芭蕉『奥の細道』俳句を読む ④

http://blog.livedoor.jp/genyoblog-higashi/archives/6221726.html 【芭蕉『奥の細道』俳句を読む】より

「一家に遊女もねたり萩と月」(越後、市振)

一家に遊女もねたり萩と月

“思いがけなく同じ宿に遊女が同宿し一つ屋根の下で寝ることになった。澄んだ月明かりが萩の花の上に降り注いでいる。”という内容と言えます。この句には、状況の説明が必要で前文のような長い地の文がつけられています。

今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越て、つかれ侍れば、枕引よせて寐たるに、一間隔て面の方に、若き女の声二人計ときこゆ。年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の国新潟と云所の遊女成し。伊勢参宮するとて、此関までおのこの送りて、あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因、いかにつたなしと、物云をきくきく寐入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」と、泪を落す。不便の事には侍れども、「我々は所々にてとヾまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護、かならず恙なかるべし」と、云捨て出つゝ、哀さしばらくやまざりけらし。

少し長くなりますが、見ていきましょう。親不知、子不知、犬戻り、駒返しは越後から市振にいたるまでの海沿いの道の難所です。宿について、隣の部屋から漏れてくる声を聞くともなく聞いていると、どうやらお伊勢参りにゆく新潟の遊女二人と見送りの老人らしい。遊女たちはあす新潟に帰る老人に手紙や言伝をあれこれ託しているようだ。この文の中の「白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因、いかにつたなし」という一節は遊女たちの嘆きで、『和漢朗詠集』にある次のような遊女の歌を踏まえたものです。

白波のよするなぎさによをすぐす海人の子なればやどもさだめず   遊女(『和漢朗詠集』)

「白浪のよする汀に身をはふらかし」は、波の寄せる渚にわが身をうち捨て、ということ。「あまのこの世をあさましう下りて」は、波に舟を浮かべて漂う漁師のようによりどころのないこの世に落ちぶれ果てて、ということ。「定めなき契」は、夜ごと異なる相手に身を任せているということ。「日々の業因、いかにつたなし」は、のような罪深い日々を送るようになった前世の因縁はどんなにひどいものだったのだろう、と嘆いていること。翌朝、遊女たちから芭蕉は「伊勢まで一緒に旅をさせてほしい」と頼まれます。「衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」は、墨染めの衣を着ていらっしゃる、その情けによって、仏の大慈大悲の恵を垂れて、仏縁を結ばせてくださいという内容。しかし、この遊女たちの切ない願いを芭蕉は断ります。「神明の加護、かならず恙なかるべし」とは、お伊勢参りゆく人は道中、すでに天照大神に守られているというのだ。そして翌朝、遊女たちは芭蕉に「伊勢まで一緒に旅をさせてほしい」と頼むのでした。「衣の上の御情に、大慈のめぐみをたれて、結縁させ給へ」は、墨染めの衣を着ていらっしゃる、その情けによって、仏の大慈大悲の恵を垂れて、仏縁を結ばせてください、と。この遊女たちの切ない願いを芭蕉は断ります。「神明の加護、かならず恙なかるべし」とは、お伊勢参りゆく人は道中、すでに天照大神に守られているというわけです。

このエピソードは芭蕉の純然たる創作でフィクションということだそうですが、あまりにも出来すぎの物語は、謡曲「江口」の“旅僧が江口の里を通りがかり、ここで西行法師が遊女に宿を断られた話を思い出し、その時の和歌を口ずさむ。すると女が現れ、世を捨てた僧だから、遊女の宿に近寄らないように諫めただけ。「私は江口の君の幽霊」と言って消える。僧が弔っていると江口の君が他の遊女を伴い、舟に乗って現れる。境遇のはかなさ、この世の無常などを語り、やがて普賢菩薩となり、白象となった舟に乗って西の空に消えてゆく。”あるいは、そのもととなった西行の『撰集抄』江口遊女の事“西行が天王寺に参詣するため、江口の里まで来て、遊女の宿に泊まろうとすると断られた。そこで「世の中を厭ふまでこそ難からめ 仮の宿りを惜しむ君かな」とつぶやく。すると「世を厭う人とし聞けば仮の宿に 心とむなと思うばかりぞ」という返歌がきた。”になぞらえているかもしれません。

