松前藩の成立 ⑤

http://www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history_k/k04/index.html【第4章 松前藩の成立】より

この年回法要は藩主代替により第十七世藩主崇廣侯嗣立に併せ百七十一回忌の法要を行なったもので、特に盛大に行われたもので、この前年の嘉永元年、門昌庵住職第八世恵萼玄教和尚が、高野山金剛峯寺憲寿法師に柏巖和尚の追善と崇を断つための真言秘法をもって祈禱をし、その卒塔婆の揮毫を依頼していたが、旅行中頓死し、同年1月末佛学靈道和尚が九世となったが、またまた1月25日死亡したので、法幢寺僧の仙■量山が第十世となってこの法会を斎行したが、庭前には前記の卒塔婆を建て、高野山より送られて来た土砂を敷いて、この法要を行っている。

 この法要では藩からは筆頭家老の松前内蔵廣純と用人の新井田右膳が参向している。廣純は、延宝6年柏巖和尚処刑の問題で家老の松前廣諶と城中で斬合死を遂げた松前幸廣の七代後に当り、第十三世藩主追廣四男であり、右膳は矩廣の御守役新井田好寿の末裔に当っている。この法要の際、現在の門昌庵開山堂が新設され、その前面にある二基の灯籠はこの法会に松前内蔵廣純が寄進したものである。この年以来、松前家は城主大名に格上げされ、従来の福山館を取り毀し築城に入ったが、門昌庵の現山門は福山館の赤門(正門)を移築したものであると考えられている。

門昌庵事件関係年表

年号 西暦 歴史的記事 藩主矩廣記事 柏巌記事 その他の記事

寛文元 1661 (万治2年生る) 3 36

8・小松前火災

〃2 〃 2 ・東部エゾ乱 4 37

・冬大雪

〃3 〃 3 殉死を禁す 7・有珠岳爆発 5 38

〃4 〃 4 ・秋大神宮遷宮 6 39

〃5 〃 5 大名の人質を廃す 東上襲封御礼 7 40

〃6 〃 6 郷林取締令を出す ・下口内蔵丞東夷平定帰封 8 9・柏巌法輪寺五世鉄山和尚後嗣となる 41

・秋飢饉

〃7 〃 7 町奉行所火災、6月巡見使来る 9 42

〃8 〃 8 9・参勤東上 10 43 ・江差順正寺出来る(現東別院)

