芭蕉『奥の細道』俳句を読む ②

http://blog.livedoor.jp/genyoblog-higashi/archives/6221726.html 【芭蕉『奥の細道』俳句を読む】より

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。

有名な冒頭の文章ですが、一説によると中国の唐の時代の詩人李白の『春夜桃李園ニ宴スルノ序』の冒頭「夫レ天地ハ万物ノ逆旅、光陰矢ハ百代ノ過客、而シテ浮生ハ夢ノ若シ、歓ヲ為スコト幾何ゾ、古人燭ヲ執ツテ夜遊ブハ、良ニ以有ルナリ」からの引用ということです。「百代ノ過客」はそのまま引用ですが、李白の文章を芭蕉なりに読み換えて、例えば「浮生ハ夢ノ若シ」の浮くを舟になぞらえたりしています。月日すなわち時間は永遠に過ぎ去るものだけれど、旅人は行って戻ってくる(「行かふ」)、そこに時間の流れ(流転)と人々の営み(生々)を対比させている。人の生涯は儚い(「舟の上に生涯をうかべ」)。

こんなことを、ごくふつうの市井の人々に深く理解して味わってもらえるでしょうか。その後の文章では源氏物語のパロディのような文章を作っていたり、あるいは詠まれている句の中には西行のような先人の和歌に通暁していないと味わえないようなものもあります。それだけ、読む人には知識と教養を要求しているのです。それも、かなり多岐に亘っています。しかも、全体の構成が複雑に考えられていて、構成そのものが世界観のように考えられています。そして、『奥の細道』が事実のドキュメントでは例として、千住のところでは(「行春や鳥啼魚の目は泪」の句のところを参照して下さい)、現代の太陽暦では5月16日に当たる「彌生も末の七日」に、「上野・谷中の花の梢」として桜の花が咲いているという現実にはありえない記述をしています。つまり、『奥の細道』は旅の紀行であると同時に、旅の物語であるということです。

ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚、只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若生て帰らばと定なき頼の末をかけ、其日漸草加と云宿にたどり着にけり。痩骨の肩にかゝれる物先くるしむ。只身すがらにと出立侍を、帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨・筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるは、さすがに打捨がたくて、路次の煩となれるこそわりなけれ。

千住を出発して、次の宿である草加の文章ですが、同行した曽良の旅日記によれば、実際の芭蕉一行の行程は、草加を過ぎて春日部に泊まっているので、草加に泊まったという文章自体が虚構なのです。この冒頭の「ことし元禄二とせにや」という言い方からは、この上で引用した奥の細道の冒頭の文章の「予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」という言葉とも合わせて、旅から旅へと明け暮れた長い漂白の人生の中で、ふと、現実の年を刻む元禄二年という年号に気づいた漂泊者が思わず吐息を洩らしたようなものに感じられます。一方で、『源氏物語』の書き出しの「いづれの御時にか」という文言を思い起こさせ、この作品を流れているのが、現実の元禄二年という年次を超えた物語時時間なのだということを強く感じさせます。たしかにここで詠まれている句は平明な言葉によっていますが、芭蕉の特徴として晩年の「かるみ」ということがいわれても、ここで詠まれている句は、平明な言葉を用いて複雑で、重厚なものが多いです。そして、そういう句は、芭蕉は他のところでは、あまり詠んでいません。くわしいことは、これかに具体的に作品を見ていくので、そこで実際にこうなっていて、これは特徴的だというのを明らかにいくつもりです。

2.『奥の細道』の句を読む

以上のような、芭蕉に対する視点で、『奥の細道』からいくつかの句をピックアップして読んでいきたいと思います。なお、『奥の細道』は句集ではなくて、紀行文集のようなものであって、全体の構成とか地の文とよばれる散文の部分にも工夫が凝らされています。だから、句だけをピックアップするのは偏った姿勢であることは否定できません。そのことを最初に断っておきます。なお、ここにピックアップした句は、評価が高いとか有名とか『奥の細道』の構成において節目となるとかいった客観的基準でピックアップしたのではなく、私自身の目についた句で、ここで話し易い句であるということでピックアップしたものです。また、『奥の細道』についての説明、どういう旅をしたとか、旅することになった経緯とか、句を詠んだ名所がどうだとか、そもそも芭蕉とはどんな人なのかとかいったことは、ここでは、全く触れていません。もし、そういうもの方に興味のあるのであれば、他にそういうのを扱っているところはいくらでもあると思います。

