https://www.fujisan.co.jp/zasshi_kensaku/997463/?q=%E8%8A%AD%E8%95%89 【NHK 100分de名著 10月号】より
この雑誌で「芭蕉」 を含む検索結果
1. ..3,芭蕉はなぜ、旅に出たのか?旅、それが『おくのほそ道』の旅だった。心の世界を実際に試み展開させるための��蕉風開眼?した芭蕉が、新たに見出した貞享三年(一六八六)春、四十三歳に..
2. ..の��蕉風開眼?した芭蕉が、新たに見出した貞享三年(一六八六)春、四十三歳にして「奥の細道行脚之図」。笠を手に杖をつく芭蕉とその後ろにつづく曾良の旅姿を、芭蕉の門弟で画人でもある森川許六が描いた..
3. ..」。笠を手に杖をつく芭蕉とその後ろにつづく曾良の旅姿を、芭蕉の門弟で画人でもある森川許六が描いた。元禄6年(1693)、芭蕉生前の作品(天理大学附属天理図書館蔵),{6AE7054E-3CED-..
4. ..つづく曾良の旅姿を、芭蕉の門弟で画人でもある森川許六が描いた。元禄6年(1693)、芭蕉生前の作品(天理大学附属天理図書館蔵),{6AE7054E-3CED-4502-9291-B9919062..
5. ..禄6年(1693)、芭蕉生前の作品(天理大学附属天理図書館蔵),{6AE7054E-3CED-4502-9291-B99190622062}4,『おくのほそ道』旅程図元禄二年(一六八九)、芭蕉四..
6. ..禄二年(一六八九)、芭蕉四十六歳。三月二十七日(太陽暦五月十六日)に江戸深川を出発し、八月(同十月)に大垣に到着。全行程約六百里、約百五十日間の旅だった。,{CC73B609-7696-4DC8..
7. ..BD5AD9F}6,芭蕉庵のいま東京・深川の芭蕉庵があったとされる場所は、いまは芭蕉稲荷神社となっている。境内には大小の蛙の置物が見られる芭蕉稲荷神社のすぐそば、隅田川と小名木川(おなぎがわ)の..
8. ..庵のいま東京・深川の芭蕉庵があったとされる場所は、いまは芭蕉稲荷神社となっている。境内には大小の蛙の置物が見られる芭蕉稲荷神社のすぐそば、隅田川と小名木川(おなぎがわ)の合流する所にある芭蕉庵史..
9. ..される場所は、いまは芭蕉稲荷神社となっている。境内には大小の蛙の置物が見られる芭蕉稲荷神社のすぐそば、隅田川と小名木川(おなぎがわ)の合流する所にある芭蕉庵史跡展望庭園,{73511C16-17..
10. ..の蛙の置物が見られる芭蕉稲荷神社のすぐそば、隅田川と小名木川(おなぎがわ)の合流する所にある芭蕉庵史跡展望庭園,{73511C16-179B-4AE5-A686-118CE8210B3B}7,2..
11. ..)の合流する所にある芭蕉庵史跡展望庭園,{73511C16-179B-4AE5-A686-118CE8210B3B}7,2013年10月Eテレ?放送:水曜日午後11:00〜11:25?再放送:翌..
12. ..Kアナウンサー)松尾芭蕉『おくのほそ道』長谷川櫂(俳人)放送内容や放送日時等は、変更・休止する場合があります。ご了承ください。,{5F7DCD52-3A5E-479E-B6EE-7FE2EB37..
13. ..の旅……………4松尾芭蕉『おくのほそ道』長谷川櫂(俳人)NHK Eテレ放送:水曜日午後11:00〜11:25再放送:翌週水曜日午前05:30〜05:55午後00:25〜00:50http://w..
14. ..。『おくのほそ道』は芭蕉がみちのくを旅した紀行文であると考えられています。て芭蕉は曾そ良らと二人、旅をしました。それが『おくのほそ道』です。津波が襲いました。時をさかのぼると、今から三百年前の夏..
15. ..考えられています。て芭蕉は曾そ良らと二人、旅をしました。それが『おくのほそ道』です。津波が襲いました。時をさかのぼると、今から三百年前の夏、この被災地に沿っ二〇一一年春、東日本大震災が起こり、東..
16. ..めにであるからです。芭蕉がこの旅をしたのは元禄二年(一六八九年)、四十六歳のときですが、五年後、五十一歳で死ぬまで筆を入れつづけました。なぜかというと、芭蕉はこの本を単なる旅の記録としてではなく..