夏シャグシャインの乱

・松前泰広後見

〃9 〃 9 10・シャグシャイン乱平治 11 44

〃10 1670 9・泰廣江戸に帰る 12 45

〃11 〃 1 仙台伊達騒動 蛎崎廣林餘党平定 13 46 江差法華寺出来る

〃12 〃 2 ・松前泰広来る 14 47

延宝元 〃 3 キリシタン類族帳上る 15 48

〃2 〃 4 4・参勤東上 16 49 8・27蛎崎主殿広隆江戸変死

10・帰国

〃3 〃 5 17 50 2・松前儀左衛門元広家老

〃4 〃 6 18 8・15柏巌法幢寺住職となる 51

〃5 〃 7 ・唐橘在勝の娘を聚る 19 熊石流刑法幢寺五世鉄山死 52

〃6 〃 8 7・18妻死 20 12・22柏巌死 53 8・晦松前幸広変死

・是歳桧山を開く 9・1松前広堪変死

9・参勤東上

〃7 〃 9 4・帰国 21 6・10蛎崎広明家老

    松前広行家老

〃8 1680 将軍家綱死 綱吉将軍となる 22

天和元 〃 1 3・参勤東上 23 7・法源寺■(不明)応死 5・21執事松前元広死

7・巡見使来る 9・8広明江戸変死

冬 幕閣より注意を受く

〃2 〃 2 4・帰国 24 7・松江・丸山清康殺さる 12・17下国宮内要季家老

12・浅草邸焼ける 江差阿弥陀寺出来る

〃3 〃 3 12・浅草邸を賜る 25

貞享元 〃 4 稲葉正久、大老堀田正俊を刺殺 8・参勤東上 26

〃2 〃 5 3・帰藩 27

・相沼内関所出来る

6・26唐津内火災

〃3 〃 6 28

〃4 〃 7 生類あわれみの令  7・参勤東上 29

元禄元 〃 8 柳沢吉保側用人となる 3・帰国 30 6・20柴田角兵衛来る

11・枝ケ崎町火災 11・江戸邸火災の責任で下国清左衛門季春死

11・手代木左内江戸邸放火

〃2 〃 9 3・蔵町火災140戸焼く 31 正覚院江差に移る

江差観音寺出来る

〃3 1690 12・左内を津軽で捕える 32 4・柴田角兵衛死

   長女冬姫生る

〃4 〃 1 4・左内を火刑にす 33

9・参勤東上

〃5 〃 2 2・帰国、長男周広生る 34

9・大風破船多

9・羽幌のエゾ乱をなす

〃6 〃 3 二女伊良生れる 35

〃7 〃 4 柳沢吉保老中格となる 36 4・角田角兵衛の子角右衛門明石梅之肋を獄中に殺す

※この年表は松前家記、福山秘府年暦部全及び、門昌庵蔵柏巖和尚三物、河野常吉筆“門昌庵事件資料”により作製。

 明治15年曹洞宗永平寺六十一世貫主として有名な久我環溪猊下(げいか)が北海道巡教の際、この門昌庵伝説を聴き、当時乗物すらない熊石に来て柏巖和尚追善の詩文を残している。

 要頭祈将去元是丈者

 児移雲生砌突講

 月印越高声言伯巖来世

 吾待汝多時

 明治十五年壬子慶七月応門昌庵請

 □□□開山之龕香託応囑祿与

 永平六十一世環溪北海道巡教之際

というものである。この意味は、熊石に配流されて死した伯巖和尚よ、汝が仏に仕える身であるならば、何故に迷うのか、何か言うことがあらば出て来て、私と問答せよ、というもので、明治を代表する名憎が、わざわざ熊石にまで来て、このような偈(げ)を残しているのは興味深く、この時代にはすでに門昌庵事件が全国的に知れわたっていた証左でもある。

門昌庵本堂

柏巖和尚を祀る開山堂(門昌庵本堂内)

柏巖和尚首塚(門昌庵境内)

門昌庵開山柏巖和尚の墓(門昌庵境内)

三脉中の柏巖和尚の署名(延宝4年)

伝説の逆さ川

柏巖和尚三脉表書(門昌庵蔵)

柏巖和尚筆(札幌市杉崎家所蔵)

柏巖和尚の大般若理趣経(門昌庵所蔵)

松前家10世矩廣侯筆 釈迦涅槃の図(曹洞宗松前町法幢寺蔵

 第8節 鰊漁業の盛衰

 近世熊石村の生活を支えた産業は漁業であるが、その漁業の大宗を占めたものはニシン漁業であった。熊石の地名もクマ・ウシというアイヌ語に発し、その語源は永田方正筆“北海道蝦夷語地名解”では「魚乾竿アル処」と訳されている。これはニシンを乾燥するための竿がたくさん並んでいる処だということで、往古より熊石町がニシン漁業の生成によって発展してきたものであることを知ることができる。

 ニシンは鰊、鯡、青魚と書いてニシンと読み、或いは和訓ではかどとも呼び、アイヌ語ではヘロキともいわれた。鰊は北海道道南の東側から獲れだすところから魚偏に東の字を当てニシンと呼び、鯡は米の獲れない蝦夷地にあっては、この魚が米に代替される貴重な産物で魚(・上点強調)であって魚に非(・上点強調)ずということで鯡と書いてニシンと訓したといわれ、その生産量も石高で呼ばれていたが、この鰊は蝦夷地で生産され、本州に送られ畑作の換価作物の金肥として利用されたから、蝦夷地には米として還元されるという意味を込めて鯡という字が当てられていた。

 鰊は古代から蝦夷地で生産されていたが、先住民、さらには北上した和人の食料に供されるのみで、加工して移出された記録はない。これは当時大量に獲れる鰊は、只、煮、焼して食べるか、天然乾燥して保存するかより方法がなく、塩が魚の加工用に安価に大量に出廻って来て、塩鯡の加工保存や、丸干鯡、外割、楚割、身欠餅等が製造加工されるのは、道南和人地に定着者が増加する享保年間(1716~)以降の事であるといわれる。これより以前の中世から近世初期にかけては、現在の青森県から秋田北部にかけても多く獲れていたので、本州方面への粒鯡(生鯡)は主にこの地方から積み込まれていた。

 鯡漁業の初出は文安4(1447)年陸奥の馬之助というものが、白符村(福島町)に来て鯡漁をしたというが、これは宮歌村(福島町)沿革史に掲げられているもので、歴史的記述と見ることはできない。その後慶長6(1601)年爾志郡突符村で鯡漁が行われたで(“北海道漁業史”)といわれるが、この時期には鰊漁業が行われていたことは想定されるが、産業としての生産までは行っていない時代であった。また、この時代の鯡漁獲は、専ら榀(しな)の樹皮で造った■網(たもあみ)で、海岸に打寄せる鯡を掬(すく)うという極めて原始的なものであった。