●「草の戸も住替る代ぞひなの家」(江戸、深川)

草の戸も住替る代ぞひなの家

『奥の細道』の最初のところで詠まれる句です。芭蕉が今まで住んでいた深川の草庵を人に譲って出るときに、長年住み慣れた庵に贈った別れの句です。庵の新しい住人にはには妻子があるから、やがてくる雛祭りには雛人形が飾られ、今までの独り者の侘び住まいと打って変わって、きっと華やぐことだろうという。

それは、「住替る代ぞ」のあとで切れるようになっています。この句中の切れを境にして「草の戸も住替る代ぞ」はこの草庵もいよいよ主が替わるときがきたという現実です。それに対して、「ひなの家」はやがて雛人形が飾られるだろうという想像。つまり、この句は現実と心の世界の取り合わせであり、そこに時の変化が折り込まれている句です。

しかし、この解釈には異論があって、「ひなの家」は芭蕉の想像ではなく、かつての芭蕉庵にすでに雛人形が飾られているところと解釈します。今、芭蕉庵には新しい住人が妻子とともども移り住み、雛人形が飾られて華やかになったなあという意味の句になるというのです。芭蕉が草庵の新しい住人がやがて来る雛祭りに娘のためにお雛様を飾るだろうと想像しているのに対して、芭蕉の草庵にすでに新しい住人が移り住んで娘のためにお雛様を飾っている解釈しているのです。「ひなの家」は芭蕉によって想像された未来ではなくて、芭蕉によって見られた現在であるというのです。

この句の解釈については、実は地の文の解釈が影響してきます。

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、

草の戸も住替る代ぞひなの家

面八句を庵の柱に懸置。

問題となるのはこのあとの方の「住る方は人に譲り」以下、最後の数行です。草の戸の句の「ひなの家」を芭蕉の想像ととれば、この数行は、今まで住んでた芭蕉庵は人に譲り、杉風の下屋敷に移るに際し、句を詠み、それを立句として巻いた表八句を、留別の記念として旧庵の柱に掛けておく。という意味になるでしょう。これに対して、異論の現在ととれば、いままで住んでいた芭蕉庵は人に譲り、杉風の別荘に移ったが、「草の戸…」と詠んで、この句を発句にして、面八句をつらね。草庵の柱に掛けておいた、となります。一見、それほど違いはないように感じられるかもしれません。しかし、この現在ととると、解釈の意味に不都合が生じるのです。つまり、芭蕉はすでに芭蕉庵を人に譲っているので、芭蕉庵の柱に表八句を掛けたとすれば、芭蕉が人の家にずかずかと踏み込んでその柱に掛けたことになるわけです。そして、もう一つ不都合があります。それは芭蕉がみちのくへ決死の覚悟で旅立とうとしている矢先、一度人手に渡した芭蕉庵の柱に表八句を掛けるために「戻る」ことになることです。それは、「三里に灸するより、松島の月先心にかゝりて」と書いた芭蕉のみちのくへと急く思いをそぐことになるからです。いきなり後戻りする事態が生じてしまうことで、これから出かける旅の方向と全く逆方向のベクトルが働くことになるわけで、これでは「奥の細道」の書き出し早々、水を浴びせるようなものなのです。

こうした不都合があるのも関わらず、異論が出てくるのは、「ひなの家」を芭蕉の心の世界とするより、目の前にある現実そのものとするほうがいいという考えがあるからです。異論を唱える人々は「ひなの家」を想像されたものとすると、眼前にあるものより具象性に乏しく、読者に訴える力が弱いと考えました。しかし、考えてみれば、芭蕉がお雛様の飾られた芭蕉庵を実際に見て詠んだとしても、読者は「ひなの家」と言う言葉からその場面を想像しなければならないわけです。「ひなの家」が芭蕉の想像であれ、実景であれ、このことは変わりません。すべての言葉は想像力の賜物、読者の想像力によって息を吹き込まれない限り、どんな言葉も無意味な記号の羅列に過ぎません。現実とは、そういう想像の世界と同じレベルで認識される。そういうものとして芭蕉の俳句の世界は成立しているのです。むしろ、その二つの世界を言葉を通じて往還するのが芭蕉の俳句の世界と言えます。

