松前藩の成立 ⑦

http://www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history_k/k04/index.html【第4章 松前藩の成立】より

4 沖上げ

 汲み船(保津船・三半船)が枠船に行き、枠網から鰊をくみ上げるのである。汲み船には大タモ2本たてて交互に汲み上げる。汲み船ではアンバイ棒を使って、手伝い枠船ではヤッサイ鈎をかけて大タモをひきあげる。若い者は親方から大漁祝にもらった七尺の花染めの赤布を斜にたすき掛け、大漁手拭を鉢巻にソーラン節を唄いながら働く。汲み船がいっぱいになると前浜に運び、かわりの汲み船がつく。

 番屋の前浜では、汲み船が着くと歩み板をかける。待機していた畚背負の女達(手伝人)が船の腰当に尻をかけて畚をのせる。汲み船の若い者がポンタモで鰊を畚に入れ、いっぱいになるとポンとつく合図でローカ(番屋のはねだし等)に運び、ローカがいっぱいになると魚坪(ナツボ)に入れる。こうした作業が夜もなく昼もなく何日でも暇なく続けられる。(海が荒れるとせっかくの大漁の鰊を流してしまうからである。)畚背負には食事の暇も寝る暇もなく、畚を背負って歩きながら握飯と鰊漬や沢庵で食事をとり、ポンタモで鰊を入れる僅かの時間に居眠りし、歩きながら眠って時にはローカの桟橋から鰊の中に落ちて目を覚すこともあるという。(食事は一日何回ということはなく、炊事係の者は船にも番屋にもローカにも四角な飯櫃の中に次から次と切れることなく用意した。)

5 鰊つぶし

 沖上げした鰊は、一匹々々笹目(えら)白子・数の 子を取り除き藁緒につないで干場にかける。藁緒は萱(シゲ)と米俵を解いた藁を用いた。(根元をそのままにして中程のなら所だけ叩いておいた。)藁緒3~4本を2~3回ない、端がちょっと出るくらいに握って肘から一握りぐらいの長さにし、差し(さし)に通して鰊を21匹か22匹つなぐ。これを「尻つなぎ」という。この藁緒を51連たばね合せて鰊一本といった。(元来は一本50連、一連20匹で、一本は1、000匹であるが、落ちたりして目減りとなるので1、144匹に入目した。)

 鰊つぶしは女出面が使われたが、一日8本がノルマであった。「尻つなぎ」は男がした。

 ローカの鰊の山の前に、つぶし方は右、尻つなぎはその斜め左後方に位置をとる。(つぶし方は尻に馬板(足のついた尻当)を当て、膝を払って仕事をするが、下敷と名付けて前に莚を二枚折りにしてあてた。莚の間に笹の葉や樺の皮を入れて鰊の汁が下に透らないようにした。)右横に手閘を二つ置き、一つは数の子、一つには白子を入れ、笹目は二つの手閘の間の地面に置いた。両手には「手ガケ」をつけ、左の手に鰊を持ち、右手人差指で笹目を取って、次に親指で腹をさき、数の子または白子を取って手閘に入れ、鰊を持った左の手で頭を手前に腹を後向にして順序にきちんと並べておく。置き方を間違えることは許されなかった。

 尻つなぎは、つぶした鰊を「差し」にとおして次々とつなぐ。右手に鰊を持ち(親指でえらを拡げるようにして持ち)左手に差しの切口を内側に向けて持ち、22匹つなぐと差しを抜いて、その手で連をくるりと回わして結び、ひょいと投げると鰊は円形を描いてぱらりと拡がり、次々に一定の間隔をおいて美事に重なっていく。

 仕事が進んでつなぎ連の山が出来ると、洗い鈎(天びんの両端に鈎をつけ紐で結んだもの)で15~20連位づつ両鈎にかけて干場に走って運ぶ。尾を先にして鈎からはずすと、円形を描いて元の形にきちんと置かれる。それを掛け役が腹を外側に向け右手でかける。

