http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/tokyu.htm 【相楽等躬(さがら とうきゅう)】より
相楽伊左衛門。福島県須賀川の人で駅長 だったと言われている。いずれにせよ土地の名士であった。はじめ江戸の俳人「未得」門下の俳人で、未得没後はその門の重鎮であった。芭蕉は、『奥の細道』の途次、元禄2年4月22日より28日まで等躬宅で休息している。この年等躬は52歳であったという。「乍単<さたん>」は等躬の別号。
http://jin0506.s28.xrea.com/q17t087w5.html 【相楽 等躬(さがら とうきゅう)】より
・説明:1638-1715年 78歳没 須賀川市生まれ 江戸時代前期-中期の俳人 本名:正徳
江戸の石田未得(みとく)、岸本調和(ちょうわ)にまなぶ
芭蕉と交友のあった人物で、須賀川宿で問屋を営む傍ら、須賀川の駅長(現代の市長クラス)の要職を務めていた。
通称伊佐衛門 別号:乍憚(さたん)、乍単斉(さたんさい)後に等躬、晩年になって藤躬と号した
1689年(元禄2年)(陽暦6月9日)芭蕉は須賀川に至り、等躬宅に7泊した。
晩年は内藤露沾(ろせん)と親交があった
(略)
http://waichisato.my.coocan.jp/sukagawa.html 【・須 賀 川・・*[福島県須賀川市]】(1) より
元禄2年(1689)4月21日(陽歴6月8日)、白河の関を越え矢吹に1泊 した芭蕉は翌日阿武隈川を渡って磐梯山を見ながら須賀川に入り 相楽等躬(さがらとうきゅう)を訪ねて、旧交を温めながら句作などを楽しんだ。須賀川とは鎌倉時代から「二階堂氏」の城下町と して栄えたが、天正17年(1589)伊達政宗によって滅ぼされた。 江戸時代に白河領となって奥州街道の宿場町と しても繁栄、独自の町人文化も華やかに多 くの俳人を輩出する。芭蕉にとって「奥の細道」の旅での須賀川宿とは、余程居心地が良かったであろうか、何と8日間 の滞在となった。等躬 とは俳諧にも造詣が深く度々江戸へ足を運び、芭蕉が江戸で宗匠になる折にも何かと力を貸 した人物と して知られ、旧知の仲であった。
芭蕉よりも6歳の年長で土地の豪商として人望もあり、10年振りの再会に諸々が万感に籠っている。
すか川の駅に等躬というものを尋て、4、5日とどめらる。先、白河の関いかにこえつるやと問。
長途のくるしみ心身つかれ、且は風景に魂うばわれ、懐旧に腸を断て、はかばかしゅう思いめぐらさず。
(奥の細道・原文抜粋)
風流の初やおくの田植うた(ふうりゅうのはじめやおくのたうえうた)
(白河の関を越えて陸奥の国に入りました。そこで初めて知った風流とは、この陸奥の国らしい鄙びた田植歌であったことよ!)
[相楽等躬の菩提寺・長松院] [長松院にある相楽等躬の墓]
等躬は芭蕉に問う。「白河の関はどのようにして越えましたか」と・・・原文はその詳しい事情を述べている。
何かを示さなければと披露 したのが、関越えの歌ではなくて 「風流の初やおくの田植えうた」 であった!
