松前藩の成立 ⑨

http://www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history_k/k04/index.html【第4章 松前藩の成立】より

 医療技術の発達しないこの時期には、家屋構造や生活の環境も悪かったので、多くの病気が潜在していた。当時の家屋構造は採光が悪く、冬期間はストーブもなく炉端で薪を燃して暖をとっていたので、煙のため目を悪くする者が多かったし、普通家屋では据風呂もなく、銭湯へは月3、4回入浴ということであったから身体も不潔で、その上炉辺で火に当るのでヒセン、カイカイ等の皮膚病の発生が非常に多かった。また、飲料水も川水を利用する家屋が多かったので、トラホーム眼疾に罹患する者が多く、果ては悪化して失明する者もあった。

 病気の場合、医師の診断を受ける者は少なく、多くは売薬で済ませた。天保年間頃には富山の売薬業者才田屋勘七が、松前藩領内の売薬行商を許可されており、8、9月に各家庭を巡って薬品の入った袋を置いて行き、翌年来たときに前年の使用品の清算をするという方式になっていた。袋の内容品は、熱解(さま)し、風邪薬、腹痛み止、下痢止、傷薬、神薬、目薬等で、この行商巡回も地方の風物詩の一つであった。

 当時不治の病といわれたものに梅毒と結核があった。出稼人や船乗りの多い蝦夷地では女性を求める者が多く、遊廓等もあってそれに応える職業の女性が多かった。また、社会福祉の充実していなかった当代では、夫に病没されたり、海難事故のため孀(やもめ)となった女性は、子供を抱え生きるため私娼として体を売るものがいた。松浦武四郎の記録を見ると、これらの女性のことを熊石では「新鱈(しんたら)」と呼び、蚊柱では「カド」(にしんのこと)と呼んでいた。これらの女性は性病を持っている者があり、接触によって性病を罹患し、放置すると梅毒に移向し、固定化して不治の病となる者があり、体中に異状な腫物が出来たり、腱毛が抜けたり、甚だしい者は鼻が欠けるものもあり、その結果、子孫に痴呆者が生まれるなどの影響を残した。

 肺結核は癆痃(ろうがい)とも呼ばれ専ら不治の病として恐れられた。その原因は過度の労働、栄養不良、環境の変化等によるものとされていたが、村から旅に出稼したような場合、罹病して帰るという者が多かった。結核は空気伝染するので、隔離しなければならないので、納屋等に病床を造り、栄養になるような食事を与え療養させた。しかし、根本治療の方策のない当代では、只死を待つだけであった。一旦患者が出ると、肺病やみと言って病気の移るのを恐れて近隣も寄り付かず、一人の患者の出たことによって家族10人が次々死んで行ったという悲しい記録もある。

 この様な病気や疱瘡、疫痢や流行性感冒等が流行すると基礎的治療のないこの時代は、医薬の効果と併せ、神仏の加護に頼った。一度これらの病気が流行すると神社では病魔退散のお祓や神楽をしたり、寺や地蔵堂に夜集まって数珠を廻し、読経して病気の平瘉を願ったり、家々の門口には護符を下げて病の入るのを防ぎ、また、家庭では赤飯を炊いて米のサンダワラに載せ、夜これを糸で曳いて鉦(かね)を叩きながら村外れに病送りをする等種々のことが行われていた。

 第12節 旅行者の記録に見る村の変化

 

 蝦夷地という未開の大島で、しかも異なった文化、経済、言語を持つアイヌ人の多く居住する地を、関心を持つ者は一度は調査したいと念願していた。しかし、松前藩は領内に米産がないため、徒食の民の増加を極力押え、それがため、松前に身元引受人のないものは一切入国を許さなかった。従って入国する探検家も松前家と何らかのつながりを持つか、幕府巡見使の一行の中に何らかの形で加わって来て、調査結果をまとめて刊行するより方法がなかった。有名な古川古松軒の“東遊雑記”も、天明8(1788)年巡見使に帯同して来てまとめたものである。

 この天明から寛政期にかけ、蝦夷地と連なる外周地域にロシアの南下政策の展開があり、この風評の伝わることを恐れた松前藩は、入国者の身元調査の徹底を図り、うろんな者の入国を許さなかったので、熊石付近まで旅行をし、記録をものする人はなかった。菅江真澄の旅行記はその点では異例のことであり、また、代表的なものである。文化~文政(1807~22)以降の幕府の蝦夷地直轄期には、江戸や東北地方の諸藩士等が、この地に入り、自分の郷国と対比しながら、この国の風俗、産業、民俗、文化をまとめていて、熊石町の場合でも、町の成勢発展の過程をしるため、これらの資料は貴重なものである。

