芭蕉『奥の細道』俳句を読む ③

http://blog.livedoor.jp/genyoblog-higashi/archives/6221726.html 【芭蕉『奥の細道』俳句を読む】より

「世の人の見付ぬ花や軒の栗」(白河、須賀川)

此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。橡ひろふ太山もかくやと閒に覚られて、ものに書付侍る。其詞、

栗といふ文字は西の木と書て、西方土に便ありと、行基菩薩の一生杖にも柱にも此木を用給ふとかや。

世の人の見付ぬ花や軒の栗

須賀川の街道ばたの栗の木陰に隠棲する隠者の話。「橡ひろふ太山」は西行の次の歌を踏まえたもので、

山ふかみ岩に垂るゝ水溜めんかつがつ落つる橡拾ふ程     西行(『山歌集』)

太山は深山のことを指します。

世の人の見付ぬ花や軒の栗

軒端に咲く栗の花を世間の人は見向きもしないが、なかなかいいもの、という内容でしょうか。「世の人の見付けぬ花」とは、栗の花の外観のことかもしれず、世間の人々に好かれる桜や梅の花と比べれば、栗の花は花としては風変わりで、異形とさえ言えるでしょう。その大きな栗の木の、繁っている枝を軒のように利用している草庵で暮らしている隠者は、栗の花同様に世間から見れば風変わりに見えるものです。

世間の人は、この僧を見慣れない者と決めつけることであろう。こういう人に、芭蕉は共感を抱いていた。だからこそ、このような句を詠んだわけです。むしろ、芭蕉はこの隠者を自身の同志だと感じていたのではないかと思われる節があります。俳諧の師匠などと持ち上げられ、風流とかいわれても、世間からははみ出てしまっている境遇といってもおかしくはありません。『私もまた「世の人の見付けぬ花」なのだ。』と、芭蕉が叫んでいるような句である、という思うのは穿ち過ぎでしょうか。

●「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」(白河、信夫)

早苗とる手もとや昔しのぶ摺

直前の「風流の初やおくの田植うた」と一対をなして、早苗を植える早乙女の手もとを見ながら、昔はこの早乙女の年頃の娘達がしのぶ摺をしていたのだろうとはるか時の彼方を懐かしんでいる、という句です。この過去への思いはそのまま旅への前途、芭蕉の目の前に横たわるみちのくへの思いでもあった。

芭蕉はここで前の句の「おくの田植うた」という声に対して、「早苗とる手もと」という姿を取り出して、これから向かうみちのくへの思いをこめた一対の句に仕立てました。みちのくという追憶の国に対して、一方は声と時間、もう一方は姿と空間を詠んだ二つの句が並んでいるわけです。

「しのぶ摺」の信夫は古くから知られた歌枕で、「しのぶ摺」は石に模様を彫り、そこに布をあててその上から草で叩く。すると、草の汁で布に模様が染まるという染物です。その文字摺りに用いたと伝えられる文字摺石は半ば土に埋もれていて、そのわけを土地の子どもに尋ねると、昔はこの山の上にあったが、旅人が麦の葉を引き抜いて摺ってみたりするので、困った村人達が谷に突き落としたら、模様の面がしたになってしまったというのです。芭蕉は、そうした語り伝えを、紀行文の上では、里の子どもの口から語らせ、そんな大切な石を谷底に突き落とすなんて、そんなことがあってもいいのだろうかと、感想を挟みながら「早苗とる手もとや昔しのぶ摺り」と詠んでいます。

周囲の田で、苗代田から早苗を取り、田に移し植えている早乙女たちの手振りを通して、昔、しのぶ摺りを染め出した乙女たちの手振りを偲び、この地方の風土に刻み付けられた文化の歴史を透視しているのです。そうした風流の歴史を振り返ることによって、眼前に働く早乙女たちの中に、何気なしに見る者とは違った奥床しさを見出している、といってもいいでしょう。

●「あやめ草足に結ん草鞋の緒」(仙台、宮城野)

名取川を渡て仙台に入。あやめふく日也。旅宿をもとめて、四、五日逗留す。爰に画工加右衛門と云ものあり。聊心ある者と聞て、知る人になる。この者、年比さだかならぬ名どころを考置侍ればとて、一日案内す。宮城野の萩茂りあひて、秋の気色思ひやらるゝ。玉田・よこ野、つゝじが岡はあせび咲ころ也。日影ももらぬ松の林に入て、爰を木の下と云とぞ。昔もかく露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。薬師堂・天神の御社など拝て、其日はくれぬ。猶、松島・塩がまの所々画に書て送る。且、紺の染緒つけたる草鞋二足餞す。さればこそ、風流のしれもの、爰に至りて其実を顕す。

あやめ草足に結ん草鞋の緒

芭蕉一行は仙台に入りました。そこで画工加右衛門という人物に出会います。「聊(いささか)心ある者」、つまり、風流の感性のある人ということで、「さだかならぬ名どころ」、どこにあるか定かでない歌枕の場所を調べたのでということで方々を案内してくれた。そして、風流の心根を強調して示したものが、松島・塩竈の所々を描いた絵図と、紺の染め緒をつけた草鞋でした。「風流のしれもの」とは、風流の世界に酔い痴れた者ということで「爰に至りて其実を顕す」とは、この贈り物をするに至って、風流人の本性をあらわしたということです。この一見貶めるような書き方は、加右衛門に対する共感と親愛の気持ちを表わしています。そういう前文があって、はじめてこの句の解釈が決まってきます

あやめ草足に結ん草鞋の緒

あやめと当時、あやめと菖蒲の両方の花の呼び名でした。菖蒲は魔除けの花で、加右衛門から贈られた草鞋の染め緒の紺は蝮よけに効果があると言われていたものです。この魔除けと蝮よけのこじつけた符合で、「あやめ草」なのです。前文の最初に「あやめふく日」との符合でもあるのです。「あやめふく日」とは5月4日、翌日に宿を出ると5日の端午の節句で、この日は浅葱帷子の着用がしきたりだった。それを踏まえて、加右衛門は紺色の草鞋を贈ったのです。そこが「風流のしれもの」たる由縁です。この句は、その風流な贈り物に対する思いがけぬ驚きと感謝が表われています。この句の「あやめ草」というのは、だから、加右衛門に対して、もてなしは、その心も確かに受け取ったという意思表示と見ていいと思います。その心をしっかりと結わえていこうと言っているのが「足に結ん草鞋の緒」ということになります。

●「(嶋々や千々くだきて夏の海)」(松島)

