松前藩の成立 ⑧

http://www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history_k/k04/index.html【第4章 松前藩の成立】より

第10節 寛保元年の大津波

 寛保元(1741)年7月16日、松前町から南西60キロメートルの日本海上にある火山島松前大島が突然噴火した。

その状況は“福山秘府”によれば「西部大島発火震動如大山之崩、亦雨白灰黒砂積地上深者数寸」とある。ちょうどこの日は旧盆引の日で、各村々では住民達は盆踊に夢中であったというが、恐怖のあまり村民は家に帰り、神、仏に灯を上げて、ひたすらこの島の爆発の鎮まるのを念じていたという。

 ところが7月19日朝明六ツ時(午前6時)突然津浪が起き、東は松前弁天島から西は熊石村にいたる約130キロメートル間の海岸に大津浪が襲来した。この被害の状況について松前領主松前志摩守邦廣から徳川幕府に対し次の報告がなされた。

 上 覚

 松前志摩守領分従松前東西在々七月十九日未明、津浪打入民家夥鋪流失溺死之者多御座候由、尤船抔松前近辺不残流失破船等多御座候段申越候、委細之義者追而可申上旨申越侯、先右之趣御届申上侯。

 以上

 八月廿日

 松前志摩守内

 河合九郎兵衛

 (“松前年々記”)

 松前からの報告は一か月かかって江戸に達し、松前藩邸留守居役河合九郎兵衛から取りあえず口上書を以て報告をした。その後9月10日に到って藩から詳細な報告が届き、次の報告書を月番老申松平伊豆守信祝に対して提出した。

 当月十九日明六ツ時前私領内三十里之間津浪打候而浜辺住居之者共溺死并流家左之通御座候。

 千二百三十六人溺死、内男八百二十六人、女四百十人外ニ他国者僧俗共二百三十一人溺死、七百二十九軒流家、三十三軒潰家、四軒流蔵、二十五軒潰蔵

 此節破船仕候舟数大小千五百二十一艘、右之内猟船千三百二十九艘破船仕候、此段御届申上候 以上

 七月

 松前 志摩守

というもので、溺死者は総数1467人、流失倒壊家屋791戸、漁船の遭難は1521艘に達する未曾有の大被害を受けたことが記録されている。幕府もこの被害を聴いて老中松平左近将監が心配し、さらに詳細に被害を報告するよう指示をしている。

松前大島の現況

 この津浪について熊石村ではどのような被害を受けたのであろう。浄土宗法蔵寺の記録によれば、

 寛保元年七月十九日九ツ半時(十二時半)頃大津浪堂舎不残流ス、留守居海心房死僕喜八溺死諸書書物流失ス、本尊菩薩半鐘双盤平田内川上ニテ見出ス

とあって堂宇も流失し、留守僧及び従僕も死亡する程の惨害であった。この流失した半鐘は今も寺宝として説明を付して保存されている。また、同寺過去帳によれば

 寛保元年酉七月十九日

 栄水信士 勘右衛門弟

 浄泉童子 同右

 請覚信士 弥右衛門妻弟也

 圓水信士 藤左衛門

 浄廓自念 和田屋仁兵衛

 三誉光心 飯田屋七太郎母(ビンノ間)

 檀林双鶴 飯田久助(ホロメ)

 它心了運 勘右衛門兄

 妙心信女 松右衛門内(ホロメ)

と9人の死者のあったことが記録されている。また、相沼無量寺の過去帳によれば、この7月19日の死者は、男32人、女40人、子供38入計110人の死者が出たことが記録されている。この記録は三ツ谷村から熊石村までの死者であるが、死者の最も多いのは蚊柱村(現在の乙部町宇豊浜)である。この無量寺檀下での過去帳から推定される死亡者は、年平均約10人であるので、10倍位の死者が出たことになり、その村によっては三分の一程度の住民が死亡した村もあることが考えられる。

法蔵過去帳に見る津浪死亡者

 “熊石村沿革史”によれば、この大島の噴火と津浪によって「全村殆ど全滅の危に遭い惨状を極め本村の発展が中断せられたが、延享元(1744)年佐野権次郎江差より転住してより漸次発達した。」とされている。しかし実態としては全村民が死亡したのではなく、この津浪により村が疲弊していたのを、江差からの移住者佐野権次郎らの努力も大きく貢献して、村が立直ることができたと解すべきものと考えるのが、正しいと思われる。

江差正覚院内の津浪供養塔

津浪死亡者供養塔(無量地蔵) 表面

背面

津浪死亡者過去帳(無量地蔵)