 北海道の近世漁業史上に於て、鯡漁業第一期初期漁業の寛文~正徳期(1661~1715)、第二期の鯡漁業の盛漁期の享保~寛政期(1716~1800)、第三期の鯡漁業大型期の享和~慶応期(1801~1868)と分類することが出来る。

 第一期初期鯡漁業期は前述せるように、道南和人地に住む住民の数も少なく、従って鯡加工品の産出は極めて少量の時代であった。初期には■網での漁業という幼稚な漁獲であったが、延宝元(1673)年越後国刈羽郡荒浜村の牧口庄三郎なる者が、同村の漁網を松前に搬んで販売してから、宝永年間(1704~11)にいたって使用するようになり、これにヒントを得た近江商人は、琵琶湖の低湿地帯に多い苧麻(ちよま)を利用して漁網に仕立て販売したことから、初期の漁網による鯡刺網が開始された初期の時代である。後半の元禄年間に到ると、松前藩の“松前福山諸掟”の熊石村番所の項に見る如く、鯡漁業の追鮮等も行われるようになり、この時代来には鯡漁業は本格的に企業化されてきた。

 第二期の鯡漁業の盛業期である享保年間から寛政年間にいたる約100年間は、鯡需要の増加、着業者増加、奥場所の場所請負と開発、さらには加工技術向上、北前船航路の確立による商品流通体系化等々の事が重なり鯡漁業は大いに振興発展した。この時代は平均して不漁年も少なく鯡漁業が安定していたので、漁業中のうち、松前から以西の漁業者は1年の計をこの漁業に托しており、特に秋の鮭漁業とあまりかかわり合いを持たない江差から熊石までの漁民は、その傾向が強かった。

 鯡漁業は長さ三間半(約6・3メートル)、幅二間半(約4・5メートル)の刺網を一反とし、これを5枚綴りを一さしとして、一漁業の単位とし、この網に浮きと重りを付けて海中に垂らし、この網に刺った鯡を獲る漁法で、網一さしと三半船、磯船をもって二、三人で、一連の漁業とした。天明8(1788)年の古河古松軒筆の“東遊雑記”では「近年は海上凶年と称してならし三十四、五両づつの価となる。鰊を僅か7、80日の間にて取上げることは、日本の海浜などにては絶えてなき事なり。」としている。不漁年でも鯡着業による収入は、三十四、五両で、それ以前の普通年では八十両乃至百両に達した(“北海道漁業史”)という。江戸の庶民生活は一戸の年費用は五両といわれているから、蝦夷地の漁家が鯡漁業によって大きな収入を上げ、いかに恩沢を受けていたかを知ることができる。

 鯡漁業の発展は、着業者と加工従業者の増加、また、加工技術の向上と相まって、需要と供給のバランスが近江商人によって、この鯡を全国の商品ルートに乗せた功績は大きい。鯡は第一期においては原始加工の方途、つまり天然干燥の方法よりなかったが、本期に入ると塩の大量出廻りによって、海産加工品にも塩が使えるようになり、加工技術は大きく変化した。

 鯡は粒鯡という生のままを船積して本州方面に送るほか、塩漬、糠漬として樽に詰めて保存用として加工された外

 丸干鯡=生鰊をそのまま天日で干燥する。

 鯡 披=鰊の腹を割いて内臟を取り干燥したもの。

 身欠鯡=鰊のえら内臟を取り、尾から背部にかけての肉の厚い部分を干燥したもの。

 胴 鯡=身欠を取った比較的骨の多い部分。主に肥料にする。端鰊ともいう。

 数の子=身欠を作る過程で出る雌の卵を干燥して食用にする。塩蔵もある。

 寄数の子=数の子の筋を取り、ばらばらにして再び固めたもので、主に幕府への献上品にする。

 白 子=鰊の雄の子、干燥して肥料にする。

 笹 目=加工の際取り出したえらを干燥したもので肥料とする。

と加工の範囲と用途は非常にひろくなった。

 鯡は丸干と身欠に多くされ、残された部分は利用の方途がなく只捨てられていたが、これが換価作物の金肥に利用されることによって、鯡の需要とその販路は著しく拡大された。徳川幕藩体制のなかで封建各大名領地内の特産物が近世中期に入ると著しく増加し、前述のように享保年間(1716~)以降には安価な塩が瀬戸内海、北国方面で生産され、これが蝦夷地の水産加工の飛躍につながる如く、四国の藍、近江の綿、米、北陸から奥羽の米、紅花のような換価作物に多くの金肥が使われるようになった。この金肥は九州国東(くにさき)半島(大分県)で生産される鰯の丸干を肥料として、畑に刺し込んで使用した。また、関東の九十九里浜(千葉県)の物も用いられていた。しかし、これら鰯の干(ほ)し鰯(か)が享保年間頃からあまり獲れなくなり、その代用として近江商人らが、捨てられて省みられなかった胴鯡や白子をその代用として利用し始めた。享保2年の“松前蝦夷記”では「鯡並鯡子とも江差村・松前町にて諸国より船来、積登るよし、とりわけ鯡並に白子は、中国・近江路へ積登せ、田畑の肥にいたし申候由」とあって、これによって鯡加工品の需要は大幅に拡大した。

