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【『空海ノート』補記 「空海と深くかかわった渡来系氏族とその周辺」】より
◇藤原氏と空海の親和関係
仲麻呂の南家は、その後代々、朝廷の中枢の地位にあったが、北家に押され気味となり、歴史に名を残す人はとくに出なかった。空海との縁で見ると、仲麻呂の十一男で南都法相の碩学だった徳一と、桓武天皇の第二夫人で伊予親王の母であった吉子(仲麻呂の弟の乙麻呂の子是公(これきみ)の娘)が目立つ。
徳一は、壮年の頃平城京を離れて会津磐梯山麓に篭り、山岳信仰によって東国・東北の民衆教化に努めた人であるが、比叡山の最澄(天台宗)にはきびしく「三一権実諍論」をしかけ、最澄が亡くなるまでの五年間宗論を闘わせたが、空海には終始好意的で、空海が創案した密教への疑問を『真言宗未決文』にまとめて書き送ったが、通説が言うように、空海密教を批判したものではなかった。事実徳一は、空海から依頼された密典の書写を拒まなかった。
また、吉子が桓武との間にもうけた伊予親王だが、空海の叔父の阿刀大足がその侍講(位の高い人の専任講師)をつとめた。吉子は「伊予親王の変」によって親王とともに飛鳥の川原寺に幽閉され、そこで自害したのだが、のちに二人の怨霊は「御霊」として祀られ、神泉苑や空海亡き後の東寺と西寺において御霊会が修された。
北家と空海の縁は、まず空海に興福寺南円堂の設計監督を頼んだ藤原内麻呂(うちまろ)がはじまりである。内麻呂の妻百済永継(くだらのながつぐ)は河内国の百済系渡来氏族を出自とする飛鳥部奈止麻呂(あすかべのなとまろ)という。
興福寺南円堂
その次男冬嗣(ふゆつぐ)には百済系の血が流れている。南円堂は内麻呂の死後、弘仁4年(813)に完成し、冬嗣が父内麻呂の追善供養のために建立したかっこうになった。堂内には、内麻呂が用意した本尊不空羂策観音像のほか、四天王や真言八祖が祀られた。南円堂完成のあと、北家の権勢は益々さかんになり、内麻呂・冬嗣ゆかりの南円堂は興福寺のなかでも特殊な位置を占めるようになった。
冬嗣は、空海と同じように、嵯峨天皇の信頼が厚く、嵯峨が創設したブレーンスタッフ「蔵人所」(くろうどどころ)の事実上のトップである蔵人頭(くろうどのとう)となり、坂上田村麻呂(渡来系東漢氏の出自)とともに「薬子の乱」を鎮圧した。空海とは、この時期、最も親しかったと思われる。冬嗣は当然、父の内麻呂から空海の情報を縷々聞いていたであろう。渡来系の秦氏との親和関係も聞いていたはずである。百済系渡来人の血を引く冬嗣には、自ら進んで交わるに足る人物だと思ったにちがいない。
また冬嗣は、空海が会津の徳一に密典の書写を依頼した時期、南西部の会津を含む陸奥国の国守に任じられている。徳一は冬嗣と同じ藤原氏直系の人である。密典書写の協力依頼は冬嗣を介してもきていたのではないか。それは同時に、同時期に東国・東北地方への進出をもくろんでいた最澄への政治的な牽制でもある。空海は空海で、東国の藤原系国守を動かして密典書写をたのんでいる。冬嗣は、最澄の天台宗に反発する興福寺(藤原氏の氏寺)をはじめ南都の仏教界をサポートする立場にあった。その南都の仏教界が反天台の切り札として頼む空海と組まないはずはない。お互いに嵯峨の側近でもあった。この状況を察して、徳一が不用意に空海批判などを行うはずはない。最澄天台宗の東北への進出を阻止するために切り札が欲しい冬嗣と、最澄と長い論争を繰り返す徳一と、最澄に「下僧最澄」と言わせた空海と、この絶妙なトライアングルを見逃してはなるまい。
