鴨長明の「方丈記」を何故取り上げないのでしょう?
http://www.ctie.co.jp/kokubunken/pdf/publication/2003_04.pdf 【河川文化に関する研究】より
Study on the River Culture熊野 可文*1Yoshifumi KUMANO
「河川文化」とは、と聞かれると河川に関する『文化講演会』や本のタイトルには見ら
れるものの、それを真正面に“何か”示すことはあまり意味無いことのようにも思える。
しかし、株式会社建設技術研究所は、国土文化研究所という大き名前のカンバンを掲げた
以上、一度は真正面から取り組んでみようと思う。
『文化』という言葉はあまりにも広く茫洋としている。そこで、日本の伝統文化である
詩歌の世界を題材として、河川の文化というものがどのようなものかまずは眺めてみたい。
短歌、俳句、川柳を取り上げてみる。ここに川がどのように表現され、どのように見られ
ているのか、以下報告する。
1. はじめに
平成 14 年、元河川局長の川崎精一氏のお話を聞く機会を得た。川崎氏は、昭和 40 年代河川局長を務められ、戦後の河川行政を担った第一人者である。
氏は、最近のダム問題や河川行政に対する批判を真摯に受け止めた上で、これからの川づくりについて、“このごろ川柳ばっかりで、俳句がでるような川づくりを心がけてもらわなくては”と語られた。
さて、私は「河川文化」とは何か、を題材にしたが、では河川文化とは何かと問われると、あまりにも茫洋としていて、手にもつかない状態であったが、この川崎氏の言葉を手がかりに、日本の伝統文化として代表的な詩歌、その短歌、俳句、川柳を題材として、そこに河川がどのように詠まれ、どのように見られているのか、まずは眺めてみることにする。
日本の伝統文化の一つである詩歌は、古代奈良平安の時代から詠まれ、俳句・川柳は、江戸庶民の大衆文化として芽生え、現代にいたっても、短歌・俳句・川柳は脈々と歌い継がれている。この表現形態は、文字として永久に残り、決してお金がかからず、特定の階層の人々にかたよらないことが大きな特徴である。
2. 今日の新聞から
2004 年 2 月 23 日(月)、新聞各紙を見た。
〔朝日新聞〕8 面『朝日俳壇・歌壇』週 1 回掲載俳壇:4 選者 計 40 句 川の俳句:1 句
・長堤を犬ひた走る猫柳(東京都)飯岡かずお
歌壇:4 選者 計 40 句 川の短歌:無し―朝日新聞には、普段は投書欄に『朝日川柳』
毎日7 句掲載
〔毎日新聞〕2 面『仲畑流万能川柳』毎日掲載
川柳:1 選者 18 句 川の川柳:無し
―毎日新聞は『こころうつす 短歌 俳句』毎週日曜日掲載(以下、2 月 22 日掲載分)
俳壇:4 選者 計 48 句 川の俳句:1 句・遅れ来し鮭枝川に迷い入る 江別市 高橋 真
歌壇:4 選者 計 44 句 川の短歌:3 句
・河口に新しき橋架かりたり車渡るを遥かに望む 中津市 土生 家久
・信濃川冬日しづかに照らしたり中つ州にして群れる鵜のとり 三条市 中條 健男
・ひと色に川州は枯れて青あをと唐菜勢ふ昼のひかりに 和歌山 畑中 邦雄
〔読売新聞〕13 面投書欄『よみうり時事川柳』毎日掲載
川柳:1 選者 6 句 川の川柳:1 句
・ ひと昔近江の水が減り続け平塚 坂巻セツ子
―読売新聞は『読売俳壇・歌壇』を毎週日曜日掲載(以下、2004 年 1 月 21 日掲載分)
俳壇:4 選者 計 40 句 川の俳句:1 句 ・ 鴨潜く矢切の渡し冬茜青梅市 石田 武美
歌壇:4 選者 計 40 句 川の短歌:5 句
・下流には矢切の渡しがあるという松戸の川原コスモスの枯る 船橋市 内田 蟷螂
・人柱伝説ありし堤防を少女のバイク音たてて去る 埼玉県 小林 道子
*1国土文化研究所 Research Center for Sustainable Communities
・万代橋を背景にして立ちし君カメラ向くれば少女の如し 羽生市 木村 武雄
