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【『空海ノート』補記 「空海と深くかかわった渡来系氏族とその周辺」】より
この秦氏の弥勒信仰はやがて、秦氏が本拠地とした山背太秦に秦河勝(はたのかわかつ)が建てた蜂岡寺(後の広隆寺)の本尊弥勒半跏思惟像や、聖徳太子の伝建立七寺の本尊弥勒半跏思惟像や、平城京の官大寺に流行した弥勒信仰や、空海の弥勒信仰にも大きな影響を及ぼした。
余談ながら、秦氏が豊前の地に展開した宇佐八幡やシャーマニズムから想い起されるのは、神護景雲3年(769)に起きた宇佐八幡宮神託事件とその主役の道鏡の雑密呪術である。道鏡は大和の葛城山に篭り、雑密の宿曜法に習熟したという。葛城山は役行者以後葛城修験の道場となるが、役行者以前から豊前の英彦山の山岳修行と同系の山中篭行が行われていた。かれは山中篭行を行うなかで、すでに日本に伝えられていた雑密系の修法を身につけたのであろう。当時としては新しい雑密呪術を駆使して度々霊験を顕わしたのか、天皇の病気平癒を担うシャーマンの役を与えられたのである。かれは女帝孝謙上皇(後に重祚して称徳天皇)の看病禅師として宮中に出仕し、雑密呪術を以て上皇の病気を治し妖僧とまでいわれた。
上皇の信頼を得た彼は、「藤原仲麻呂の乱」を経て、復位した称徳天皇の側近となり、天平神護元年には僧侶でありながら太政大臣となり、翌年法王の座に上りつめ、朝廷の実権をにぎった。
神護景雲3年(769)、兄道鏡の栄達とともに出世の道を急速に進んだ実弟で、大宰帥(大宰府の長官)大納言弓削浄人(ゆげのきよひと)と、大宰主神(だざいのかんずかさ、大宰府の神祇長官)だった(中臣)習宜阿曽麻呂((なかとみの)すげのあそまろ)が道鏡を皇位につけることをもくろみ、道鏡を皇位につけることが神意にかなう旨の宇佐八幡の神託を朝廷に奏上した。宇佐八幡は早速、称徳天皇に対し側近の女官であった和気広虫(わけのひろむし、出家して法均)を派遣するよう求めたが、からだが弱かったため代りに弟の和気清麻呂が宇佐八幡に下向した。
ところが、大神の禰宜・辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)への託宣で、道鏡を皇位につける神託は偽りだということがわかり、清麻呂は帰ってそれを称徳に報告すると、道鏡を皇位に就けたかった称徳は怒り、清麻呂を改名までさせて大隈国へ配流してしまった。その翌年に称徳天皇が崩御すると道鏡の権勢は急速に衰え、やがて下野国の薬師寺へ左遷され没した。
秦氏は技術力・開発力・経済力・宗教文化によって大きな富と権勢を得、その隠然たる力をもって朝廷のさまざまな氏族と混淆したが、徹底して政権の表舞台には立たなかった。同系の山岳信仰をもつ氏族として道鏡の栄華と失脚を他山の石として見ていたのかもしれない。渡来人の氏族には、謂われなき冤罪で非業の死を遂げた人材が数々あった。分をわきまえることに敏だったのだろう。
◇秦氏の虚空蔵信仰
先に述べた辛嶋氏の本拠地辛嶋郷に宇佐地方で最初に建てられた仏教寺院を虚空蔵寺といった。7世紀末、白鳳時代に辛嶋氏と宇佐氏によって創建され、壮大な法隆寺式伽藍を誇ったという。その別当には、英彦山の第一窟(般若窟)に篭って修行したシャーマン法蓮が任じられた。宇佐八幡宮の神宮寺である弥勒寺はこの虚空蔵寺を改名したものである。
虚空蔵寺の寺名になぜ虚空蔵菩薩の名が用いられたかは謎であるが、秦氏には、蚕神や漆工職祖神として虚空蔵菩薩を敬う職能神の信仰があった。
まず、虚空蔵寺の別当に任じられた法蓮という花郎(ふぁらん)であるが、このシャーマンは7世紀半ば(670頃)に、飛鳥の法興寺で道昭に玄奘系の法相(唯識)を学び、先に述べた「秦王国」の霊山香春山では日想観(太陽の観想法)を修し、医術に長じていたという。
唯識(法相)に虚空蔵三昧が説かれることはあまり知られていないが、日想観を修していた法蓮が山中の洞窟で虚空蔵菩薩のシンボルたる金星(太白)を観想する占星巫術を行っていたとしてもおかしくはない。
