http://www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history_k/k04/index.html【第4章 松前藩の成立】より
天辺飛鴻
島田 熊次郎筆
安政元(1854)年蝦夷地地域の実態調査のため渡島した、幕府御目付堀織部正、御勘定吟味役村垣与三郎らの一行五十余人のうちの一人、用人島田熊次郎の蝦夷地調査記録である。
略…突符(乙部町元和)村には窓岩とて、海上に突出たる大石に大穴ありて窓の如し、三ツ谷(同町)には往来より左は海岸に下り行けば、ヲカシナイという岩の出崎ありヲカシナイともいう。この岩の鼻を海の方より見れば、眉目鼻口舌髪の模様まで岩皺に成て翁の面髣髴(ほうふつ)たりという。ヲカシも翁の笑うにや。ナイは川或は沢などいう、此の岩の下即ち石門を成し人を通す。門下四、五十人を容るべし、亦奇石なり、十里余。
熊石に宿す。
松前より廿五里余、陸行はここまでにて、明日より掻送(かいおく)り舟にて海上八十里余、蝦夷地マシケに至るなり。当所までは村つづきにて、是より蝦夷地と称す。舟ならでは往復なし。他国の旅人は松前にて国禁と唱えて固く制するなり。且又稼として蝦夷地に入るもの官署の印なくしては、ここより北行許すことなしという。当地まで男女の風俗も差して松前に替ることなし。婦人眉するもあり、そらぬもあり、言語も替らず、是は村々船付きもあり、諸国商人も入る故なるべし。松前を出でてより、田畑など心付くるに広き地所はあれども、一向に鋤(すき)たる様子もなし、土人は田畑つくる業を知らず、回船の都合も自由なれば、食料は欠くことなく鷹揚(おうよう)になる事なり。是は松前、蝦夷地一般の風致にて凡そ稼業は、三季の二・八とりと号して皆蝦夷地へ日雇稼に入るなり。春は鯡とり、夏は昆布、鮑(あわび)の類、秋は秋味とて鮭の漁あり。松前・箱館・江差辺の大商人共元締として人夫を駆り雇い、蝦中場所持の所に至り漁業して、十分の二分を場所持(運上屋と唱)に容れ、八分をとりて日雇のもの、その他諸色に配当する也。大漁のときは三季合わせて日雇一人前配分手取二十四両或は五十両位の稼はある由。されば耕耘の夏畦(かけい)もなく、一生貪窶(ひんく)に困って漁業の易きに依着して、両三口は食ふべし、萬頃(ばんけい)(ひろびろとした)の海面は、安養無量の美田と思ひ、一葉の扁舟は逸楽富貴の雲を細する弘誓(ぐせい)(広く助ける)の助としるものをたとひ田地のたしかなる無尽蔵の活計ありとも、粒々辛苦の禁句をもって、縁なき衆生は度しかたかるなり。
馬は往昔戸川氏肝煎して蒔付たりとて、野馬多く肥出てたり、不朽の規模と謂べし。広野の来高山の嶺に群をなし、嘲(わらひ)走る曰に捕て服業し、暮には野外に放してやるなり。性馴良にして齧(けつ)蹄なく(蹄鉄がない)、鞍味も至極おだやかなり。
十四曰掻送船に乗り開帆す。
この記録で、熊石地方住民の生活収入について触れているが、最低者でも二十四、五両という収入であり、その期江戸庶民の収入平均の約4倍に上るものであり、地域差からの物価高を考慮しても熊石住民の生活は楽であったことが考えられる。
また、熊石には戸川氏の経営する馬の牧場があって、多くの良馬を産出していたことが記録されているが、これは後出“罕有曰記”に出てくる、岡村佐之助が経営するものではないかと考えられる。