後代10世紀後半から11世紀にかけて、北家から藤原道長・頼道親子が出て摂関政治を行い、栄誉栄華を誇った。この親子はともに、興廃した高野山に登り弘法大師の御廟に参拝している。その後高野山はふたたび盛んになったという。
ときに、藤原葛野麻呂(かどのまろ)である。空海と藤原氏の親和関係を語るのにこの人を落とすわけにはいかない。
葛野麻呂の父は北家の藤原小黒麻呂(おぐろまろ)で、母は秦氏系の(太)秦嶋麻呂(はたのしままろ)。小黒麻呂は、桓武天皇の信認厚く、側近として桓武政権を支え、大納言の地位まで上った人で、かれの妻の出自の秦氏が根拠地として展開する山背国葛野郡にほど近い乙訓郡長岡への遷都(長岡京)を強く推進した。
ついでながら、小黒麻呂とともに長岡京造営に奔走したのが式家一門の藤原種継(たねつぐ)であった。彼の母も、秦忌寸朝元(はたのいみきあさもと)の娘で、秦氏である。種継は、桓武から長岡京造営長官に任じられ、山背国葛野郡の秦足長(はたのたりなが)や大秦宅守(おおはたのたくもり)ら秦氏一族の協力をえて着々と遷都を進めていたが、延暦四年(七八五)、造営の監督中に矢で射られて殉死した。
首謀者として、すでに死亡していた大伴家持が官籍から除名され、大伴氏・佐伯氏をはじめとする官人が多数斬首・配流された。しかし、それでは終わらず、南都の国家仏教勢力の力に嫌気した桓武が南都の仏教勢力から離れようと遷都を企てたのに対し、東大寺や大安寺などの仏教勢力や宮中の祭祀を司る大伴・佐伯といった遷都反対勢力に、桓武の実弟で皇太子である早良親王がそそのかされ謀反を画策したとして濡れ衣を着せられ、長岡の乙訓寺に幽閉されたのである。その乙訓寺こそ、後に空海が別当に任じられ、早良親王の怨霊が漂うまま荒廃していたのを復興した寺で、そこに比叡山の最澄がたずねてきて、(伝法)潅頂の受法を乞うた舞台である。
長岡京、乙訓寺 長岡京俯瞰図
話を葛野麻呂に戻す。妹の上子(かみこ)が桓武の後宮に入っている。そのおかげでか栄進の道を進み、延暦23年には遣唐大使を命じられ、空海も乗った第十六次遣唐使船で唐に渡った。途中、東シナ海での遭難から長安に到着するまでの道中、かれは何度も空海に苦境をたすけてもらった。翌年無事帰国すると、参議・式部卿に任じられて天皇の近くで重用され、さらに中納言にもなった。
ときに、彼の妻は、最澄の兼務住寺である高雄山寺を氏寺にもつ朝廷氏族和気清麻呂(わけのきよまろ)の娘である。和気清麻呂が道鏡の宇佐八幡神託事件で配流の憂き目に会ったことは先に述べたが、その後は桓武朝に復活し、とくに平安京遷都を桓武に強く進言し、遷都にあたっては造営大夫として活躍した。配流の身から天皇の側近にまで栄進したのである。しかし、桓武に取り入り平城京廃都を押し進める清麻呂に対し、南都の仏教勢力はおもしろくなかった。
空海が、大宰府観世音寺での滞留義務を解かれて、和泉の槇尾山寺を経て高雄山寺に入る時、住持だった最澄は空海の高雄山寺入山を快く認めて引き下がった。最澄を説得したのは、最澄の天台に反対する南都仏教勢力の勤操らだったというのだが、陰の主役は葛野麻呂ではなかったか。