一家に遊女もねたり萩と月

伝統的な和歌の世界では、「萩」は、ふつう「鹿」と取り合わせ、恋の心を重ねて詠み継がれてきました。萩を鹿の妻と見なしてきたのです。それに対して、「萩」を「月」と取り合わせたところに、和歌のパターンをひっくり返した俳諧のパロディの笑いがあるといえます。「月」は和歌の世界では、仏教的な悟りや清浄感、清らかさの象徴として詠まれてきています。芭蕉は遊女と一つ家に泊まり合わせながら、「遊女」を象徴する「萩」に、「鹿」のように萩を慕い啼く恋の涙を注ぐ代わりに、仏のように、清らかな慈愛の光を注いでいるのです。

後に蕪村が、おそらくはこの芭蕉の句を心に置いて、

萩の月うすきもののあはれなる

と詠んでいるように、なめかしい女性を思わせる萩の上を、うっすらと照らす月の光、淡い慕情と宗教的慈愛の入り交じった情感には、深い、もののあはれが、漂っています。地の文の最後で、「哀さしばらくやまざりけらし」と言っているのは、そうした芭蕉の、深い人間的な愛と悲しみから出た言葉といえるのではないでしょうか。西行の江口遊女の事が男女の粋でユーモラスなやり取りになっていたのと、対照的に芭蕉の場合は悲劇的な色合いが強くなっていて、二人の資質の違いが、ここで明らかに出ていると思います。

●わせの香や分入右は有磯海」(加賀、那古の浦)

くろべ四十八が瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云浦に出。担籠の藤浪は、春ならずとも、初秋の哀とふべきものをと、人に尋れば、「是より五里、いそ伝ひして、むかふの山陰にいり、蜑の苫ぶきかすかなれば、蘆の一夜の宿かすものあるまじ」といひをどされて、かヾの国に入。

わせの香や分入右は有磯海

北陸の豊かな早稲の香りに包まれて加賀の国に入っていくと、右側には(行くのを断念した)歌枕として知られる有磯海が広がっている、という内容でしょうか。前文の括弧の行くのを断念したというのは、句の前書の地の文で「蘆の一夜の宿かすものあるまじ」といひをどされて」と、つまり、行く先には泊めてくれる宿もない」とおどされ、断念と書かれていることからです。芭蕉は歌枕で有名な有磯海に行きたいけれど、行くことができなかった。これは、この前の市振で遊女から旅の同行を求められて断ったことと、気分がつながっているのではないでしょうか。片や、望みを叶えてやりたかった図画断った、片や、行きたかったけれど断念した。市振の最後で「哀さしばらくやまざりけらし」と書いていた気分を、ここまで引き摺っていた、と考えてもいいのではないでしょうか。

有磯海というのは本来は普通名詞で荒磯海だったのが古歌に詠まれてから固有名詞化し、歌枕になったといいます。

かからむとかねて知りせば越の海の荒磯の波も見せましものを    大伴家持

越中に赴任して間もない少壮の国守であった家持が、都から弟死去の報を受け、悲嘆のうちに詠んだ歌の一つであで、「こんなことになると知っていたら、越の海の荒磯(ありそ)に寄せる波を見せてやったのに」と痛恨の情をうたっているものです。ここにも出来なかったことの悔いが織り込まれています。富山湾に流れ込む庄川の西北が、このような荒磯で、反対の東南側が那古の浦は波穏やかな海で、こちらも歌枕として知られているそうです。

あゆの風いたく吹くらし奈呉の海人の釣する小舟漕ぎ隠る見ゆ    大伴家持

芭蕉一行は、このあたりを日盛りのなか歩いてきて海山の迫る地形から解放されて、おだやかな浜に出ました。そこから加賀に入っていくわけです。

わせの香や分入右は有磯海

ここで、芭蕉は有磯海、つまり荒々しい磯へは行かず、「わせの香や」と「分入」というやわらかく響く言葉をもちいています。那古の浦は和の浦ともいい、和のイメージを募らせています。それは、この先の加賀の国の金沢には自分を心待ちにしている人たちがいるのであり、そのことに安堵するとともに、心弾むような思いが、ここに表われていると思います。