上の句は括弧に入っていますが、これには理由があります。『奥の細道』のクライマックスであるべき松島です。ここでは、他の場所以上に芭蕉は力作を沢山詠んでもおかしくないのですが、確かに詠んだとされているのは、上の括弧の中の「嶋々や千々くだきて夏の海」のみです。しかも、この句は『奥の細道』におさめられていません。しかも、松島の紀行文の最後で「予は口をとぢて、眠らんとしてねられず」というのです。この地の文では言葉を尽くして松島を称えているのです。

ある人は言います。もし、ここに芭蕉の松島のこの一句が入っていれば、話が出来すぎてしまう。それでは面白くない。松島の句をあえて入れないことによって、松島という歌枕は手つかずのまま残されることになり、『奥の細道』の世界は紙幅を越えて果てしなく広がることになる。絵の名人が富士山の絵を描くのに、頂上を雲で隠し、あるいは画布の外にはみ出させて描かないのと同じように、もし頂上を描いてしまうと、その富士山は小さな画布の中の富士山としてちんまりおさまってしまいます。ところが頂上を描かなければ、富士山は画布をはみ出し見る人の心の中で、想像力を掻き立て大きく広がります。この富士山の頂上に当たるのが、ここでの松島の句ではないか、というのです。

抑ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、浙江の潮をたゝふ。島々の数を尽して、欹ものは天を指、ふすものは波に匍匐。あるは二重にかさなり、三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負るあり抱るあり、児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹たはめて、屈曲をのづからためたるがごとし。其気色窅然として、美人の顔を粧ふ。ちはや振神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ詞を尽さむ。

雄島が磯は地つヾきて海に出たる島也。雲居禅師の別室の跡、坐禅石など有。将、松の木陰に世をいとふ人も稀々見え侍りて、落穂・松笠など打けふりたる草の菴閑に住なし、いかなる人とはしられずながら、先なつかしく立寄ほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作て、風雲の中に旅寐するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ 。

松島や鶴に身をかれほとゝぎす   曾良

予は口をとぢて眠らんとしていねられず。旧庵をわかるゝ時、素堂、松島の詩あり。原安適、松がうらしまの和歌を贈らる。袋を解て、こよひの友とす。且、杉風・濁子が発句あり。

この文章は大きく分けると、三つの部分から成り立っていると考えられます。

最初の部分では、松島の風光を正面から、美文調の文章の技巧の限りを尽くして謳いあげるように書かれています。島々の姿を「欹ものは天を指、ふすものは波に匍匐」とか「児孫愛すがごとし」などと、まるで生きた人間のように表現しています。その総合印象を「其気色窅然として、美人の顔を粧ふ」、その様子は見る者をっとりさせ、美人がいやが上にも美しく化粧したようだ、と言っているのは、中国の詩人たちが西湖の美しさを美女西施になぞられた手法を踏襲しているものでしょう。しかも、この表現は、この後で、松島に並ぶ象潟の叙述で同じように用いることになります。そこで、両者を並び立つものとして、美女西施の喩えを用いていて、はるかに照応されていると言えます。なお、芭蕉が、その美しい風光の背後に「造化の天工」といって、それを造り出した造物主の霊妙な働きを感じ取っていることも注目すべきですが、それを「大山ずみのなせるわざにや」と言っているころを見れば、芭蕉は、明るい太平洋に臨んだ松島の華やかな風光に、西施ではなく、大山祇の娘木の花咲耶姫のイメージを思い浮かべていたのかもしれません。そう考えれば、暗鬱な日本海を背にした象潟を、不幸な運命に弄ばれた西施の憂いに沈んだ俤に譬えててることとの対照も鮮やかに浮かんでくるといえるかもしれません。

二つの目の部分は、歌枕雄島が磯について記した部分です。ここで、芭蕉は「世をいとふ人」の姿に心惹かれています。「いかなる人とはしられずながら、先なつかしく」と言っているところを見ると、芭蕉はその人の上に、西行が隠棲の跡を慕ったと言われている松島の見仏聖や信夫の里の覚英僧都のイメージを重ね、いっそうなつかしさの思いを募られせたと考えても、いいかもしれません。

そして最後の三つ目の部分は、松島の宿りにつて書かれています。「予は口をとぢて眠らんとしていねられず」。待望の松島の風光を満喫して、その絶景に圧倒され、感動のあまり句を詠むこともできないとして、興奮して眠ることもできなかった。「口をとぢ」というのは、句を詠むのを断念したということでしょう。ここで芭蕉が、素堂・原安適・杉風・濁子らの友人・門人たちが餞別に送ってくれた詩歌や発句を取り出して「こよひの友とす」としていることは、絶景を前にして供を思い、友の詩歌を反芻しているのは、芭蕉は人間的な連帯の中にいて、彼の発句は、その中から生まれてくるということを、ここでさりげなく示していると言えるかもしれません。

●「夏草や兵どもが夢の跡」(平泉、高館)

奥州藤原氏の都、平泉。ここで芭蕉は黄金の都の廃墟を目の当たりにして次の句を詠みます。

夏草や兵どもが夢の跡

今、夏草が深くおい茂るここ高館は、むかし、武士たちがいさましくも、はかない栄光を夢見た戦場のあとである。そんな句です。「夏草や」で切れた。これは芭蕉の目の前に広がる実景、つまり夏草が生い茂る戦場の跡です。これに対して、「兵どもが夢の跡」は芭蕉の心の中の景です。それは、どのような景色なのでしょうか。手がかりとして地の文を見てみましょう。

三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高館にのぼれば、北上川、南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。

(三代にわたって栄えた藤原氏の栄華も一睡の夢のようにして儚く消)、藤原氏の館の大門の跡は一里ほどこちらにある。秀衡の館の跡は田や野原になっていて、金鶏山だけが昔の形を残している。まずは高館に登ると、眼下に見える北上川は南部から流れてくる大河である。衣川は、和泉の城を取り囲んで流れ、高館の下で大河に流れ込む。泰衡たちの旧跡は、衣が関を間において、南部地方からの入り口を厳重に警備し、夷を防いだと思われる。それにしても、(義経は)忠義の家臣を選りすぐってこの城に立てこもり(戦ったが)、功名は一時のことで(今は)草むらとなっている。)