医術に長けていたとは、おそらくその巫術と関係があり、医術とはつまり毉術(不老長寿の道術)のことで、石薬(鉱物系の医薬)の生成とその巫術的使用を指すのであろう。法蓮という僧は、道教系雑密の毉術に長けたシャーマンであり、同時に常世の行者として金星(虚空蔵菩薩)を観想する仏教僧だったと思われる。虚空蔵寺の名は、宇佐の里にはじめて宇宙の仏が降臨したことを隠喩したのかもしれない。
飛鳥時代すでに、斑鳩の法興寺(飛鳥寺、後に元興寺)には虚空蔵菩薩があって、7世紀には大和の地に居住する渡来人たち(秦氏・東漢氏ら)、とくに製銅・製鉄・鍛冶・冶金あるいは養蚕・織物・漆製造・漆工芸を職能とする技術者の間で虚空蔵信仰があったことが知られている。
宇佐地方でも同じことがいえるであろう。豊前地方に展開した秦氏が養蚕・織物・漆製造・漆工芸の技術に長けていたことは言うまでもない。
まず養蚕の神としての虚空蔵菩薩であるが、蚕の糞を蚕糞(こくそ)といい、虚空蔵と語呂合わせができることと、蚕は幼虫→繭→蛾と死と再生(擬死再生)を三度くりかえすので(不老不死の)常世虫といい、それが常世の神(蚕神(かいこがみ))として信仰されたことから、養蚕や絹織物に励む秦氏の民にとって、蚕(常世虫)と常世の神(蚕神)と虚空蔵菩薩は一体となったのである。
豊前「秦王国」の香春郡には桑原という地域があり、秦氏が勢力を伸ばした大隈国にも桑原郡という郡名がある。蚕用の桑の木が一面に生い茂っている様を思い起こさせる。
また、漆工職の祖神としての虚空蔵菩薩であるが、漆工職が使う木屎(こくそ、木粉を漆に混ぜたもの)と語呂合わせができ、漆工職人とくに木地師の間では護持仏として虚空蔵菩薩が敬われている。
『以呂波字類抄』という古文献の「本朝事始」の項に、倭武皇子(やまとたけるのみこ)が宇陀の阿貴山で漆の木をみつけ、漆を管理する官吏を置いたという記述があり、また倭武皇子が宇陀の山にきて木の枝を折ったところ手が黒く染まり、その木の汁を家来たちに集めさせ持参の品に塗ったところ美しく黒光りした。そこで漆の木が自生している宇陀郡曽爾郷(今の宇陀市曽爾村)に「漆部造(ぬりべのみやつこ)」を置いたという。これが日本最初の漆塗の伝えである。
宇陀の地には紀伊に入った秦氏が古くから移り住んでいた。右の伝承の「漆部」(ぬりべ)とは漆器製作の職掌の品部であり漆部連(ぬりべのむらじ)や漆部造(ぬりべのみやつこ)が伴造(とものみやつこ)として支配した。伴造の主なものは渡来系氏族があるが、この宇陀の地では秦氏以外に考えられない。
京都嵯峨(嵐山)に行基が建立した葛井寺(ふじいでら)に、貞観16年(874)、虚空蔵菩薩を祀って寺を再興し、寺名を法輪寺に改めたのは讃岐国香川郡の秦氏を出自とする道昌であった。道昌は空海の同郷の弟子である。法輪寺のある一帯は、ほど近い太秦を本拠地とする秦氏の勢力圏であった。道昌は、秦氏が5世紀後半に桂川に築造した葛野大堰の後を受けて承和年間に大堰川の堤防を改修し、承和3年(836)には太秦広隆寺の別当となっている。爾来、法輪寺は漆寺といわれるようになり、漆工職の信仰を集めることになった。
余談ながら、嵯峨(嵐山)の法輪寺から南に下ると秦氏一族の氏神(大山咋神(おおやまくいのかみ)=松尾山の神)を祀る京都最古の神社松尾大社がある。大宝元年(701)、秦忌寸都理(はたのいみき、とり)が社殿を建立し、松尾山山頂の磐座(いわくら)から神霊を移したのが開基である。
秦氏は酒の醸造技術ももたらした。中世以降秦氏に由来する醸造祖神として、杜氏など酒づくりに携わる人たちから敬われるようになった。
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松尾大社 嵐山渡月橋からの法輪寺(漆寺)
◇秦氏の勤操・護命と空海の虚空蔵求聞持法
若き日の空海に虚空蔵求聞持法を教えたのは、空海にとって公私にわたる大外護者ともいうべき大安寺の勤操であり、実質的な恩師ともいうべき元興寺の護命であったが、この二人ともに出自は秦氏である。
