松前藩の成立 ④

http://www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history_k/k04/index.html【第4章 松前藩の成立】より

それより幾日も経たぬ頃の事であった。意恨あっての■(ざん)百か、但しは浮説を信じての主思ひか、酒井好澄、古田小源治、細界多佐士、杉村勝左衛門、谷梯市左衛門、高橋権之丞打揃へ御前に伺候し、異に熊石へ流罪なりたる柏産事、殿様を遺恨に思ひ日毎に御寿命を縮めん祈祷をなし居る由、容易ならぬ儀に存じ候と申上げ、猶重ねて、同年十二月下旬柏厳に関はること密議の折柄計らずも、松江の兄丸山浦康に悟られ面目を失った様子であった。公には酒井、古田等の言葉を信じたまひ愈々柏厳死刑に行ふべしとの御意にて、早速係りの役人を定め、検死には桧山奉行礪崎元右衛門兼建、太刀取明石豊左衛門尚政、警護持士には古田小源治、谷梯市左衛門、杉村勝左衛門、太田彦七貞治、柴田角兵衛腰元、蠣崎太夫憲時、岡部助右衛門元村、足軽頭中村弥左衛門外五名の人数にて、十二月二十五日雲石へ向けて出発した。検使の一行は十二月二十六目雲石へ着し、その日丑の上刻を相図に柏巌を呼出して、其方は恐多くも君公の御寿命を縮めん為め祈をなす條、不埓至極に付き死罪を仰せ付くる旨を申渡した。

 すると伯巌はさらく身に身への無きことを無念の眼尻に、検死の役人達を睨みながら、殿様にはざん者の言葉に御迷ひ遊ばされ斯るお仕置をされしは実に残念千万である。仮や今玄で我命は消ゆるとも、御家の九族に七代の間妄執附纒ひ崇をなさで置くべきかと言放した。其面色は如何にも凄かった。猶又出家のことなれば仕置する前に経文を読誦したいとの願を例の古田、杉村、谷梯、太田の四人は芝居にも能くある赤い面の類であったと見て、何をこの悪坊主め罷りならぬと荒々しく叱り付けると、同じ役でも柴田角兵衛勝元は言葉静かに威儀を正し、あいや各々方暫し御待候へ、在家の者も一遍の念仏唱ふる最期(いまわ)の際に况(ま)して罪人にもせよ出家のたしなみ誦経に何の差支があるべき、仮(よ)し又それが為め時刻移るといふならば、それがし身に替え屹度御申訳仕らんと情を籠めし理の当然四人も反抗(あらそ)ふ言葉なく、望むに任かせし処、柏巖は大般若経をさかさに読誦いたし候処、前にある川の水は川上へ流れ候由。柏巖の読経了れば式の如く刑を行ひ、首級を納めて検使の一行は雲石を出立した。二十七日午の下刻北村といふ処まで来ると大風雨となって天の川は非常な出水、迚(とて)も渡ることが出来なくて江差へ引返した。それで此処を追止といったそうだが、其後大留と改めた。

 一行は餘儀なく江差に一泊することになり、柏巖の首級は何れかの寺院に置くことにし、当時江差にある処の四か寺即ち圓通寺、順正寺、薬師堂、阿弥陀寺の内、圓通寺の■沢(れいたく)和尚が預かる訳になった。然るに其夜丑の下刻計らずも圓(⑧)通寺は火事を出して焼失(やけ)た。その原因は線香からとも言へ、又た時節柄とて全くは柏巖の首級から火を吹き出したなどいふ浮説が專らあった。猶又柏巖は死刑の座において申には、首級を切落して血が出れば崇をなさず、血がでなければ七代七流も崇と言ったそうだ。それで此上どんな崇をなしやも知れぬといふので、伺の上、同月二十九日柏巖の首級を生前の住所なる雲石の門昌庵へ埋葬した。そして処刑の遺骸は同村孫兵衛、九兵衛の両人にて取片附をなし、玆に一段落をなした。