この地の文ではまず、奥州藤原氏の栄華の跡を追いかけた後で、戦いに敗れて廃墟となった哀しみを綴っています。これが、「兵どもが夢の跡」に連動し、「夢」には二つの意味が重なり合っています。第一に「兵ども」が夢のようにはかなく消えてしまったという意味の「夢」で、はかなさを表わしています。第二に、「兵ども」が夢見たもの。すなわち、かれらが実現しようと戦い、ついにはそのために命を落とした「夢」です。奥州藤原氏も義経主従も夢のように儚く消えて、今は、その跡しか残っていないのです。では、その夢をみた「兵ども」とは誰なのでしょうか。つまり、「兵どもが夢の跡」の「兵ども」とは誰のことなのでしょうか。それは義経主従はふさわしいか。たしかに高館で討ち死にしたのは義経主従です。しかし、義経主従は戦いましたが、夢を実現しようとしたでしょうか。そうなると、都を遠く離れたみちのくに黄金の王国を築こうとして破れた藤原氏、というよりみちのくの人々にこそ相応しいのではないでしょうか。「夢の跡」は理想の国の夢の跡ということにはならないでしょうか。「兵どもが夢の跡」は、一つの思い出に別の思い出に紛れ込むように義経主従の「兵ども」の「夢の跡」に藤原氏の「(栄華の)夢」が、さらにはみちのくの(もしかしたら芭蕉の)理想の国の「夢」が侵入した、重層的なものではないかと思うのです。蘆原では、かつての西行に芭蕉自身が一体化し、そこで時空を超越しました。ここでは、いにしえの夢の大きくひろがる世界に足を踏み入れるのです。

そこで、現実と夢が地続きになって、私たちは夢の世界に足を踏み入れる。比喩的で申し訳ないのですが、例えば能楽のワキに似た構造であると思います。少し長くなりますが、舞台ということで西洋演劇との対比で考えてみたいと思います。西洋演劇の舞台は観客の現実である客席とは区切られた別世界です。例えばハムレットであれば、過去のハムレットの時代の空間を舞台上にリアルに作りこみます。その写実のリアリティーが特徴で、観客は、現実の世界から切り離して舞台の世界を現実のように想像します。観客は現実の時間のくびきから逃れることで、イマジネーションの創りだす夢のような時間に、歳をとる身体から心だけを切りはなして遊び、現実の時間を忘れることができるのです。

これに対して、能楽の場合は多くの場合、死者は、まるごとワキの見ている一夜の夢の中に、幽霊となって舞台上に現れ、過去は、その幽霊によって回想として語られます。つまり、過去が語られるとしても、それは呼び出した死者が、舞台上の現在において「語って聞かせ申すべし」と物語りする中でしか、過去は表現されません。たとえば、旅の僧が今観ている夢の中の現在という舞台上に、幽霊となった死者が現れ、己の死因や因縁のできごとを、過去を回想するという形で表現されます。つまり、夢は、此岸と彼岸との境界であるとともに、心の内と外との境界であり、現実と非現実との境界として設定されるのです。能でもっとも重んじられるのは、能舞台が此岸と彼岸との境界でありつづけ、現実の観客の目の前にあるということです。ワキの見ている夢は、そのまま観客の見ている舞台となります。そして、能が観客に強いる厳密な時制の一致は、観客の身体と心との遊離を許さないから、ワキの見ている夢の世界は、そのまま観客の生きているひとつの世界なのです。そのため、夢の中として舞台上に現れている夢の現在に、観客も入りこんでしまっており、ともに同じ夢の中の時間を共有し、同じ幽霊をまのあたりにしている。能の観客は、夢を見るのではなく、夢を生きてしまうのです。

この句では、芭蕉が能の舞台であればワキとなって夢(「兵どもがゆめ」)を見ているのを、読者は能の観客のように、その夢を生きてしまうように、体験をされられてしまう。(おそらく「田一枚植て立去る柳かな」の句も、同じようなところがあると思います。)

ちなみに地の文の終わり近くで、「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と引用されているのは杜甫の五言律詩「春望」ですが、芭蕉はアレンジして引用しています。参考のために原詩を書き下し文で引用しておきます。

春望 杜甫

国破れて山河在り

城春にして草木深し

時に感じては花にも涙を濺ぎ

別れを恨んでは鳥にも心を驚かす

峰火三月に連なり

家書万金に抵る

白頭掻けば更に短く

渾て簪に勝えざらんと欲す

●「蚤虱馬の尿する枕もと」(奥羽、尿前)

『奥の細道』はみちのく旅した平泉までで前半を終えます。そして、転換点ともいえる奥羽山脈を越えると後半の出羽から日本海に出て、宇宙的な体験や軽みの開眼とう新しい世界に分け入っていくことになります。その後半に入るための試練が尿前の関から山刀伐峠越えという最大の難所です。『奥の細道』の最大のヤマ場と言うこともできます。

蚤虱馬の尿する枕もと

この辺鄙な山家では、一晩中蚤や虱に責められ、おまけに寝ている枕元に馬の小便の音まで聞こえるという、散々な目にあったことだ。これが一般的な解釈といえるでしょう。

前半の「蚤虱馬の尿する」といったん切れるのですが、「蚤」「虱」「馬の尿する」とおよそ風流とは正反対と思えるもの、眼前の憂苦をただ列挙しただけの芸のないと思う人もいるようです。そこから、この句に陰惨さを読み取ることもできることになります。しかし、「蚤」「虱」といった小さな虫から、一転して大きな動物である馬に列記の内容か飛躍して、「蚤」「虱」では体言止めの連続のようなところから、馬では転換して「馬の尿する」という動きが勢いを生むというように、体言止めの言葉のリズム感にスピードがついていくと、その響きにユーモアの感じが生まれてきます。そこに、芭蕉自身が、そういう境遇を突き放して見ている、多少楽しんでいる、そういう雰囲気が出てきます。しかも、「馬の尿する」を「しとする」と読ませて、尿前(しとまえ)の関との響きを符合させている掛詞にような遊びをしています。

後半の「枕もと」では、作者は布団に入っていることがわかります。布団に入っているが、寝付かれないでいる。なぜなら、苦しくてつらい旅の「蚤虱馬の尿する」ような仮の宿りでは、そうあるはずですから。それを芭蕉は、こうして句にして詠んでいるのです。句にして詠んでいるということは、ここで感興を持っているからです。これこそ風雅の極まれりというか、風狂そのものです。その風狂の人とは他でもない、この私だと名乗り出る。それが「枕もと」の提示するものです。

この句は、前半で伝統的な風雅とは無縁の言葉で新しい世界をつくり、後半の「枕もと」で、その新しい世界の背後に一人の風狂人を配したことによって、全体が一瞬して風雅の詩的世界に組み込まれてしまった。そういう新しい詩的世界と言えます。