●「塚も動け我泣声は秋の風」(金沢)

芭蕉一行はお盆に金沢に入ります。金沢の若い俳句熱心な商人一笑と会うのを芭蕉は楽しみにしていましたが、前年の冬になくなっていました。その初盆で追善の句会が開かれているに、芭蕉も出席します。

卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日也。爰に大坂よりかよふ商人何処*と云者有。それが旅宿をともにす。一笑と云ものは、此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬、早世したりとて、其兄追善を催すに、 

塚も動け我泣声は秋の風

塚も動け。弟子の死をいたんで私の泣く声は、秋風となって塚の上を吹きめぐる、といった内容で、「塚も動け」という慟哭のような言葉が強い印象を残します。芭蕉は、風の音を自身の泣き声として、句を読む者に聞かせています。「塚も動け」と。「塚も動け」という上句には、一笑の死に対する否定の念が強く感じられます。故人が墓に納まることを拒むような響きがあります。

一笑の追善の句会で詠まれたからかもしれませんが、そこに演技しているような、悲しみを煽るようなところがあると思います。『奥の細道』が終盤に入ってきて、別れを詠んだ句が増えてきているという雰囲気をつくるのに、この句もつかわれているのかもしれません。

●「あかあかと日は難面もあきの風」(金沢)

この句の前書に途中吟と書かれていて、金沢の記述があって、この句が置かれ、その後に小松の記述が続くので、金沢から小松への道中で詠まれたような体裁となっていますが、日記では金沢に至る道中で詠まれたものらしいです。『奥の細道』を制作するプロセスで、様々な前書が作られ、構成とともに検討され、置く場所も金沢の後に移して、現在の形に収まったそうです。その理由として考えられるのは、金沢の前にすると、「わせの香や分入右は有磯海」の句に続くことになって、この句を続けると、「わせの…」の優雅な句が霞んでしまうことになってしまう。また、金沢の「塚も動け…」の慟哭の句の後で「秋涼し…」という続きのあとにつけると、一手後押しして趣向を印象的にできる。いかにも、『奥の細道』が創作であって、いかにそれらしく読ませるかを熟考して作られていることを示していると思います。

それだけ、この句の印象が強くて、この置き方によって全体の印象が変わってくるほどだということを、芭蕉自身も把握していたからこそなのでしょう。

途中唫

あかあかと日は難面もあきの風

立秋も過ぎたというのに、夕日は相変わらず素知らぬふうに赤々と照りつけ、残暑はきびしいが、さすがに風だけは秋の気配を感じさせる、だいたいこのような意味でしょうか。この句は古今集の藤原敏行朝臣の「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」を踏まえた句であるように言われています。この和歌と同じように、「秋の風」を題材にしているのですが、芭蕉の句には多様なイメージの重なりが感じられるのではないでしょうか。それは、芭蕉の句には旅をしている実感が伴っているからです。

「あかあかと日は難面も」は「あかあかと」という繰り返しをすることで、擬音のような効果で、昼間に歩き続ける旅人にたいして太陽が容赦なく照りつける景を強く印象付けます。秋とはいえ、日の光は強いのです。だから「難面も」、つまりつれないのです。つれないを辞書で調べると、冷淡だ、ままならない、何事もない、などの意味があります。つまり、太陽は、旅人の辛さなどお構いなしに、強く照りつけてくる。旅人には、どうしようもない。これが、太陽が出ている間は変わらない。そういう光景です。そのつれない太陽に、夕暮になると秋の風が涼しさを感じさせる。「難面も」という詩句の「も」という一文字が、そこに旅人のほっと一息つく感慨を含ませています。

それと同時に、と同時に、月日の過ぎ去るのは早く、もう秋になってしまったのかという不安感や焦燥感も表れているのではないでしょうか。藤原敏行朝臣の和歌とは違って、「秋の風」は安堵でもあり、不安でもあるというような多様なイメージの重なりが感じられると思います。