たぶん勤操が、空海の異能をよく知り清麻呂の娘を妻にもつ葛野麻呂を動かした。葛野麻呂はこの時期、中納言になり、正三位にも上り、天皇の近臣の地位にあった実力者である。空海が正統密教の第八祖となり短時日で帰国したことに驚きながらも、無事に帰ったことを誰よりも喜んだのはかれだったにちがいない。唐土の福州に上陸する際に、かれの窮地を救ったのは空海であった。かれは、真綱(まづな)など和気氏の義弟たちに空海の文章と唐語の異能を熱く語って聞かせ、最澄に代って高雄山寺に迎えるべきであり、空海を外護することで和気氏一門が南都の仏教勢力とも融和できるであろうことを説いたと思われる。
ついでながら、高雄山寺と和気氏と秦氏の間にまた深い縁がある。
和気氏は、河内国内に展開した秦氏の鍛冶・鋳造の神鐸石別命(ぬてしわけのみこと、垂仁天皇の皇子)を祖とする。鐸石別命は死後、信貴生駒山地最南端の鷹巣山(高尾山)に葬られ、河内の秦氏はこれを高尾社として祀った。後に、備前国の磐梨(いわなし)郡石生(いわなし)郷を本拠とする磐梨(いわなし)氏(通称、和気氏)が、これをその地に遷座し氏神とした。
和気清麻呂は本名を磐梨別公(いわなしわけのきみ)[といい、磐梨(いわなし)氏が本姓、和気清麻呂とは通称である。「わけ」とは「分別する」の意味で、石と鉱石を分けること。その「わけ(和気)」氏の本拠地が石生郷で、石生(いわなし)とは石成とも書き、鉱石が金属に成る(変化する)ことである。通称和気氏は古くからこの地で鍛冶・鋳造(金属の精錬)を得意として栄えていた。明らかに秦氏の技術者集団とのかかわりがそこに見える。秦氏は備前国のこの地域に早くから展開していた。
ちなみに、清麻呂が、道鏡にからむ宇佐八幡の神託事件で、称徳天皇の勘気に触れて配流された大隈国といい、称徳の死後名誉回復して国司を命ぜられた豊前国といい、いずれもこの国に渡来してほどない秦氏の一族が一番早く勢力を伸ばした九州の拠点地である。しかも清麻呂は、山背国の秦氏がかかわる「高尾山」寺(高雄山寺)を復興している。
「高尾山」寺(高雄山寺)はもと、愛宕山・鞍馬山などとともに、山背国の山岳信仰や修験の寺であった。ここに、清麻呂の子の真綱と仲世が、河内国の高尾山(神鐸石別命を祀る高尾社近く)に、清麻呂が八幡神の託宣によって建立した神願寺を移したものである。「高尾山」寺(高雄山寺)にも、山背秦氏がかかわる山岳信仰が関与していた。
清麻呂は、平安京遷都を前に愛宕権現(愛宕山)で祭祀が行なわれた際に、祭祀奉行をつとめたりした。桓武の平安京遷都は、山背の地に一大勢力をきづいた秦氏の協力なしにはできなかったのである。
神護寺境内の和気氏御廟 高雄山寺(神護寺)
◆阿刀氏
次に、空海の母方の氏族である阿刀氏について記しておく。阿刀氏も渡来系氏族にほぼまちがいない。
阿刀氏の阿刀(あと)は、安斗・安都・安刀・阿斗・迹ともいう。物部氏の一族で、本拠地を河内国渋川郡跡部(あとべ)郷(今の八尾市の一帯)とした。姓に、宿禰・連・造がある。神護景雲3年(769)、阿刀造子老(あとのみやつここおゆ)ら5人が、宿禰の姓を賜っている。
本拠地の河内国渋川郡跡部郷には阿都、大和国城下郡には阿刀の地名があった。いずれも渡来系氏族居住地であり、船運で渡来人がよく往来するメインルートの大和川の要所に位置することから、阿刀氏の高句麗・百済系渡来人出自説がある。
古代から朝鮮半島や中国大陸から畿内に渡来する外国人は、ほとんどが九州の那ノ津(今の博多)や坊ノ津(薩摩半島)に船で渡り、そこから瀬戸内海に出て東に横切り、住吉ノ津や難波ノ津にきた。内陸部の河内・飛鳥・平城京に行くには難波ノ津から淀川へ、淀川から大和川を進み、山背・平安京に行くには淀川から桂川をたどった。大和川の流域や桂川の上流には秦氏など渡来系の民が古くから居住していた。かれらは、すぐれた船と航行術をもっていた。