 今も町民の古老達のなかには祖先からの言い伝えとして津浪の恐ろしさを伝えているものもあるが、松前町では津浪直後、寛保元年8月光善寺住職が各宗寺院に図って、無縁の死亡者を葬り、それに大石塔婆を建て盛大な大施餓鬼を厳修したといわれ、さらに、その場所に無縁堂を建立し、現在に到っている。江差町にもこの津浪犠牲者の碑が正覚院、法崋寺、阿弥陀寺、金剛寺の四か所に建立された。熊石町では法蔵寺前に南無阿弥陀佛と彫られた石碑が建っているが、これは大島噴火と津浪の際の犠牲者供養碑であって、昔からその命日には供養が続けられて来ている、といわれている。また無量寺にもこの供養のために建立された地蔵菩薩像が保存されている。

無量寺過去帳による寛保元年津浪による死亡者調

村 名 現字名 男女別 死亡者 死亡者計 その他

突符村 乙部町

字元和 男 1 1

三ツ谷村 乙部町

字三ツ谷 男 1 3

女 2

蚊柱村 乙部町

字豊浜 男 21 48

女 27

柏沼内村 熊石町

字相沼 男 13 30

女 17

泊川村 熊石町

(本町部) 男 7 13

女 6

熊石村 男 14 24

女 10

旅人 男 3 3

他国 男 1 1

計 男 61 123

女 62

 第11節 天明・天保の飢饉と流行病

 米の穫れない蝦夷地での生活は、対岸秋田、津軽地方の産米によって生活することが多く、また、流通経済によって、越後、能登地方からの米穀流入もあった。従ってこれらの地方での米の不作は、当地方の住民生活にも重大な影響をもたらした。特に水田耕作技術の定着していない東北地方にあっては、3年に一度は不作にあえぐという状況にあったので、その年度により極端に米価が異なっていた。したがって、その影響は当地方にも直接波及し、住民生活は容易なものではなかった。

 東北地方から越後地方にかけての凶作、飢饉は、元和(1615~18)、元禄(1695)、天明(1783~84)、天保(1833)を四大飢饉としていた。住民の約半数が餓死あるいは逃散(ちょうさん)するという大惨害となっている。元和の飢饉は元和元年から3年までで、記録的に明確なものではないが、3年8月に津軽の矢立峠を越えたイエズス会の神父デ・アンジェリスの手記によれば、盛夏を過ぎても腰を没する雪があったといわれ、天候不順がもたらした凶作で、多くの餓死者を出した。その後寛永16(1639)年にも大凶作があったといわれる。

 元禄の飢饉は元禄8年に襲来した。この年は大雪で3月が寒冷で稲苗の育成も遅れ、5月以降は東風(やませ)と寒さで稲は伸びず、7月には降霜があり、田畑は全滅し、9月以降餓死者は続出した。特にその被害は津軽五所河原、金木、中里等中津軽に多く、その死者は“工藤家記”では10万人、“幸内覚え書”では11万4千人といっており、逃散者を併せると津軽藩住民人口の半数が居なくなったことになる程の大惨害であった。松前藩領内も入米がなく、従来は松前領内で必要な米は津軽から移入する特約を受けていたが、これも破却され、翌年幕府に願い出、酒田の公用米三千俵の払い下げを受け、住民の糊口をしのぐ等をしてようやく、この飢饉の影響を乗り切った。

 天明3年から4年の2年に亘る東北地方の飢饉はさらに大きな被害をもたらした。3年は冷害のため作物が稔らず、津軽全域は食料を求める人で満ち溢れ、4年の1、2月には食糧が全くなく、餓死者が続出した。この2年間の飢饉での餓死者と流行病の死者は、藩庁の調査では8万1702人といわれ、また時疫(疫病=はやりやまい)の死者は3万人といわれる。当時の津軽藩領内の住民人口は24万人といわれていたので、これまた住民の半数が死亡するという惨害であった。後に当熊石にも旅行して来た菅江真澄が、この飢饉の翌年(天明5年)この惨状を目撃して、その著“外が浜風”に、西津軽郡森田村の卯の木、床前を通ったとき、 草むらに人の白骨がたくさん乱れ散っていた。あるいは、うず高くつみ重なっている。頭骨などの転がっている穴ごとに薄や女郎花(おみないし)のおいでている様は、見る心持がしない。「あなめあなめ」とひとりごとをいったのを、うしろの人の聞いて、「ごらんなさい、これはみな餓死したものの屍です。過ぐる天明三年の冬から四年春までは、雪のなかに行き倒れたもののなかにも、まだ息のかよう者が数知れずありました。その行き倒れ者がだんだん多くなり、重なり伏して道をふさぎ、往来の人は、それを踏みこえ通りましたが、夜道や夕ぐれには、あやまって死骸の骨を踏み折ったり、腐れただれた腹などに足をふみ入れたり、その臭い匂いをご想像なさい。」と正に阿鼻叫換(あびきょうかん)の地獄絵図を思わせる惨状を生々しく記録している。また、別書には人肉も相喰んだと記されていて、現代の社会では想像もできないのが、当時の飢饉であった。