 菅江真澄の旅行記

 えみしのさえき

 秋田の旅行家、民俗学者である菅江真澄が、寛政元(1789)年4月19日霊峰太田山を巡拝し、併せて途中の住民生活、民俗等を調査しようと、西蝦夷地を旅行した際の記録で、6月30日松前に帰着している。

 四月二十八日(便船により太田山へ向かう)

 二十八日 早朝、「よい便船があるから、お乗りなさい、と人が知らせてきた」と小坊主が言うので、出発することにした。「またご厄介になります」と挨拶して、いそいで津鼻(花)というところから乗船した。

 あしさぶ(厚沢部)、乙部、水屋、蚊柱(爾志郡乙部村)などという浦々を漕ぎ進むと、ここでごめという鳥(カモメ)が、たいそう多くむらがっていた。夕日が波に沈んで暮れて行く。何をしるべにしてか、たくさんの船が、暗くなった船路をおくれたりさきだったりして、波をかきわけてゆく。相沼(熊石町)という浦に泊まろうと、いかりをおろして船をおり、東の海の白符(福島町)の漁師で阿部某という、にしん漁を家業とする人が、この浦で営んでいる苫小屋に宿をかりた。ここかしこに漁火を焚いているのかと思って見渡すと、浜辺に立ちならぶ丸屋形(丸小屋)のなかで大ぜいの人が焚火のまわりに居ならび、三味線をかきならしながら歌をうたっている。陸小屋の窓からもれる灯の光などは、河辺の蛍のようにたくさん見える。この火かげでうかがうと、軒端に高く木を立て、それに鱈の肉を乾肉(ほじし)にするといって、さいてかけならべたところを魚屋(なや)というが、それがよく見え、その臭さはしのびがたいほどであった。こうして夜もすっかり更けていった。

 

菅江真澄筆えみしのさえき(秋田県立図書館蔵)

 二十九日 まだ明けきらぬ海の面に、大ぜいの人の歌をうたう声がして、「よい風が吹いてきた、これを追手に船出しよう。はやく乗れ、やい」とよぶので、人々とともにのりこむ間もなく、梶をおろし、帆縄をひいて沖合いをすすんだ。

 五月三日(太田山よりの帰路)

 朝の雨のはれ間に、このクドフ(久遠)のアヰノの住む部落を出立して、ヒカタ泊、湯の尻、レンガヰウダ、小川尻を経てウシジリという山川の岸にくると、アヰノの長(おとな)(村長、部落の頭)がすんでいた。家の前に垣根のようなさまに木を結い、それにイナヲ(木の削った幣)をかけて神(カムイ)として祀っている。水源の山の岩が高くそばたち、人がのぼることもできないほどけわしいところにコタンがあり、そこをチャシという。チャシとは戦(サントミ)のときにたてこもる、アヰノのくにの柵(き)(敵の襲来を防ぐために垣や堀をめぐらしたとりで)、稲置(いなぎ)(古く軍事の急ある時、家の周囲に稲束を積んで敵の矢を防いだもの)といったものであろうか。