罕有(かんいう)日記
罕有とは極めて稀なる出来事を記した日記という意味である。蝦夷地が安政元(1854)年公収されて以来、同6年東北六藩に分治されるまで、蝦夷地を開拓して分領化を図ろうとする諸藩の調査を命じた。これによって越後村上藩、越後長岡藩、越前大野藩等が安政4年家臣を派遣して、蝦夷地の巡回調査をした。この“罕有日記”は越後長岡藩の家臣森一馬と高井佐藤太及び従者高野嘉左衛門の3人が、藩主牧野備前守の命によって安政4年5月以降、蝦夷地を巡回調査をした際の記録で、全9巻から成っており、熊石にかかわることはそのうちの第2巻に、5月20日より24日までの記録である。
蚊柱(現豊浜)宿乙部より三里
百餘間町並にて家作もよし、岡村道軒に午食す世に医を業とするよし好家奇麗なり。麗(うるわ)しき女房の出酒を勧め又五七盃を傾けたり。宿端より浜辺を行、又坂道三十町餘嶮坂二ツ、狭き沢合三ツ、中の沢を鍵懸沢といふよし。踰(こえ)て汀(なざさ)江下り、蚊柱村より壱里程にて相沼内川渉(わた)り十二、三間渡て相沼内村家数六、七拾軒、村續にて
泊川宿
家数二百六、七十戸黒岩村、見日(けんにち)村二村の戸数を込聊(いささ)か行て道の右に四、五丈の巨岩あり。頭上に覆はんとするが如し、黒岩と 字す。過て黒岩村泊川枝村続て原村を踰(こ)へ見日村泊川村の枝村弐拾軒程村端に見日川なり。能石の後口なる見日山より流れ出るなりと。昨夜の雨に水嵩(かさ)く掲厲(けいれい)(高く掲げて水を渡ること)なし難き旨村吏より申出、船にて海面を越せよと請にまかせて乗船す。船長さ六、七間揖取に十九人波上和らかにして舟行早く、見日川はさまぞの水嵩とも見えず、予等を尊敬するの故なるべし。
前山を抜て見日岳見へたり、高岳にして残雪あり山裾温泉場あり此辺より二里といふ相泊村熊石支村ヲヒタライ(ヒラタナイ)ノ出崎ヲヒタライ川、皆右に見て熊石宿に着岸す。七ツ時(午後四時)前なり。宿役人数人麻上下にて着岸場まで出迎する事例の如し。
熊石宿蚊柱村より三里 寺山(島)善四郎に舎
戸数枝村とも三百軒なりと。家立山海に沿て出入し壱里許(ばかり)あるべし。大小豆、大根、午蒡等の畑有りと、海面岩石多く夏雲の片時奇峰を作るが如し、よって雲石村と名付るなりと。今は転して熊石といふ。此宿蝦夷他の境にして箱館より吏人出張なり。子轟(髙井)は支度を調ひ、役宅江参り折口善兵衛江安着するを達し来る此仁同役小沢啓次上役山田織之助也、右両人クトウ場所江山道切開きの事にて出役なりと山田氏御調下役外両人は同心か詳かならず 此地よりクトウ宿まで従来山路嶮悪にて総て搔送り船にて往来也。風波の日には逗留いたし来るよりなり。当春より山道開発普請にて当時最中のよしなり。クトウ以南二里程の間、来た切り終らずといふ。今日は朝より海霧深くしばしば酒力にて補ひしに、邪気の故にや快然せず、夕食の後疾(はや)く休息す。
今午食の家当時岡村佐之助といふよし当十八才好男子なり 幼年の頃親道軒が家業を教んと奥の廣前(弘前)江遣し、医業を学はせしか、馬僻(癖)(馬好き)にて医を好まず、遂に同藩士寺山新四郎なる人に馬術を学び来り、家業を捨て、今は村吏を勤めるよしなり。午食畢(おわり)て発途より鞍馬に跨(また)がりて従ひ来り、馬術、医業其外とも色いろの談あり、其馬駿足其馭(ぎよ)も亦工(またたくみ)なり。山上壱里余の間並び馳せしに、予は常に後れたり。遠境の一興ともいふべし。又予が船に乗りて熊石まで来る所用ありしや、今日途中三谷村辺まで案内人いふ。当年は珍らしき鯡(にしん)漁多く来りて、小茂内より此辺まで家毎に七、八金より十金までも得候なりと。