この時点で、前半の歌枕を追いかけて、先人の風雅を追求していこうという姿勢から、新たな境地を開いていくという転換の端緒が見られると思います。ここで、鍵を開けたからこそ、この後の山寺以降のおおいなる展開への道が開けたのではないかと思われるのです。

●「閑さや岩にしみいる蝉の声」(山形、立石寺)

山形の立石寺を訪ねたときに読んだ句です。

閑さや岩にしみいる蝉の声

ああ何という静けさだ。“何という静けさ。ふと気がつけば、この静寂の中で蝉の声のするのが、あたかも四囲の苔むした岩石の中へと沁み透ってゆくかのような気がする。あたりの静寂はいっそう深く、自分の心も澄み切って、自然の生命の中へと融けこんでゆくかのようだ”というように一般的に解釈されていると思います。この解釈では、「閑さや」は静けさの中でということになる。そのような静寂の中で蝉の声が岩にしみいっている、ということになります。それは、次のような地の文から導かれたものと考えられます。

山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開祖にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。麓の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松栢年旧、土石老て苔滑に岩上の院々扉を閉て物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂莫として心すみ行のみおぼゆ。

(山形領内に、立石寺という山寺がある。慈覚大師が開いた寺で、とりわけ清らかで物静かな土地である。「一度は見ておいたほうが良い」と、人々が勧めるので、尾花沢から引き返し、その間は七里ほどである。日はまだ暮れていない。山のふもとの宿坊に宿を借りて、山上にある堂に登る。岩に巌が重なって山となり、松や柏の木は年月が経ち、土や石も年が経って表面の苔がなめらかであり、岩の上に建てられたいくつもの寺院の扉は閉じられていて、物音ひとつ聞こえない。崖のふちをまわり岩をはうようにして進み、仏閣を拝んだのだが、すばらしい景色はひっそりと静まりかえっていて、心が澄んでいくことが感じられるばかりである。)

地の文に「岩上の院々扉を閉て物の音きこえず」とか「佳景寂莫として」というように静かであることが説明されているからで、ここから、句の「閑さ」を、今、静けさの中にいることと捉え、その静けさの中で蝉が岩にしみいるような声で鳴いている、という解釈に結び付くのでしょう。

「古池や蛙飛びこむ水の音」の句では静けさを、静けさという言葉を使わずに読み手にイメージさせた芭蕉は、なぜ、この句では、冒頭に「閑さや」と強く言い切ったのでしょうか。しかも、地の文で静かであることをくどいほど述べています。上の解釈に従えば、わざわざ静かであるこという言葉を持ってくる必要はあるのでしょうか。かえって、くどくなって、うるさく感じられてしまうのではないでしょうか。しかし、おそらく、芭蕉は、冒頭に敢えて強く「閑さや」という直接的な言葉を投げかけなければならなかったのです。だから、地の文で述べられている静寂と、この句の「閑さや」とは違うのです。というのも、普通に考えると静寂と蝉の声は相容れないからではないでしょうか。この句は、“岩にしみいるように鳴く蝉の声を聞いていて天地の閑さに気づいた。”と言っているのではないでしょうか。その驚きこそが冒頭の「閑さや」という語に集約させる。この句の「岩にしみいる蝉の声」は芭蕉のまわりで今しきりに鳴いている現実の蝉の声であり、その他方で「閑さや」は芭蕉が心の耳を澄ませた大地の静寂なのです。蝉の声と静けさという相容れないはずのものが、芭蕉の中では、蝉の声が芭蕉の「閑さや」という不易の心の世界を開かせたのではないか。

その日の午後、芭蕉は立石寺の岩山に立つと、眼下に広がる梅雨明け間近な緑の大地を眺めた。頭上には梅雨の名残りの雲の浮かぶ空が羽目か彼方まで続いている。そのとき、あたりで鳴きしきる蝉の声を聞いて、芭蕉の心の中にしんと静かな世界がひろがった。そこで芭蕉が感じた静けさもはや現実の静けさではなく、蝉が鳴こうともびくともしない、宇宙全体に水のように満ちている静けさ。立石寺の山上に立った芭蕉は蝉の声に耳を澄ませているうちに、現実の世界の向こうに広がる宇宙的な静けさを感じ取った。そういう眩暈のするほどの、気の遠くなるような瞬間を凍り漬けのようにして取り出したものだ。ということになる。

しかも、それまでの句で、芭蕉は現実の光景と、自身の心の内の光景を行き来し、その境目が曖昧になるような。現実と夢とも区別のつかない光景を見ていました。とはいっても、芭蕉の心の中の光景はすでに見たことの回想だったり、古人の跡を想い起こすようなものでした。ところが、ここに至って、芭蕉は経験したことのような未知の光景に居るといえます。それは、過去の誰かが経験し、歌や文章に残したこともないものです。今までに誰も見ていないものを見て、それを表わそうとすれば、当然、前例などないわけで、それを表わした言葉もない。したがって、それをまず言葉にしなければならない。そういう手探りで言葉を探すところから「閑さや」という、句の冒頭の言葉が表われてきたのではないでしょうか。だから、既存の言葉で述べている地の文とは、「閑さや」は本質的に異なるのではないかと思います。

●「雲の峰幾つ崩て月の山」(出羽、月山)

芭蕉一行は出羽三山に登りました。その一つ月山を詠んだ句です。

雲の峰幾つ崩て月の山

夏の陽射しの中で見えていた猛々しい雲の峰はいつしか崩れ,月の薄明かりに照らされた月山がたおやかに横たわっている、と読めるでしょうか。芭蕉は、出羽三山でいくつかの句を詠んでいますが、それに付随する地の文が、他の場所を詠んだ句に比べて、異常なほど分量となっています。そのボリューム感を実感してもらうため、長くなりますが、出羽三山の分を下にまとめて引用します。

六月三日、羽黒山に登る。図司佐吉と云者を尋て、別当代会覚阿闍梨に謁す。南谷の別院に舎して、憐愍の情こまやかにあるじせらる。

四日、本坊にをゐて俳諧興行。

有難や雪をかほらす南谷

五日、権現に詣。当山開闢能除大師は、いずれ代の人と云事をしらず。延喜式に、「羽州里山の神社」と有。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや、羽州黒山を中略して羽黒山と云にや。出羽といへるは、「鳥の毛羽を此国の貢に献る」と風土記に侍とやらん。月山、湯殿を合て三山とす。当寺、武江東叡に属して、天台止観の月明らかに、円頓融通の法の灯かゝげそひて、僧坊棟をならべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効、人貴且恐る。繁栄長にして、めで度御山と謂つべし。