この句は、もともとは

草の戸も住替る世やひなの家

というものだったのが

草の戸も住替る代ぞひなの家

に最終的に直したといいます。その中で、世の中の「世」から交代の「代」に、詠嘆の「や」を強い詠嘆で切れ字の「ぞ」に改めました。このことによって、『奥の細道』の冒頭の「月日は百代の過客」の「百代」の「代」に「住替る代」の「代」と揃えることで関連させて、そこを「ぞ」と強く切ることによって、万物流転の思想と旅立ち、それに転居が関連することになって、芭蕉の旅立ちの決意を強く響かせています。

芭蕉は『奥の細道』の旅に春先に出発します。ちょうど雛人形を飾る時期です。つまり、決死の旅になるかもしれないみちのくの旅に出かけようとしている芭蕉に対して、以前に芭蕉が住んでいた庵では平和な家族が暮らし、生活行事として娘のために雛人形が飾られているわけです。それを決死の旅に出ようとしている芭蕉が想像している。その両極端ともいえる対象が芭蕉の心の中で同居している、その突出した部分だけがピックアップされて、この句に表わされているわけです。しかし、このふたつが対立関係にあるわけではなく、淡々と並置されている。そこに、芭蕉の達観が垣間見えるというと穿ち過ぎでしょうか。私なら、先の見えない旅に出ようとしている不安が、こういうときに湧き上がってきて、逡巡したりしそうですが、それをまた抑えて決意を新たにするような力みもないのです。そういうものを、切り捨てて、棲家を引っ越したことだけを禁欲的に詠んでいる。それが、むしろ『奥の細道』のスタートの時点で、マニュフェストのように示されていると言えます。

●「行春や鳥啼魚の目は泪」(江戸、千住)

最初の「草の戸も住替る代ぞひなの家」が詠まれたのは、旅の出発前で、いわば旅立ちの経緯に関する記述のところでした。その後に出てくる、この句が『奥の細道』の旅立ちに際しての句ということになります。そういうシチュエーションに相応しいような句をつくっているというような、全体の構成や形式上の便宜を図って、かなり技巧的につくられている句ではないか、と思います。前のところでも指摘しましたが、『奥の細道』という作品は旅の紀行文の体裁を取っていますが、そういう体裁の創作といってもよく、実際に芭蕉が欧州を旅したことが基になっているとはいえ、作品中にかなり虚構が入り込んでいます。そのためにも、構成はしっかりしていなければならない。例えば、この「行春や鳥啼魚の目は泪」と大垣で詠まれた最後の「蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ」に照応させています。『奥の細道』の旅は、隅田川を舟で遡り、千住で舟を上がり見送りの人々と別れて歩き始めるところが旅立ちで、大垣で舟に乗り人々と別れてゆくところで旅の終わりとなります。「行く春」の季節の別れの中で人々と別れ、また「行く秋」の季節の別れの中で人々と別れ旅立ってゆく。言ってみれば、『奥の細道』全体が、「行く春」と「行く秋」の照応を通して、円環構造、もしくは、旅の工程がシンメトリーを形作っているのです。そのために、旅立ちはどうしても一定の要請があって、それを満たすために作られてのが「行春や鳥啼魚の目は泪」という句であったと思います。

少し脱線しますが、芭蕉の俳諧の特徴として“わびさび”ということが言われることが多いのですが、この “わびさび”というのには人工的に世界を創ってしまうというバロック的な作為性が秘められていると思います。例えば、千利休の侘び茶は“わびさび”を先駆的に意識したものだと思いますが、人工的に茶室という狭い空間を虚構的につくってしまって、そこに入る人は、その虚構空間のルールに強制的に従わせるという、具体的にはそこではその人のパーソナリティを剥奪されてしまって、その空間で求められている要素だけで振る舞う一種の演技的な空間です。それが外見上は禅宗の修行者の簡素さに似ているとか、表面的な装飾を取り去っているとかいうようなところでイメージされているようですが、要はそういう外見を意識的につくっている技巧的なものです。それが、この「行春や鳥啼魚の目は泪」について技巧的であると述べたところと共通していると思います。

そういう技巧的なところ、虚構的なところは句の前に地の文から読んでいくと、いっそうハッキリとします。

彌生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽かにみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云所にて 船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。