 この飢饉で糧米を持たない蝦夷地の困窮も言語に絶したが、ただ蝦夷地においては身欠鯡や干鮭等の海産物が豊富にあり、このほか山菜球根等もあって、これらをもって食いつなぐことが出来、さらに蝦夷地出産物は近江商人を通して全国の商品流通市場に乗っていたので、東北地方が凶作の場合、北陸地方から海運を通しての米穀流入もあったので、津軽、秋田地方のような餓死者が続出するような事態はなかった。ただ、津軽、南部、秋田地方から密かに入国する者が多く、藩はその措置に困っていた。“天明中巡見使要用録”によれば、天明4年津軽から食に窮し松前に渡ったものは800人に及び、松前藩は一人に米一升、銭百文を渡し、津軽に送り帰す方策をとり、浜表に小屋掛をして朝夕粥を給与したが、餓死者は200人に及んだと報告している。さらに松前、江差等に上陸した場合、藩に捕われ送り帰されるので、その目を逃れ、辺地の小部落に来て、住民の介護を受けてその侭それらの地域に定着する者もあった。これらの人達は、いわゆる和人地には入らず、和人地に近い蝦夷地に住む者が多く、下海岸地方や大成町付近に和人定着者が増加するのは、この頃からであるといわれている。

 天保3年から10年まで約8年間に亘って打ち続いた東北地方の飢饉は悲惨そのものであった。3年は三分作、4年は収穫皆無、5、6年は不作、7年には更に大不作ということで、東北地方では「七年ケガヅ」と呼んだといわれる。農民すら食するものがなく、山野に入って山菜球根を掘り、食を求める住民は巷をさまよい、ついには徒党を組んで強訴、打毀、ついには百姓一揆にも発展した。しかし、この天保の飢饉は全国的なものであったので、どこの藩もこれに対応する措置はできなかった。特に津軽地方では餓死と逃散者が多く、7年間の死亡3万5千616人、逃散者4万7千43人に及んでいる。この実数は天明の飢饉を下廻るものではあったが、蝦夷地への逃散流入は前のそれよりも激増していた。

 “松前天保凶荒録”によれば、南部、秋田、津軽の窮民達は、「松前へさえゆけば飢え死を免るゝとして、船舶の下り来るものある毎に、便船をこうもの多く、これを謝絶すれば帆影を追いて海に投じ、溺死するものもあるに至る」とあって、他領の者は、ともかく蝦夷地へ渡れば何とか食えるという先入観念のもとに密入国する者が多かった。しかし、この飢餓は松前だけが例外ではなかった。蝦夷地の住民も食に米なく、米は一升一朱以上という高価でとても庶民の手に入らなかった。住民は皆山に入って蕨(わらび)の根や、うばゆりの根を掘り取って澱粉を造り、また、枯蕗(ふき)や笹の実等も食糧にした。また、この飢饉を教訓に道南地方に普及したのが、オシメ昆布である。このオシメは、昆布の早前物(若生ともいう)を天日に干燥し、これを川に漬けて白くなるまで晒して、また干し、これをセイローに入れて蒸し、乾いたところを臼で搗き、粉末にして、又これを湯煮し、水洗い干燥したものである。これは何10年も貯蔵が出来るし、安易に求めることが出来、さらにあらゆる食物に混入して食べることが出来たので、道南各村はこのオシメによって天保の飢饉を乗り切ることが出来たとも言われている。

 前掲の“松前天保凶荒録”によれば南部、津軽地方から飢饉を逃れて道南地方に入り、定着する者が激増した。そのことは西部海岸で見ると、大成町(旧久遠)付近より太櫓、瀬棚付近に多くなっている。前掲書では

 瀬棚郡瀬棚村 山田萬蔵 五十八年

 瀬棚郡瀬棚村 茅野儀兵衛 六十四年

 天保四年七年諸国大飢饉ノ頃ハ私共幼年ニシテ確ト弁ヘス候得共父母ヨリ傅聞ノ侭左ニ申上候。

 天保四年ノ饑饉ニ越后(後)津軽其他国々ノ人々生国ニテハ食糧乏シク堪ヘカヌルヲ以テ当道へ逃レ参ル節、私共父母共申合家族各四人ツヽニテ小舟ニ乗組、仝年七月中瀬棚村宇三本杉へ到着、其頃ハ仝村旧土人拾五戸外人家四戸有之、右四戸ノ内へ慈愛ヲ受仮住イタシ候。

