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【『空海ノート』補記 「空海と深くかかわった渡来系氏族とその周辺」】より
◇秦氏の稲荷信仰と東寺と空海
松尾大社の開基である秦忌寸都理(はたのいみき、とり)の弟、秦伊呂具(はたのいろぐ)が、和銅4年(711)、深草の地なる伊奈利山(稲荷山)三ヶ峯に、宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)、佐田彦大神(さたひこのおおかみ)、大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)を祀ったのが今の伏見稲荷大社のはじまりである。
宇迦之御魂大神は稲荷山のある深草の地の守り神で、稲に宿る農耕の神。深草も太秦や(嵯峨の)葛野とともに、5世紀半ばには秦氏の居住するところとなっていた。この秦氏の稲荷山に立つ伏見稲荷大社と空海が密教化に努めた東寺の間に、秦氏と空海の親和関係を物語るエピソードがあった。
東寺五重塔 伏見稲荷大社
天長3年(826)11月、空海は高野山造営の多忙をぬって前年成った講堂の建立につづき、東寺にわが国初の自らの設計監理になる密教様式の五重塔(「法界体性塔」)を造るべく建設に着手した。
南都の官大寺にはいくつも立派な五重塔が建ち並んでいるが、一層部分の四角の芯柱を本尊(金剛界大日如来)にみたて、それを中心に柱の四面を背に金剛界四仏が四方を向いて坐る配置は、東寺の五重塔にしてはじめてであった。塔そのものが大日如来(金剛界)、つまり「法界体性塔」である。
この五重塔の用材を、空海は伏見の稲荷山から調達したのである。一説では、この稲荷山の聖域から木材を切り出したため、それがたたって淳和天皇が病気になり、朝廷は官寺である東寺の造営にかかわることであったので、その罪滅ぼしとして従五位の下の官位を伏見稲荷大社に与え、天慶5年(942)に正一位を、応和3年(963)に京の東南の鎮護の神と定めた。
この秦氏の祖霊や稲荷社を祀る伏見稲荷山は、奈良時代から鞍馬山や愛宕山とともに山中修験の聖地でもあった。空海の頃、東寺の密教僧の山林修行の場として使われていた。
空海はすでに故郷の讃岐や大安寺の勤操や元興寺の護命や吉野の比曽(山)寺の「自然智宗」の修行者を通じ、秦氏との縁を深めていた。そしてこの頃には、嵯峨・淳和両天皇を通じあるいは朝廷の役務を通じ、官寺である東寺の造営別当として、秦氏の人と交わりが充分にあったにちがいない。
さらに東寺の密教僧の山中修験の場として、秦氏系の神職・社家の理解と協力も得ていたであろう。秦氏の側も、嵯峨帝と空海の関係を知っていて、空海には格別に好意的であったと思われる。
伏見稲荷山は、東寺五重塔の造営別当として空海にとって必要不可欠の山であった。空海と秦氏を触媒に東寺と伏見稲荷大社はジョイントされたのである。
東寺と伏見稲荷大社を結ぶ祭礼が今もつづいている。毎年4月下旬の最初の日曜日から5月3日まで行われる伏見稲荷大社の「稲荷祭」である。この祭礼は貞観年間(859~876)にはじめられ、天暦年間(947~957)以後恒例の大祭になった。
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御旅所、東寺の東(油小路通角) 伏見稲荷、稲荷祭(神幸祭)
この祭はもともと、5世紀頃朝鮮半島の加羅(伽耶)から渡りきてこの山背の地に定住した秦氏の怨霊を鎮め、タタリを除く「御霊会」として行われたという。おそらく秦氏がこの地に根ざすには、人種差別や階級差別や迫害や搾取の悲哀を味あわない時はなかったであろう。かれらは、未開拓であった山背の盆地を高度な農業技術によって開墾し、潅漑・農業・養蚕などを行い、氏神を祀り寺を建てた。しかし桓武の平安遷都にともない、艱難辛苦をして開拓した土地を没収されたり、朝廷貴族からは妬まれ、時には失脚・敗着・抹殺の憂目にあった。それでも秦氏は政権の表舞台に立つことなく自重・忍従の身に堪えたのである。
「御霊会」は、平安京の民衆の間に起った魂鎮めの祭礼である。伏見稲荷山に祀られている秦氏の祖霊のうち「御霊」といわれる怨霊は、しばしば宮中や市中に疫病というタタリをもたらした。民衆は、自分たちにもふりかかる災いを避けるため、秦氏一族のための「御霊会」を「稲荷祭」に代替してはじめたのである。