行春や鳥啼魚の目は泪

初めの一文で、「彌生も末の七日」は元禄2年3月27日で、これは陰暦であるため、現代の太陽暦に直せば5月16日で、少し後の「上野・谷中の花の梢」という上野から谷中にかけて一面の桜の花が咲いているという文言と季節がずれています。つまり、ここで書かれているのは虚構の光景なのです。『奥の細道』には虚構がかなり入っていて攻勢されているということが、この最初から顕著に見られるわけです。この理由の一つは、地の文の技巧を詳細に追いかけていくと見えてきます。「月は在明にて光おさまれる物から、」という一節は源氏物語の帚木の「月は有明にて光をさまれるものから、影さやかに見えて、なかなかをかしき曙なり」から、一字の変更も加えずに引用しています。源氏物語の帚木の巻は光源氏のさすらいの第一歩です。この引用元は空蝉と逢う場面で、この後「何心なき空の色も、ただ見る人から、艶にも凄く見ゆるなりけり。人知れぬ御心には、いと胸いたく。言づて入れむよすがになりきを、かへりみがちに出で給ひぬ(空には心はないものの、見る人によって、はなやかにもさびしくも感じるものである。源氏の人知れぬお心は、胸がふさいで、言伝する手だてもなく、後ろ髪をひかれる思いでお発ちになった。)」と続きます。これは地の文の「又いつかはと心ぼそし」という、この美しい光景をまたいつか見ることができるかと心細いに通じているところがあります。また、源氏物語では、この逢瀬が原因となって光源氏は須磨に流謫となります。「道すがら、おもかちげにつとそひて、胸も塞がりながら、御舟に乗り給ひぬ。日長きころなれば、追風さへそひて、まだ申の時ばかりにかの浦に着き給ひぬ、うち返り見給へるに、来し方の山は霞み、はるかにて、まことに三千里の外の心ちするに、櫂のしづくもたへがたし。」という源氏物語の須磨の一節は、この地の文の「前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ」に使われていると言えると思います。また、同じ須磨の巻の「いつか又春のみやこやこの花を見む時うしなへる山がつにして」から、先ほど指摘した「上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。」が導かれてくる。つまりは、都をおわれて須磨に流される時に、はたしてまた都に戻ってこられるのかという光源氏に重ねるようにして、芭蕉自身が『奥の細道』の旅に出ることが、二度と江戸に持ってこないかもしれないという覚悟と、しかし江戸への未練も残る心情を表わしています。

「幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。」の「幻のちまた」とは幻のようにはかないこの世、という仏教的立場から現世をいったものという人もいます。その幻のようにはかないこの現世における、今かりそめの別れなど、何の嘆くことがあるだろうと、頭で承知していても、感情の方はこれを裏切って、涙が溢れてくるという。ここでも覚悟と別れを惜しむ気持ちの揺れ動きがあらわれています。それで、この句です。

行春や鳥啼魚の目は泪

実は、旅の当時に実際の別れの場で詠まれたのは

鮎の子の白魚送る別れかな

という句だったそうです。それを後から詠んだ「行く春…」の句と差し替えたということで、それは前述のように全体の構成などの事情からです。「行く春」は春も行こうとしているという詠嘆と、離別の悲しみを行ってしまう春への思いに掛け合わせたもので、芭蕉の心の声です。しかしまた、前にも述べたように、「行く春」は大垣の「行く秋」に照応している。芭蕉の心の中では、円環構造のように、この旅がつながっている。「鳥啼魚の目は泪」は、その旅立ちの光景ということですが、これは虚構が入っているというか、つくっているでしょう。比喩的ですし杜甫の「春望」の中の「時に感じては花にも涙を濺ぎ、別れを恨んでは鳥にも心を驚かす」を元にしていると考えられますが、この場合も花はすでに地の文で「野・谷中の花の梢」とあるので重複を避けるために、花鳥を魚鳥に置き換えた。ちょうど、千住は船着場ですから、川ということで魚の方が近い。あるいは、泣く時に目から珠を出すという謡曲の「合浦」にも脚色されている人魚伝説から想を得たのかもしれませんが、魚の目を涙ととらえて、花では涙を出せないので芭蕉と別れの悲しみを分かち合うものとして取り上げることができたといえるでしょう。この句は、このように別れの場で即興的に詠んだものではなくて、後になって創作したものをこの場面に当てはめたという、虚構的な性格の強い句だと思います。

●「      」(室の八島)