 玆に又た柏巖の徒子にして法源寺の住職になっている朔応は、師の柏巖死罪の決ったと聞いて、矩廣公へ御諌言の書面を差上げた処、公には甚だ御立腹のたまり町奉行今井市左衛門景友へ御達の上、侍士蠣崎七之丞庸則、鈴木染之進重亮(すけ)、鬼場袋太郎右衛門秀明、港浅之允(すけ)忠季、杉村治恃及び足軽五人を差遣はして召捕らせ、直ちに牢舎に入れさせた。然るに両御隠居様より新井田織部政継を御使者として朔応の事に付き、御守役新井田好寿まで御申越の廉があった。老中下国宮内、松前主水等はこれに就て相談の上、猶蠣崎広明方へも小笠原弥三郎を遣はし種々協議をして見ると、朔応には尋常一様の仕置をなし難い事柄もあるので、単に法源寺へ閉居させ置くこととし、下国季平を以て其旨中渡した。貞享三年夏六月二十二日の夜予(かね)て病気の朔応和尚は急に危篤になったといふので、谷梯市左衛門質(たゞ)重は見留役を仰せ付かり、医師寺沢随庵清貞及び侍士小平甚左衛門季長、麓小兵衛政純外足軽三人を引連れ、法源寺に行って夫々介抱したが養生叶はずして、その翌日五十二歳で往生を遂げた。越えて葬式の際に彼の女中松江はそれと聞いて、朔応和尚様も永々憂き目にあったので、死なれたのは気の毒である。せめて葬式を拝んで回向をせうと思ひ、身体の傷も大方癒ってぶらぶら歩かれるを幸ひ、密かに西の丸を抜け出て御長家の裏手の廻り塀の隙から朔応の葬式見送って居ると、折悪く通りかゝった明石尚政の娘に認められた。明石の娘は例の御小姓頭古田小源治と親しかった。それが為め松江の身に再び災難が降り掛って来る。その時は別に変った事もなかったが、七月七日御隠居了光院様光善寺へ御参詣なさるに就て、松江も御供をして行くと、折柄その辺御逍遙してお在(い)でなされた矩廣公には松江を召されて、過る日古田より御聞取になった朔応葬式の際の事を御取糺あって、松江は種々に弁解もし御詫をも申上げたれと、飽まで憎いとのみ思召されて居る殿様には更に御聞分なく、哀れや松江は其場に於て御手打になってしまった。

 我妹の御手打になりしとも知らぬ丸山清康は、御側衆一同と共に御裏御門に公の御帰城を御出迎ひして居ると、公には西の丸へ御出の御意遊ばされた。清康は、この時御伴の内に妹の見へぬを不審に思ったが、つい御伺い申す機会もなく其侭扈従申して行くと、公には何と覚してか突然御懐中の紙入を取り出して、御膳所の井戸へ御投げ入れなされ、誰か今の品を取上げ参れとの御意に、敦れも顔見はせて御請するものもなかった。丸山清康は公の意を察したかして直ちに井戸の中へ下り立った。それといはねど公の御目にて御下知なされると、御小姓頭例の細界、古田、御側杉村、太田、岡部の五人は、無情にも石を取って井戸の中へ丸山目懸けて投げ込んだ。憐れ無惨にも丸山は頭部を傷(う)たれて、面部から肩へ血染れになっても屈せず、彼の紙入を口にくはへながら凄愴(あさま)しい姿をして、石を片手に請けながら這上るに、石は井戸のわくより上へ三尺計りちゝあがった。井戸より這上るを突き墜とせば、又這上り怨めしげに五人を睨み、末代までも家臣へ崇るべし、其上能侍士はださぬと言ひ了って、ずるずると井戸へ落入って息絶へた。

 其後丸山の遺族は家名断絶仰せ付けられ、清康の子清三郎は世間を憚り、星山杢(もく)左衛門と改名したそうだ。この子孫は二戸に分れ、一戸は福山にて、今は元の丸山を名乗って居るといふ。斯く柏巖始め、丸山兄姉無惨の最期を遂げたから、其後城中に種々妖怪変化が現れて、殿様や家臣を悩ましたといふ話もあるが、夫れは凡て省き、只実説の荒筋丈けざっと摘んだ処が以上の通り、茲で筆を擱(さしお)く。

この“門昌庵実説”のなかの掲載されている事項で、歴史的照応から誤りと考えられる点を指摘すると

 ①この年藩主矩廣は江戸に参府していない。

 ②法幢寺五世鉄山の死亡は延宝5年6月26日で、柏巖が住職となったのは延宝4年8月である。

 ③蠣崎庄右衛門廣明か家老になるのは、翌延宝7年である。

 ④松前左衛門尉謀廣とあるのは広諶の誤りである。

 ⑤延宝5年9月には矩廣は参勤のため東上中である。

 ⑥柴田角兵衛が松前に来るのは、後の元禄2年である。

 ⑦柏巖処刑の日、12月22日が正しい。

 ⑧この時代には未だ江差円通寺は出来ていない。

等多くの誤りを見い出すことが出来るので、信憑性も薄いと考えられるので、別紙の関係年表によってこれを見れば参考となると考える。

門昌庵の崇(たたり)

