天然循環法とは

https://konohana-family.org/universal-circulation-method/ 【天然循環法とは】より

「見える世界」と「見えない世界」

私たちは通常、目に見える世界を認識して日々を生きています。目で捉え、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、手で触れるなど、五感を通して形を感じることで、その存在を認識するのです。科学に代表される現代人の思考は、この「見える世界」の中だけに意識があります。現代人は、五感で感じられる現象が起きて初めてその存在を認識し、そこに問題を感じれば、また表面的な形で解決しようとする傾向にあるのです。

しかし、目に見えるものの奥には必ず、目には見えない存在があります。心、魂、気。それらは目で見ることはできませんが、その見えない存在こそが、形を持って表面に現れた見えるものの本質を成しているのです。形のある「見える世界」を陽とするなら、その奥にある「見えない世界」は陰です。そしてこの「見える世界」と「見えない世界」が一対となり、私たちの生きる「ある世界(現象界=現象の起きる世界)」を形成しています。そこは、多種多様な生命が留まることなく変化しながら循環していく生命生態系を表現する、命の世界です。

「ある世界」と「ない世界」

宇宙は対向発生と言い、常に相反する二つのものによって成り立っています。天があれば地があるように、男がいれば女がいるように、「見える世界」があれば「見えない世界」があるように、必ず対となる陰陽の存在があり、互いを成り立たせ合っているのです。では、「見える世界」と「見えない世界」を合わせた「ある世界」を陽とするならば、必ずそれと対になる陰の存在があるはずです。それを「ない世界(潜象界=すべての現象の源の世界)」と言います。「ある」ことが前提となっている現代の私たちの思考で、「ない」世界である潜象界を捉えることはできません。そこは、あるかないかという概念すら存在しない、私たちの認識を超越する根源的な世界なのです。

「ある世界」が生命生態系を表現する命の世界であるのに対し、「ない世界」はそれらすべての存在の源となる、響きの世界です。そこには一切の歪みも、汚れも存在しません。「ある世界」を自然界とするならば、「ない世界」は天然の源の世界です。天の然るべき姿である純粋な響きが、質的転換をし、「見えない世界」、そして「見える世界」へと現れて現象化し、命となるのです。

あらゆる歪みをリセットする天然の仕組み

私たちの生きる現象界は、本来、淀みなく流れる自然循環のもとにあります。すべての生命はその循環の中で「見えない世界」から「見える世界」へと生まれ、生き、死を迎えてはまた「見えない世界」へと還っていくことを繰り返しています。ところが自我を与えられた人間は、自然の仕組みのままに循環するよりも、「自分」という個を特別に意識し、それを維持したいと願うようになり、循環の中に滞りを生むようになりました。自我から湧き出す自らの欲望に囚われ、それを叶えようと、特に産業革命以降目覚ましい科学の進歩を遂げた人類は、人工の世界を著しく発展させ、「見える世界」に様々な矛盾を引き起こしてきたのです。

人工の世界とは、人間の手によって自然の仕組みから逸脱した世界を言います。自然界では水が汚れればバクテリアが浄化してくれるように、この現象界で歪み汚れたものは自然循環の中で浄化され、健全(元の姿)になっていくのが、本来の仕組みです。ところが現代の人間の営みは自然の浄化能力を超え、現象界の中の循環だけでは浄化しきれず、汚染は限りない矛盾の現われとして広がる一方となっています。

しかし実際には、この世界には自然の力を超えて、あらゆる歪みを解体しリセットする仕組みが存在します。それが天然循環の仕組み、即ち「天然循環法」です。

この世界のあらゆる存在は、発生と消滅を繰り返しながら現象界の中を循環し続けています。同時に、現象界には常に、そのさらに奥にある潜象界から、純粋で美しい「響き」が与えられ続けています。その響きとは、すべての存在の源です。現代人がどれほど現象界を歪め汚染しようと、潜象界は宇宙の始まりから絶えることなく、純粋で美しい命の響きを現象界へと送り続けてきました。その純粋な響きが常に与えられ、支えられることによって、この世界のすべての存在が成り立っているのです。

そしてすべての存在は、現象界で存在するサイクルの終わりを迎えると、原子よりも素粒子よりもはるかに微細な、宇宙を構成する最も小さな単位である「カ」(宇宙最極小微粒子)へと解体され、潜象界へと還っていきます。現象界でのあらゆる歪みや汚れが解きほどかれて、元の純粋な状態へと還るのです。この、潜象界と現象界の循環の仕組みが、天然循環法です。