このうち勤操は大和国高市郡の出身で、大和国高市郡といえばその当時河内地方にかけて、渡来人(秦氏・東漢(やまとのあや)氏・東文(やまとのふみ)氏)などの一大居住地であった。
余談ながら、高市郡に所在する久米寺で『大日経』を空海が感得する話にも勤操や渡来系の仏教僧が関与しているかもしれない。また、空海が碑銘を書いた大和益田池も久米寺南方の高市の地にある。益田池の修築になぜ空海がかかわったか。秦氏のもつ潅漑土木技術を思わないわけにはいかない。
護命は美濃の秦氏出身である。当時秦氏は、伊勢・尾張・美濃そして北陸地方にも勢力を伸ばしていた。護命は空海が祝いの詩を送ったくらいの長寿をであったが、勤操と生きた年代がほぼ一致する同時代の人である。
私見だが、通説では、空海の虚空蔵求聞持法の師を勤操だというのであるが、私は護命だと確信している。
その根拠は、勤操はたしかに道慈にはじまる大安寺の虚空蔵求聞持法伝持の一人ではあるが、一方、三論(大乗中観派の宗学)の論学の人で、大安寺に関係の深い吉野比曽(山)寺の「自然智宗」(神叡にはじまる虚空蔵求聞持法修行者のグループ)とのかかわりが見えないところから、勤操は虚空蔵求聞持法を含め仏教というインド的価値世界を総合的に空海に教えた人であるが、求聞持法を空海に直接伝授した人ではないと見るのが正しいだろう。
その点護命は、元興寺(法相・倶舎)にありながら比曽(山)寺の「自然智宗」(神叡の法流)に連なり、月のうち上半は吉野の比曽(山)寺を中心に虚空蔵求聞持法を修練し、下半は元興寺で法相・倶舎の論学につとめた人で、空海はその時期、この護命の行学法を仏道修学の範としていたと思われるふしがある。おそらく空海の求聞持法と法相の実際的な指南役はこの護命であったにちがいない。『性霊集』には、84才まで生きた護命の長寿を寿ぐ二編の詩が収められている。
kukai_6.jpg 吉野、比曽(山)寺跡、世尊寺 大安寺
ときに、護命が行じていた比曽(山)寺の「自然智宗」といい、虚空蔵求聞持法といい、空海が成就した室戸崎の洞窟での虚空蔵求聞持法といい、「秦王国」の山岳信仰や宇佐地方のシャーマン法蓮の虚空蔵信仰と酷似している。
吉野比曽(山)寺の「自然智宗」も、実は秦氏ではなかったか。吉野や宇陀方面には紀伊に入った秦氏が勢力を伸ばしている。「秦王国」から吉野に虚空蔵菩薩の信仰がもたらされても不思議はない。「自然智宗」の祖神叡は、道慈とともに高徳を賞された法相の学僧であるが、渡来系の人といわれている。空海がのめりこんだ虚空蔵求聞持法は秦氏系の僧や修行者が主導していたのではないか。
ついでながら、空海が私費留学生として入唐留学する際にも、勤操と護命などの秦氏系の人が陰で支えた可能性について付記しておきたい。
空海の入唐留学はあわただしかった。
周知のように、空海は延暦23年(804)5月12日、一年遅れの第十六次遣唐使船の第一船に乗り難波ノ津から船出した。
遣唐使団という国家的な大デリゲーションに加わるには、僧侶の場合国家認定の官僧でなければならない。官僧になるには東大寺で具足戒を受戒し、国家仏教の役所である僧綱所から度牒(身分証)を受けなければならない。空海はまだ沙弥(私度僧)の身分であった。
空海が東大寺で具足戒を受けた時期には諸説あるが、一般によく言われている延暦23年4月7日説が、遣唐使船乗船まであと1ヵ月というあわただしさこそ空海の入唐風景に似合っているという理由でも有力でかつ妥当と言っていい。
具足戒の受戒、度牒の拝受、留学生(るがくしょう)の資格取得、在唐20年の資金・持参品準備、そして乗船・船出。これを1ヶ月で行ったとすれば、否仮にそうでなくても、空海の入唐留学には相当の協力者が周囲にいたと考えるのが至当である。
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肥前田ノ浦旧地、空海渡唐碑 東大寺戒壇院
私見だが、留学生の資格取得と在唐20年の資金・持参品準備には、勤操のはたらきかけによる秦氏要人の援助があったと考えられる。