これは当地の風流に対する賞賛の歌でり、等躬との交流の深さを表現した挨拶の歌でもあるといいます。
”可伸庵~跡”
此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとう僧有。橡(とち)ひろう太山もかくやと、閒(しずか)に覚えられて、ものに書付侍る。其詞、栗という文字は、西の木と書きて、西方浄土に便りありと、行基菩薩の、一生杖にも柱にも此木を用給うとかや。
(奥の細道・原文抜粋)
世の人の見付ぬ花や軒の栗(よのひとのみつけぬはなやのきのくり)
(この庵に咲く栗の花は遠慮がちに咲き、ここの主は行基に心を寄せているのか、栗の花のように人目に付かぬようにしている)
[可伸(かしん)庵跡と栗の木] [写真2008/6/12撮影] [世の人の・・・の芭蕉句碑]
等躬の俳友で可伸とは、等躬の屋敷内の庵に住む「隠遁僧」であり、やはり傍らに大きな栗の木があった。
可伸を訪ねた芭蕉は、清貧・自由で世間 から離れて庵を結ぶのも、自分のように「捨身行脚」をするのも、元は仏教の教えであり芭蕉の共鳴するところであった。世を隠れて棲む僧と花の匂いが強すぎて遠慮がち
咲く栗 の花とは、どこか似ているという。その「可伸庵跡」 は市役所の近くにあって市民を見守っている。
橡ひろう太山とは・・・・西行法師 の歌 「山深み岩にしだるる水溜んかつがつ落つる橡拾ふほど」 による。
行基菩薩とは・・・奈良時代の高僧として知 られ、諸国を巡り池や道路を開き、多くの寺院などを建立した。
・・・須賀川人情・・・
「栗の木」は、私が生まれた秋田県でも元々は山林の木で、屋敷内には多く植えていなかったように思う。
その訳とは、生長が早く大木となる、花の匂いが強い、イガの扱いも厄介とか・・・・しかし栗も橡も縄文時代は主食であったといいますから、「西の木」と書くことなど、仏教などへの繋がりも頷けます。それに相当の堅木にて建材用には貴重なものでした。行基が諸国巡礼に栗の木を杖にしたという伝説も諸々現実味があります。芭蕉は西行法師の歌が脳裏を掠った。隠遁した者が橡(とち)を拾って食料に充てる深山とは、このような所かと・・・・鬱蒼とした栗の大木、その下にひっそり住む僧、「須賀川人情」の一端でしょうか。
[西の木とは浄土の木・栗] [二階堂神社・須賀川城址]
天正8年(1589)10月のことで、伊達政宗 は須賀川城に攻め入った。この城を守るのは、8年前に亡くなっていた城主・二階堂盛義の後室で、政宗の伯母に当たる「大乗院」であった。いよいよ決戦となった
10月10日の夜のこと政宗との決戦を決意した「大乗院」は、家臣を集結させていた。そこには討ち死に覚悟の多くの領民達も、手に手に 松明(たいまつ)をかざして集まっていたそうであります。しかしながら激戦 の末、10月26日の明 け方に「須賀川城」は陥落する。鎌倉時代の初頭からここ一帯に君臨 した名家二階堂氏は、その400年の歴史を閉じた。その後寛永20年(1643)に白河藩領となり、宿場町、また阿武隈川を利用した米の集散地として栄えました。以降江戸時代を通じて須賀川 の人々は幕府の目を憚りながら、狢(むじな)狩りと称して戦死者の霊を慰める火祭りを続 けて来た。澄んだ晩秋の天空を焦がして、一大戦国絵巻の火祭り 松明あかしは、毎年11月に行う。歴史がそうさせたのでしょうか、須賀川の人々は、今も総じて表立たなく物静か、真面目で一生懸命とくれば、責任感旺盛に連動する。
敢えて「須賀川人情」でしょうか?思い出すのは、昭和39年(1964)東京オリンピック・・・・・マラソンの銅メダリスト・・・円谷幸吉・・・・須賀川 の出身です。このアスリートが、自殺に至るとは!
http://waichisato.my.coocan.jp/sukagawa2.html 【・須 賀 川・・*(2)】 より
・・・[十念寺]・・・(須賀川市池上町101)
元禄2年(1689) 4月22日(陽歴6月9日)芭蕉は、須賀川(福島県須賀川市)に至り「相楽等躬」を訪ねて7夜も滞在した訳ですが、その28日には十念寺に参詣 した。「十念寺」 とは文禄元年(1592)に開山された浄土宗 の寺で拝殿まで30メートルとか、境内には芭蕉の句碑もあり、寺格たるや歴史の中へと誘うようだ。
[拝殿まで約30メートル・十念寺] [風流の初やおくの田植うた・句碑]
***"円谷幸吉"***(つぶらやこうきち)
円谷幸吉は、昭和15年(1940)須賀川に生まれました。東京オリンピックのマラソン選手のことであります。
関連して、今年は「北京オリンピック」の年でもありました。話は昭和39年(1964)は東京オリンピック開催のことになります。円谷幸吉は、オリンピックに備えて発足した自衛隊体育学校・特別課程の隊員でありました。