上の「 」の中が空白になっているのは変だと思われるかもしれませんが、間違いでも何でもありません。これは空白ということです。ここで、芭蕉は何も詠まないということを、提示していると思うからです。室の八島は、この旅で芭蕉が最初に訪れた歌枕で、何も詠まず、予め知っていたか、行けばおのずと分かるような程度の話を、曽良の口から語らせているのです。下に引用しましたが、室の八島の前の草加の文章の中で「耳にふれていまだめに見ぬさかひ」という文言がありますが、今度もまた、旅の苦労に髪の毛も白くなるような苦労を重ねることと分かってはいるけれど、耳にのみ聞いてまだ見たこともない土地を見ることができて、もし無事に生きて帰ることができたら幸いだと、命をかけて思った目当ての土地、それは、ただ見たことのない珍しい土地ということではなく、昔から歌人達が詠み継いできた和歌の名所、いわゆる歌枕を指して言ったものに他なりません。

ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚、只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若生て帰らばと定なき頼の末をかけ、其日漸草加と云宿にたどり着にけり。痩骨の肩にかゝれる物先くるしむ。只身すがらにと出立侍を、帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨・筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるは、さすがに打捨がたくて、路次の煩となれるこそわりなけれ。

昔の優れた歌人が和歌に詠み、後の世の歌人が先人の詩情を反芻しながら、歌に詠み継いできた地名。それは単なる地名にとどまらず、ある特定の詩的イメージを伴い、新しい詩情を喚びさます力をもっていると考えられていました。今日でも、ここが芭蕉が名句を残した場所だと聞くと、自分も何となく詩情を掻き立てられる気分になることはあるでしょう。しかし、そういう歌枕は歌人たちの想像力が生み出したもので、歌に詠まれたとおりの歌枕が現実の世界にあるわけではないのです。無惨に朽ち果てていたり、初めから現実に存在しない歌枕もあります。室の八島も下の文章のとおり、想像の産物で、実際にそこ行っても見つけることはできないのです。その時に芭蕉は、どうしたか。現実をありのままに伝えたか。昔の歌人たちを超える想像力で句を編んだか。そのいずれでもなく、消えてしまいそうな歌枕という幻を消してしまわないために、芭蕉は求めようとするから、追究することになり、現実に行き着いてしまうのだから、あえて求めることを止めて、そっとしておくことにしたのです。それが、句を読まない。そして、そのことで読者の想像力に任せたのです。これは、この後で白河の関、笠島などの歌枕で繰り返され、松島で大々的に展開されることになります。これは、『奥の細道』に虚構の要素が多分に入っている理由のひとつでもあると思います。

室の八島に詣す。同行曾良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより室の八島と申。又煙を読習し侍もこの謂也」。将、このしろといふ魚を禁ず。縁起の旨世に伝ふ事も侍し。

●「あらたうと青葉若葉の日の光」(日光)

なんと尊いことだろう日光山は。新緑に埋もれる木の下闇まで燦 々と日の光が射している、というのがだいたいの意味。芭蕉ははせっかく紹介状をもらって東照宮に参詣しながら、陽明門がどうの、左甚五郎の眠り猫がどうの、といったことについては、句でも地の文でも一言も触れず、その代わりに、昔、「ニ荒山」と書いたのを、空海が音がおなじところから、「日光」と改めたというエピソードを説明しています。

卯月朔日、御山に詣拝す。往昔、此御山を「二荒山」と書しを、空海大師開基の時、「日光」と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや、今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏なり。猶、憚多くて筆をさし置ぬ。

あらたうと青葉若葉の日の光

「日の光」は地名の「日光」に掛けたもの、山そのものが神としてまつられた二荒山→フタラサン→ニコウサン→日光というように変化したが、神々しいことは変わりはないということ。その日光を日の光に掛けて変化させたが、神々しさは引き継いだということになる。それが地の文で説明されて句に至っている、ということになるでしょうか。つまり、日の光の神々しさの背景には長い歴史の厚みを背負った日光山の霊威、宗教的荘厳さがある、ということです。

また、若葉の淡い緑、青葉の濃い緑の上に、燦々と降り注ぐ日の光に神々しさを感じた、と読むこともできるでしょう。これは解釈が分かれるというよりは、掛詞のようにどちらの意味も含むように詠んでいるのではないかと思います。