八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行動の雲関に入かとあやしまれ、息絶身こゞえて、頂上に攀れば、日没て月顕る。笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。日出て雲消れば、湯殿に下る。

谷の傍に鍛冶小屋と云有。此国の鍛冶、霊水を撰て、爰に潔斎して剱を打、終月山と銘を切て世に賞せらる。彼龍泉に釗を淬とかや、干将、莫耶のむかしをしたふ。道に堪能の執あさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばにひられるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほるがごとし。行尊僧正の哥爰に思い出て、猶哀もまさりて覚ゆ。惣而此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとゞめて記さず。

坊に帰れば、阿闍梨の需に依て、三山順礼の句々短冊に書。

涼しさやほの三か月の羽黒山

雲の峰幾つ崩て月の山

語られぬ湯殿にぬらす袂かな

湯殿山銭ふむ道の泪かな  曽良

地の文は単なる記録ではなく、この部分もひとつの表現手段となっているので、これだけの分量にしていることに、それ自体の意味はあるのだと思います。単に、エピソードが沢山あったとか、白装束の修験者に扮して苦労して登ったので、自然と長くなってしまったとかいったことではないと思います。芭蕉は、この最後のところに置かれている三つの句プラス曽良の句と一体となってひとつの表現として作っていると思います。だから、芭蕉は何らかの意図を以って、敢えて長い地の文にしたと思います。それは、例えば月山という場所が、これまで句を詠んできた歌枕や名所とは異質の普通でない場所であるからです。修験道の聖地ということですが、異界つまり死の世界と俗世間の生活空間との境界のような特別の場所ということ。そこで、観るものは、普通の俗世間でみえるものとは違うということ。例えば、この後で芭蕉は越後の出雲崎で天の川を詠みますが、それは他の人でも眼にすることができるのです。現代の技術でカメラで映像を記録して、こういうものと示すことができるのです。しかし、この月山は、実際にそこに行かなければ、しかも、苦労して登らなければ、そういうものとして眼に映らないのです。仮に、月山の風景をカメラに写しても、実際にそこにいかなければこの良さは実感できないのです。端的に言えば、風景に付加価値が付随しているのです(身も蓋もない言い方ですが)。登山を趣味とする人が北アルプスの山などに登ってきて、その時の写真を友人に見せて、実際は、もっと凄い。これは苦労して登らないとわからない、ということがあります。それと同じです。芭蕉は、その付加価値をつけようとしたが、いくら句をよんでも、登山趣味の人の写真と同じように登らない人に伝わらない。そこで、その付加価値を、苦労して山を登るという体験を擬似的に、長い地の文を読ませることで、読者に普通とは違うということを感じさせようとしたのではないか。そのために、文を長くして、登っている場面を細かく描写したのではないかと思います。

月山に登る芭蕉たちは、「木綿しめ」は白布で編んだ注連、「宝冠」は頭を包む白木綿という修験道の出で立ちで、強力と呼ばれる道案内について登りました。雲や霧が立ち込めて冷え冷えとした中を、氷雪を踏んで登る、しかも八里もです。「息絶身こゞえて」という、かなりキツイ行程だったわけです。そこで、辿り着いたのは、「日月行動の雲関に入かとあやしまれ」とは、まるで太陽や月が運行する天の入り口(雲の関所)に紛れ込むかのような気がするというのです。レトリックとしては『奥の細道』冒頭の文「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」に直結している。つまりは、冒頭の文が旅の入口であるならば、この地の文は異界への入口、敢えて言えば「わたくし、芭蕉は、これからゾーンにはいります」という入口というわけです。そこで、おもむろに句が示される。だから、読者にこの句は向こうにいっちゃってますよ、と最初から示しているわけです。

雲の峰幾つ崩て月の山

「雲の峰」は夏の季語で、強い上昇気流で湧き上がる入道雲です。昼間に登っているときには入道雲が月山を背景にして、天空を突く猛々しい雲の、湧いては消えてゆくありさまが「幾つ崩て」ということでしょうか。それが夜には昼に、大きく起立していた雲の峰はいつしか崩れ、静かに神々しい月の山が六日月の光に照らされて横たえている。ここには、月山の「雲の峰幾つ崩て」という登ってくるものに対して猛々しい月山と、「月の山」という静かに人を包み込むような月山の二つの月山があります。また、芭蕉は、今は、夜の「月の山」にいるわけで、「雲の峰幾つ崩て」は、数時間前の昼間に登ってきた過去、つまりは想起しているわけで、現在と過去の時間が混在しているのです。地の文にある「日月行道の雲関」「日没て月顕る」の天体宇宙世界の姿を凝視した者の胸に迫る時の流れが感受され、この句に凝縮されています。幾つも雲の峰が湧き、崩れ、そして変わらぬ月山がある。その月山も雲に隠れ、雲が崩れてその姿を顕し、時には月光を浴び、文字通り月の山となり、刻々見た目の姿を変える。雲の姿は変わり、月山の眺望も変化する。しかし、月山はそこにあり続け、雲が湧き、崩れる、その営みは太初から続き、いつまでも変わらないのです。雲の峰が崩れるのに対して、月の山は静かに存在する。動くものは動き、変化するものは変化しつつ、一切が悠久の時の中に存在する。それを、月山登山という「雲霧山気の中に氷雪を踏て」「息絶身こゞえて」という肉体の極限の中で、いま、人や物の音のしてこない宇宙の静けさの占める月の山で、天地の悠久な営みに眼を見張るのです。

●「涼しさやほの三か月の羽黒山」(出羽、羽黒山)

芭蕉一行は出羽三山にのぼり、それぞれの山について句を残していますが、そのひとつ羽黒山を詠んだ句です。

涼しさやほの三か月の羽黒山

ああ涼しいな。羽黒山の山の端にほのかな三日月がかかっている、といった内容の句ということでしょうか。月山に登ったときには、その模様や険しさを地の文で説明していますが、羽黒山に関しては。「羽黒山に登る。」としか記されていません。月山とは険しさが違うからでしょうか。同じ出羽三山でも、月山はひときわ険しく、それだけ俗世間から超越した別世界の観が強い。そのためどうしても厳しさとか、超俗さといった印象です。羽黒山は月山ほど険しくはない。夕暮れ、西の空に三日月がかかった。そのもとに羽黒山が黒々と鎮まっている。そういう光景で、羽黒山はたしかに威圧的ではありますが、月山の句のように猛々しさの要素はありません。むしろ、静まりかえって、物の動きがストップしているような静的な世界です。動きがないから熱量が生じない、だから「涼しさや」なのです。