 前記“門昌庵実説”では、種々の崇があったと記述しているが、具体的にはそれを書いていない。只処刑場で般若理趣経を逆修したところ異変があったといい、首を持って松前への帰路天の川では厳寒であるのに大雨風で渡れず引き返したという。また、江差円通寺では首桶から火が出て一山烏有に帰したという程度のものであるが、一般庶民の伝承のなかでは、柏巖和尚処刑後、その前を流れていた川が逆さに流されたから逆さ川と呼ばれ、また首桶を持って道中泊った家からは、必ず馬鹿者が出たというし、首斬役人の家には不幸が付きまとったといい、また、領主松前矩廣とその家系には柏巖の崇が付きまとったといわれている。

 それでは実際に、そのような崇があったかどうかを調べると同時代に松前家一族の中に変死者が続出している。

 ①延宝2年8月27日、江戸に出府中の執事家老蠣崎主殿廣隆が変死をした。

 ②延宝6年8月晦日、家老松前左衛門廣諶(たゞ)と弟の松前主膳幸廣の2人は柏巖死罪のことで論争、斬合いとなり、翌9月1日2人共に死亡している。

 ③天和元年、家老蠣崎小左衛門廣明江戸で変死を遂げる。

 ④元禄元年、亀田奉行手代木綱右衛門の子手代木左内江戸藩邸に火を放って逐電、その際留守家老下国左衛門季春を殺す。

 ⑤元禄3年、手代木佐内を津軽で捕え、松前に拘引して火刑に処す。

 ⑥軍師柴田角兵衛の子角右衛門、元禄7年城中に於いて明石梅之介を殺し、角右衛門も首を刎ねられた。

という如く不詳事が続出している。また、火災も、続発していて天保2年には江戸藩邸が焼け、貞享2年には松前唐津内町が焼け、元禄元年には松前枝ヶ崎町が焼失し、また、江戸藩邸が焼け、翌2年には松前蔵町大火、同5年に大風のため多数の破船がある等の被害が続出した。

 松前家十世藩主矩廣には三男四女があったが、何れも若死をしている。

 長男周廣 元禄5年生まれ、宝永元年17歳で死亡。

 二男富廣 元禄10年生れ、享保元年1月江戸で没す。年20歳。

 三男方廣 元禄14年生れ、同16年没、3歳。

 長女冬子 元禄3年生れ、江戸に嫁し、22歳で没す。

 二女伊良 元禄6年生れ、江戸に嫁し1年にして没す。年16歳。

 三女左知 元禄8年生れ、同11年死、年4歳。

 四女 幾 宝永5年生れ、正徳2年死、年5歳。

これによって矩廣には嗣子がなく、あわや家名断絶の恐れもあったが、富廣死逝後の享保元年2月、江戸の親族松前三郎兵衛本廣の六男傳吉を嗣養子とすることを幕府に願い出、許されて松前家を継承することになったが、しかし、松前家正統の血縁は矩廣の時で絶えている。

 これら不祥事、変災の続出、さらには子女の早逝等は、皆柏巖和尚を殺害した結果による崇であると領民の心のなかに深く刻み込まれ、藩士の関係した多くの者が恐れおののいていたといわれる。その結果、この門昌庵伝説が領民下層に根強く蔓延したのは、この封建領主に対する反揆であるともいわれている。この事件のことは島国である蝦夷地のみにとどまらず、遠く江戸まで聞え、事件4年後の天和元(1681)年参勤中の松前矩廣に

対し幕閣より内々注意を与えるという極めて不名誉なことまで起っている。“福山秘府”では、「是歳冬、牧野備後守私に政務の密事を矩廣に告げ示す」とある。牧野備後守成貞(関宿城主・四万三十石)は第5代将軍綱吉の側用人政治で柳沢吉保とならんだ人物で、このような幕閣から矩廣を私邸に呼び出し、松前家が厳重な注意を受けるという処まで、この問題が発展していたものである。