 また、この期の末期には、藩の鯡漁法として許されている刺網に対し、場所請負人等の大企業者は大網(笊(ざる)網)を使用して、一挙に大量の水揚げをし、その鯡を釜で煮て、油を取り、後の残り粕を魚粕として販売するようになった。また、天明期以降になると、鯡漁業の不漁年もあり、その原因は日本海沿岸蝦夷地の場所請負人が大網を使用した結果であるとし、上在惣百姓(根部田村より熊石村迄の)が、寛政2(1792)年徒党を組んで藩庁に強願するという事件があり、藩はその要求を容れ、大網の使用と搾油を禁止するなど、鯡漁業は発展多様化し、その製品は松前居住の近江商人の経済交流の積極商業の目玉商品として重きをなし、全国に売り出され、鯡加工品の需要は日に日に増加し、生産と需求が併行し、鯡漁業は蝦夷他第一の産業として発展した。

 第三期の鯡漁業の大形化の享和~慶応(1801~68)年に入ると、鯡漁業は大網の使用と、新漁具の開発、場所施設の拡充整備等によって、この漁業がさらに進展する時代である。

 本期初の文化4(1807)年から14年間、蝦夷地の領主松前氏は、一時奥州梁川に移封され、その後は幕府の松前奉行が管掌し、各地は奥羽六藩が出兵して、その経営に当るという時期があった。この期に鯡は不漁となり、松前奉行は文化4年布告をして「鰊漁の儀、前々より差網にて漁事致来候由之処、近年引網又はおこし網と唱え、大網を以引寄、すくひ取候等之儀も相聞、以の外の事に候。巳来新法之漁具等仕立用候者有之ば、吟味之上、急度可及沙汰候」として笊の形をした起し網(大網・笊網)の使用を厳禁し、鯡漁が小前の漁師に均等化するような配慮をしている。

 松前家が蝦夷地に復領した翌年の文政6(1823)年以降、鯡漁業は再び回復し、漁業者は「殿様下れば、鯡も下る」と喜び、大いに振った。藩は大網の使用を正式には許可しなかったが、場所請負人は雑魚網と称して各漁場で大網を建て、また、その場所には納屋、釜場、搾油揚と機能性に富んだ施設が多く構築され、生産も増加した。しかし、大網使用に対する零細漁民の反撥は強く、天保14(1843)年再び大網使用禁止の布告がなされている。この頃になると道南万石場所の熊石付近からも各奥場所へ、追鯡に出かける漁業者が多くなった。この追鯡漁業者のことを二・八取といった。これはその漁場を経営している場所請負人と契約して、道南各場所の鯡漁が終了した後、その場所に出掛けて操業し、二割を請負人に納め、八割を持ち帰るので、この名がある。また、請負人の親戚、知己等特別の場合には、一・九の制度もあった。

 嘉永年間(1848~53)に入ると鯡は再び凶漁となり、松前藩は更に大網の使用を禁止したが、大形経営者はこれを更めようとしないので、これに憤激した乙部村から熊石村までの西在八ヶ村の漁民約500名が、安政2(1855)年数十艘の船に乗り組み、西蝦夷地沿岸を古平まで北上して各地の大網を切断するという事件が起き上がり、2年間にわたって紛争が続いたが、幕府の箱館奉行は安政3年不漁の原因は大網によるものではないと、その使用を許可し、さらにその前年には幕府が奥蝦夷各場所への和人の定住、特に婦人の定着を許したことから、日本海沿岸の各場所は急激に開発され、また、二・八取以外の鯡漁業による季節労働者は3万人に達したといわれている。

 これらの開発は従来の大網にあきたらず、建網が使用されるようになった。大網は水揚げの際に騒音があり、鯡の群来に影響を及ぼすという欠点があったので、その欠点を補いさらに水揚量も多く、漁獲効率の高いこの建網が使用されるようになったものである。その使用開始の時期は、嘉永3(1850)年佐藤伊三右衛門が歌棄、磯谷の両場所で使用したのが始まりであるといわれている。建網は、固定された建網本体に枠網が付いて、漁獲量の調節が出来るので水揚効率が良いので、近世末期には多く用いられ、熊石村に於ても安政年間にはこの網が利用される、という変遷を経て、明治期に至っている。

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