旅人とは芭蕉自身ですが、旅をしているからこそ、深読みができる。つまり、春先から旅を始めて、夏中、暑い陽の下を彼は歩き続けてきたわけです。夏の太陽は薄情にも、長旅に疲れ、もう若いと言えない彼をジリジリと照らし辛い思いさせてきました。それが今は、次第に吹き始めた涼しい秋の風が彼をほっとさるようになってきました。四季を通して旅を続けている者にとって、あかあかとした夏の太陽はままならないもののひとつ。だがそれも、時が来れば秋の風に取って代わる。寒くて寂しい秋の風が、今度はままならないものになるのだ。本当は過ぎ行く時(日)が一番ままならないものなのかも知れないのです。日毎に季節は動いている。市井の日々は何事もなく過ぎていくようだが、旅をしていると、その変化が身に沁みて感じられ、旅の中で暑い夏を終え、旅の中で秋を迎えている。夏が終わったら、今度は寒い冬がやってくるのだ。そういう時の経過と季節の変化の多層なイメージが、この短い句の中に込められて、まるで旅人の孤独な述懐のようにしんみりと読者に浸透してくる。そういう句になっていると思います。

●「むざんやな甲の下のきりぎりす」(小松、太田)

むざんやな甲の下のきりぎりす

この句は、一句は、木曽義仲の家臣樋口次郎が、実盛の墨に染めた白髪首を検分し、「あなむざんやな」と落涙した、その言葉をそのまま裁ち入れ、甲の下の暗がりで鳴くこおろぎの悲しげな声に、実盛をいたむ思いを託したものです。それには経緯の説明がないと「むざんやな」や「甲」が何だか分からないでしょう。

此所、太田の神社に詣。実盛が甲・錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊から草のほりもの金をちりばめ、 竜頭に鍬形打たり。真盛討死の後、木曾義仲願状にそへて、此社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁起にみえたり。

この経緯は詳しく説明したほうがいいでしょう。この太田神社(現在の多太神社)には斉藤別当実盛の遺品が宝物として保管されています。この斉藤実盛という人は、もともともは源氏方の武将で、保元・平治の乱では源義朝に従い、平治の乱で敗れて東国へ落ちのびようとした義朝が比叡山の荒法師に待ち伏せされた時、一計をもって窮地を救ったひとです。その後、縁あって平家に仕えることになりました。その後の源平の争乱での実盛の最後は『平家物語』に詳しく記されています。倶利伽羅峠で木曽義仲の軍に大敗し、押し戻された平家の軍勢は加賀の篠原で義仲を迎え撃とうとしたが、ここでも惨敗し手てまいます。この敗走する平家の軍勢の中に実盛の姿もありました。このときの実盛は既に70歳を過ぎた白髪の老人でしたが、「老武者とて、人の侮らんも、くちをしかるべし」と、白髪を墨で黒く染め、「赤地の錦の直垂に、萌葱縅の鎧着て、鍬形打つたる甲の緒をしめ、金作りの太刀を帯き、二十四さいたる切斑の矢負い、滋藤の弓持つて、連銭葦毛なる馬に金覆輪の鞍置いて乗つたりける」という若武者の出で立ちで出陣していました。しかし、実盛はあっけなく義仲軍に討ち取られてしまいます。戦がおわって首実検の際に、その討ち取られた首に義仲は見覚えがありました。赤ん坊のころ、父が討たれたとき、しばらく実盛のもとで養われていたことがあったからです。しかし、実盛は、そのころから既に「白髪の糟生」つまり白髪混じりの髪でした。今なら髪は真っ白のはずなのに、目の前の首は髪が黒々としています。そこで、義仲は乳兄弟の樋口次郎兼光を呼んで、首を検分させました。「樋口次郎たゞひと目見て、「あな無慚、斉藤別当にて候ひけり」とて、涙を流す」。兼光の言うとおり、その首を水で洗うと、白髪の実盛の顔が現れた。