当時、海を渡るには新羅船がもっともすぐれていた。船底の平らな日本の和船は外海の大波や風雨に弱く、日本の外交使節は大陸との往来の際しばしば新羅船の世話になった。住吉ノ津や難波ノ津から内陸部に入る際に淀川や大和川や桂川に浮んだのは、おそらく新羅系渡来人が造った舟だったであろう。阿刀氏は、河内国渋川郡跡部郷を本拠としつつ、これらの水運をフル利用して大和や和泉・摂津・山背に展開をしたに相違ない。
阿刀氏は学問を以てなる家柄だったらしく、大和国高市郡出身で元正・聖武両天皇の内裏に供奉した法相宗の義淵や、義淵の弟子で入唐留学経験をもつ法相の玄昉や、玄昉の弟子(実子だという説もある)で法相宗の六祖に数えられる著述家の善珠といった学問僧のほか、空海の叔父で桓武天皇の皇子伊予親王の侍講をつとめた大足(おおたり)や、『日本紀』『続日本紀』の編纂局「撰日本紀所」に出仕をしたといわれる安都宿禰笠主(あとのすくねかさぬし)や、『万葉集』に歌がある安都宿禰年足 (あとのすくねとしたり)や、大学助(だいがくのすけ、大学寮の教授)をつとめた阿刀宿禰真足 (あとのすくねまたり)らがいる。
また朝廷の官人として「壬申の乱」の際大海人皇子のもとで活躍した安斗連智徳(あとのむらじちとこ)と安斗連阿加布(あとのむらじあかふ)や、称徳天皇に仕えた女官といわれる安都宿禰豊嶋 (あとのすくねとよしま)らが名を残している。
秦氏の根拠地となった太秦を含む山背国葛野の地に、阿刀氏の祖神饒速日命(にぎはやひのみこと)を祀る阿刀神社がある。平安京遷都にともない本拠地河内国渋川郡跡部郷から遷されたものである。秦氏と阿刀氏、同じ渡来系の氏族が、山背国葛野の地で共存することになったのである。
秦氏が築いた葛野大堰、嵐山渡月橋の上流部(大堰川) 嵯峨の住宅地、阿刀神社
ときに、空海の生地讃岐に母方阿刀氏の痕跡がないという説がある。研究者が言う歴史上の痕跡や事蹟とは公式の史書に残された記録。すなわち朝廷の動向にかかわる記録によるのであって、朝廷の動向にかかわりのないことは痕跡や事蹟として後世には残らない。阿刀氏の痕跡が讃岐にないというのは、史書や地方の史料(風土記など)でそうであっても、空海の母方の阿刀氏が讃岐国多度郡に住んでいなかったという証左にはならない。まして、空海の生地は讃岐の屏風ヶ浦ではないという最近の某(学)説の根拠にはならない。
少なくも、空海の実家の佐伯直氏が領する地の東方の中讃地方には秦氏が古くから入植していた。そこに、同じ渡来系の阿刀氏の一部が河内からきていたとしても何の不思議はない。空海の母阿古屋とその妹の一家が、そのなかにいたとしてもおかしくはない。河内国渋川郡→(大和川)(淀川)→難波ノ津→讃岐国多度郡は、渡来系氏族の船運ではぞうさない旅である。
通説では、空海の母阿古屋は中央の漢学者阿刀大足の娘か妹だというが、ではあの時代、阿刀氏居住地の河内国か阿刀大足のいる平城京にいたであろうはずの阿古屋と、讃岐の俘囚系氏族である佐伯氏の善通との遠距離縁談が、どのようにすれば成立するのか。当時は婿の側の通い婚だったという話も加えれば、讃岐の善通が河内までしばしば船運で通ったのであろうか。それとも善通は領地にいないで河内か平城京の阿古屋のところにいて、空海などの子を成したのだろうか。