弘仁14年(823)正月19日、空海は嵯峨天皇の勅により、東寺を鎮護国家の密教道場にすることを任された。その年の4月13日、紀伊で出会った神の化身の老人が稲をかつぎ、椙の葉を持って婦人二人と子供二人をともない東寺の南門にやってきた。空海は大喜びして一行をもてなし、心から敬いながら、神の化身に飯食を供え、菓子を献じた。その後しばらくの間、神の一行は八条二階堂の柴守の家に止宿した。
その間、空海は京の南東に東寺の造営のための材木を切り出す山を定めた。また、この山に17日間祈りをささげて稲荷神にご鎮座いただいた。これが現在の稲荷社(伏見稲荷大社)であり、八条の二階堂は今の御旅所である。空海は神輿をつくって伏見稲荷、東寺、御旅所を回らせたのである。
この伝説が、空海と東寺(の五重塔の用材)と伏見稲荷(山)と御旅所をつなぐエピソードである。伏見稲荷大社には明治期の廃仏毀釈まで神仏習合がつづき、荼吉尼天法を修する真言寺院の愛染寺があった。
◇秦氏の製銅・冶金・潅漑・土木技術
天平15年10月辛巳の詔に、
ここに、天平十五年歳次癸未十月十五日を以て、菩薩の大願を発し、廬舎那仏の金銅像一躰を造り奉る。国銅を尽して象を溶し、大山を削りて以て堂を構へ、広く法界に及ぼして朕が知識と為し、遂に同じく利益を蒙らしめ、共に菩提を致さしめむ。それ天下の富を有つ者は朕なり。天下の勢を有つ者も朕なり。この富勢を以て、この尊像を造る。事や成り易き、心や至り難き。
・・人情に一枝の草、一把の土を持ちて像を助け造らむと願ふ者有らば、恣に聴せ。
とある。聖武天皇が発した東大寺大仏建立の詔である。
天平17年(745)にはじめられた東大寺の廬舎那仏の鋳造には、73万7560斤(442536kg)の塾銅(にぎあかがね、精錬銅)が使われた。この大量の塾銅を供出したのは秦氏の勢力下の(先に触れた)豊前国「秦王国」の香春山と長門国の榧ヶ葉山(採鉱)と大切谷(精錬)(後の長登銅山)の技術者集団だった。
豊前・豊後に展開した渡来系辛嶋氏・大神氏の技術者たちは宇佐八幡の鎮座する宇佐の地に住していたが、銅をはじめとする金属の鉱床を求めて、親和の間柄であった筑前の海洋氏族宗像氏に導かれ、長門・周防の地へ、さらには日本海沿岸へと移動していた。
宇佐の秦氏は銅の供出で大仏造顕に協力したばかりでなく、「我、天神地祇を率い、必ず成し奉る。銅の湯を水となし、我が身を草木に交えて障ることなくさん」との宇佐八幡の神託を発し、莫大な資金と資材と人夫を要するためこの国家事業を聖武天皇のわがままだと反発する朝廷貴族を押さえ込んだ。
この褒美として、大仏開眼供養会の際には聖武上皇や孝謙天皇などとともに宇佐の八幡神が輿に乗って大仏殿に入御し、八幡神には封戸(ふこ)800と位田(いでん)60町が贈られ、後には東大寺のすぐ東の手向山に八幡神を分社して祀り、東大寺の守護神としたのである。
ときに、空海が指導監督を行ったとされる潅漑用水や港湾水利の修築にも、秦氏の技術者が関与していた可能性がある。
まず、讃岐の満濃池であるが、空海の実家佐伯氏が領する真野の水田は、東方の中讃に展開する秦氏一族の潅漑技術の影響を受けて、早くから条里制を取り入れていたくらいで、満濃池の水利開発に秦氏の技術者がかかわらないはずがない。
故郷の現地に赴いた空海は早速、人夫・馬・馬車・資材を大量にしかもすみやかに集め、たった2ヶ月の工事で日本最初のアーチ式ダムを完成させたという。それまで、朝廷から派遣された築池使の路真人浜継が3年かかって完成を見なかったことを考えれば、異常な早さである。この工事に、讃岐の秦氏の技術者たちを空海が動員したであろうことは容易に想像がつく。おそらく、讃岐平野に展開する溜め池群も秦氏の知恵と技術の所産であろう。
次に、空海がその完成にあたって碑銘を書いた大和益田池である。ここも満濃池と同様に一気に人夫・馬・馬車・船・資材が大量に集められ、大規模な潅漑用水池が完成した。満濃池や和泉国の狭山池と同じ「樋管」(桧の巨木をくりぬいた木製の配水管)が使われていた。これこそ、秦氏の土木技術を物語る証左で、秦氏が展開した地の溜め池や河川の水利にしばしば「樋管」が発見されている。
この大和益田池がある大和国高市の地は、先にもふれたが、古代における渡来人の集団居住地域であった。東漢氏(やまとのあや)の一番多い地域だが、秦氏を出自とする大安寺の勤操がここの出身である。秦氏も多く住んでいた。にわかに動員され、難工事に当った技術者は先進的な土木技術の持ち主で、それは秦氏系の人たち以外には考えられない。
もう一件、摂津国の大輪田泊(おおわだのとまり)の港湾修築である。