むざんやな甲の下のきりぎりす

「むざんやな」の対象は甲の下のきりぎりすではなく、平家物語でこの同じ言葉を吐いた兼光がそうだったように、若武者を装って出陣した斉藤実盛の最期に対してです。きりぎりすは、そのきっかけを作るものです。「甲の下のきりぎりす」は眼前の景で、それを見たか芭蕉は、それによって「むざんやな」という言葉を吐いてしまう実盛を思い起こした。この句でも外景と芭蕉の心の中の光景がシンクロしています。「甲の下のきりぎりす」というのは、おそらく、置かれていた甲を取り上げたか、覗き込んだので、こおろぎをみつけたのでしょう。その手振りは、まるで合戦の後の首実験において首桶を取り上げるしぐさと同じようで。そうすると、平家物語では首桶を取り上げると黒髪の実盛の首が現れたわけですが、ここでは甲を取り上げると全身が黒いコオロギの姿があったという趣です。なお、古語では「きりぎりす」は現代のコオロギのことです。おそらく、この句で芭蕉が吐いた「むざんやな」は実盛に向けられたものでしょうが、それだけでなくて、その向こうの遙か、つまり、その実盛を討ち取った木曽義仲に対しても向けられていたのではないでしょうか。

●「石山の石より白し秋の風」(小松、那谷)

石山の石より白し秋の風

小松を出て、山中温泉の手前、西国三十三箇所巡礼の札所にもなっている那谷寺で詠んだということになっています。奇岩がならぶ名所だったらしく、次のように地の文で説明されています。

山中の温泉に行ほど、白根が嶽跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山の法皇、三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて、那谷と名付給ふと也。那智、谷汲の二字をわかち侍しとぞ。奇石さまざまに、古松植ならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也

この句は、那谷寺の境内は、石の山といってよいほど、灰白色の岩ばかりである。そこに秋風が吹きわたると、いっそう白い感じになる、という内容でしょうが、この解釈をめぐって二つの説があるといいます。一つは冒頭の「石山」を近江の石山寺とする説で、この那谷寺の石は近江の石山寺の石より白い。そこを秋風が吹きわたっているという内容になります。この解釈では「石山の石より白し」の主語は句の直前の地の文にある那谷寺の石です。つまり、この句を「石山の石より白し」と「秋の風」の取り合わせと見るのです。もう一つは、「石山」を那谷寺にある石山とする解釈です。この解釈では、那谷寺の石よりもさらに白い秋風がこのあたりを吹いているという内容になり、「石山の石より白し」の主語は「秋の風」となります。しかし、前者の解釈では、主語が句の中になくて、その前の地の文にあるというのでは、そもそもこの句が独立して成立していないことになるし、地の文でも石山寺については何も触れられていません。したがって、前者の解釈は無理があるのではないか。そうすると、残った後者の解釈ということになるのでしょうか。那谷寺の石山よりも白い秋の風が吹くということになって、白い秋というのは五行説による、青春、朱夏とならぶ白秋から来ているということで、その白がより白いといったのは、秋が深まっているのを強調しているということになると思います。

しかし、那谷寺の石山よりも白い秋の風という内容であれば

石山の石より白き秋の風

と白が秋の風を修飾するようにしたほうが、ストレートです。この句は、「石より白し」として「し」は切れ字です。したがって、「白し」と「秋の風」とは区切られていると考えるのが自然です。例えば、今、那谷寺にいて眼前の岩山の石より白いなあ、と芭蕉が思っている。それは秋の風に吹かれて、そう思ったと考えられないでしょうか。蝉の声を聞いて、無のような静寂を思ったというのと同じ構造です。では、白いというのは何を想ったのかというと、この那谷寺の直前の小松の多田八幡のことです。そこで遺品を見た斉藤別当実盛の白髪です。ここで

むざんやな甲の下のきりぎりす

の句が遠く呼応している。きりぎりすは現代語ではコオロギです。コオロギは全身が黒いのですが、芭蕉はそれを白髪を黒く染めた実盛に見立てたわけです。この句では二つの白を比較しているのは、実盛の白髪が視覚を超越した幽玄の気配として思い起こされていることを表わしているのではないでしょうか。