 尻つなぎは干場から帰ってつぶし方の手閘の整理、エビリ(魚粕を干す時に使った柄のついたもの)で笹目の整理、鰊をコマザリ(こまざらい、本州人はマタブレと呼んだ)で前に寄せ集める。この作業は干場のある限り続けられるが、大漁で手に余るときは粕に焚くのである。

 鰊の整理が終ると魚坪洗いの祝い(ローカと魚坪の鰊の鱗や血(にごり)を洗い去ることを魚坪洗いといった)があり、酒やボタ餅(おはぎ)が出て、簡単な大漁祝いがある。

6 鰊割き

 干場になや掛けして、3~4日後、鰊の尾が乾いた頃、身欠取りをする。なやから下して100又は200づつ盛りにして置き、出面の女達を使って「さばさきマキリ」でカガペタ(えら)がいくらかつくようにして「はらし」をとる。身欠を取った後が胴鰊である。干上るまで身欠を離さないで干し、干上ると身欠抜きをするのである。

7 身欠結い

 身欠100本づつオヒョウの皮でまろぐ(縛る)。100本を一把、二四把で建一本という。

 胴鰊は一束二貫とし、人目五〇匁を入れ、八束づつ荷造りする。

8 漁後の作業

 鰊漁が終ると、雇人達は船頭の指図で山の薪取り、ゼンマイ、ワラビの山菜取りにも出た。

 漁具の整理、蔵入、船の囲い込みを終って5月末頃切り上げとなり、アゴ別れの宴があって、雇人たちは大漁の時には九一をもらって故郷に帰った。(仕事の能率の悪いものをトアタリ(素人)といった。)

 第9節 林業

 近世の熊石の林業に関する史料は乏しい。松前藩の林業及び林業政策は桧山の開発に始まる。桧山(ひのきやま)とは東は上ノ国町天の川から西は厚沢部川まで約40キロメートル四方の間に自生した桧(アスナロ桧、ヒバともいう)の山のことをいう。この桧山開発の始まりは、“福山秘府・年暦四”の寛永16(1639)年の項に「又按古代記是蔵修造城営……其材出干西部上国山悉桧樹也」とある。これは寛永14年松前氏の居城福山館の藩主公廣の居館から火を発し、公廣自身が火傷を負う程の大惨害を被り居城を全焼した。この居館の修復を上ノ国のアスナロ桧を伐り出し、用材に充てたのが桧山伐採の始めといわれている。この全山桧の大木に覆われた桧山の伐り出しの始りは上ノ国の北村の北西部を流れる目名沢であると推定される。そしてこの山の管理のため上ノ国番所がもうけられていた。

 桧山の伐り出しは年を追って盛業化し、目名沢から椴川、五勝手と進むに従って上ノ国番所では何かと不便なところから、その番所を江差に移し、奉行を配置して管理運営に当らせたのが桧山奉行である。その設置は“松前福山諸掟”では延宝6(1678)年2月である。桧山奉行のこの時期の任務は、 桧山の伐木植栽等の運営管理。

 伐木代金の徴収。

 山稼人の出入国取り締り及び管理。

 出入人及び出入船役の徴収。

 キリシタン取り締り。

 蝦夷交易の監視。

等であって、一般住民に対しての行政、司法権限を持つものではなかった。奉行は藩の弓の間又は中書院席の重臣が充てられ、初代の延宝6年次の奉行は麓小兵衛と考えられ、江差で没した明石豊左衛門尚政は、元禄11(1698)年桧山奉行となっている。このように制度と体制の充実によって桧山は大いに発展した。

 しかし、この盛業も頓挫する時期があった。元禄8(1695)年4月桧山内に発した山火は全山を焼き尽くし、東は上ノ国目名沢から西は厚沢部諸山にいたるまで総ての桧立木を焼いた。その結果は桧山に入っていた多くの杣夫が海岸に下り漁夫となり、折柄、需要の増加してきた鰊漁業にかかわりを持つようになり、また、元禄16年以降、蝦夷地に入った山師飛騨屋久兵衛の蝦夷桧(椴(とど)、蝦夷松)請負に吸収される者もあった。