天長5年(828)、嵯峨と同様に空海と親交をもっていた淳和天皇は、空海を摂津国の大輪田泊の造船瀬所別当に任じ港湾修築の指導監督にあたらせる。朝廷は讃岐の満濃池や大和益田池の治水工事を短期間でやり遂げた空海の高い手腕を買い、着手以来15年を経ても埒があかないこの国営の港湾修築を空海に託した。
この大輪田泊を最初に築いたのは、百済系渡来人西文(かわちのふみ)氏を出自とする仏教僧行基であった。行基は入唐留学僧道昭に法相を学ぶとともに、道昭が晩年に行った遊行と社会救済の土木事業に範をとった。全国各地を遊行し民衆のために潅漑用水や港湾開発を行ったディベロッパーであったが、そのバックにはいつも渡来系の技術者集団があった。空海にはどうもこの行基の「方法」に範をとっていたふしがある。
大輪田泊が所在する摂津や西隣の播磨には、古くから秦氏が入植していた。播磨の平野部では水田開発を行い、赤穂などの沿岸では塩田や港湾の開発や海運を行った。空海の実家の讃岐の佐伯直氏は播磨の佐伯直氏の分家といわれる。空海は、大輪田泊の場合もそうした人脈を活用して別当の職を全うしたはずである。
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神戸、「大輪田」の名が残る橋 大和、益田池 讃岐、満濃池
以上、秦氏と空海のかかわりの概略だが、ついでに秦氏とも混血している藤原氏と空海の親和関係を述べておきたい。空海の破天荒な人生の行く先々で、秦氏と藤原氏とのかかわりが運を開いた。
◇藤原氏のルーツ
朝廷氏族の雄である藤原氏は複雑な系譜をもつ氏族である。
そのルーツは、大化の改新の功によって中臣鎌足が天智天皇(中大兄皇子)から四姓(源氏・平氏・藤原氏・橘氏)のうちの名門藤原姓を与えられて藤原鎌足と名乗り、その姓を次男不比等が継承したことにはじまる。
鎌足の氏族だった中臣氏は、古くから宮中の神事や祭祀にかかわってきた朝廷氏族で、神話の神天児屋命(天児屋根命、あめのこやねのみこと)を祖とする。この神はそのまま藤原氏の氏神となり、春日大社などに祀られている。ちなみに、鎌足のことを百済王子の豊璋(ほうしょう)と同一視する説があり、藤原氏は百済系の渡来氏族だというのだが、根拠がはっきりしない。
藤原の嫡流となった不比等ははじめ、「壬申の乱」後の天武朝期に、天智に近かったとして中臣(藤原)氏が朝廷の中枢からはずされたため、しばらくは不遇の身であったが、文武天皇を擁立した功により天皇の後見として朝廷の中枢に返り咲いた。以後、第三夫人との間にもうけた長女宮子を文武天皇の皇后に送り、文武の乳母として後宮で名を成した県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ、橘三千代)を後妻に迎え、授かった三女光明子を聖武天皇の皇后(光明皇后)にするなど、着々と朝廷氏族の雄への道を歩んだ。
不比等はまた、一族の権勢を誇るかのように壮麗な興福寺を建立している。もともと興福寺は、天智天皇の妃だった鏡王女(かがみのおおきみ)が藤原鎌足の正妻となった後、鎌足の病気平癒を祈って鎌足発願の釈迦三尊像を、山背(山城)の山階(山科)の私邸に祀って建てた山階寺(やましなでら)がはじまりで、その後飛鳥の廐坂(うまやさか)に移されて廐坂寺といわれていたものを、遷都とともに平城京の左京三条七坊に移し、中金堂ほかの堂塔伽藍を建立して興福寺と改名したものである。以来、興福寺は藤原氏の氏寺(私寺)ながら国家仏教の中枢を担うとともに、西の京の薬師寺と並んで南都法相の法城として君臨した。
不比等には四人の男子がいた。正妻蘇我娼子との間に生れた長男武智麻呂(むちまろ)、次男房前(ふささき)・三男宇合(うまかい、馬養)と、第二夫人の大原大刀自(おおはらのおおとじ、五百重娘)との間にできた麻呂(まろ)である。この四人兄弟はいくたびかの権力争いを乗り越え、太政官の要職について朝廷の実権を握り、藤原四子政権などといわれた。こののち、武智麻呂の一門は南家、房前の一門は北家、宇合一門は式家、麻呂一門は京家といわれた。
しかし栄華は長く続かず、四人の兄弟は折から流行の天然痘にかかって世を去り、四家ともに後継の子弟が未成人だったこともあって、しばらく衰微の時期があった。しかし、やがて聖武天皇と光明皇后の娘である女帝孝謙天皇の時代になると、南家の次男の仲麻呂(恵美押勝)が参議・大納言さらに天皇側近の中務卿や中衛大将に栄進し、政治と軍事両面の実権をにぎるなど、再び藤原氏の勢力が息を吹き返す。
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