勤操が秦氏の要人とともに、留学生資格取得の許可を、性急に朝廷にはたらきかけたことは想定に価する。あるいは秦氏の要人が、相当な金品を内密に使ったかもしれない。とにかく空海という逸材への期待に花が咲くかどうか、急を要することだった。
ある説によれば、当時南都仏教界では法相宗勢力の増大に比べて三論宗の宗勢が衰えていたため、三論の有力者であった勤操が三論宗の人材補充の目的で空海を抜擢したという。仮にそうだったとしても、それはあくまで表向きの理由であって、当時の空海には三論の「空」の論理学よりも法相の精神分析学や華厳教学や『大日経』や梵字・悉曇に関心が集っていたことは想像に難くない。
秦氏の要人らは同族系の勤操から要請を受け、在唐20年に必要な金品を用意したにちがいない。空海はたった2年足らずで在唐20年の留学義務を破り帰国するのだが、帰国に際して、新訳の密典・儀軌・梵字真言讃をはじめ詩文・書の書籍や絵図や法具のほか筆や墨に至るまで、多大な出費をして用意した。密教の秘奥を特例の抜擢で伝授してくれた師恵果和尚にも、青龍寺の住院にも、在唐の恩師般若三蔵にも、寄宿先だった西明寺にも、篤志の金品を特段に納めたことであろう。出国にあたって、その担当の役所・役人にも相当な賂を用意したに相違ない。交友を重ねた文人・友人らと盛大な別れの宴も催した。空海の周辺でそうした莫大な金品を短期間で準備できるのは、秦氏系の人たち以外には考えられない。
ちなみに空海のような私費留学生の場合、朝廷から餞別として絁(あしぎぬ、紬に似た絹の織物)40疋(=80反(1反は幅約1尺(30㎝)×長さ約3丈(9m)×80)、綿100屯(1屯=150gの100倍、15㎏)、布が80端(80反)下賜されるのであるが、それらは彼の地で外交儀礼的交換の品として使うためのもので、長期間滞留する留学生はそれだけではとても足りず、自分の努力で相当な金品を調達しなければならなかった。
また、急を要した東大寺での具足戒の受戒と度牒の拝受には、僧綱所に護命が根回しをしていた可能性がある。
護命は、承和元年(834)84才で示寂するまで、僧綱所にも長くかかわった。大同元年(806)律師に任じられ、最澄の大乗菩薩戒による戒壇独立の動きには僧綱所の上席として反対したことが知られている。晩年、僧綱所では最高官の僧正に上りつめた。国家仏教の監理庁たる僧綱所で上首をつとめることは、学徳兼備である上にある種発言力や政治力も持ち合わせていなければならない。おそらく護命は律師に任じられる前から僧綱所の幹部候補生として僧綱所にかかわっていたと考えられる。役所的にはそういう気配が濃厚の人である。
空海が東大寺で具足戒を受戒したのは延暦23年(804)。護命が律師になる約2年前である。護命が僧綱所の上席に対し、空海の具足戒受戒の申請裁可と同時に、度牒の申請と至急決裁をも要請したであろうことは想定可能である。上席は、護命や勤操の推薦の上、秦氏系要人の協力体制を見て、すぐに案件処理をしたにちがいない。
蛇足になるが、空海の梵字・悉曇(今でいうサンスクリット)の語学力は抜群であった。長安で醴泉寺の般若三蔵や牟尼室利三蔵から学んだことは史料などにも明らかであるが、実質的に1年程度の学習であれほどのレベルに達するはずがない。まちがいなく渡唐以前にサンスクリットの語学(文法・修辞・字体・発音・漢訳・和訳)を学んでいたにちがいない。
では一体、どこの誰について学んだか、空海はこれを明かさなかった。察するに、天平8年(736)に大安寺にきて、東大寺の大仏殿の落慶導師をつとめたインド僧菩提僊那(ボ-ディセ-ナ)のサンスクリットを身近に大安寺で学びとった渡来僧の誰かであったろう。
その時、霊仙もいっしょだったかもしれない。あるいは年齢的に霊仙の方が先に学んでいた可能性もある。この二人は、同じ第十六次遣唐使船で唐に渡り、霊仙は醴泉寺の般若三蔵のもとに留まり訳語の助手をつとめた。霊仙のかの地における栄進と悲劇的な最期については拙著『空海ノート』をご覧いただきたい。
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