http://www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history_k/k04/index.html【第4章 松前藩の成立】より
鉦鼓をうちながら、背負い籠に、きびの国、むさしの国と名札をさした太田山詣での修行者ふたりと道づれになって、セキナヰの山川(関内川)をわたり、熊石に着いた。磯辺に雷神の祠があった。毘沙門天王の堂があるあたりに立っている大石の姿が、雲がわきでるさまに似ているので、この浦の名を雲石というのが正しいという人があるが、蝦夷ことばによく通じている人は、クマウシというアヰノことばであるといった。この浦の寺島某のもとに宿をかりる。夕暮れに水鶏(くいな)が軒先の梢で鳴いたのを、老女が遠い耳で、なんであろうと耳をそばたてて聞くと、かたわらで縫物をしていた女が、夜ごとなく谷鶏(やちにわとり)だとこたえて、あくびをした。こうして夜もふけていった。波の音がやかましく、眠るまもなく朝になった。
八日 天気はたいそうよいが、疲労からか頭が痛いので、きょうもこの宿にとまることにして、近くの門昌庵という寺のような庵に、常陸国(茨城県)多賀郡からうつり住んでいる実山上人を訪れた。上人は、この寺の由来を語ってくれた。福山の法幢寺の六世にあたる柏岩峰樹和尚は、世に知られた出家ではあったが、女色のこころがあると、人の讒言(ざんげん)によって山越の罪をうけ、遠くの浦に流されたがその方が建てられた庵である。ここで仏道修行しておられたが、ますます讒言が重なってなお罪を重くされ、いよいよ斬られるということになり、その討手がむかってきた。峰樹はもってのほかと無念に思い、わたしは無実の罪をうけてここに斬られよう、命はめされようとも魂は天に飛び地に去って、この恨みをはらそうと、りしぶをとり、さかぐりにくってうたれなさった。その首を福山でさらし首にしようと持っていく途中、道が遠いので江差の寺で一夜とまった。ところがその首をおいた一間から火がでて、この寺はすっかり焼けおちた。このような怨念によるたたりがしばしばあらわれたが、そちこちの方のお祈りのおかげで、いまはまったくなくなったという。
この庵をでて帰る道のかたわらで、節句の萱草をふいた家のうしろにある山梨(ズミ)の花にかくれて鳴く、うぐいすの声がおもしろかった。山かげに遅れた李の花がなかば散っているが、虎杖の高い垣にへだてられてみえた。日が暮れてから家にはいった。
九日 朝からふりだしたが、雨具をととのおえ、クマウシ(爾志郡熊石)をたって行くと、ここにもヒラタナ牛(平田内)という同じ地名があった。磯べの部落の小川の橋をわたり、相泊という磯辺に川があった。雨がわずかに降っても水かさが増して、わたることはむづかしい。この春も男がふたり、ここで流されて亡くなったというのは、出羽の国のつるはぎ川と同じであった。ここを人にたすけられてかろうじて渡った。この山奥の温泉に行く人があり、帰ってくる人もある。ケニウチにでると、小屋の軒にえびすめがたくさんかけて干してあった。すべてこの磯辺の昆布は帯のように細いので、ほそめというのか、ながめといおうかとひとりごとすると、後からやって来た男の言うことは、「東の磯(函館東方の海岸)にはおよばないが、過ぎて来られたウシジリのこちらのヒラダナヰ(平田内)の昆布はもっともよいものです。そのつぎがこのケニウチでしょう。今年はにしんがこのあたり群来(くき)なかったので、することもなく、いまからこのような仕事をしている。この辺のにしん漁のさかりには、海に魚は山をなし、銭かねはただ降って湧くもののように思われたが、いまこのけかち(飢餓)にあいました。しかし昆布が豊漁なので、この磯草を食べて命をつなげと天が授けてくださったのでしょうか」主食とする五穀のない島の悲哀を思いやるべきである。
相沼の浦近くフベツの小川をわたり、泊川という磯の部落につくと海上も暗くなり、とどろとどろと大島が鳴るような音を聞きながら過ぎた。雨の降るのはこの地方ではいつものことだと思っているうちに電光がひらめき、かみなりがなりわたるので、どこの家でも桑原と唱えている。いよいよ雨が激しくなり、沖の方に大木のようなものが波にゆられただよっているのは、水かさが増して橋が流されたのだと人が言った。ここの小さい部落の杉村某という漁師の粗末な家に宿をかりた。どこも鱈が豊漁で、家ごとに高く棒をよこたえて、たらをかけて干してあるので、その尾ひれをつたって降る五月雨(さみだれ)の雫に、下を行ききする者が着ている蓑笠もなまぐさくぬれた。なにか気分が落ちつかず、夜どおし安らかに寝られなかった。