そうなると、この句は秋の風が深い空しさを芭蕉の中に生じさせるという趣になってくると思います。

●「寂しさや須磨にかちたる浜の秋」(敦賀、種の浜)

寂しさや須磨にかちたる浜の秋

敦賀湾の北西の種の浜(現在の色の浜)で読んだ句とされています。その内容としては、光源氏が配流された須磨は淋しい場所として知られるが、ここ種の浜は須磨よりはるかに淋しいことよ、と言えるでしょう。

須磨は『伊勢物語』の行平、『源氏物語』の光源氏の隠栖、流謫の地として、王朝文学の“あわれ”を代表する地名です。この句の「須磨にかちたる」というのは、この種の浜の秋の風情は須磨に勝っているということ。「かちたる」という勝ち負けの身も蓋もない言い方をしていますが、婉曲的な表現ではなくストレートに言ってしまうのは、句の冒頭の「寂しさや」という芭蕉の気持ちをそのまま直接的に表わす表現とつながっていると思われます。それだけ、この句は芭蕉の思いが迸るように流れ出た句と言えます。この句は、「寂しさや」で切れているので、「須磨にかちたる浜の秋」が現実の眼前に広がっている世界で、そこで寂しさを覚えた。そして、「寂しさや」を冒頭に持ってきたことで、強調している、という構造になっています。

その「寂しさや」の内容を少し穿ってみると、「須磨にかちたる」と言っていますが、芭蕉自身が須磨の浜を実際に見たのは貞享5年4月20日のことで、『笈の小文』のなかで回想しています。

月はあれど留守のやう也須磨の夏。

月見ても物たらはずや須磨の夏。

卯月中比の空も朧に残りて、はかなきみじか夜の月もいとゞ艶なるに、山はわか葉にくろみかゝりて、ほとゝぎす噴出づべきしのゝめも海のむかたよりしらみそめたるに、上野とおぼしき所は、麦の穂浪あからみあひて、漁人の軒ちかき芥子の花のたえゞに見渡さる。…

(卯月中ごろの空だが、朧な春の夜の風情を残している。はかない短か夜の夜の月もいっそう艶やかに、山のわか葉は早朝の景色の中に黒っぽく見え、ほととぎすが鳴き始めそうな東の空も山ではなく海の方角からはやくも白みかかってくる。須磨寺一帯の上野と思われる所は、麦の穂波が赤らんで、漁師の家の近くには芥子の花が途切れ途切れに見える。)

…かゝる所の秋なりけりとかや。此浦の実は秋をむねとするなるべし。かなしささびしさいはむかたなく、秋なりせばいさゝか心のはしをもいひ出べき物をと思ふぞ、我心匠の拙なきをしらぬに似たり。

(「かかる所の秋なりけり」と『源氏物語』にも書かれている須磨の浦の趣深さよ。この海岸の味わい深いのはやはり一番は秋だ。悲しさ、寂しさ、言い表しようもなく、秋なのだから少しは心の端をも句にしようと思ったのは、自分の心を句にする表現力のつたなさをわかっていなかったようだ。)

この回想の風景と、この句の風景を比べて「須磨にかちたる」と言っているのでしょう。この回想では実際に見た風景から理想の風景を想像しています。それを句にすることが出来なかったという回想です。そういう須磨の秋に勝る光景を眼前に見た。それは、種の浜の秋色を賞めている以上に、『笈の小文』のなかで回想されたような須磨の秋に寄せる長年の思いも叶えられたと告げる気持ちがあり、叶えられても猶、末の身は如何ともしがたいという悲哀が余る。ということで、この句の「寂しさや」は眼前の光景に触発されたというだけではないのです。それゆえに、同じ『奥の細道』の中でも、「閑さや岩にしみいる蝉の声」や「荒海や佐渡によこたふ天河」といった句のような宇宙的な拡がりではなく、芭蕉個人の内心の思いに深く呼応したのです。それが、この句の直情的な表現となって表われている。