夕暮の太陽が沈みきっていない薄暗い光景では、空に掛かる三日月はくっきりとは見えず、ほのかに霞んでいる。それが「ほの三か月」です。それに加えて、「ほの三か月」に「ほのみ-かづき」の読みで「ほのみ」に仄見を掛け合わせて、修行者の真如の月が仄かに垣間見えた気がする。それが、悟りの静かな世界に通じている。

したがって、「ほの三か月の羽黒山」は現実の風景ではあるのですが、そこから「涼しさや」という内面の世界が触発され、さらに、それを介して静けさの境地、つまり真如の月、他の言葉で言えば「無」を垣間見ている。

月山の厳しさとは、異なる面で、超越的な性格の表現となっています。

●「暑き日を海にいれたり最上川」(酒田)

最上川を下って日本海にでたところが酒田で、芭蕉は、地の文では場所等についてのほとんど説明らしい説明がなく、次の句を詠んでいます。

暑き日を海にいれたり最上川

酒田で海へ流れ入る最上川を眺めていると、何とも涼しい感じがするという内容です。というと、えっ?と不思議に思いますよね。この句のどこに何とも涼しい感じがあるのか、むしろ「暑き」という正反対の言葉が使われているではありませんか。その理由は、この句の成立の経緯を追いかけていくと明らかになります。この句は、当初はつぎのように発案されました。

涼しさや海に入たる最上川

「海に入たる最上川」(眼前の景)と「涼しさや」(心の世界)の取り合わせという句でした。ここに「涼しさ」という語があります。実際に芭蕉は涼しさを感じています。芭蕉は、涼しく感じているのを残しながら、大胆にも、「涼しさ」を反対の意味の「暑き日」と取り替えてしまいます。同時に「涼しさや」と切れ字により「海に入たる最上川」と間をおいて内心の世界と分けていたのを、「暑き日を」として「海に入たる最上川」とつなげて眼前の一連の景と様相を転換させました。これをつづけると暑い日を最上川が海に入れてしまうという、ということになりました。風景を描写しているようでありながら、現実にはありえない、芭蕉にはそういうように見えたというわけですが、荒唐無稽です。昼間の日中を暑くした爛爛たる太陽を最上川の勢いある流れが海に沈めているという景というわけです。しかし、それだけではないでしょう。「暑き日」として、太陽としてはいないのですから、日本語の「日」には一日と太陽という二つの意味があるからです。したがって、「暑き日」は暑い一日という意味でもあるわけです。それゆえ、最上川は暑い一日を日本海に流しているという意味と、最上川が太陽を日本海に沈めているという二つの意味を併せ持つわけです。暑い一日が海に流れ込んで冷やされ、それで涼しいということが生まれてきます。「暑熱に苦しんだ夏の一日も、夕べとなればどこからか涼しさが生じてくる。洋々と海にそそぐ最上川のあたりは、もう涼しい夕風がさつと吹き過ぎる。さては今日の暑い日も、あの大河の水に浮かべて海に流し入れてしまつた」という意味でです。

しかも、「海にいれたり」という言葉からは、暑い日が海に入ったのではなく、最上川によって入れられたというニュアンスになっています。最上川の勢いが太陽を流して海に入れてしまうのです。太陽が最上川に流され海に吐き出され沈められてしまうわけです。だから、涼しい夕暮の風景を大きなスケールで描写しただけではないのです。そこには、最上川の豊かな水量とエネルギッシュな水流とが想像され、また押し「入れ」られてゆく太陽の力感も想起されるのです。そのエネルギーの相克が、夏の夕暮の、涼しくなってきてはいても、夏という季節のエネルギッシュなところがここにあると思えます。

また。「暑き日」と言っているわけですから、暑さを感じているのは芭蕉です。暑さを感じるというのは触覚によるものですから、芭蕉はこのなかに居るということになります。視覚であれば、距離をとって遠く眺めるわけですが、触角は接触しなければなりません。それゆえに、この句の発案にはあった「涼しさや」という切れ字で間合いを置くことをやめたのは、芭蕉の内心と眼前の景という二つの世界を並列することをやめたということではないかと思います。一体化しているのです。芭蕉は眼前の世界を見ているのではなくて、その中に居る。だから間合いを置かない。つまり、この句には芭蕉の内心も眼前の景も一体となった世界そのものとなっていると言えるのではないかと思います。

●「象潟や雨に西施がねぶの花」(象潟)

松島と並んで、句よりも紀行文の文章に力が入っているのが象潟です。他のところに比べて紀行文が長く、しかも技巧を尽くした。

江山水陸の風光数を尽して、今象潟に方寸を責。酒田の湊より東北の方、山を越、礒を伝ひ、いさごをふみて其際十里、日影やゝかたぶく比、汐風真砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に莫作して「雨も又奇也」とせば、雨後の晴色又頼母敷と、蜑の苫屋に膝をいれて、雨の晴を待。其朝天能霽て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。江上に御陵あり。神功皇宮の御墓と云。寺を干満珠寺と云。此処に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事にや。此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海、天をさゝえ、其陰うつりて江にあり。西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築て、秋田にかよふ道遙に、海北にかまえて、浪打入る所を汐こしと云。江の縦横一里ばかり、俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。

(海や山、河川など景色のいいところをこれまで見てきて、いよいよ旅の当初の目的の一つである象潟に向けて、心を急き立てられるのだった。象潟は酒田の港から東北の方角にある。山を越え、磯を伝い、砂浜を歩いて十里ほど進む。太陽が少し傾く頃だ。汐風が浜辺の砂を吹き上げており、雨も降っているので景色がぼんやり雲って、鳥海山の姿も隠れてしまった。暗闇の中をあてずっぽうに進む。「雨もまた趣深いものだ」と中国の詩の文句を意識して、雨が上がったらさぞ晴れ渡ってキレイだろうと期待をかけ、漁師の仮屋に入れさせてもらい、雨が晴れるのを待った。次の朝、空が晴れ渡り、朝日がはなやかに輝いていたので、象潟に舟を浮かべることにする。まず能因法師ゆかりの能因島に舟を寄せ、法師が三年間ひっそり住まったという庵の跡を訪ねる。それから反対側の岸に舟をつけて島に上陸すると、西行法師が「花の上こぐ」と詠んだ桜の老木が残っている。水辺に御陵がある。神功后宮の墓ということだ。寺の名前を干満珠寺という。しかし神功后宮がこの地に行幸したという話は今まで聞いたことがない。どういうことなのだろう。この寺で座敷に通してもらい、すだれを巻き上げて眺めると、風景が一眼の下に見渡せる。南には鳥海山が天を支えるようにそびえており、その影を潟海に落としている。西に見えるはむやむやの関があり道をさえぎっている。東には堤防が築かれていて、秋田まではるかな道がその上を続いている。北側には海がかまえていて、潟の内に波が入りこむあたりを潮越という。江の内は縦横一里ほどだ。その景色は松島に似ているが、同時にまったく異なる。松島は楽しげに笑っているようだし、象潟は深い憂愁に沈んでいるようなのだ。寂しさに悲しみまで加わってきて、その土地の有様は美女が深い憂いをたたえてうつむいているように見える。)