 飛騨屋久兵衛は飛騨国湯ノ嶋郷の山師であったが、江戸に出、材木商栖原屋の手代となって、下北地方に入って南部桧(ヒバ材)の伐出に当っていたとき、蝦夷地には無尽蔵の蝦夷桧があり、これを開発伐出すことによって厖大な利益があると目算して、元禄16年以降、蝦夷山請負人となった。飛騨屋は有珠山から後志川、石狩川、豊平川流域と次々に伐採をした。その従業員として働いた杣夫は総て南部下北半島の出身者であった。

 熊石の山々は桧は少なく、蝦夷松は点在したが、広葉樹を主体とした植生であった。総ての山は藩領で個人所有が許されなかったので、用材、薪炭材の伐出には桧山奉行の許可を受け、役銭を支払うか、現物役を支払って杣入をした。熊石の山の雑木伐出についての唯一の記録は法蔵寺所蔵の木喰上人作地蔵菩薩像の背後に記されている。この像の背後には作者の木喰上人の墨書銘と安永9(1780)年子4月24日施主放三郎の名が記され、さらに台座部分の下端に木台を弔った人々の名がしるされている。それによると、

 木台弔

 ツガル 長 吉

 ナンブ 松兵衛

 ナンブ 六兵衛

 ツガル 弥兵衛

 ナンブ 子之助

 ツガル 藤 助

 ナンブ 勘太郎

 ツガル 善 助

 ツガル 三左衛門

 ナンブ 三郎兵衛

と10人の名が記されている。この地蔵菩薩像の彫刻台木を出してくれた人達は、この10名全部が南部、津軽の出身者であり、南部出身者は5名、津軽5名である。前述のように蝦実地山稼の杣夫は、飛驒屋久兵衛の山請負に始まり、その杣夫は南部下北出身者を主体に津軽出身者を従としていたものであるが、熊石の山稼の杣夫の編成は、南部、津軽とも半々の人で編成されていたものと考えられる。さらにこの像の台木は桧材であるところから、熊石地方にもアスナロ桧の飛木が点在していたものと考えられる。

木喰像台座寄進者名(法蔵寺蔵)

 また、熊石番所に勤務した鈴木忠美の“熊石元御番所付御収納廉分帳”によれば、熊石村での森林及び木材に関する税役は

 一 薪役 熊石村 外七ヶ村

 但村々百姓とも身上に應し壱軒ニ付調銭弐百七拾文ヨリ九文迄取立極窮之者は免除之積。

 一 炭竃役 熊石村 泊川村 相沼内村 三ツ谷村 突符村 小茂内村 乙部村

 但炭竈壱ヶ所ニ付調銭壱〆弐百文。

 一 材木役 熊石村 外七ヶ村

 但村々百姓共家木所山におゐて伐出候材木役長弐間壱尺此才弐百才壱本ニ付砂金七分八厘此調銭壱貫弐拾文此十分一役銭百弐文尤才数同様に而も長短太細に寄り不同有之年々伐出数相改取立候事。

 一 薪炭積役 右同断

 但大仲遣船壱艘に付調銭壱貫三百文

 中遣以下壱艘に付調銭弐百五拾壱文

 一 椴寸甫冥加 右同断

 但寸甫壱挺に付調銭八文

 一 造船間尺役 熊石村 外七ヶ村

 弁財船船梁壱丈以上

 造船役積百石に付

 金四両

 作事之分作事役

 百石に付金弐両

 但他国木品並に其所木品に而杣取役金相済候分、買入造船之分共造船役百石に付金壱両。

 買入木品に而作事之節百石に付金弐分、其所木品買入木品半分ツヽ取交造船之分造船役弐両弐分となっている。このなかで寸甫という用語があるが、これは木材の短いものという意味で一丁は長さ六尺、木口九寸のものをいっている。このほか磯船、ホッチ船、三半船、図合船、中遣船、大中遣船等の船役も明示されているところから、熊石村では桧の飛木、椴(とど)松材を現地伐出をして造船を行っていたものと思われる。

 第9節の2 熊石の鉱業

 松前藩政時代の鉱業としては、その代表的なものは砂金であった。大千軒岳山塊を中心とした千軒金山は、大千軒岳を主稜として、そこから流れる諸川の河底に滞留している砂金を拾うという極めて原始的な金山であった。

