https://haiku-textbook.com/yukuharuya/ 【「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の作者や季語・意味・詠まれた背景】より
行く春や 鳥啼き魚の 目は泪(読み方:ゆくはるや とりなきうおの めはなみだ)
この句は「松尾芭蕉」が46歳のときに東京の千住で詠んだものです。旅日記「おくのほそ道」に収録されています。
季語
こちらの句の季語は「行く春」、季節は「春」です。「行く春」を意訳すると「過ぎ去ろうと移ろいゆく春」になります。過ぎ去ろうとしている春ですので、具体的には晩春のことを指します。この季語は去ろうとしている春を惜しんでいる様子も含んでいます。
そのため、哀愁漂う句に対して使われることも多く、「春惜しむ」という言葉とセットで使うとさらに惜別の念が強くなります。
意味
この句を現代語訳すると・・・
「春が過ぎ去ろうとしているところに、旅立つ別れを惜しんでいたら、鳥たちは悲しそうに鳴き、水の中の魚も涙をためているではないか。より悲しみが沸き上がってくる。」
という意味になります。
この句の意味上での区切りは【鳥啼き魚の 目に泪】ではなく、【鳥啼き 魚の目に泪】となります。「鳥啼き魚」という魚がいるわけではないので注意しましょう。
この句が詠まれた背景
松尾芭蕉がこの句を詠んだのは46歳。
松尾はこの年で自分の家を他人に明け渡し旅に出ることにしました。(※約150日に及ぶ東北と北陸の旅で、後に伝わる「おくのほそ道」になります)
松尾が旅に出た年は、平安時代末期の歌人である西行が500回忌を迎える年で、芭蕉は西行を慕っていたため、西行の題材や名跡をたどる目的があったと言われています。
当時は長生きの人もいましたが、江戸時代の平均寿命は50歳未満だとされています。
そのなかで46歳の芭蕉が旅に出るということは、次に帰ってくるかどうかもわからない状況です。
松尾が江戸の千住(現在の東京都足立区)から旅立とうとしているとき、芭蕉の門弟や友人、芭蕉を経済的に支えた杉山杉風など多くの人が見送りに来ました。
その時の別れの様子を「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪」という句にして芭蕉は詠みました。つまり、その場の全員が別れを惜しんでいる状況だったのです。
「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の表現技法
感嘆の切れ字「や」(初句切れ)
「行く春や」の「や」は切れ字と呼ばれ、作者の感動ポイントを示す字になります。
過ぎ去る春を非常に惜しく思うことを表現しています。
今回は人々との別れの挨拶をしている場面でもあるため、友人たちとの別れを惜しむこともなぞらえていると考えられます。
また、この句は一つ目の言葉(5・7・5のはじめ5)で切れていますので、初句切れとなります。
初句切れ自体に特別な技法はありませんが、今回は旅の別れの惜しさが深いことが伝わります。
前半の芭蕉が別れを惜しむ様子と、後半の周囲が別れを惜しむ様子がわかりやすくなっています。
魚の擬人法と比喩
擬人法とは、人ではないものを人や人の動きにたとえて表現する技法のことです。
今回の句では【魚の目は涙】が擬人法に当たります。
(※魚が人間の動作である「涙」をしている)
ここで注目すべき点は、鳥と魚の動作が何を表現しているかということです。
この句では魚が涙していると表現されていますが、魚を観察したときに涙しているようには見えません。つまり、誰かを鳥と魚に置き換えていることがわかります。
この場合、芭蕉と会っているのは「門弟たち」と「友人の杉山杉風」です。
杉山杉風に着目すると、彼は魚問屋の長男で芭蕉を経済的に支援していました。そのため、魚問屋にかけて杉風を魚に例え、杉風が涙した様子だったと言われています。
こう考えると、鳥は門弟や友人たちのことで、見送るために泣いていたり声をかけている様子を示しています。
掛詞
「行く春」の「行く」の意味を分解すると、二種類の意味がかけられています。
この技法を掛詞と呼び、古くは短歌の時代から使われてきました。
本文をそのまま訳すと「過ぎ去ってしまう春」のように春への惜別がこめられています。
しかし、今回の句の状況を踏まえて本文に書き加えると「旅行く春」つまり「芭蕉が旅立ってしまう春」となります。
つまり、芭蕉自身が旅立っていくことに対して惜別の念があるという意味が重なっています。
「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の鑑賞文
人生の晩年に行われたこの長旅は、芭蕉にとって厳しいものだったに違いありません。
現在に換算すれば、60歳以上の人が交通機関を使うことなく行脚の旅に出ることに似ています。
芭蕉自らが行きたいものであっても、旅の途中で何があるか分からない時代でもあります。
鳥のさえずりや魚の姿さえも悲しんでいるように見えるほど、芭蕉にとって別れが惜しかったことが伝わります。
さらに芭蕉はこの旅に出る際に住む家を処分しており、帰るところがない旅でもありました。
それを踏まえると、今回の別れがいかに辛いものだったかが感じられます。
春の色が薄れていくように、儚い別れがあることが伝わる句です。
作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単にご紹介!