罕有日記の熊石部分(市立函館図書館蔵)
五月二十二日烈風雨 熊石逗留
昨夜より風烈しく波涛怒りて枕上に喧(かまび)し、且夕にいたりて雨も交りいたる。村役人来謁してこの風雨にては船行は所詮(しょせん)相成り難し、人脚にて山道を越ひゐふや或は御逗留にありやと伺候す。即人足を命じて例により速く発途す。此時風雨弥(いよいよ)増なり。此山路人足にて越る事今日初発なりと本馬壱疋の荷物に人足十人を出し午■(食へんに乍)(ひるめし)飯いふも更に当夜泊りの用意と見へて白米等を持出す其大造なる事夥し 主従皆雨衣草鞋を穿ち、嶮岨奔流おも渡らんと勇み進んで打立ちぬ。村外海面奇石多し、半里程も来りしに風雨烈しく宿役人足のいふ、かかる大風雨にては所詮山道は踰(こえ)難し、假令(たとえ)道路の嶮悪はいとひ玉わすとも、処々澗水湧出て歩行渉りは難義し給うなり、増して荷物を負ふては、難ンなく渡り得ん事覚束なし、希(ねがわく)は是より御帰りありて、熊石に御逗留あれと異口同音に申出、余儀なく杖を返し昨夜の家に寓す。又村吏数人来謁して安否を問ふ。風雨を侵して寒へたれは炭火を請ひ衾衣(よぎ)を纏(まとえ)ふて休足す。午■(食へんに乍)睡眠の折柄村上衆も来着なりと、忠太可喜ひ来て達す。睡り覚て徒然の余り俚詩なと書つらねて日を消す。夜に至て猶風雨強し、波涛の音は百千の雷の如し。
今日梅雨に入るにて温器を験する事五十六度なり。終日綿入小袖三裘(きう)着用。今朝発途の節、村中桜花を見る。
五月廿三日夕刻晴 熊石逗留
未明に村吏来て今日波浪荒く掻送り船は相叶ひ不申候なりと。山路はいかにと尋合せしに、一昨夜より風雨にて新路の破損は言も更に、ウスベツ川出水にて通行なり難しと。村上衆の様子を承れば、同しく逗留の由なり。且昨夕山田織之助当所詰役クトウより帰着の由にて、村吏を走らせ模様を尋るに、昨昼前にウスベツ川は馬にて渡りしが、鐙(あぶみ)の上迄水に漬しければ、今日はいよいよ渉(わた)り難(かた)からんとの挨拶なり、ここは止むを得しと又逗留。
朝より風雨繁く怒浪の声は耳に喧(かまび)し、風邪も快くなし薬を煎じ衾(よぎ)を覆ふて休息す。午飯の後、彼蝦夷人通言を写す。他日村上衆より承るに蝦夷人通言は今上梓(すい)して藻汐草と題す数日の写字無益なり或は旧作を読む徒然(つれづれ)の余り、村上衆の旅舎を訪ひしに、松前以来僅かの日数なれども種々珍談あり。且つ十五沢越には風烈しく度々戦慄ありと。辞して帰寓の後に雨晴れ、風散じて波上も静かなれば、磯辺に釣して無聊(むりょう)を凌ぎ、夕膳一杯を傾け些(いささか)の誌をのして休に就く。
五月廿四日 泊クトウ五里十六丁