特に元和3(1617)年には大千軒岳のほか、楚湖(そつこ)(福島町)、大沢(松前町)にも金山が開設された。そのころ秋田、津軽に飢饉が続き、その食を失った難民が、砂金掘をする事によって生活を確保しようと蝦夷地に流入し、翌4年のイタリア人神父D・アンジェリス神父の報告書では、その流入者は3万人から5万人であったといわれている。これら砂金掘の税役は一人月一刄(4グラム)で、年千両以上の収入で、藩庫収入財源の1割を占めていたので、許可を持たずに入国を許さなかった松前藩も、この収入を得るため砂金掘の入国を認めたので、蝦夷地は正にゴールド・ラッシュであった。

 これらの砂金掘の中には幕府の禁教政策の目を逃れたキリシタン宗門の信徒が多く居り、特に千軒金山には教会もあって、盛んに信教にいそしんでいた。キリシタン宗門一揆といわれる島原の乱は寛永14(1636)年に起き、翌15年ようやく平治した。幕府はこの宗門精神の団結を恐れて、国内でのキリシタン宗の禁教令を発し、その宗徒の弾圧を強行した。幕府の指示を受けた松前藩も寛永16年8月、宗徒の逮捕処刑を行った。先ず松前城下から4キロメートル東方の大沢川付近の金山で、男女の宗徒50名を捕え、刎(ふん)首(打ち首)にして処刑し、ここから逃れたもの6名を比石(今の上ノ国町字石崎)で処刑、さらに千軒岳の金山で50名と併せて106名を処刑している。この処刑によって砂金掘の多くが逃散したり、国縫地方の金山を開くなど、千軒金山は衰微した。

 一方、檜山地方に於ても“福山秘府・年暦之四”によれば、寛永4(1627)年には西部泊の金山役人前河岡右衛門という者が、秋田の商人治右衛門というものから告訴され、獄につながれたと記録されており、千軒岳から流下する諸川は勿論、遊楽部岳流下の諸川も砂金採が行われていたものと考えられている。

 熊石とかかわりのある鉱山として遊楽部鉱山があるが、この山での鉛の採鉱は延宝2(1674)年に開始されたとされているが、本格的なものではなかった。その後幕府は明和3(1766)年金山間掘師山城屋安右衛門以下10名、御小人目付宇佐美仁左衛門等を派遣して蝦夷他の金山について調査をした。一行は千軒岳、遊楽部岳を調査したが、幕府が直営する程の山ではないとの結論により、引揚げた。翌4年には江差の岸田市三郎なる者が鉛生産十分の一役で、十か年請負の申請をし許されている。

 相沼無量寺の過去帳によれば、明和5年の死亡者の中に、遊楽部鉱山の死亡者8名があり、生国の明らかなものは南部2名、津軽1名、秋田1名である。また、同8年にも鉱山で助太郎という者が死亡し、安永3(1774)年にも2名が死亡している。このように遊楽部銅山稼行者の戒名が、無量寺にあることは、当時の鉱山までは、泊川から八雲町界の雄鉾岳(999メートル)の間に鉱山経路があって、物資、食料の輸送は総て泊川から上げられていたものである。その経路について熊石町文化財調査委員会は昭和55年度の事業として、その実態調査を行ったが、その“泊川金山道基礎調査報告書”によれば、その経路は今も明らかに残されていることが確認されており、遊楽部鉛山は、遊楽部岳ではなく雄鉾岳の山頂付近に広まる鉱山であることが明確となった。

 安政元(1854)年箱館が開港になり、蝦夷地は箱館奉行が設置され、人口扶植の手段として産業開発に目を向け、多くの事業を行った。その一つに遊楽部鉛山鉱山の開発着業がある。この事業については伊達市に入植した仙台藩支藩亘理伊達家の家老田村顕允(あきまさ)の末裔の田村譲氏所蔵の“筥嶴経済”(きよおうけいざい)に、事業内容が詳しい。これによると金・銀・鉛の開発は市之渡、ユーラップ、クンヌイの三か所を安政3年から文久2(1856~62)年まで7年間堀している。市之渡は森町で金・銀・鉄を生産し、クンヌイは砂金が主体で、ユーラップは銀・鉛を生産した。