・水鳥の曳く水脈長し暮れかかる潮入りの池に明らかに見ゆ 稲城市 山口 佳紀
・潮入川潮みちくれば白鷺は捨石の上に移りきて立つ 三重県 山本十代保
以上三大紙を取り上げたが、日本経済新聞、産経新聞などの中央紙はもとより、北海道新聞、新潟新聞などの地方紙でも、短歌・俳句・川柳は必ず掲載され、多くの読者とともに、投句者を得ている。ちなみに、毎日新聞の『仲畑流万能川柳』の 1 月の投句はがきは 8886 通(はがき 1 枚に 5 句まで)にも達している。どうも詩歌とは、詠む人が読むようである。
以上の俳句、短歌、川柳の中で、川を詠んだ句を集計してみると、短歌: 計 124 句中、川の句 8 句 俳句: 計 128 句中、川の句 3 句 川柳: 計 31 句中、川の句 1 句
実は、これから川柳を見てゆくが、この川柳では、ほとんど川が詠まれていないのである。
3.毎日新聞『万能川柳』
新聞各紙の中でも、毎日新聞の『万能川柳』が扱う句数が多いようである。
毎日掲載されている川柳を読むと、時々の社会政治情勢や、人々の日々の生活の機微に触れ楽しくなる。最近の掲載川柳を読んでみる。
□はじめてのお使いをする自衛隊長崎 茶々くさら(04.2.18)
□イラクよりイランに行こう自衛隊 佐倉 甘利 利 (04.1.25)
□質問の答えは言わぬ小泉さん 川﨑 賢 坊 (04.2.18)
□ヘイジュード後歌えないビートルズ 高砂 しんちゃん(04.2.5)
□ドイツまで来てもマックへ日本人 ドイツ 池田幸子(04.1.23)
□17 字それでも 2 回辞書を引き 春日部 風 子(03.10.2)
この川柳では、どのように川が詠まれているのか。
ほぼ 1 年間、毎日新聞の『万能川柳』を見ているが、殆ど無いのである。ちなみに、この選者である仲畑貴志編「万能川柳傑作 1000 句」(2002 年 5 月発行)をチェックしたが、川を詠んだ句は 1 句も無い。
川柳というのは非常に人間くさく、社会・政治を皮肉り、茶化し、その真髄をつくところに面白さがある。
大変少ない中で、川を読んだ川柳を紹介する。
・ 奥さんじゃない人と川見ていたね 久喜 宮本佳則(04.1.28)
・ タマちゃんの移動で知った河川名 埼玉 ことばあば(03.5.22)
・ 戦争でユーフラテス川聞こうとは 長崎 マー坊(03.4.13)
・ 校歌では清き流れもごみの川 小牧 比呂凡(03.3.24)
4.『サラリーマン川柳』 今年で既に 17 年間にもなるが、第一生命の『サラリーマン川柳』は、多くのサラリーマンの喝采を受けている。投票で選ばれた毎年のベストワンから
代表的な句を紹介する。
□デジカメのエサはなんだと孫に聞く(第 15 回)
□ドットコムどこが混むのと聞く上司(第 14 回)
□早くやれそう言うことは早く言え(第 10 回)
□まだ寝てる帰ってみればもう寝てる(第 5 回)
このサラリーマン川柳でもまず川を詠んだ句は少ない。一つだけ見つけたのが、
・ 人生は川の流れとタマがいう(第 16 回、平成 15 年)
川柳を見てみると、川崎精一氏が言ったこと(川の問題が揶揄されている)とは違い、人々の関心を誘うどころではなく、相手にされていないとも思えるのである。
5.松尾芭蕉『おくのほそ道』
松尾芭蕉の『おくのほそ道』は、あまりにも有名であり、ほとんどの人がその俳句の幾つかを諳んじている。
□夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡 □閑(しか)さや岩にしみ入蝉の声
芭蕉は、元禄 2 年(1689)3 月(新暦 5 月)、現在の江東区深川にある芭蕉庵を発ち、水路隅田川を北上し千住の河岸で日光街道への徒歩の旅を始めた。芭蕉は行く先々の山や川や海などの自然の風景、人々のいとなみにふれ、往古を偲び、自然に共鳴して多くの俳句を詠んだ。その数は 50 句。著名である「おくのほそ道」としては以外と思ったが、そこには凝縮された芭蕉の世界が広がる。
この 50 句の中に、川を詠んだ句を拾ってみると、
