https://trevally.jp/2017/06/08/takonoirogaenohimitsu/ 【知ってる?タコはどのようにして色と形を変えるのか?】 より
タコは変装で身を守る
タコは皮膚の色や凹凸、模様などを瞬時に変えることができる。
身を守る時に擬態をする
タコのほとんどは敵から身を守るために擬態という技を使う。
タコだけでなくコウイカの仲間もこの擬態を使う。
タコの天敵は?
タコの点滴はウツボやエイ、サメと人間。小さなうちは全ての肉食魚が天敵になる。
タコとウツボとの争い
タコとウツボとの闘いは勝ち負けが50%とも言われ、ウツボが負ける場合もある。
タコの腕がウツボの鰓を左右とも塞げばウツボが呼吸できずに弱る。
タコはその隙に逃げていく。
またウツボに足を噛まれるとタコはトカゲのシッポ切りのように足の1本を残し逃げていく。
頭や胴体は噛まれると弱いが足は再生能力があるので無くなっても命を落とすことはない。
しばらくの間は足手不足で不自由をすると思うが生き延びられる。
タコはエサが無い時に自分の足を食べることがある。
ウツボも足1本食べられれば十分なようで後追いはしない。
タコもウツボも両者とも生き伸びられる。
エイ、サメ、人間の場合は丸ごと食べられて終わる。
タコは夜行性
タコは昼夜行性で夜間も出歩いてエサを捜す。
エサはタンパク質的ならなんでも食べることが出来、イセエビやカニ、あさりなどの二枚貝やアワビが大好物。他にもサザエ、魚、色々食べる。時には人間の仏さまも。
タコの棲み家
そんなタコは岩陰や隙間、石の下に穴を掘って巣を作る。入り口には石や貝殻で蓋をして隠れる。エサ捜しで巣穴を出る時は擬態を使って変装する。
タコの擬態
タコは岩や海藻に擬態する。
その変装ぶりは見事で一瞬のうちに岩や海藻に化ける。
タコは目が良く、外敵を見つけると瞬時に色形を変える。
けれど色彩の区別はできないとされ、白と黒の違いではなく、明度の違いで色形を判断しているらしい。
擬態は目で見て判断
目に入ってきた明度の違いを判断し、皮膚の色と凹凸を一瞬に変化させる。
どのように皮膚を変化させるのか?
タコ1本の腕には5000万もの神経が走っていて、色々な方向に筋肉を動かすことができる。
タコの色の変化は
タコの皮膚には褐色の色素細胞がある。
この色素細胞は引っ張ると白っぽい色になり、緩めると濃い色になる。
皮膚の下の筋肉で引っ張ったり緩めたりして自由自在に変化させる。
細かく言えば
もう少し細かくいうと色素細胞は色素胞 と呼ばれ、オモクローム組織という褐色や黄色、赤色の色素を含んでいる。
この褐色や黄色、赤色の色素を色々な方向に引っ張ったり緩めたりすることで様々な色を作る。
皮膚は3段構造になっていて1番上が色素保有細胞、2番目が虹色素胞、3番目が白色素胞。
1番目の色素保有細胞は様々な色をだす。
2番目の虹色素胞は周囲の色をまねる。
3番目の白色素胞は色の発色が良くなるための下地の色。
そして皮膚表面を緩めて皴を作り、収縮したり、捻じったりして凹凸をつくり色形を変え擬態をする。
http://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/nab3mq0000000l2z.html 【「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。」】 より
『歎 異 抄(たんにしょう)』(真宗聖典 p.628)
この言葉は、親鸞(しんらん)(1173~1262)の言行録である『歎異抄』に伝えられるものです。親鸞は、「一切の生きとし生けるものは、すべてみな、いつの時にか父母であり、兄弟である」と言います。私たち一人ひとりの<いのち>が、いったいどのような事実の上に成り立っているのかということが、ここには確かめられています。
私たちは、両親や家族、そして親しい友人など、多くの人と関わりながら生きています。私たちにとって、それらの関わりは、自分が安心して心を開くことができるものであったり、また自分にとってかけがえのない人の存在を実感させてくれるものです。他の人との間に、そのような思いを持つということ自体が、互いに関わり合いながら生きているという<いのち>の事実を示しています。つまり、私が今ここに生きているということは、他の<いのち>との関わりを抜きにしてはないのです。
そこに、もう一つ気づかされるのは、<いのち>の関わり合いが、私たちにとって、単に両親や家族、親しい友人というところに止まるものではないということです。自分からすればそう親しくない人との間においても、また極端に言うならば、自分と敵対する人との間においてさえも、お互いの<いのち>は、実は深いところで関わり合い、支え合っているのです。
親鸞は、この<いのち>の深い関わり合いを、「一切の有情は、みな」という言葉で表現しています。そこには<いのち>の関わり合いが、単に人と人との間にだけあるのではなく、人以外の存在も含めたあらゆる他の<いのち>との間にもあることまで確かめられています。<いのち>がもつこのような深い関わり合いが確かめられる時、初めて、いかなる<いのち>も尊く、またどの<いのち>も等しい重さをもつということが明らかになるのです。
私たちは日頃、自分を何とか護ろうと、親しい人と親しくない人、自分の味方と敵、というふうに様々な関わりを区分けしようとします。しかし、それによって逆に、自分を孤立させ、孤独感や絶望感をもつことも少なくありません。<いのち>とは、私の身勝手な思いを超えて、他の<いのち>と深く関わり合い支え合っています。親鸞はこの事実にまなざしを注ぐことを通して、孤独から解放され、自らを信頼して生きる道を歩んだ人です。「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」という親鸞の<いのち>へのまなざしを、自分自身に確かめ直すことが、今、私たちに必要とされているのではないでしょうか。
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