遊楽部鉛山死亡者を記す過去帳(無量寺蔵)

 これについて休止が決定した文久3年箱館奉行下の山方掛松岡徳次郎、栗原十兵衛から、「金銀山御稼方の儀に付山掛定役より申立候儀申上候書付」という現在までの鉱山開発の経過と将来の目論見を報告している。原文は難解なので読み下し文で次に掲げる。

 …略…ユーラップの方は荷掘のみ仕り候へば、御入用御仕当にも相成候へ共、渡世山の稼方て御手山の行ひ方にご座無く、永久の山々■(金へんに比)通(へいどうり)(鉱道の先)に相当り候。荷取のみ仕候ては鋪中(鉱道)を撰相成、鋪下りは出来難く、右に付四六あるいは三五と唱、縦横進行の尺度を守りて穿(ほり)入り、いささか宛の銅、鉛有之体に候共、右等によって方位延し方に罷り候に付、荷掘致候大工は、銘々砂鉛仕上にてお買上相成る仕方相立て罷り在り、当時中山、荒沢、南沢等数か所の普請程に手足兼候へ共一日三拾貫内外の出に相成居り、此上砂鉛四千貫余相溜り候へ共、吹大工不快にて永々休み、且夏分は火気のため相成る可くは秋、冬の吹に仕らなければ、生吹に付毒気に当り吹職の者相煩い候故、夏分相休み、且同所の儀は温泉を以って笊揚げ、板取等でき、冬分屈境のお場所に付、山道馬足相立候内、米噌其外冬中用意は例年八月下旬までに付け上げ、翌三月ころ迄に差支えない様に荷物を登らせ置候て、ユーラップ海岸より六里余の山道駄送容易ならず、其上当所よりヤムクシナイ迄の運賃相掛け候へ共、格別諸物資高価に相当り候に付、西在泊川(・・・・上点強調)村え新道御切り開に相成り、里数四里程にて山許まで相達し、当年は熊石、江差入港の船により米噌其外船上りの節買上候へば諸色安価のみならず里程運送も弁利に付、御入用品仕送り方申付これ有候。ヤムクシナイ支配人庄七より、右仕入金八百両前借願書差出候儀、人数に引当敢て不相当にこれ無候へ共、当節御金繰の次第もこれ有。…略…

 ユーラップ山の方百五十両(一か月)の積、兼て日当高申候御入用を以って当分の処御稼相立て、成るべくだけ臨時ご入用相嵩(か)さまざるよう仕り度、それまでの内前■(金へんに比)中等荷掘の外取上げ申さざるよう仕まつる。

というものである。これによって遊楽部鉱山は八雲町境界に所属するものであるが、八雲村中より鉱山までは六里(24キロメートル)で輸送に不便であり、しかも、これら必需物資は箱館から輸送するため価格が高くなるが、泊川の場合、冷水沢から本流を登り、さらに雄鉾岳下の鉱山までは(四里16キロメートル)で着き、物資も内地からの積船から、熊石、江差で購入した場合、安価で入手できるという利便さもあって、泊川にその根拠が置かれていたことが分る。

 文久3年このユーラップ鉱山は収支つぐなわず箱館奉行の直轄から外され、民営により細々と経営されることになるが、その間に於ける収支については、

 三山併せての入用金

 金一万九千五百三両壱分

 内ユーラップ 五千六百九十五両弐分

 同御柳代(出鉛井砂金凡そ代金)

 金八千八百弐十弐両

 内ユーラップ千九百壱両壱分

 差引壱万六百八十壱両壱分の損

 さらに三山役家新築及び道路新設費用は

 金千六百拾両

であった。このような厖大な赤字を覚悟してまで、幕府の箱館奉行は資源開発と住民の稼行と人口扶植のための方策を次々打ち出していたもので、この鉱山により泊川付近は勿論、熊石村にとっても大きな利益となっていた。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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