初めのところは、夕暮の雨に煙る象潟の風景をみて、中国杭州にある景勝地として有名な西湖になぞらえて文章は書き始めます。その表現は北宋の詩人蘇軾が西湖を詠んだ詩句に想を得たものとなっています。なお、この詩の3行目に「西子」と出てくるのは春秋戦国時代の美女西施のことで、「象潟や雨に西施がねぶの花」でうたわれている人です。

西湖     蘇軾

水光瀲灧として晴れて方に好く、

山色朦朧として雨も亦た奇なり。

西湖を把って西子と比せんと欲せば、

淡粧濃抹總て相ひ宜し。

「雨朦朧として鳥海の山かくる。」は上の詩句の「山色朦朧として」のパラフレイズであろうし、「闇中に莫作して「雨も又奇也」とせば」と書いているのは、まさにこの詩から一部を言っています。また、この「闇中に莫作して」は戦国時代の天竜寺の僧、策彦周良が西湖で詠んだ詩の引用と言われています。

晩に西湖を過ぐ    策彦周良

余杭門外日将に晴れんとす

多景朦朧として一景無し

雨奇晴好の句を暗じ得て

暗中模索して西湖を識る

翌朝は晴れたので舟を出して島々をめぐり、「「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。」と地の文にある桜の木を「花の上ぐ」と詠んだ歌は、次の歌だそうです。

象潟の桜は波に埋もれて花の上漕ぐあまの釣り場

「此寺の方丈に座して簾を捲ば、」以降が蚶満寺からの象潟の風景です。しかし、この文の中では前のほうで「寺を干満珠寺と云。」と書いています。これは、この寺の古い寺号で、敢えて今は使われていない古名を書いているのは、芭蕉の勘違いなどではなく、ここに虚構が意識的に加えられているからです。つまり、西行の歌を引用したりして、芭蕉はここにいにしえの光景を見ている。さらに、方丈に座って、簾を巻き上げれば、一望の元に景色が見渡せたと書かれていますが、実際には見えないので、これも事実ではなく芭蕉が脳裏に描いた風景か、表現の都合上で虚構にしたものです。そして、松島と対比させて「松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。」という有名な一節が導かれます。

田中善信という人は『奥の細道』には現代の我々からみると、奇異な表現や日本語の語法に反すると思われる表現が少なくないと指摘します。この象潟のところでは、例えば「風景一眼の中に尽て、」の「一眼」というのは「一望」が通常使われるので、誤用とみなされてもおかしくない。「東に堤を築て、」には主語が示されていないし、本来自動詞が使われるべきところに他動詞がおかれている。また「海北にかまえて、」通常は言われることがない言い方です。そういう目で象潟の文章を見ていくと不思議な文章と言えるのです。しかし、それだからこそ、他の類をみない破格で大胆な表現となって、強いインパクトを読む者に与えていると言えるのです。それが『奥の細道』のユニークな魅力のひとつとなっている。

象潟や雨に西施がねぶの花

その意味はおおよそ、象潟の海辺に合歓の花が雨にしおたれているさまは、伝承にある中国の美女、西施がしっとりうつむいているさまを想像させる、といったもの。地の文との関連で読めば、前半の夕暮の雨に煙る象潟の風景をみてのものと思えます。引用されていた蘇軾の詩の西子(西施)から、松島の対比で松島が楽しげに笑っているのに対して、象潟は深い憂愁に沈んでいる。寂しさに悲しみまで加わってきて、その土地の有様はこの美女が深い憂いをたたえてうつむいているように見えると地の文の終わりのところで言っているのが、この句の雨の象潟の印象ということです。合歓の花は日暮れ近くに咲いて、翌日の午後には散ってしまう一夜花で、咲きながら大量に散っているイメージがあります。地の文で「象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。」という印象を、この句は「ねぶの花」の詩句に凝縮させている。もしかしたら、西施は春秋戦国時代の呉越の抗争の中で、越から呉に献上されたされた人で、彼女の望郷の悲しみと、象潟はうらむがごとしという印象を重ねて、芭蕉は個人的な感情を込めていたのかもしれません。

●「文月や六日も常の夜には似ず」(越後、直江津)

文月や六日も常の夜には似ず

7月6日、直江津での句です。明日がいよいよ七夕(たなばた)の夜だと思うと、前日の今日七月六日の夜も、何となくいつもの夜とは異なって、夜空のたたずまいも趣深く感じられる、と詠んでいます。

この句や「荒海や佐渡によこたふ天河」の句を詠んだ越後路の説明は、次のような簡略そのものです。

酒田の余波日を重て、北陸道の雲に望。遙々のおもひ胸をいたましめて、加賀の府まで百丗里と聞。鼠の関をこゆれば、越後の地に歩行を改て、越中の国一ぶりの関に到る。此間九日、暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず。

この行程は、「暑湿の労に神をなやまし」とあるように梅雨の蒸し暑さと海岸の単調な行程で、「病おこりて事をしるさず」と書いてしまうような不快さもあったのでしょう。しかし、そのことによって、かえって、天空への思いが切なるものとなり、雨が身に沁みこむように、芭蕉の中に深く浸透していったのではないか。

文月や六日も常の夜には似ず

この句は七夕前日の「六日」の夜空の様相を詠んでいますが、芭蕉は、越後路の単調な行程の中で折々に七夕の事を思いつつ日を重ねてきた。「六日も常の夜には似ず」は七夕前日の空の様子ですが、その日に至るまでの思いの集積としての感慨でもあるでしょう。村上を発ち、出雲崎を経て直江津に入る時間を、星のこと、天空のことにしきりに思いが行っていた。越後路は天空への思いが色濃い旅路であったと思います。