そんな不可能に近い話で空海の母を阿刀大足の娘か妹にするよりも、阿古屋姉妹の一家をふくむ阿刀氏の一部が河内から秦氏の住む中讃の地に入ってきていて、中央で官人や学者や歌人を多く輩出しているすぐれた家系だという話が讃岐の多度郡一帯に聞こえ、それに佐伯氏の善通が敏感に反応したとみる見方の方が信憑性に富む。善通は東隣にきた阿刀氏の二人の娘に目をつけたのである。
私見だが、佐伯善通は讃岐に封じられた俘囚(蝦夷)の一族佐伯氏を率いる身ながら、地方の国造クラスの氏族長としては識見の高い人で、中讃地域に居住する秦氏一族の農耕技術を取り入れ、真野の地から豊かな実りをえて富を築くとともに、朝廷祭祀を司る中央の佐伯氏(佐伯今毛人)にあやかって一族から中央官人を送り、一族の栄達を心がけたのではないかと思われる。善通はそのルートづくりを、秦氏の知恵を借りたか、現実に移そうとした。それが、讃岐にきた阿刀氏との婚姻戦略ではないか。
善通はまず阿古屋を迎えた。さらに、阿古屋の妹に実弟を婿入りさせ、阿刀大足と改名させた。大足は、時期をえらんで阿古屋の妹とともに河内に移り、そこから平城京に出た。中央官人を志すには漢籍を諳んじ経学に通じなければならないが、大足は若くしてその才に恵まれ、官僚にはならず漢学者の道をえらんだ。桓武天皇の皇子伊予親王の侍講になって栄進したが、「伊予親王の変」によって不遇の身となるも陰に陽に空海の外護につとめた。
◆丹生一族
渡来系の一族ともいわれ、「丹生」すなわち水銀の鉱床の発見と採掘や精錬術に長けた氏族に丹生一族があり、とくに西日本地域で、「丹生」という名前のつく土地や川や山や神社のある地方には丹生一族が展開していた。
丹生一族は地域によって氏族名が異なる。伊勢の丹生一族は伊勢丹生氏であり、近江では息長丹生氏である。空海が高野山開創の折に多大なサポートを受けたことで有名な一族で、今もなお和歌山県かつらぎ町天野の丹生都比売神社に存続している丹生氏はその総称または象徴といえる。
丹生都比売神(丹生明神)と丹生都比売神社
私見だが、丹生一族はおそらく秦氏と同系の一族ではなかったか。朝鮮半島の南端からきて、最初おそらくの那ノ津に上陸し、やがて豊前(「秦王国」)に丹生の鉱床を見つけてそこに移住し、そこから豊後水道を横切って四国に渡った。さらに、四国を真横に横切り(その線上には四国霊場が並んでいる)、淡路島を経て紀伊の国に上陸し、紀ノ川沿いに高野山山麓の天野に向い、そこを本拠地として吉野や宇多へ、さらに東の伊勢などに進出したと思われる。その移動ラインはほぼ中央構造線上、つまり水銀鉱脈に沿っていて、銅の採鉱と精錬の技術集団をもつ秦氏の展開と類似している。
丹生一族のルーツは定かではないが、伝説では中国春秋時代の5~4世紀に滅びた呉・越の民が呉の王女姉妹を戴いて南九州に渡り、姉の王女大日女姫(おおひるめのみこと)はそこにとどまって天照大神の原型となり、妹の稚日女姫(わかひるめのみこと)はミズガネ(=水鉄)の女神として敬われ、丹生都比売神の原型となったといい、越の民は金属採集に長じていた、という。これも秦氏の渡来伝説と酷似している。
「丹生」とは丹生明神・丹生都比売神社の丹生。「丹」は今の化学でいう水銀(とくに硫化水銀)のことで、丹砂・朱砂・辰砂ともいう。空海の時代、すでに鎮静・催眠の薬剤として用いられ、道術の要素を採りいれた古代山岳修行者(そこにまた秦氏の名がまた見え隠れする)の間では不老不死の丹薬として重宝がられた。また古墳内部・石棺や神社仏閣の彩色塗装の顔料や、天皇家や貴族の朱漆器などの原料となった。