(松尾芭蕉 出典:Wikipedia)
松尾芭蕉(1644~1694年)本名は松尾宗房(むねふさ)。三重県出身。江戸の三大俳人の一人で、俳聖として世界的に有名です。
芭蕉は名字帯刀の許される農民出身で、13歳の時に父を亡くす苦労人でもあります。
松尾芭蕉は旅に出ては俳句をまとめることを繰り返していましたが、生涯で三度の長旅に出ています。
一度目の旅は41歳の時です。江戸を出発し、当時の東海道を進み、伊賀(三重県)や吉野(奈良県)、尾張(愛知県)を旅しました。
その内容は「野ざらし紀行」にまとめられています。
二度目は46歳の時に出た、東北や北陸への旅で、「おくのほそ道」という旅日記で有名です。
三度目は51歳の時に江戸から西方面へ向かいますが、旅の途中に亡くなり、遺言通りに木曽義仲の墓の隣に埋葬されました。
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno02.htm 【奥の細道
(千住旅立ち:元禄2年3月27日)】より
彌生も末の七日*、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から*、不二の峰幽かに みえて、上野・谷中の花の梢*、又いつかは*と心ぼそし。むつましきかぎり*は宵よりつどひて、舟に乗て送る*。千じゆ*と云所にて 船をあがれば、前途三千里*のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。
行春や鳥啼魚の目は泪(ゆくはるや とりなきうおの めはなみだ)
是を矢立の初として*、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし。
この日元禄2年3月27日、芭蕉は千住で見送りの人々と別れ、草加を経て、粕壁(現埼玉県春日部市)で宿泊している。別れに当って「前途三千里」の不安と惜別が去来した。長旅にはもはや慣れ尽くした芭蕉ではあったが、今回は健康のこと、方角が初の東北であったことなど、不安材料は多かったであろう。
『奥の細道』の終着は大垣だが、ここでは、
蛤のふたみに別れ行く秋ぞ
と詠んでいる。 千住と大垣では夫々、「行く春」と「行く秋」、「舟をあがり」と「また舟にのりて」として、この集の始めと終りに鮮やかな対称性を入れた。なお、「行く春」も「行く秋」も流転の世界にあって永遠の別れを暗示する。
なお、 この句そのものは、この折につくられたものではなくて本文執筆時に改めてここに入れるために考案されたものであり、芭蕉の初案は「鮎の子の白魚送る別れかな」であったと言われている。しかし、推敲の過程でこの句に代えられた。上述のような「行く春」と「行く秋」の対象性 などの着想ができたためであろうと思われる。奥の細道は、このように多様な対称性など構造的なつくりを駆使して創作されているのである。
「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の句碑(写真提供:牛久市森田武さん)
彌生も末の七日:元禄2年3月27日のこと。 この年1月に閏月が入ったため太陽暦では5月16日にあたる。 東北地方の天候不良が伝えられていたため杉風らに出発を止められていて出発が遅延したという。なお、3月27日については曾良の「奥の細道随行日記」では「廿日」とあって物議を醸している。3月23日付門人落梧宛の書簡によれば、3月26日出発とあってすでに20日を過ぎていることからして20日説は無効。当時の風習として日にちは夜が明けてからを呼ぶことからして、26日の夜が明けないうちに出発することとしていたのが、別れに手間取って夜が明けてしまったために27日となったものと思われる。
明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれるものから:<あけぼののそらろうろうとして、つきはありあけにてひかり おさまれるものから>と読む。有明の空は、すでに明るんで、月そのものの光は色褪せている。『源氏物語』「月は有明にて光をさまれるものから、影さやかに見えて、なかなかをかしきあけぼのなり」から引用。
上野・谷中の花の梢:上野も谷中も桜の名所。ただし、すでに桜は散って芭蕉の視界に桜の花は無い。惜別の念を表現するために書かれたもの。
又いつかは:西行の歌「畏まる四手に涙のかかるかなまたいつかはと思ふ心に」(『山家集』)からとった。
むつましきかぎり:日頃親しい人たち。
舟に乗て送る:深川にて乗船。この当時の風習では、長旅に出る人の送別は、一駅先の宿駅まで同行すること、また、別れるときには後ろ姿が見えなくなるまで見送ること、その際送られるものは後ろを振り返ってはいけないとされた。
千じゆ:東京都足立区 または荒川区、千住大橋付近。芭蕉がこの墨田川の右岸に上陸したか左岸であったかは不明。千住は当時、奥州街道(1597年)・日光街道(1625年)第一の宿場。ここまで芭蕉庵から約10kmある。千住に着いたのは、『曾良旅日記』によれば、「巳の下尅」というから午前11時ごろということになる。ただし、ここには曾良は不在だったはずだという説もあるので信じ難いのである。
前途三千里:<せんどさんぜんり>と読む。はるかに遠くの場所の意。
これを矢立の初として:<これをやだてのはじめとして>。この句を旅立ちの記念として、の意。矢立は携帯用の筆記用具。筆や墨を一組として収めたもの。ここでは、「俳諧創造の旅」の象徴として込めている。
全文翻訳
今日、陰暦三月二十七日。あけぼのの空は春霞にかすみ、有明の月はすでに光を失って、富士の峰がうっすらと見えてきた。上野や谷中の桜の花には、また再び相まみえることができるのだろうかと、ふと不安が心をよぎる。親しい人々はみな前夜からやってきて、共に舟に乗って見送ってくれる。千住というところで舟をあがると、前途三千里の遥かな旅路が胸に迫って、夢まぼろしの世とはいいながら、別離の悲しみに、涙が止まらない。
行春や鳥啼魚の目は泪
この句を、この旅の最初の吟とはしたものの、後ろ髪を引かれて足が前に進まない。見送りの人々は道の真ん中に立って、後ろ姿がみえなくなるまで、見送ってくれた。
0コメント