17. ..た。なぜかというと、芭蕉はこの本を単なる旅の記録としてではなく、確固とした文学として書こうとしたからです。たしかに旅の行程はじっさい芭蕉と曾良が旅をした道順にそっています。しかし、旅の細部は芭蕉..
18. ..に旅の行程はじっさい芭蕉と曾良が旅をした道順にそっています。しかし、旅の細部は芭蕉の手で随所に取捨が加えられ、旅の全体は大胆に再構成されています。さらに越後の市いちぶり振での遊女との出会いのよう..
19. ..。しかし、旅の細部は芭蕉の手で随所に取捨が加えられ、旅の全体は大胆に再構成されています。さらに越後の市いちぶり振での遊女との出会いのように芭蕉が創作した話も加えられています。その結果、『おくのほ..
20. ..女との出会いのように芭蕉が創作した話も加えられています。その結果、『おくのほそ道』は実と虚の入り交じった物語になりました。しかしながら、すぐれた文学作品がみなそうであるように、『おくのほそ道』も..
21. ..ばすることによって、芭蕉の宇宙観や人生観を反映した世界的な文学作品になりました。もし単なる旅行記だったならば、この本がその後、得たような評価を得ることはなかったでしょう。読者はここに書かれている..
22. ..に書かれていることが芭蕉と曾良の二人がじっさい旅で体験したことだろうと思って読んでゆくわけですが、必ずしもそうではない。ほんとうにあったことだろうと思っていると、いつのまにか芭蕉の夢想の世界で遊..
23. ..いると、いつのまにか芭蕉の夢想の世界で遊んでいることになる。つまり、みごとにだまされる。『おくのほそ道』を読むとき、まず大事なことは、この本に書かれていることはじっさいの旅とはちがうということ,..
24. ..かかることです。では芭蕉はなぜ『おくのほそ道』を書いたのか。また単なる旅行記でないとすれば、この本には何が書かれているのか。それを知るためには『おくのほそ道』だけを読むのではなく、今一度、芭蕉の..
25. ..のではなく、今一度、芭蕉の人生の流れのなかにこの本を戻して読まなくてはなりません。そこで重要な節目として浮かんでくるのが古池の句です。古池や蛙かわず飛とびこむ水のおと芭蕉貞享三年(一六八六年)に..
26. ..ず飛とびこむ水のおと芭蕉貞享三年(一六八六年)に詠まれたこの句は、それまで他愛ない言葉遊びでしかなかった俳句にはじめて心の世界を開いた「蕉しよう風ふう開眼の句」でした。芭蕉はこの古池の句から死ま..
27. ..う開眼の句」でした。芭蕉はこの古池の句から死までの八年間、この句が開いた心の世界を自分の俳句でさまざまに展開し、門弟たちに広めてゆきます。それはじつに密度の濃い八年でした。そのなかで古池の句の三..
28. ..ほそ道』の旅でした。芭蕉は歌枕の宝庫といわれたみちのく(東北地方の太平洋側、福島、宮城、岩手、青森の四県)で心の世界を存分に展開しようとしたのでした。歌枕は現実に存在する名所旧跡とちがって、人間..
29. ..A}13,7はじめに芭蕉の旅はみちのくを訪ねたあと、今度は日本海側へ抜けて大垣までつづきます。その間、芭蕉は不ふ易えき流りゆう行こうと「かるみ」という二つの重要な考え方をつかむことになります。不..
30. ..つづきます。その間、芭蕉は不ふ易えき流りゆう行こうと「かるみ」という二つの重要な考え方をつかむことになります。不易流行とは宇宙はたえず変化(流行)しながらも不変(不易)であるという壮大な宇宙観で..
31. ..さらなる展開をとげ、芭蕉は思いもしなかった旅みやげを二つも手にしたというわけです。『おくのほそ道』をただの旅行記としてではなく、芭蕉の人生の中にすえて読むことによって、悲しみや苦しみに満ちたこの..
32. ..行記としてではなく、芭蕉の人生の中にすえて読むことによって、悲しみや苦しみに満ちたこの世界をどう生きていったらいいのかと問いつづける芭蕉の姿が浮かびあがってくるのです。それは大震災後を生きる人々..
33. ..いのかと問いつづける芭蕉の姿が浮かびあがってくるのです。それは大震災後を生きる人々への大きな示唆となるにちがいありません。,{2573E397-54C9-401A-8CEF-7103016E16..