十日 雨はなごりなくあがって海上はるかに晴れわたったが、まだ小川の水がふかいので、出立しないことにした。たくさんの鳥が散ってゆく花の枝でさえずるほどなく浜風に吹きさそわれているのを、子供たちがふりあおいでみて、「いなりのお山に、草でつくった巣のなかに、卵をうんださくら鳥こそ」と石つぶてを投げた。おだやかなのでそちこちを見歩いていると、粗末な漁師の家の軒に、五日の日にさしたしおれた芦を風が吹き落とした。「これは萱草ではないようだ」と言ふと、鱈を乾魚にするために木に組んだ乾場のもとで、いねむりをしながらうずくまっていた女がそれを聞いて、「しょうぶがないので、何の草でもよい、よごみといっしょにまぜてふいたのだ」というのもおもしろかった。
十一日 近いところまで行ければよいと思って、日が高くなってから出かけた。泊川の浜と相沼の浜の部落のあいだに祠がある。この神は、むかし、さめをとる網にかかってひきあげられた黒い石で、人がうずくまった形をしている。今はそれを境の権現としてあがめ、寛延年間(1750ごろ)修理を加えたという棟札がある。道いっぱいに女たちが蕨をたくさん背負って、それに藤の枝を折りそえて家路に帰ってゆく。そこへ背後から子供が走ってきて、「おみせするものがあるから早く帰っておいでなさいと主人が言ってよこしました。早くはやく」とせきたてられて、どんなものかとふたたび戻ってみると、沖からかちひき(沖から海岸へ網をひきあげる)ということをして網をひくのであった。「これをごらんなさい。いまとった新鮮な魚を料理してごちそうしてあげましょう」と言う主人の誠実な心がうれしいので、くださるものはいただきましょうと、きょうもまたこの宿にとどまって、網漁のようすをみることにした。岩が多いので引きにくそうで、この網にかかった魚は、そい、あぶらこ、たかのは、ゆげ、がぢ、じじなど、名を聞いたこともない魚がたいそう多く、ほんだわら、昆布のまじったなかから、子供がとりだしていた。
十二日 出発しようとすると、ゆうべの雨で相沼川の波が高いからと、主人にひきとめられた。わずかの雨のはれ間に、ふくめ(フグ)の皮の鼓を打ちながら、子供たちが遊んでいた。
十三日 雨がますます盛んに降るのに、笠もかぶらず、足も宙にして急いで走ってゆく男があるので、なにごとかと人に問うと、隣家の女房(あね)のつわりがひどいので、てんなくのところへと砂をふみちらして急いでいった。てんなくとは産婆をいうのである。
十五曰 くだりという風が南西方から吹いて空は晴れたが、川波が高いので往来がとまっている。きょうの晴れまにと、わかめ、昆布などの海草を浜に干していた。小さい舟で釣をしている老人のもとに近づいて乗せてもらったが、磯山おろしの風がはげしく吹き、舟がゆれて、寒いので帰ってきた。こうしてきょうも暮れた。「よいちになったので明日は雨がふり海も荒れよう。釣することはできない」と言う。ひるじゅうはないでいて夜にはいって風が立ってくる天候を、よいちというのである。
十六日 ゆうべの老漁師が占ったように、朝から雨が降って、海面は高波がたち、荒れている。荒れた波の上に、かたちは鵜のようで、鶴やくぐい(白鳥)より大きい鳥がうかんでいるのを何かと浦人にきくと、「あれはくろしかべといって、しかべという鳥の医者です」という。「しかべが魚を食って、骨がのどぶえにかかり死にそうになったりすると、このくろしかべがやってきて、くちばしでつついて直す。それで医者しかべなどとよんでいるのです」と答えた。
十七日 雨は晴れたが、多くの山川があふれ流れて、行きかうこともできないので、昼ごろ、子供をさそってあたりを見てあるくと、黒岩という窟(いわや)があって、円空法師の作った地蔵大師をまつっている。目を病む人は、米を持ってここに詣でると、ご利益があるという。またこの窟にかくれ座頭というものが住んでいて、正直なものには宝をさずけたところだなどと、とりとめのない物語を子供たちが集まってしていた。
二十一日 雨が毎日のようにふりつづいて、なお気分がよくないので、ひとしお物思いにふけった。このようなみちのくのさらに奥の島なので、五月になって日数もかなり過ぎたがまだ寒く、誰も薄い夏の着物にぬぎかえようとしない。夏草にまじるつつじや、わらび、青葉の木にまつわる藤の花もなかば散りかかり、磯の漁家をかこむ垣のめぐりに卯つ木はあるが、まだ花も咲かないので、ほととぎすの声もいっこうに聞くことができない。内地の国ぐには忙しく田植をするころであるが、この島ではそのような仕事もない。家の芦のすだれをかかげて、たくさん出ている釣舟をながめていると、磯辺で雨にぬれながら立っている老婆が、「あれをごらんなさい。二十、三十ほどの釣針に、ゆげ、あかぞいなどのいや(餌)をさして二百尋(ひろ)のつのをおろし、鱈のかかるのを待つ漁師の暮らしは荒潮のつらい仕事であろう。しかし、なれれば容易なことだと聞いています」などと話した。ゆげ、あかそいは魚の名で、餌のことはいやともえやともいい、つのとは餌の糸、釣糸のことである。