「青葉若葉」は「若葉」若葉は初夏の季語で常緑樹・落葉樹を問わず木の若葉の総称で、「青葉」は現代の歳時記では若葉の緑が濃くなった状態のことをいいます。したがって、現代の解釈では若葉の淡い緑、青葉の濃い緑という豊かな森が日の光に映えて緑のシンフォニーのような自然景観をイメージできます。しかし、「青葉」は古式の通例では雑の詞で「青葉若葉」は新緑の若葉に旧年の緑が混じっているという景色です。したがって、「青葉若葉の日の光」は新緑だけでなく、以前からの緑、たとえ少し枯れてきたような古い葉にも日の光は分け隔てなく降り注いでいる、という神々しさになるかもしれません。

「あらたうと」の「あら」は、現代語では「ああ」で、驚いたり感動したりしたときに、思わず発する言葉。「たふと」は、形容詞「たふとし(尊し)」の語幹用法。「あらたふと」は、「ああ尊いことだ」という意味です。つまり、感動の詠嘆です。「青葉若葉の日の光」にかかって修飾しているのではないわけです。詠嘆しているのは芭蕉でしょう。単に「青葉若葉の日の光」が尊いというのではなく、「青葉若葉の日の光」(眼前の景)に「あらたふと」(心の世界)を取り合わせた句なのです。しかも、詠嘆している芭蕉はどこにいるのでしょうか。日の光が青葉若葉にふりそそぐ光景を眺めているのでしょうか、そうではなくて、日の光は芭蕉にも注がれているはずです。つまり、芭蕉は「青葉若葉の日の光」の中にいるわけです。単に景色を眺めて感動したというのではなくて、「古池や…」の句では音をきいて、内心の世界の扉を開きましたが、ここでの芭蕉は日の光に包まれて、その光なり日の光を浴びたあたたかさなどを全身で体感しているのではないでしょうか。それゆえの「あらたうと」ではないかと思います。この感動は、この後の山寺では宇宙的な静寂に包まれたりしますが、その先駆けと読むことができるのではないかと思います。

●「暫時は滝に籠るや夏の初」(日光、裏見の滝)

廿余丁山を登つて滝有。岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭に落たり。岩窟に身をひそめ入て、滝の裏よりみれば、うらみの滝と申伝え侍る也 。

暫時は滝に籠るや夏の初

滝裏の岩窟に身をひそめ滝の流れを見ていると、暫時の夏篭りの気になり身も引き締まるという内容でしょうか。

「夏(げ)」は、 「夏行(げぎょう)」のことで、陰暦4月16日から90日間水垢離などをする僧侶の修行のことで、夏安居(げあんご)とも言うそうです。芭蕉が夏の修業をしたというわけではなく、日光山に参拝して、滝ごもりはみちのくへの旅を始めるにあたっての禊の締め括りということになります。

また、夏は夏安居ともいい、それが暫時ということで、一時的な安堵というニュアンスも含まれていると思います。本当の安堵は旅がおわって芭蕉庵にこもることになるわけです。

句の前文に書かれているように、この滝は岩窟に入ると裏側から滝を見ることができるといいます。「滝に籠る」というのは、この岩窟に入ることもしただろうと、自分が僧侶の気持ちでこの滝の裏側からみたということ。これは比喩的で裏側から世界を見ている。つまり、一般の世間の人々と違って僧侶は出家というように、一般世間の外側に出てしまって、一般の人とは違って角度から世間を見ているわけです。芭蕉は、僧侶ではありませんが、俳諧師というのは世間の外にいるようなもので、しかも、このような漂泊の旅をしている。そのスタンスを凝縮したようなのが、この滝ごもりと言えると思います。

そこで、芭蕉はこれからの旅の覚悟をあらたにした、そういう句ではないかと思います。

●「野を横に馬牽むけよほとゝぎす」(那須、殺生石)

門人である黒羽の陣代家老浄坊寺図書高勝の好意で馬で送られながら、その馬の口取りをしてる男に求められて、次の句を詠んだと前文に簡単に述べられています。

是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、「短冊得させよ」と乞。やさしき事を望侍るものかなと、

野を横に馬牽むけよほとゝぎす

黒羽から高久へ向かう途中、地形は左右が丘のように盛り上がって右丘ぞいに縦長の狭野を行く。その際に、前方の空を横切った鳥の声を追って、馬首を横に向けたら、ホトトギスだった、という内容と思われます。那須野が歌枕であり、例えば