彼は、長距離選手としての素質を買われており、期待通り活躍をして代表になりました。東京オリンピック本番では、1万メートルでは6位入賞を果たし、そして最終日のマラソンは、あのエチオピアの「アベベ」に続いて2位で国立競技場に姿を見せましたが、直ぐ後ろに迫っていたのは、イギリスの「ヒートリー」と いう選手に・・・・・・・
追い抜かれてしまったのです。トラックで駆け引きが出来なかったことは、「男とは後ろを振り向くな」との家訓・戒めを愚直にまで守り通した結果といわれております。だがこの成績は優勝に向け、次のメキシコオリンピックの目標に繋がって行くのは当然のことでありました。しかし自衛隊体育学校・幹部候補生としての円谷幸吉にとって、例えば結婚という自由さえ奪われたり、オーバーワークを重ねた結果、腰痛の再発・手術と嘗ての走り出来る状態ではなくなっていました。周囲の期待からの重圧、走れない焦燥からでしょうか昭和43年(1968)1月9日、剃刀で左頸動脈を切って自ら命を絶つ・・・27歳であった。円谷幸吉と接した人は異口同音に真面目で、責任感が強 く、礼儀正しい好青年であったと評する。その須賀川魂が人情が、しばしば自らを責める結果となり、自殺という悲劇を招 いてしまったのでしょうか?その円谷家の菩提寺が「十念寺」であることを知 り、次いでながら合掌して参りましたが、私なども同年代で同じ東北の生まれ、当時のショックを忘れられません。
[十念寺・本堂] [円谷家・墓地]
円谷幸吉 の自殺 のニュースは大きく報道されました。そして残された遺書が、大変な話題を呼んだのです。
「父上様、母上様、三日とろろ美味しうございました。干し柿、餅も美味しうございました・・・」で始まり「幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。気が休まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。幸吉は父母様の側で暮らしとうございました」と、また兄姉への数々の感謝・・・・
自衛隊の上官・4名の方にも、お世話になりました・・・ご迷惑を・・・と感謝と謝罪の言葉を忘れませんでした。
甥・姪17人全員の名前を、○○君、○○ちゃんと列挙して ”立派な人になって下さい” と将来を託しながら、そして最後に メキシコオリンピックの御成功を祈りあげます。一九六八・一 と結ばれた遺書でありました。
遺書にあった家族への感謝と 「疲れ切ってもう走れない」 の言葉は、世間に大きな衝撃を与えました。あのノーベル賞作家 川端康成は『円谷幸吉選手の遺書』と題 して、「繰り返される 美味しうございました といふありきたりの言葉が、じつに純ないのちを生きてゐる。そして遺書全文の韻律をなしてゐる。美 しくて、まことでかなしいひびきだ」と語り「千万言も尽くせぬ哀切」と評しました。また自殺の原因に多くの憶測もあってか、あのノーベル賞候補にもなった、三島由紀夫は『円谷二尉の自刃』と題 して、「これらの無責任発言に対し、傷つきやすい、雄雄しい、美しい自尊心による自殺・・・・この崇高な死をノイローゼなどという言葉で片付けたり、敗北と規定したりする、生きている人間の思い上がりの醜さは許しがたい」と強い調子で批判をした。
[十念寺・鐘楼] [十念寺・標柱]
芭蕉は須賀川に、何か魅せられていたような雰囲気がある。旧友の相楽等躬が居たせいもありましょうが、7夜も滞在している。黒羽・尾花沢・金沢・山中に次 ぐ、長逗留の5番目だといいます。その居心地の良さは何であったのか、心の触れ合い 須賀川人情 とくれば、句の 風流の初やおくの田植うた が集約 と見たい。
その芭蕉ですら、まさか約280年後この素晴らしい土地で、オリンピックに絡む円谷幸吉の悲劇が起きようとは、当然のことながら夢想だに ・・・世の移ろいと人の心は、杓子定規で計れないもののように思います。
これも何かの因縁と言えば甚だ心苦しいのですが、あの三島由紀夫が昭和45年(1970)11月25日に、陸上自衛隊東部方面(市ヶ谷駐屯地)において、壮絶な割腹自殺にて世を去る。45歳という若さであった。
そして同じく川端康成は昭和47年(1972)4月16日に、逗子の自宅において、ガス自殺にて世を去った。
73歳であった。両名の自殺の原因たるや、諸々の心身の疲労から来る 「老い」 への恐怖という人もいて、
人生とはそれぞれの過程において、仮に27歳とか45歳とか73歳なりの 「老い」 があることを知りました。
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