二十二日 わたしの体ぐあいはよくなったが、昨夜からの雨がこやみなくますます降りつのっているので、川の水もさらに高くなっていようと主人がいった。そこへ人がはいってきていうには、「きょう、山中の道で羆(しし)(ヒグマ)にあい、思いがけなくとびかかられて、身に傷を負ったが生命に別状はなかった。この島には、かもしか、狼、猿、猪などは住んでいないが、鹿と羆はたいそう多い。この羆ばかりがおそろしくて、だれでも野山の往来は不安なのです。それで、ひとり、ふたりの旅人ならば道連れになる人を待ってさそいあい、あるいは人を頼み、案内をたてて越えます。道もない深い山中を、わがもの顔でかけめぐる蝦夷人(アヰノ)でさえ、毒矢をもたないでは安心して行けません。『羆は三寸の草がくれ』といって、ひぐまはわずかの低い草むらでも伏しかくれ、身をひそめる術をもっているものです。まして夏草が高く茂りあっていては、羆が出ても、さきに進もうとしているか、止っているか、退いてゆくのか、どっちへ行くところか方向も知れない。また羆にふと行きあうと、とつぜんなので驚き、なおさら猛く暴れましょう。そのような時には気も心も魂も失せてしまうでしょう。そうした場合はまず心を落ちつけ、ほぐす《猟につかうたいまつをはさんでおく木》の火をうちだし、煙草をふかしながら何気ないふうで休んでいれば、羆は逃げ去るものです」これは唐(中国)の虎と同じく、羆も自分を恐れないものをこわがるくせがあるという。怒りたけった羆にむかっては鋭い鉾もつるぎもとうてい及びがたいが、アヰノの毒矢(毒はトリカブトを使う)はひとすじで射ころす。あるいはアヰマッフ(仕掛弓)といって、弓に毒矢をしかけておく。その弓弦に糸をはり、その糸にすこしでも触れれば、羆でも鹿でも、毒矢がさっととんできて獣のからだにたち、殺してしまう。「蝦夷の国の山中をわけ歩く人は、このようなことを心にとめておくべきです」と話った。
二十四日 ようやく鶏の鳴く早朝、戸をたたいて「川の水はまだ深いし、徒歩でいく山路の往来は絶えている。しかし舟路で行かれるのなら、いま出舟がある。さあ、お乗りになりませんか」とさそわれた。これは幸いなことと思い、すぐ起きだして、「これほどお世話になったお礼をいつかははたしたい」と家の人に別れのあいさつをして乗った。主人は妻子をつれて磯辺まで見送りにでて、手をあげて去っていった。あけ方の月がよく照って、舟にうちよせる波は雪か銀を砕いたように白く、そのなかを車がいでかきわけて進んだ。磯山の道を行ったとしたら、相沼、蝦夷村、泡泊、折戸(以上熊石町)などを経てゆくであろうと舟のなかでかぞえる間に、東の島々を離れた横雲が波の上にながれるようにかかり、月は白く残って西にかくれてゆき、やがて夜が明けて、強い風が吹いてきた。ひと騒ぎして木皮布(アツシ)の帆をかけると、潮風に吹きまくられて、舟はとぶように走り、波はますます高くなった。わたしはひどく酔って吐気をもよおし、舟底にころがっていたので、鍵懸沢、大岩などという景色のよい、かねて見ようと思っていたところもよそに、かろうじて蚊柱という浜についたのでおりた。鮪のうた、鮪川という小川の橋をわたると、水屋の浦(乙部町三ツ谷)になった。気分が悪いので、ここに住む阿部七郎兵衛という人の家にはいって、昼寝した。この浦の子供たちは、むしろ(ハマニンニク)という草で馬の形をつくり、鮑(あわび)の貝をくつにしてはいて歩いている。日はややかたむいて夕方になったので、この宿に泊った。
寛政元年のこの旅行で真澄は、こよなく愛し、その隅々までを知り尽した東北地方の生活、産業、慣習、文化を基調に、蝦夷地のそれを上積して、その知見を併せて集大成したのが、この書である。真澄は天明8(1788)年から寛政4(1792)年まで、蝦夷地には5年間の滞在期間中に、この“えみしのさへき”(蝦夷喧辞辯)のほか、“ひろめかり”、“えぞのてぶり”(蝦夷酒天布利)、“ちしまのいそ”(智誌麼濃胆岨)等の著をものしている。
この“えみしのさえき”の旅行記のなかで、鯡凶漁による熊石漁民の生活、さらには太田山からの帰路、5月3日に久遠(大成町)を出発して、熊石を経て、蚊柱(乙部町字豊浜)には同月24日に到着するまで、実に22日を要しており、この未開地域の陸路旅行が、いかに容易なものでなかったかを如実に表わしている。特に熊石では門昌庵住職実山和尚から聴いたという、この時代の門昌庵事件の考え方、見方は大いに注目される。さらには民族学者が捉えたアイヌ人の生活と文化、植物学、本草学(漢方医薬)上から見た蝦夷地の草木にいたるまであますところなく記述し、住民を主体にまとめ上げており、この面が熊石町民の歴史と深いかかわり合いをもっている。
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