 到着後食糧ハ蕨ノ根葛ノ根ヲ山野ヨリ掘リ採リ打砕キ粉二製シ、豆腐カラ或ハ米少々へ粉多分ニ混入シ食用ニ供シ候。又昆布ヲ刈リ日ニ乾シ其上火ニアブリテ臼ニテ砕キ四枡入位ノ鍋へ昆布ノ粉壱枡ヲ入レ水充分二入レ能ク煮タル上煮汁ヲ棄テ其昆布粉ヲ水ニテ洗ヒ此手続ヲ二、三度ヲ経テ飯ノタキ上ケノ際、右ノ粉ヲ飯ノ上ニ布キカケ暫時蒸シ置キ、后チ飯ト混合シ相凌居候。

としており、この山田、茅野は共に津軽の出身者で、この天保の飢饉を逃れて瀬棚に定着し、先往者の介抱を受け、その食生活の知恵をまねて生き伸びたといっている。

 また、久遠郡の平田内村の

 銅屋ヤ江 七十一年

 文化年中父ト倶ニ熊石村ヨリ平田内村(大成町)ニ移住、夫ヨリ数年ヲ経天保四年諸国大飢饉ノ節ハ(当時村ニ戸数三、四戸アリ)翌年私共始メ村中ノ人々蕨ノ根ヲ掘リ寄リ昆布ヲ拾ヒ何レモ粉ニ製シ粉粥へ米少々交へ食セリ。粟、稗、大根ヲ蒔付、粟粥へ大根ヲ細カニシテ混入シ食糧トイタシ候。仝七年再ヒ飢饉ニ付此回ハ一段甚シキ故ニ、蒔物モ一層多クイタシ、蕨根等モ頻リ採リ漸ク相凌キ候、諸国ヨリ渡リタル人ハ平田内ニハ無之様覚候。

というように在来からこの地方に土着していた人達も、その生活は容易ではなく、従来は顧みもしなかった山菜を取ったり、畑の耕作等をしてようやくしのぐことが出来た。さらに熊石地方では、他の畑物は稔結が悪かったが、幸い二度芋(馬鈴薯)だけは収量が多かったのでこれに助けられたという話も残されている。

 流行病や変災については、先ず、幼児は5、6歳頃になるまでの間に、凡そその半数は風病(感冒)、時疫(疫病)、疱瘡(天然痘)で死亡するといわれていた。医療技術に於ても漢法が主体であったから、根本的治療には程遠く、50歳まで生き延びれば長命の方で、60歳以上の老人は珍しいといわれていた。

 相沼無量寺過去帳によれば、相沼に居住していた医師金井主膳が、明和4(1767)年6月8日70歳で没した。主膳は生国は信州諏訪の産で、本名を岩波主膳と号し、無量寺門前に一戸を構え医師を営み、その傍ら村人に手習を教えたというので、医師としての定着はかなり早かったものと推定される。

 流行病については延享4(1747)年津軽に発生した感冒は、10月から11月にかけ猛威を揮い、猿風といわれて恐れられたが、その余波は蝦夷地にも及んでいた。また、津軽地方に大発生した大時疫(腸チフスと似た症状を呈していた)は安永2(1773)年から7年までの間猛威を揮ったが、蝦夷地にはあまり影響を与えていない。前記無量寺過去帳によれば、安永8年10月から12月にかけ疱瘡で死亡した者は52名に達している。その死者は当歳から13歳までとなっている。この疱瘡は一度流行すると空気や接触によって伝染するので、村中がこの病魔に冒され、抵抗の少ない幼児期にかかると死者が続出するということであった。この病気の洗礼を受けた者で生き残ったものでも、疱瘡の跡が顔面にアバタとなって残り、ボロクソと呼ばれる人が多かった。一度この病気が流行すると村民のなかには山に小屋掛をして避難し、治まるまで隔絶するという者もあった。同過去帳では寛政7(1795)年にも疱瘡死者7名、文化6(1809)年には11名、嘉永2(1849)年には18名が死亡し、慶応元(1865)年には42名の幼児が死亡しているが、このうち疱瘡死者は4名で、他は痘痢による死者と推定される。種痘法が我が国に導入されたのは、択捉場所番人の中川五郎治がロシア人に逮捕されてシベリアで生活すること6年、文化9(1812)年送還帰国したが、ロシアにあって種痘術を学んでいたので、文政7(1824)年天然痘流行の際牛痘法による種痘を実施したのが始まりであるといわれていて、オランダ式種痘法の接種より10余年前に、その実績が蝦夷地であげられているが、庶民に種痘が実施されるのは、安政4(1857)年幕府の箱館奉行が蝦夷地の天然痘を撲滅しようと、多くの種痘医を送り込んだ以降のことで、その結果、幕末以降に於いて天然痘患者は漸減した。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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