現代に復活するカタカムナ

現代の私たちにはない潜象界という認識は、今からおよそ13000年前に東アジアに発展していたと云われるカタカムナ文明の叡智が現代によみがえり、宇宙に対する新たな認識として私たちに示してくれたものです。

古のカタカムナ人たちは、天の星々の命を受け、自然と対話しながら、天然循環の世界を直感で感受し、生きていました。そして自然界でこれから起こることを察知し、危険を回避する高い生命カンを有していました。その時代、私たちの生きる太陽系は、銀河の中心にあるセントラルサンの光を最も受ける、光のピークにありました。

それから長い時を時をかけ、太陽系が光から闇のピークへと向かっていくに従い、自我を与えられた人間は「自分」という小さな枠に自らを閉じ込め、星々や自然との対話を忘れ、自らを生かしている天然循環の法則を忘れ、生命カンを失い、潜象界からの純粋な響きを感受できなくなりました。そうして自らの根源である世界をないものとし、目に見えるものに囚われて物質的な利益ばかりを追い求めるようになり、その結果、世界に様々な問題を引き起こし、他の生命にまで害をもたらすようになったのです。

しかし今、時代は闇のピークを越え、再び光のピークへと向かって舵を切りました。かつて光のピークを生きたカタカムナ人の叡智は、闇のピークを越えたばかりの現代を生きる私たちへ、新たな時代に向かうべき方向を示してくれています。

天然循環法で生きる

この世界は本来、美しい響きの豊かな生命エネルギーに満ちあふれています。それを感受するのは、心です。宇宙の始まりから絶えることなくこの世界へ与えられ続けている命の源の響きを感受するためには、心を美しくする必要があるのです。

自我という小さな囚われから解き放たれ、潜象界までを含めたこの世界の大いなる仕組みを理解し、そこから湧き出す美しい響きを自らの心に乗せて世界へと響かせた時、その響きは現象界の歪みを解き、純粋な生命エネルギーに満ちた美しい場(イヤシロチ)を広げていくことでしょう。人間には本来、そのような能力が備わっているのです。それが他の生命と人間との、大きな違いです。人間は、自らの欲望によって世界を歪め、自然の循環から逸脱した命が疲弊していく場(ケガレチ)をつくることもできれば、美しい響きを響かせ、そこにいるだけで心が癒され命が活性化していく場をつくることもできる、両方の能力を持ち合わせています。使い方によって諸刃の剣となる、それだけの高い能力を人間は与えられているのです。

心を磨き、この世界の大いなる循環に沿って自らを健全な存在へとよみがえらせ、健全な人々が生きる美しく豊かな世界を表現する。それが天然循環法で生きるということであり、木の花ファミリーでは生活のすべての場面において、それを実践しています。


夏のある日 らん(犬)は階段をあがれなくなりました。どんなに努力しても足に力が入らなくなったからです。悲しい鳴き声を上げましたが 階下にらんの寝る場所を用意すると 黙ってそこで寝ることに決めました。

自分の死期を悟り、受け入れたからだと思います。

それまでは雷が鳴るとぶるぶる震えていたのに 全く動じなくなりました。

何も怖いものが亡くなったという感じです。

それからは散歩に行っても道の真ん中で伏せこんだり・・・・・

何も食べられない日が一日。

次の日、私が外出中に命を引き取っていました。

まるで家族の帰りを待ちわびるがごとく、玄関先で遺体となっていました。

「寝ているのか?」と思い、身体に触ると冷たく硬直していました・・・・・

らんの魂は 古い身体を脱ぎ捨て 新し命を得る準備をしているのでしょうか?

「奇跡の脳」の著者ジル・ボルト・ティラーさん(左脳出血から立ち直った神経細胞 学者)は 

人間の脳は左脳が鎮まるとき「人生の思い出から切り離され、神の恵みのような感覚に浸り、

心が和んでいきました。」「意識は悟りの感覚、 あるいは意識と融合して『ひとつになる』ところ

まで高まっていきました。」「心地よいのです。」と 語ります。

考えと感情が止まることは 左脳が鎮まることを意味します。

「メメントモリ」は「死を覚えよ」という意味の修道院での挨拶です。

シナイ山の麓のカテリーナ修道院には 頭蓋骨だけが沢山おさめられた部屋があります。 

死を覚えて生きるとは いつ死んでも悔いのない生き方を志向するということです。

人生への未練から切り離されるということでもあり 死の瞬間にも 左脳が鎮まった 『ひとつに戻る』安らぎと心地よさを 失わないということです。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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