夜明て村吏伺候し、未た波静かならず山路は渓水減じ候。なれば人馬の手配の手配り候なりと言々、急ぎ朝飯を認めて馬に跨る鞍の具は是より海路多ければ箇しまゝ用ひず、駄馬に乗る寓舎半里程は家立なり、海面総て岩礁(がんしょう)多く危態断続して夏雲の如く、雲石と名付るは此中ならん、奇岩といふべし。宿端より坂に登り、山路坦夷(たんい)(平坦なこと)、右は連山、左は大洋なり。磯辺に黒岩あり、黒走りといふ。夷語に岩間伝えに歩むをおはしりという又チラチラ石も涯下に見へたり。壱里程にて坂を下り、浜江出セキナイ熊石の支郷也。一渓流を隔て家立拾五軒皆漁宿なり。五、六間の渉り川北左右に家立す土人アッセセタナイ、コッチセッタイという此流に添ふて沢深く幅は狭し、地味耕すべし。此村北を蝦夷地境とするよしなり。是より山路営造(ふしん)の地なり、坂を上り山路十町許り浜に出奇岩多く、子プスイ地名立岩二つあり、又坂道壱里余りにて浜辺に下りカイトリヤなり。此地まで連山の腰を劈(つんざ)き抜いて新道を作るなれば、昇降限りもなく渓流歩行渡りもしばしばなり。素より欝樹(うつじゅ)茂林多く、時々藤蔓に笠を引かれ、或は垂枝に袖を止めらる。新造なれば途上もいまだ堅実ならず、泥土の深きは四蹄共に埋りて殆(ほとん)ど危ふかりし、行路難なり。年を経て良き街道ともなるべにふを(ママ)し、此造興なくんば熊石に滯道は必定なり、流石(さすが)公領也。此新開江差町仁右衛門請負にて造る
貝トリヤ村
海湾に添うて番屋あり。番屋は運上屋より造置ものなり漁村番人を遺し漁猟をなさしむ且つ夷人をして其法令を受けしむ為なり外に漁家四、五軒あり、番屋にて午饁(ごよう)(昼食のこと)す。村上衆も同席此番屋主人村端まで出迎し、又クトウまで護送す。夷人運上家毎に番人一人を出し護送し且案内すること以下同じ村端まで又急坂を登り、山路五、六丁にて下り沙トマリ沢間壱町余の澗にして谷川あり。四、五間の板橋馬は渉又坂路、妻手(つまて)に八、九丈の巨岩あり。中に牡戸形を備ふ。造物主人の戯謔(ぎぎゃぐ)といふべし。山道沢あり峻坂半里強にて下り、浜辺八、九町平田内(ヒラタナイ)なり。此途上昇降のけわしき茂林の体昼前に同じ。山竹密に先立事数十町なり、又太蕨布が如き場所あり。平田内村夷人なし小湾に添て漁家三、四宇一軒幾家内も同居の体に見えたり他日承はれば出稼の者来り居るなり
従来人馬継立す。新道造営以来人馬の往来初見なれば、家々の小児等相喜び駄馬に従って数町来る。此村に平田内川渉り浜辺十余町にてウスベツ川十五、六間の澗川の為に二日の滞留をなすなり嗚呼悪(ああにく)むべし踰(こえ)て壱弐町にて又小川十間程渉渉て坂路山路弐拾町余にて磯辺に下りクトウ宿なり。此山路も亦昇降引も切らず、嶮岨いうに堪へず。渓流処々或は渉り又土橋を架す。此辺林樹欝蒼(うっそう)として丈高し、松前以北初見の地味にて故郷の山にも替りなし。新途泥深き地は馬足も立難き程なり。蝦夷の事なればこそ無理無理通行馬も人も骨折れ腹もめて難義なり
この“罕有日記”という標題が示すとおり、筆者の森一馬は漢学の造詣が深く、難解な文章が多いが、蝦夷他の初見と興味を本州人(内地人)はどう見ていたかは注目されるところである。
この年は鯡が豊漁で住民の生活は豊かであったが、松前藩から上地した幕府が、乙部から熊石までを公領としていたがその運営をよく示す史料である。さらに熊石在住調役下役山田織之助が、この年3月着手した熊石村関内から久遠を経て、太櫓場所のラルイシまで約48キロメートル間の工事の成功に熱意を燃している姿がうかがわれ、新旧道路の対比、当時の交通状況を如実に表現している。
(山田織之助は熊石在住中の文久3(1863)年9月20日病没し、孝雲院義山良忠居士の謚号で門昌庵に葬られている)
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