 最近の北海道史学会では、この門昌庵事件は単に柏巖和尚の事件としてのみではなく、藩創業時の幕府の対大名取締政策に対処し、緊迫化して来た領主松前氏が、その政策のやや緩んで来た爛熟期に入り、幼主が統出したところから、一族、家門の権力闘争の結果であると見ている。

その後の門昌庵

 藩主矩廣19歳という青年時に発生したこの事件について、矩廣はその後悔悟の情にかられ、柏巖和尚の追善を行っていたことが見られる。元禄10(1697)年には城内に仏殿を造立し、また、この年には和尚追善菩提のため、画道に精進して釋迦涅槃図の大幅を書き上げ菩提寺法幢寺に納め、また、和尚の年回忌を厳粛に取り行うなど、年と共にその前非を悔ての行動であったと考えられる。累代の藩主も年回忌を盛大に行ってきたのも、柏巖和尚の崇を恐れたのと、この柏巖を奉信して領主への反抗を胸中に秘める領民への、精神緩和の方策の一つと見ることができる。

 今ここに文政12(1829)年柏巖和尚150回忌に藩主の名代として代拜した和日頼母の日記があるので、

 “和田家諸用記録”(松前町史々料編2)より抜萃する。法要は繰上げられて8月28日熊石門昌庵で斎行されることになり、名代として藩用人和田頼母が、若党田中雄七、関寺久兵衛、鎗持西川久次郎、箱持庄内屋勇吉、草り取日吉屋嘉吉の5人を従えて、8月22日松前城下を出発、江良町村、塩吹村、江差村、乙部村、泊り川村と宿泊を重ね。

 廿六日 西風天気能四ツ時(午前十時)大雨降。

 一、朝五ツ半時(午前九時)泊り川村出立、途中ニ而今泉新八殿入湯帰り之由出逢、ケンニチ川漸々馬相立、夫ヨリ(より)山中通り大雨降、四ツ半時(午前十一時)熊石村寺嶋善四郎方へ止宿。尤某名前表札有之、自分幕張、御番所役御徒士松浦左郎継肩衣ニ而町端迄出迎、村役人麻上下ニ而出迎名届有(レ)之。

 一、門昌庵住持旅宿へ罷出、御代参明廿八日相定、其節寺ヨリ案内有之候積リ、尚御香奠之儀明朝差出候積リ是又申談置。

 一、今日ヨリ御代拜相済迄三ヶ日之精進、勿論一汁一菜ニ而不(レ)若旨田中雄七を以宿善四郎へ申聞置。

 一、法幢寺方丈先遠而ヨリ当所ニ罷在、使憎を以是迄門昌庵入仏供養昨今日者先住之空葬等有之、明日ヨリ明後廿八日開山門昌百五拾回忌供養有之候間、明日ヨリ参リ呉候様申來候得、某儀御代香而巳ニ而御靈膳等ニ拘り不申、何れ廿八日御代香相済候ハヽ旅宿へ引取、又々改而罷出及御面談仕度使憎江及挨拶

廿七日 西風天気能

 一、朝五ツ時御用部屋ヨリ御渡之御香奠水引結え侭若党田中雄七継肩衣ニ而名主麻上下ニ而差添、途中小共江為持門昌庵江為持遣。

 口上之趣左之通

 口 上

 昨日者旅宿ニ御尋被下恭存候、今般御開山御法会ニ付御領主ヨリ聊之御香奠持参仕候間、御仏前御備被下度頼上候

右之趣申遺候処、請書之儀者跡ヨリ差出申度差添名主を以申越候。

 一、門昌庵ヨリ使憎を以請書到来、左之通り

 一金 五両也

 右者門昌庵峯樹和尚一百五拾回忌修行ニ付、為御香料御備被下置難有寺納仕候。

 丑八月廿七日

 門昌庵

 ■ 道 印

 御代参

 和 田 頼 母殿

 廿八日 西風天気能夕七ツ前雨降

 和田頼母は白帷子(しろかたびら)長上下(かみしも)小砂刀帯の姿で駕籠に若党二人、鎗持、箱持、草り取を従え、先払二人に村年寄両人先達して、門昌庵に到り、村名主両人、町壇家両人罷り出、刀を若党に渡し上段の板の間に控えさせ、次で本堂礼拝、焼香の上、次のような啓白文を読んだ。