 ひらたない(久遠郡平田内)についた。これから行くさきの山中には、周囲七、八寸(20センチ以上)もある太い虎杖が道をふさいで高く茂り、羆(ひぐま)がすむといって行きかう人もまったくないので、ここの磯舟にのって行こうとしたが波が荒く、きょうも沖をゆく船が一隻難破したなどと、人々が言いさわいでいる始末なので、心細く、どうしょうもなくて、ようやくささやかな家があるのに頼んで泊まらしてもらうことにした。そこの主人が言うには、「さぞ挟くるしい宿と、きっとお思いになるでしょうが、世渡りの仕事として、こんな畑小屋のような家に住んでいるのです。けれどもにしんが群来(くき)てくるころは、都会の雑踏にもまさるほど賑わしくなり、海は真白くしろみわたって、やす(銛)の柄、舟のかい(櫂)などを魚の群のなかに立てても、土にさしたようで倒れもしません。舟は木の葉を散らしたようにたくさん漕ぎだし、櫓梶の音が山をゆるがすように響き、昼夜をわかたず海と陸とを人が往来して忙しい。また火をたてるといって、ここの磯から火を高く焚いて、にしんの群がきたと、ほかの浦に知らせます。すると、あそこの浦に火が立ったぞなどといって、急いで舟をとばせてくる。また追にしんの漁といって、どこの浦からともなく漁師が漕ぎよせてきて、野にも山にもまるやかた(丸小屋)をたてて住んでいるが、にしんが群来てこない間は、ただ酒もりをして歌い、舞い、三味線の音を海山にひびかせて、夜は寝もせず、顔かたちのすぐれている女(なかのり)をみて通いあるくのを若者たちのならわしとしています。にしんの魚をさき、飯をたく女たちを中に乗せて漁舟がくるので、にしん場ではこのような女をなかのりというのです。魚場(なんば)うりといって、あれこれの物を商う人もくるが、銭もこがねもみな海から湧きでるようにあふれて山をなしているから、結構商売になります。ところで、その漁期には七つの忌(い)みことばがあるのです。鹿は角あるもの、鰯はこまもの、鯨はゑみす、鱒は夏もの、蛇はながいもの、きつねはいなり、羆(しし)(ヒグマ)は山の人とか山おやじなどと、忌みことばでよんでいます。これをうっかり犯したものは、男でも女でも、腰に大綱をつけて、大ぜいでよりをかけ、ひいてあるいたり、あるものは海にほうりこんで、荒潮のつらいめにあわせるのです。これをのがれるためには、酒をたくさん買ってみんなに飲ませ、砂地に額をすりつけて詫びるといいます。にしん漁の間に人が亡くなると、忙しいので葬式もせずにかり埋めということをしておいて、漁期が終った六月の末か七月になってから葬式をする習慣になっています」などと語りあっていると、その家のうしろの戸に、犬がほえながら逃げてきてぶつかった。たぶん羆(しし)が来たのであろうという。家のあたりにもくるのかと尋ねたのに答えて、「近年、この魚屋(なや)にはいって、にしんの子(かずのこ)一俵を食らって海水を飲んだので、腹がふくれたのでしょう、その羆の背がさけて、肉塊をはいて磯辺に倒れて死んでしまいました。このごろも、野飼いの馬(放牧馬)をとって食ったそうです」などという物語をしているうちに夜もふけ、波の音もたいそう静かになって、雨が降り出した。わたしは夜が明けたら早く出かけたいというと、主人の妻が、「柱にこもをまいて寝なさい」と言った。柱にこもをまいて寝るのは、朝寝しないまじないだという。

菅江真澄筆えみしのさえき中の熊石記事(秋田県立図書館蔵)

 四日 昨夜からの雨は朝晴れていたが、風がよくないので舟は出せない。まだ二、三日はよいなぎはないであろうという。この宿の人々がウシジリという山奥の温泉に行くといって支度をしているので、「わたしもそのいで湯をみたい」というと、「いっしょに行こう」とさそわれた。きのうたどってきた大川の蝦夷の住家のほとりを、川辺づたいに木賊(とくさ)の原をわけて行く、篠竹のなかをかきわけて進むと、路はまったくなく、倒れた木をわたり、かずら(蔓)をつかみながら、この一筋のさかまく流れの川を三十回ばかりもはいってわたった。川中の水のたいそう深いところで、先頭の老人が、「杖は川下に立てろ、川上については倒され、身を流すようなことになる」と声高く言った。山々の雪がとけて流れているのであろう、だれも、ああ冷たい、と顔色をかえ、身をふるわせて、みちは二里ほどしかないのにひどく難渋した。ようやくつくと、深い谷の底を流れる渓流にたぎりまじって湧きでる湯があった。二十尋(百尺以上)ばかりの高岩にかかって、滝のように落ちて流れる湯もあった。まず入浴するところをつくろうと、木を伐ってたて、菅ごもで周囲をかこい、のま《浦人は苫をノマといっている》で屋根をおおい、むしろを敷くと小屋ができあがった。みんな着物をぬいで、ともに湯をあびたが、熱さが身にしみるような湯があり、またたいそうぬるくすずしい湯(冷泉)もわいていた。この岩岸にイナヲがたててあり、岩の間、木の枝にもたくさんかけてあるのは、アヰノらがここで湯あみして、湯の神をまつったのであろう。老人が、「この湯には、知らない旅人が、うっかり来て入浴してはならない。大人(おおひと)といって、口は耳までさけ、身丈のたいそう高いものが普通の人のように化けていりまじり、そして身の筋をぬくことがある。この山にはそのようなものが住んでいるので、大人と羆(しし)のことはけっして口にしてはならない」と語った。女の子が「この峰から大人がどんどろ《どんどろとは大木を三尺ほどに伐ったものをいう》や大石などをころがし落とすことがあると聞いた」などと、耳に口をあててささやいた。日が暮れると湯あみもやめて、たきぎを高く積み、火を焚いて、七、八人のひとがそろって寝た。焚火はさかんに音をたてて燃えあがったが、それは羆(しし)を寄せつけない防備のためであると知られた。滝の流れる音に寝つかれず、いっそう故郷がしのばれて、いろいろ回想しているとき、軒近くきて、まおまおとながやかに鳴く鳥はうぶめ(トラツグミ)らしい。笛の音かと思われる鳥は、のどよひのようだ。