そして、直江津の手前の出雲崎で芭蕉は「荒海や佐渡によこたふ天河」の句を詠んでいます。「荒海や…」の句が天地宇宙の悠久の相をつかみ取った一句であるとするなら、「文月や…」の句は人間の天空へ向かう眼差しと思いを、その憧れと孤愁を把握したものなのです。そこには、旅人芭蕉の感慨の昇華があります。芭蕉が、自らの思いの深さを人間存在への思いへと広げ、深化してゆく気配があります。「荒海や」で天地宇宙の相を顕し、「文月や」では自らの思いを投影した人間の思いを示した、と言えると思います。

●「荒海や佐渡によこたふ天河」(越後、出雲崎)

越後で芭蕉は二句を詠んでいますが、その説明は簡潔です。

鼠の関をこゆれば、越後の地に歩行を改て、越中の国一ぶりの関に到る。此間九日、暑湿の労に神をなやまし、病やまひおこりて事をしるさず。

文月や六日も常の夜には似ず

荒海や佐渡によこたふ天河

病気のためと断っていますが、9日間かけて通過したという程度で、そのあと二つの句が何の説明もなく、とってつけたように置かれています。そこには書きべきこともあったのだろうけれど、芭蕉は敢えて越後の記述を捨て去ったのではないか(これについて、このサイトにおいて詳しく調べて論証されています)。それは、ポツンと取り残されたように置かれた二句が夜の句であるからです。つまり、芭蕉は、越後での物事を捨て去って空白にしてしまった。つまり、「無」あるいは「闇」「沈黙」です。闇とは夜の暗さに通じます。そこに、二つの句が置かれている。ここで、『奥の細道』の世界は、夜空となり、天に展がり宇宙となり、この沈黙の宇宙を背景に二つの句の星が灯り、天の河が輝き、絢爛たる交響詩を奏でることになるのです。この二つの輝きは、暗闇が深ければ深いほど増していく。暗闇、それは「光」を生む「闇」であり、「音」を生む「黙」であり、「有」を生む「無」です。そういうものの総体としての暗闇が、徹底した省略によって生み出された。すべてが生起し帰結する悠久。その無限と沈黙。そこに、暗闇の中に海が咆哮し、暗闇の中に銀河が光る。動くものは動き、変化するものは変化しつつ、一切が悠久の時の中に存在する。そのことを最も効果的に提示する為に、旅路の詳細を一切「省略」し、そこに大きな暗闇を天空のごとく置いたと言えないでしょうか。

しかし、ここで腑に落ちないのが2点あって、ひとつは「荒海や」という言葉です。慥かに冬の日本海は怒涛のような荒海ですが、季節は七夕で夏です。越後の夏の海は穏やかで、とくに出雲崎近辺は波も穏やかだったからこそ港として繁栄したところです。そんな穏やかであるはずを、この句では敢えて「荒海や」と詠んでいるんです。その理由は、隔てた向こう側の佐渡です。佐渡は順徳院、世阿弥をはじめ多くの文人たちが流された島で、そういった人々の運命のさまざまに思いをよせ、その慟哭を身に引き寄せた芭蕉にとって、「荒海や」という言葉になったのでは。したがって、これは眼前の風景ではなく、芭蕉の心の中で時化ている海なのではないかと思います。それだけにいっそう、眼前の天の川の静かな輝きと、その背後の夜の闇の深さが人の運命を呑み込んでしまうように大きく広がっている。

もう一点は、「佐渡によこたふ」という言い方は文法的におかしいのではないかということです。これは、おそらく、この句は「荒海に佐渡よこたふや天河」というのが、もともとの形ではなかったかと推測した人がいます。それでは、単なる風景句なので、酒田で詠んだ「暑き日」の句と同じく、切れと結びの切り替えによって、いまの形にしたのではないか、と。「荒海や」と切ることによって、芭蕉の思いを乗せた激しさが際立ち、その奥で天の川の人の運命から超然として広がっているという。そして、その奥には、すべてを呑み込み、あるいは、そこからすべてが生まれてくる無限の暗闇が深く沈黙している。読者は、その中に立たされている。そういう句になっていると思います。

酒田で詠んだ「暑き日」の句で芭蕉は、自らの内心も眼前の景も一体となった世界をつくりだしました。それがここでは、その一体となった世界を生み出す根源的で、すべてを包み込むような宇宙があるのではないかと思います。

夏の夜空に天の川が煌く、千古の昔より変わらない風景です。このときの天の川のかかった夜空は、長く深い時間の厚みを通して存在している。例えば芭蕉の見ている時間は、かつて佐渡に流された人々が思いを込めてみた時、その時その時に見た人々の経験の総体を巻き込むようにして、ただ一回限りの極点のように生起しています。それを表わした句を読む人には、その都度、その瞬間がその句に込められた時間の厚み含めて、そのただ一回限りの極点が反芻されるわけです。それは句を介して深い夜空を受け取るということであり、そこには積み重ねられた反芻が余韻のように読者に響いてくる。この句は、夜空にかかった天の川を、そのような一度しかできないような体験させるものであることを読者に気付かせ、それが、天の川を見つめる芭蕉の感慨として伝えられる。

似たようなことは、例えば、リルケは「生きとしいけるすべてのものと一つになる」体験として、文字通り「体験」というエッセイに書き記しています。トリエステのドゥイノの館で、「一冊の本を携えてぶらぶら歩きながら」、「とある小さな樹の、肩の高さほどのところにある叉にもたれかかった」ところが、えもいわれぬ「快いからだの安定と休息とを感じて、本を読むつもりだったことを忘れてしまい」、「自然に身を任せきって、自分でもそれと知らぬまに自然の奥処に見入っていた」というのです。リルケにとって、こういう体験は決して稀ではなく、エッセイの後半では、カプリ島のある館の庭で、鳥の声が「外部の空間と彼の内面とのけじめをわかたず」響き渡った体験を書き記しています。「彼」とはリルケ自身のことで、「そのとき、この星空の仮面にかくれて、宇宙の顔が彼に相対していたのだ。そして彼が、このような経験にいつまでも堪えていたときには、万象が彼の心の澄明な溶液の中で完全に溶けてしまい、彼の体内に全宇宙の味わいがしみわたったほどであった」というのです。神秘体験といっていい。リルケは幼いころからこの種の体験に見舞われていて、それは「陰鬱な幼時をふり返ってみても、このような捨身の時が、宇宙と合一する瞬間が、あったようにおもわれてならなかった」と。

リルケは、心身にしみわたり、内外との境界が溶けてしまうような体験として述べているのに対して、芭蕉の句では。突然、瞬間的に、生々しい感覚として全身で体験する。それが俳句という極端に短い詩句に凝縮して集中しているのです。だから、読者は体験を味わう間もなく、一瞬にして連れて行かれてしまうのです。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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