その一方で、『奥の細道』の旅は、この後の大垣で終わります。したがって、この浜の秋の風景は旅の最後の情景といっていい。「耳に触れていまだ目に見ぬ境、もし生きて帰らば」と願って発足した、この旅の、いわば結論、到達点といっていい。それが北国の風土の寂しさの極致ともいうべき、漁師の小家の点在する浜辺の夕景でした。“詫び”“さび”といいうと、こじつけかもしれませんが、長い旅が終わるという寂しさに、種の浜の寂しさがシンクロした、それだけ身に沁みる。そこも芭蕉個人の思いとして表われているのではないかと思います。

●「蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ」(大垣)

露通も此みなとまで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曾良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。前川子・荊口父子、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて、 

蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

芭蕉が大垣に集まった親しい人々との別れに臨んで詠んだ『奥の細道』最後の一句です。長い旅を終えた芭蕉のところに門人等の人々が集まってきます。前書で、「蘇生のものにあふがごとく」と書かれているのは、死んだと思った者が生き返って帰ってきたという、ややオーバーな表現かもしれませんが、それだけ困難な旅路であったことと、『奥の細道』という歴史や和歌といった幻想の世界から現実の世界に戻ってきた、ということでしょうか。しかし、芭蕉はひとつのたびが終わって落ち着く間もなく、伊勢の遷宮を見るために旅立ちます。その旅立ちで、集まった人々と別れることになります。その際に詠まれたとされる句です。

『奥の細道』の旅立ちの時の句が

行春や鳥啼魚の目は泪

芭蕉は『奥の細道』の旅立ちに当たって、深川から見送りの人々と舟で隅田川をさかのぼり、千住で舟から降りると、別れに臨んでこの句を詠みました。そして、終わるに当たって、大垣で舟に乗り、人々と別れ旅立ちます。「行春」の季節の別れの中で人々と別れ、「行く秋」の季節の別れの中で人々と別れ旅立って行く。『奥の細道』という作品が、旅立って、旅を終えて家に帰るところで終わるのではなく、再び旅立つところで終わります。まるで旅はずっと続く、人生は旅なのだ、といっているように読めます。それを計算して作品の構成を考えている。そういう目で全体を見ると「行春」と「行く秋」の照応を底辺に、五月雨の奥羽山脈を分岐点(頂点)とする前半と後半を両辺にとる二等辺三角形の構図とみることができると言います。前半はみちのく歌枕を訪ねての旅で、後半は出羽から北陸をまわって宇宙的な境地にいってしまう。その間の照応関係としては、例えば前半の松島に対して後半の象潟が平泉に対しては出羽三山がというように照応するように配置されている。

「行春や…」の句と「蛤のふたみに…」の句は、その構成の一環として一対のようになっている。「行く秋」どちらの句も別れの句であり、舟にかかわりがあり、背後に川が流れています。このように、『奥の細道』の最初と最後の句にはいくつかの共通点があるのですが、その詠みぶりには大変な違いがあります。「行春や…」の句は「鳥啼魚の目は泪」といい、やや大げさな悲壮感のような芝居がかった感じがするが、「蛤のふたみに…」の句には、そういう構えたところがありません。別れは辛いけれど、その辛さを分かった上で、それを感じさせなくする工夫をしています。

蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

「蛤のふたみにわかれ」で、蛤で有名な二見が浦(伊勢)に行くので皆と別れるということと、蛤が蓋と身の二身に分かれるということに掛けている言葉の遣い方です。蓋と身に分かれるのは蛤にとって身を裂かれることであり、蛤は耐えがたい痛みを感じているはずで、私(芭蕉)もその痛みに耐えて皆さんとここで別れるという。つまり、別れの辛さはあるのです。しかしまた、二見が浦に蛤を結び付けたのは、西行の次の歌を踏まえているからです。

今ぞ知る二見の浦のはまぐりを貝合せとて覆ふなりけり   西行(『山家集』)

ふたみの蛤を貝合わせに興じている。つまり、別れた貝を合わせている。別れだけではないのです。新たな出会い(合せ)を含んでいるのです。この句では離別の情を蔽って、なお、この後でめぐり合うものへの期待の念が強い。

このように、『奥の細道』という作品は、旅が終わって完結したという作品でなくて、新たに出会いに期待して再び旅立つところで終わります。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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