もののふの矢なみつくろふ籠手の上に霰ばしたる那須の篠原     源実朝

を下敷きにして、芭蕉が馬上の勇士を気取っている“いくさ仕立て”という人もいるようですが、この前ところの紀行文で黒羽の郡代に招待されて、そこで「ひとひ郊外に逍遥して、犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて玉藻の前の古墳(殺生石)をとふ。」と書かれているのが、この実朝の和歌を下敷きにしていて、そのあとで、句が詠まれたということに由来するのでしょうか。殺生石の伝説は、玉藻御前という鳥羽天皇の寵姫に化けた九尾の狐が那須野で射殺され、その怨霊が殺生石となった。その時の騎射練習が犬追物の起源となったというものだそうです。または、この句のなかで、「馬牽むけよ」という詩句の勇ましさが、芭蕉が馬上で命令しているように見えるからでしょうか。この詩句については、芭蕉が命じたというよりは、ほととぎすが、馬に横を向けるように仕向けたという方が素直な読み方ではないかと思います。「馬牽むけよ」という表現は、句の前文のなかで、口取り男が「短冊得させよ」と言ったことに応えるような、問答の様相を作っているためではないかと思います。

縦長の狭野を行く道中で、前方の空を横切ったほととぎすの声が馬首を横に向けさせる。縦の地形を横に見させたという、縦と横の構図を交錯させで一つに納めたのは、まるでピカソが正面から見た女性の顔を横顔と一つに描いたと称した人もいますが、斬新な構図だったのではないでしょうか。縦の地形を横に切り裂くような鋭さは、犬追物の矢立を想起させる。それを思い起こさせるのはホトトギスの横切る羽音や声、つまり音です。

そして、この句が前文と呼応し、問答を思わせるようになっているのは、馬上の芭蕉と馬の口取りをしている男との間で、そういう会話が行われたのではないか。

例えば、野を横には、自分たち(君たち)はここでの出来事を知っていますか。そして自分たちの先祖がどのようなものだったかしっていますか。と問い。馬を横に向けろと言っているのではなく、武士にとって馬は牽くものではなく駆るものと答え、ホトトギスは、今の自分達のこの境遇で満足するな。もっと夢を持ちただ鳥のように鳴いているのではなく、小さな草花でも開花する時がくるから頑張りなさい。とか、そして、この篠原を共に行きましょう。と結んでいるように、私には読めます。

●「田一枚植て立去る柳かな」(那須、蘆野)

白河の手前、那須の地、蘆野の里で芭蕉は、次の句を詠みます。

田一枚植て立去る柳かな

田植えの済んだ田んぼのそばに柳が立っている。そこに今しがた、田を植えて立ち去った人の気配が漂う。そんな句です。ところがそれだけではない、と長谷川櫂は言います。この句を地の文の中に据えると、にわかに様相が一変してしまう、と。つまり、

又、清水ながるゝの柳は、蘆野の里にありて、田の畔に残る。此所の郡守戸部某の、「此柳みせばや」など、折々にの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ。

ここに「清水ながるゝの柳」とあるのは、この五百年前ごろに西行が、この柳のもとに立ち寄って詠んだものといわれています。

海の辺の清水ながるゝの柳蔭しばしとてこそ立ちどまりつれ

という歌の文句です。

さて、この句の「一枚の田」を植えて立ち去ったのは誰なのでしょうか、この句はもとより、地の文で主体が明示されているかというと、何も触れられていません。だから、はっきりとは分からないのです。だから解釈が生まれます。しかし、地の文では、その誰は明示されてなくても暗示はされている。そう解釈できます。それが「清水ながるゝの柳」です。これによって、芭蕉は西行の歌をこの場面に呼び込みました。この地の文は「又、清水ながるゝの柳は、」と西行の歌の文句を引いて、地の文を始めます。「郡守戸部某」が「此柳みせばや」と芭蕉を誘うのも、芭蕉が「いづくのほどにや」のも、ここの柳(句でも詠まれています)が西行の歌にある「清水ながるゝの柳」だからです。さらに、この地の文は「今日此柳のかげにこそ立より侍つれ。」という西行の歌の文句で締められています。つまり、この地の文は西行に始まり西行に終わっています。西行尽くしなのです。そして、それに続くのが「田一枚」の句です。したがって、「田一枚植て立去る」のは西行ではないかと解釈できるのです。