 千奉拜当開山門昌庵大和尚尊百五拾回御忌ニ付、当国領主松前志摩守源章廣公代拜家臣和田頼母事義維慎而拜、別而在松前隆之助於江府祐翁道廣公安全愈国家安全永久賜守謹慎而白ス

 右拜礼が終って居並ぶ壇家、出家に大義の旨挨拶の上、門昌墓所に代香の上、先払年寄、先達等を従えて宿所に帰ったが、宿所には前夜張番が居た。その後門昌庵から使憎が来て御斉(おとき)を差上げたいとの案内があり、染帷子に半上下で若党二人を連れて墓所、本堂へ焼香、夫より座敷に煙草盆が出、三ノ膳付料理を伴憎が出し、菓子引き物も出、これを旅宿まで送ってくれた。今晩から精進が下りたので魚類は食べてもよいが、料理にあまり気を遣うなと旅宿の善四郎へ話した。

 明後晦日に熊石村を出立するので、若党をもって次のように名主へ申し送った。

 先 觸

 一、駕 籠 一 挺

 此人足四人

 一、軽尻馬 弐疋

 右者明後晦日熊石村出立罷登候間、道中村々人馬無遅滞差出可給候

 丑八月廿八日

 和田 頼母内

 田中 雄七印

 泊り川村ヨリ子部田村迄

 宿々名主年寄中

 尚以川々増人足箱持手代り差出可被申候

 廿九日 西戊(北西)風雨降

 法幢寺和尚積気のため駕籠にて急ぎ出立、昼過ぎ継肩衣にて門昌庵に参り、昨日馳走の礼を申し述べた。宿には名主佐野権次郎方へ注文しておいた長芋十五本が届いており、酒代三百文を遣した。

 晦日 未申(南西)風天気能

 朝八時熊石村出立に付宿寺嶋善四郎へ茶代一朱を遣し、途中では熊石番所出役松浦左市肩衣にて来て挨拶、村役人も麻上下で見送った。

 以上のように門昌庵開基柏巖和尚の年回忌は極めて厳粛に、しかも藩主は名代を派遣して代拝をさせるなどの配慮をしているが、これも前述のような柏巖和尚の崇を恐れての事であった。

 北海道立図書館収蔵の河野常吉収集資料のなかに旧松前藩士北見政信筆の“雲石実記”という門昌庵事件を記した資料があり、そのなかに、嘉永2(1849)年6月斎行の柏巖和尚百七十一回忌法要の記録は詳細を極めている。

時干嘉禾二年己酉六月 惣奉行旦御目代兼家老松前内蔵源廣純(元藤原なり幸廣七代なり)御用人新井田右膳源朝忠(新田廣貞第十代)江差奉行三輪持藤原信庸(子孫八之丞)氏家丹宮平直温(中野重定八代ナリ子孫直方)熊石番所目付古谷市右衛門 右筆桜庭又兵衛藤原敏勝(桜庭介後胤又右衛門貞治五代子孫勉三)

其外足軽弐拾人、供方弐拾七人、僧侶上下弐拾五人

白米四斗入五俵、金五両被下、松前廣純銅灯籠寄附、同年六月弐拾壱日法幢寺弐拾参世天外秀明和尚。法源寺弐拾弐世祖山太堂和尚。寿養寺弐拾世願翁呑海和尚。龍雲院拾五世仏心祖英和尚。宗圓寺拾八世碩蘭泰然和尚(後干泉岳寺住職トナル)。光善寺寛光和尚。真宗専念寺外七ヶ寺代理釋道似靈潭。法華寺、正行寺、江差正覚院。観音寺今改メ金剛寺。阿彌陀寺、法華城翁寺。圓通寺。順正寺。泊村観音寺。乙部村長徳寺外小茂内。突府。三谷。蚊柱。相沼内。泊川六ヶ村八ヶ寺其上導師 門昌庵拾世仙■量山和尚末寺弐ヶ寺。薬師堂泊川村ニアリ 勢至堂熊石村ニアリ今ノ大沢長泉寺。明日各自出立ノ事、真言宗且祈願寺ニ付相叶ヒ阿吽寺末寺五ヶ寺。実相院。万福寺。慈眼寺。万願寺。三光院トモ、何レモ五拾二ヶ寺僧侶七拾餘人

 (書落ニ付是レニ)福山経堂寺。欣求院。福島村法界寺外ニ江養マテ末寺七ヶ寺号略。

紀州高野山より送來り塔婆左之通り

 曲尺四尺八寸餘

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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