さらに注目すべきことは、あの当時すでに合金の技術が実用化されていて、丹生すなわち水銀がメッキ剤として使われていた。その顕著な事例が、東大寺の大仏造顕にあたって73万7560斤(442536kg)の塾銅に1万436両(386kg)の金と5万8620両(2169kg)の水銀が金メッキ剤として使用されたという。
塾銅を供出したのは宇佐と長門の秦氏だった。この大量の水銀を当時供出できたのは、丹生の一族を措いてほかにないと考えるのは不自然なことではない。
ときに、空海の高野山開創をサポートした丹生一族のことであるが、具さには紀伊丹生氏、つまり丹生都比売神社の天野祝(あまののはふり)の家系をいう。この紀伊丹生氏は、4世紀頃には紀伊国伊都郡の地にきていたといわれ、先住の大伴氏から土地を譲られ、今の伊都郡かつらぎ町三谷に丹生酒殿神社を祀った。以後、紀伊丹生氏は大伴氏や土豪の紀氏と血縁の関係をもち紀伊丹生総神主家として代々続く。
高野山造営にあたって、空海が協力要請の手紙を送った土地の有力者というのも、この紀伊丹生氏の当時の当主だったということが、最近研究者によって明らかにされた。その手紙とは、
古人の説によると、私の先祖太遣馬宿禰は、あなたの国(紀伊国)の祖である大名草彦の分かれであります。一度訪ねたいと久しく考えていますが、あれこれ妨げがあってなかなか志を遂げられず、申し訳なく思っています。今、密教の教えに基づいて修禅の一院を建立したいと考えてきました。その建立の場所として、あなたの国の高野の原が最適と考えます。そのようなわけで上表文をしたため、天皇に高野の地の下賜をお願い致しましたところ、早速慈悲の心をもって裁可の太政官符を下されました。そこでまず一・二の草庵を造立するため弟子の泰範・実恵らを高野に派遣いたします。ついては仏法の護持のために僧俗相共に高野山の開創に助力賜りたく存じます。私は来年の秋には必ず高野に参りたく考えています。
(『高野雑筆集』)
ときに、空海が高野山に入山する時に、二匹の犬を連れ狩人の姿をした南山の犬飼いに出合ったという話があり、その犬飼いが狩場明神(高野明神・高野御子大神)だったという伝えもよく知られているところであるが、その狩場明神とは、実際は空海と同じ時代の紀伊丹生氏の当主丹生家信という人で、家信の死後、空海が狩場明神として、今の伊都郡かつらぎ町宮本に祀った(丹生狩場神社)という説がある。
束帯姿と狩人姿の狩場明神
「狩場」とは、山の民が狩猟をする場所などと思われがちだが、鉱山とくに銅山のことをいう言葉である。山の民(例えばサンカなど)の隠語だともいう。
丹生家信は、宣化天皇(467~539)を祖とする丹治氏から、延暦12年(793)丹生氏に養子として入り丹生総神主家を継いだことが伝えられているが、丹治氏といえば秩父の銅(和銅開珎、708)で知られ、本拠地を河内国丹比郡とし、中央の大伴氏や藤原氏や紀伊国の紀氏にも根を張っていた。今の秩父地方を開墾した「武信」という人は、この家信の子だという説もある。
狩場明神については従来この地一帯の土豪の首領だという説があった。興味深いのは、その土豪とは坂上(さかのうえ)氏、首領とは犬甘(いぬかいの)蔵吉人のことで、犬甘蔵吉人を犬飼蔵人と読み、坂上氏の先祖である阿智使主(あちのおみ)のあとに蔵人の名が見えるところから、坂上氏の人だという推定である。『紀伊続風土記』には「犬甘蔵吉は阿智使主の後蔵人と見ゆえたる人にて応神天皇廿年阿智使主と共に帰化せしむを同廿二年の事当社へ寄せるたまへるなるへし」という。