 五日になった。雨がふりだしたので、川水はますます増すであろうと、超山法師にたすけられて、きのう渡った川の岸辺をそちこちめぐってみると、桜がところどころ咲いていた。ふたたびヒラダナヰ(平田内)に来た。ここの漁師たちの住家には、五月の節句だから蓬(よごみ)(エゾヨゴミ)、萱草(エゾカンゾウ)をふいていたが、この辺にはあやめのないことが知られた。よもぎをよごみともっぱらいうのである。萱草をわすれぐさというのは、ふるくからのことばである。前に泊まった家にふたたび宿をかりた。すずのたか葉のまきといって、山管で結んだ笹巻きをすすめ、土■(国がまえに欒)(ほど)児(ほどいも)をたべなさいと、もてなしてくれるうちに夜になった。この浦は燃料に流木だけを焚くので、家族のひとたちの顔色は腐った藍色をしてみえる。これはどうしてかというと、海の流木の焚火の光に照されたからであろう。囲炉裏に居ならんでいる人たちの頭に、じみという小虫がごみのように落ちかかってうるさい。しかたなしに顔をものでおおって寝た。

 六日 雨が降ったので朝寝をして、ゆっくり起きだし、雨の軒端にたってみていると、毛皮を着たふたりのアヰノが船をとばして近づいてきた。やがてこの浜に上陸して、夕暮れになってから、沖の余波(なごろ)(風のあとの静まらない波)のたつのをかきわけて去っていった。真暗になってから、あかりが浮きしずみしてみえるのは漁火をたいているのかと問うと、津軽あじが沢(青森県西津軽郡鰺が沢町)の漁師の舟が、あのあたりで難破して大ぜいの人が死んだので、それらの亡霊火(もれび)であろう、なもあみだといって、戸をとざした。

七日 雨は晴れず、きのうのように降りつづくので、子供たちはてろてろぼうずといって、紙で人形をつくり、頭からまっふたつに切って、その半身ごとに糸をつけ、これをさかさまに木の枝に吊して、この雨がはれるように祈る。もしこうして雨がはれるようなことがあると、このてろてろぼうずをひとつに合せ、完全な形にして、ごちそうしてお礼申すという。この蝦夷人(アヰノ)らにまじって住むような土地のものたちとすれば珍しい風俗であるが、にしん漁のため福山の港(松前町)から親といっしょにきている子供なので、このようなことを知っていたのであろう。まことにこのお祈りのおかげか、雨もやんで、さあ出発しようと宿の主人と別れて沖の方を望むと、ヲコシリ(奥尻島)もあらわれてみえた。

 弓(グウ)を頭にひっかけ、重そうなこも包みにイカヰフ(毒矢いれ)をそえて、それを背負ったアヰノが行くので、これで荒熊の恐れもない、さいわいな案内者だと思った。かれに行く先の地名を問うと、まず、寄木うた、カイドロマ(貝取澗)、イシカイドロマ、キシノワシリ、チラチラ、あなま、ニビシナヰ、ふやげま、たきのま、タンネヒラ、ポンナイ、でけま、セキナイ、(関内)、クロワシリ、まるやま(丸山)、ビンノマ(便澗)ポロモヰ(幌目)、はたけなか(畠中)、熊石(久遠郡大成町から爾志郡熊石町へかけての集落)と指を折り数えた。この和人(シヤモ)ことばに通じるアヰノと語りながら浜路をいった。群だつ岩をわたり、谷にくだったり、高い峰をわけてくると、桜が咲いていた。超山法師は、よい便船があるから船路で行くというのでここで別れた。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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