34. ..のあとの最初の大詩人芭蕉は日本を代表する最大の詩人です。イギリスは「シェークスピアの国」と呼ばれますが、それにならえば日本は「芭蕉の国」です。ほかに何人か候補は浮かぶけれど、紫式部も夏目漱石も芭..
35. ..れにならえば日本は「芭蕉の国」です。ほかに何人か候補は浮かぶけれど、紫式部も夏目漱石も芭蕉には及ばない。現代から日本文学史を振り返ると、古代からつづく文学の流れのちょうど半ばに芭蕉という巨大なダ..
36. ..、紫式部も夏目漱石も芭蕉には及ばない。現代から日本文学史を振り返ると、古代からつづく文学の流れのちょうど半ばに芭蕉という巨大なダムがそびえているようにみえます。それより前の文学はいったんこの芭蕉..
37. ..流れのちょうど半ばに芭蕉という巨大なダムがそびえているようにみえます。それより前の文学はいったんこの芭蕉というダムに流れこみ、その後また芭蕉から流れはじめる。芭蕉以後は『源氏物語』も西行*(一一..
38. ..の文学はいったんこの芭蕉というダムに流れこみ、その後また芭蕉から流れはじめる。芭蕉以後は『源氏物語』も西行*(一一一八─九〇)の歌も芭蕉がそのどこを選び、自心の世界を開く1Eテレ10/2●水午後..
39. ..流れこみ、その後また芭蕉から流れはじめる。芭蕉以後は『源氏物語』も西行*(一一一八─九〇)の歌も芭蕉がそのどこを選び、自心の世界を開く1Eテレ10/2●水午後11:00〜11:25再放送10/9..
40. ..蕉から流れはじめる。芭蕉以後は『源氏物語』も西行*(一一一八─九〇)の歌も芭蕉がそのどこを選び、自心の世界を開く1Eテレ10/2●水午後11:00〜11:25再放送10/9●水午前5:30〜5:..
41. ..一一八─九〇)の歌も芭蕉がそのどこを選び、自心の世界を開く1Eテレ10/2●水午後11:00〜11:25再放送10/9●水午前5:30〜5:55午後0:25〜0:50第回*西行平安末期の歌人。北..
42. ..重要になります。なぜ芭蕉は偉大なのか。『おくのほそ道』を読みはじめる前に、まずこのことについて考えておきたい。いくつかの理由が考えられます。最大の理由は芭蕉が俳句の完成者だからです。日本で生まれ..
43. ..れます。最大の理由は芭蕉が俳句の完成者だからです。日本で生まれた俳句は世界でいちばん短い定型詩*です。ということは、今のところ宇宙でもっとも短い定型詩ということになります。その俳句を完成させたの..
44. ..俳句を完成させたのが芭蕉です。では何をもって俳句を完成させたというのか。この点については、あとでみてゆきますが、ここで確認しておきたいのは次のことです。俳句は万事シンプルであることを尊ぶ日本文化..
45. ..と考えられています。芭蕉はその完成者ですから、日本を代表する詩人となるわけです。このことこそ芭蕉の偉大である最大の理由なのですが、彼が生きた時代に分け入ってみると別の理由もみえてきます。芭蕉が生..
46. ..けです。このことこそ芭蕉の偉大である最大の理由なのですが、彼が生きた時代に分け入ってみると別の理由もみえてきます。芭蕉が生きた時代は一六〇〇年代の後半です。詳しくいうと一六四四年(寛永二十一年)..
47. ..理由もみえてきます。芭蕉が生きた時代は一六〇〇年代の後半です。詳しくいうと一六四四年(寛永二十一年)に伊賀上野(三重県伊賀市)で生まれ、一六九四年(元禄七年)、五十一歳(数え年)で大坂(大阪)で..
48. ..日本の最初の大詩人が芭蕉だった。さらに踏みこんでみると、百三十年もつづいた戦乱の時代に都だけでなく地方の都市も戦火で焼け、荒れ果てました。これによって貴族や大名や寺社が保管していた多くの古典文学..
49. ..によって俳諧の秘義を芭蕉に伝授したという。,{31D792DE-86E3-4A0B-92FC-98D917EC5CDA}18,12芭蕉は季吟に二十年遅れて生まれました。いわば次の世代の人です。し..
50. ..5CDA}18,12芭蕉は季吟に二十年遅れて生まれました。いわば次の世代の人です。しかも驚くべき因縁というべきか、芭蕉は季吟の俳句の弟子でした。季吟は当時の俳句の主流だった貞ていもん門派はの*有..
0コメント