坂上氏といえば、桓武・平城・嵯峨の三天皇政権の軍人のトップとして蝦夷を征伐し「薬子の乱」を鎮圧した征夷大将軍坂上田村麻呂を思い出すが、坂上氏は紀伊国伊都郡から紀ノ川北方の今の橋本市一帯を本拠とし、丹生都比売神社には(氏子長者として)財政や神馬の管理などで信助を惜しまなかったといわれている。ちなみに、空海と坂上田村麻呂は同じく嵯峨天皇のブレーンであった。
ところで、先の空海の手紙に出てきた大名草彦とは紀伊国第五代国造の大名草比古(おおなぐさひこ)とみられ、紀氏の祖先になる。紀氏と紀伊丹生氏の関係は古く、丹生氏の庵田刀自(阿牟田刀自、あむたのとじ)と紀氏の豊耳(とよみみ)が結婚して、その子孫が紀伊丹生氏の嫡流となったという。紀伊丹生氏は、紀氏が奉祀する日前宮(名草宮)のなかの草宮(紀氏の先祖が祭られているという)に、毎年丹生都比売神の神輿を渡御し(浜降り神事)、紀氏は、国造に任じられ宮中参内のために京に上った帰途、丹生酒殿神社に参詣して白犬を供えるのが恒例となった。
後年、紀伊丹生氏から紀氏に養子を出したり、紀伊丹生氏が大伴氏から養子を迎えたりして、紀伊の有力氏族の間に血族関係が生まれるとともに、神事に関しても氏族間で神事の融合がみられるようになった。
さて、空海が高野山に入山する途中出合った南山の犬飼が、丹生総神主家当主の丹生家信だったとすると、「丹生」すなわち水銀の守護神である丹生都比売と、その丹生都比売の祭祀を行なう神職が、空海によって銅(カラ)の守護神(狩場明神)としてシンクロされた(水銀と銅が合体した)ことになる。
ともかく、東大寺大仏の造顕に使われた水銀と銅のことを考えれば、当時いかにこの鉱物が貴重かつ重要な先端資源であったかがわかる。空海の高野山入山に関する丹生都比売大神の託宣と狩場明神との出合いの話は、先端文化としての空海とその密教が当時の先端技術を背景に新登場したことを物語っている。
また、紀伊丹生氏すなわち天野祝氏は丹生都比売命の祭祀を司る神職であって、実際に水銀の鉱床を探して採掘したり、水銀を精錬して鍍金剤にしたり、薬品加工して丹薬にしたり、朱色の顔料にしたりする技術をもたなかったという。それを天野祝氏にもたらしたのはおそらく秦氏であろう。死体に朱(丹生)を施して再生を願い死霊(怨霊)を封じる古代からの呪術的な習俗もおそらく秦氏がもたらし、それを天野祝氏の神職が司祭したことも考えられる。
丹生一族と秦氏は、表裏一体の関係にあったのではないだろうか。やがて、水銀の鉱床が次第に掘り尽くされ、水銀の需要も減少するにつれて、秦氏は技術力・経済力を背景にさまざまな産業を興し、朝廷の氏族を支える有力なサポーターとなり、山背国太秦に本拠を構えるようになる。
以上、空海と深くかかわった渡来系氏族とその周辺について略記した。
空海の超人的な偉業は自身の異能によるところが大きいことは言うをまたないが、古代日本の産業技術や権力構造を実際に動かしていた渡来人氏族、とくに秦氏との親和関係なしには成しえなかったともいえる。
空海のすごさは、そのルーツに由来するのか、異国の人や言葉や文化や技術を苦もなく受け容れ、理解し、それを自分のものにしてフル活用するところである。この並外れた能力、つまりマルチタレント(多才)性に偉業の秘密があるといっていい。
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