詞として使われています。川の字で寝たのですね)

  春されば まづさきくさの幸くあらば 後にも逢はむな 恋ひそ我妹    柿本人麻呂歌集 巻10-1895

(無事であったらまたいつか会えるでしょう。分かれるのは悲しいことですが、あまり心を苦しめないで恋しい人よ。

 「まず咲き」と「幸くあれば」に「さきくさ」が掛けことばとして遣われています) 

コズミックホリステック医療・現代靈氣

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000