ところが田を植えて立去ったのは西行だけではなく、芭蕉もそうなのではないか。というのも、芭蕉は柳のもとに立っていて昔の、今の自分と同じようにこの柳の木陰で「清水ながるゝ」の歌を詠んだ西行を想った。そこで、田を植えて立去る西行を見た。そして、芭蕉はその西行となってこの地の文を書き、「田一枚」の句を詠んだと想像できるからです。この句で、芭蕉は柳のもとで西行になり、つまり西行と同化し、五百年前に西行が越えた白河の関へと立去る。つまり、この句は時空を超えるのです。しかし、それなら和歌の世界でも本歌取りのような昔の人の歌を引用する技法と変わらないのではないか。それは、この句に続く地の文を追いかけると分かってきます。

心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定りぬ。いかで都へ、と便求しも断也。中にも此関は三関の一にして、風騒の人、心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花咲そひて、雪にも肥ゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。

ここで「いかで都へ」とあるのは

たよりあらばいかで宮こへつけやらむけふは白河の関はこえぬと 平兼盛

という歌を仄めかしています。この白河の関のところでは平兼盛の他にも古人の歌の引用があります。

みやこをばかすみとともにたちしかと秋風ぞふくしらかはのせき 能因法師

みやこにはまだ青葉にて見しかどももみぢ散りしく白川の関 源頼政

見で過ぐる人しなければ卯の花の咲ける垣根や白川の関 藤原季通

別れにし都の日数さへつもれば雪のしら川の関 大江貞重

芭蕉は直前では、あれほど西行を引用し想いを馳せていたのに、ここでは全く触れられていません。西行には白河の関を歌った歌は何首もあるはずです。白河の関で、芭蕉は数々の古人の面影をちりばめているのに、最も触れられてしかるべきはずの西行については無視するかのように沈黙しています。それはなぜか、芭蕉が西行その人となって白河の関を越えようとしているからです。ここで西行のことに触れれば、芭蕉は西行を客体視することになってしまいます。それは芭蕉と西行とは別々ということです。芭蕉は直前の柳のもとで西行と一体化しているのです。だから、引用というレベルではないというのが芭蕉のあり方なのです。

それはまた、この『奥の細道』がそもそも陸奥の歌枕を訪ねるということを目的の一つとしていた芭蕉の姿勢が、その根拠と言えます。歌枕とは、どういうものかということを考えてみれば、一種のフィクションのような歌を詠むときの約束事のようなもので、実際になくてもかまわないものです。ここでの平安歌人の和歌が引用されていますが、実際に白河の関におもむいた人は西行は別にしていないのではないか。ただ、和歌の決まり事のように、こういうときにはこの歌枕を使うとか、言葉の響きで歌の調子を整えるツールとして活用するといった、表現の形式的な、装飾的な手段としてことばあそびのようなものして使われていたものだと思います。そんな、現実に、あってもなくても、そんなことはどうでもいい歌枕を芭蕉は敢えて探しに旅に出たわけです。実際に『奥の細道』の中でも、歌枕が朽ちてしまっていたり、捜しても見つけられなかったり、散々な苦労と落胆を味合わされている叙述に出会います。芭蕉の姿勢として、歌枕を句で読むには、実際に、そこに行って確かめなくてはならなかったのでしょう。平安歌人の和歌にあるような、ことばあそびは、芭蕉にはできなかった。芭蕉が句を読むということは、平安歌人達が和歌を詠むということとは、そういう点で異なっていたのではないかと思います。だから、「田一枚」の句において西行を引用するとしても、単に表現のツールとして利用するということは、ありえないということになります。そういう姿勢で詠まれた芭蕉の俳句の世界というのは、現実だの、作者である芭蕉自身が実体として、その中にいる、そういうことを芭蕉は目指していたと言えるのではないか。つまり、世界の認識、それが存在と結び付くということです。

●「風流の初やおくの田植うた」(白河、須賀川)

風流の初やおくの田植うた

『奥の細道』の旅で、芭蕉一行が白河の関を越えてみちのくに足を踏み入れて、最初に詠んだ句です。白河の関を越えて初めて耳にするみちのく鄙びた田植え歌を耳にして、これこそ世の風流の源とほめています。古池の句が蛙が水に飛びこむ音を聞いて古池という心の世界を開いたように、「おくの田植うた」という音によって「風流の初や」という心の世界を開いた句と言えます。その上、これから先どんな風流に出会えることかと、開いたのは心の世界だけにとどまらず、この先のみちのくの未知の世界に向けられています。それは、みちのくへの旅が、歌枕だったり、西行をはじめとした過去の文学者たちの跡をたどる追憶の旅でもあるからです。

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