・五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川 ・暑き日を海にいれたり最上川
の 2 句だけである。別格としては、「荒海や佐渡によこたう天河(あまのがは)」とある。旅先では、北上川、最上川など“数しらぬ川をわたりて”たのであるがその句は少ない。川を詠んだ句を探す目には少なく見えるが、自然と人々の中にごく普通に存在する川については、こんなものかもしれない。
芭蕉は、その旅の最後を大垣で迎えた。『おくのほそ道』結びの句は、□蛤(はまぐり)のふたみに別れ行く秋ぞ 元禄 2 年 8 月下旬(新暦 10 月初旬)の秋である。
芭蕉はその後、大垣の船町港より乗船して水門川を下り、さらに揖斐川を経て河口の長島に上陸し、陸路伊勢神宮を目指したのである。
川にこだわって『おくのほそ道』を読んで、少ない俳句(2 句)にがっかりしたが、その旅の出発を隅田川、最後大垣から水門川を舟の旅と知り、やや満足した次第である。江戸時代初期 17 世紀の日本の交通事情、とでも言えようか。
松尾芭蕉が住んだ『芭蕉庵』のあった深川に、江東区立芭蕉記念館が建てられ句碑や書簡など俳諧資料が展示されている。
芭蕉は、元禄 2 年、この深川の地を発ち隅田川を舟で北上し「おくのほそ道」の旅に出たのである。
6.おわりに
五・七・五(俳句、川柳)、五・七・五・七・七(短歌)と凝縮された詩歌は、最も短い文学として名高い。日本語の究極の表現形態かもしれない。そこには、“文化”という言葉を使い、我々が求める姿を見ることが出来るように思える。
短歌や俳句では、まだ詠まれている。河川にまだ自然が残っているのか、人々にとってまだ身近な存
在としてあるのか、昔からの言い回しの残渣なのか。
しかし、川柳では殆ど詠まれない。相手にされてい
ないのか。川﨑氏が「俳句に詠まれるような川づくり」と言った意味は、人々が日々目にして集い、関心が持たれるように、ということであろう。
川ばなれを嘆く河川技術者の声は久しい。高く急勾配の堤防、三面張りの河川、水質汚濁の河川、人々は、川を避けざるを得なかった。河川技術者は、何のためにその技術を生かすのか。水質汚濁を防止し、自然再生を図ろうと、近年環境問題への取組みはその重要性を増している。それは、技術的対応に限らず、“住民参加”と言う言葉にも表れているように、川への人々の関わり方の大きな変化が含まれている。
新たな人々と川との関わりとは、そこに“文化”の芽生えを見る。
現代社会においても盛んに詠まれている日本の詩歌は、その衰えは見られない。どうも河川技術者がその世界にあまりにも無関心で、別世界にいたようである。
日本の詩歌は、何も川だけを詠むものではない。
しかし、川に着目して、歴史的流れが見えたとき、詩歌を通じて、川に関わる“文化”の姿を教えてもらえるのではなかろうか。“文化”とは、上澄みのように透きとおり、人間社会にとっては善だからである。
付(つけたり):
川なので『川柳』が関係していると思っていたら、川柳は人の名前であった。江戸時代後期(宝暦 7 年1757)の俳句の有名な点者(選者)である俳号「柄井川柳(からいせんりゅう)」がはじめたことから、川柳の名が付けられた。ただし、この名が固定化したのは明治 30 年代と言われる。
(参考文献)
1) 萩原恭男校注「芭蕉おくのほそ道」岩波文庫
2) 小野圭一朗「句碑を訪ねて歩くおくのほそ道」朝日文庫
3) 藤田湘子「入門俳句の表現」角川選書
4) 山本健吉「俳句とは何か」角川ソフィア文庫
5) 田口麦彦「川柳入門はじめのはじめ」東京美術
6) 仲畑貴志編「万能川柳 1000 句」
7) 山藤章二・尾藤三柳・第一生命選「「サラ川」傑作選、いのいちばん」講談社
8) 家永三郎「日本文化史」岩波新書
9) 丸谷才一「新々百人一首」新潮社
10) 大野信「百人百句」講談社
11) 新聞各紙
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