このあたり目に見ゆるものは皆涼し

http://www.basho.jp/senjin/s1708-2/index.html 【このあたり目に見ゆるものは皆涼し

芭蕉(笈日記)】 より

句意は「このあたりからの景色はすばらしく、目に見えるすべてのものが涼しげだ」

『笈の小文』の旅の帰りに、岐阜に立ち寄った芭蕉は、弟子の賀島善右衛門から長良川の見える水楼(水ぎわに高く造った館)に招かれた。その素晴らしさに芭蕉は中国の瀟湘八景や西湖十景にも劣らないとして「十八楼」と命名し、その時善右衛門に与えた『十八楼の記』に添えた挨拶句である。

何の変哲もなく見える句であるが、私には中七の字余りが気になった。芭蕉は弟子への手紙で「字余りは構わない。ただ一字の字余りでも口にたまるような感じがあるのは良くない」と述べたことがある。ではこの句はどうか。「このあたり目に見ゆるもの皆涼し」方が明らかに調べは良い。それなのに芭蕉がわざわざ「は」を加えたのは何故か。

加藤楸邨は『芭蕉全句』の中で「中七の『目に見ゆるものは』は字余りだが、この『は』がないと、ここで小休止する感じとなり、『このあたり』の下の小休止と重なって、調子が小刻みでせせこましくなる」と「は」の必要性を言う。句をおおらかにする意図を見る楸邨の指摘もなるほどと思う。

しかし私は句全体が曖昧な表現なので、「は」を入れたのではないかと考える。景色の美しさは文章で十分わかるので、句で余計なことは言いたくなかった。ただ挨拶句として、見える景色の素晴らしさは強調したい。芭蕉が悩んだ末に選んだのが「は」の字余りでなかったろうか。


http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/others/kasimatei.htm 【十八楼ノ記】より

(貞亨5年6月8日:45歳)

 美濃の国長良川にのぞんで水楼*あり。あるじを賀島氏*といふ。稲葉山*うしろに高く、乱山*西にかさなりて、近からず遠からず。田中の寺は杉のひとむらに隠れ、岸にそふ民家は竹の囲みの緑も深し。さらし布ところどころに引きはへて*、右に渡し舟うかぶ。里人の行きかひしげく、漁村軒をならべて、網をひき釣をたるるおのがさまざまも、ただこの楼をもてなすに似たり。暮れがたき夏の日も忘るるばかり、入日の影も月にかはりて、波にむすぼるるかがり火の影もやや近く、高欄のもとに鵜飼するなど、まことに目ざましき見ものなりけらし。かの瀟湘*の八つの眺め、西湖の十のさかひ*も、涼風一味*のうちに思ひこめたり。もしこの楼に名を言はむとならば、「十八楼」とも言はまほしや。

このあたり目に見ゆるものは皆涼し  ばせを(このあたり めにみゆるものは みなすずし)

貞亨五仲夏

 『笈の小文』の旅の帰路、岐阜の油商賀島善右衛門の別邸に招かれた際に、この邸に「十八楼」と命名し、その謂れを書いて与えた一文が『十八楼の記』である。長良川の岸辺に立つ高殿から夏の夕、川風にうたれながら鵜飼漁を眺める風流が極意である。

 この句は一文を総括する。句としてはあまり芳しいものではないが、水楼の命名「十八楼」と、それを称える挨拶吟としての役割を果たしている。

 なお,賀島善右衛門は俳号鴎歩<おうほ> 。岐阜蕉門の一人。

岐阜湊町十八楼の句碑。牛久市森田武さん提供

水楼:川に面して立つ高殿

稲葉山:<いなばやま>。岐阜市にある山。その麓を長良川が流れる。齋藤道三・織田信長らが居城とした。

賀島氏:<かしま>と読む。加島とも書く。善右衛門。岐阜の油商人。俳号は鴎歩。

乱山:山々・連邦の意。

さらし布ところどころに引きはへて:岐阜は長良川の清流を用いた染色業が古来盛んであった。近代に入ってからもここが糸偏産業の中核的地域であった。さらし布は染色した布に付いた余分な顔料を川水につけて抜き取る作業。その布が河原に一面干してあったのである。

瀟湘:<しょうしょう>と読む。瀟湘八景。洞庭湖にかかる周辺八景。

西湖の十のさかひ:西湖十景。

涼風一味:数字8と10にかけて1味といった。一味は仏教用語で仏説は究極的には一つであるの意として使われる。


http://gokichikai.jp/ukai-haseo.html  【芭蕉が遊んだ】 より

松尾芭蕉は奥の細道に出かける一年ばかり前、吉野行脚の帰り道に、御地を訪れて、長良川の辺りの草庵で、鵜飼いなども見物した。

その庵を「十八楼」と名付けたという。

                               高野圭介

芭蕉の自筆と言われている。元本は別に保管しあり。

美濃の国ながら川に望みて水楼あり、あるじを加島氏と云ふ、伊奈波山後にたかく、

乱山西にかさなりてちかゝらず、また遠からず、田中の寺は杉の一村にかく れ、

岸にそふ民家は竹のかこみの緑も深し、さらし布所々に引きはへて、右に渡し船うかぶ、

里人の往かひしげく、魚村軒をならべて網を引き、釣をたるゝおの がさまざまも、

たゞ此楼をもてなすに似たり、暮がたき夏の日もわするゝばかり、入日の影も月にかはりて、

波にむすばるゝかがり火のかげもやゝちかうなり て、高欄のもとに鵜飼するなど、

誠にめざましき見物なりけらし、かの瀟湘の八のながめ、西湖の十のさかひも、涼風一味のうちにおもひこめたり、若し此楼に 名をいはんとならば、十八楼ともいはまほしや

  このあたり目に見ゆるものは皆涼し    はせを

貞享五仲夏

*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*

十八楼の記(口語訳)

美濃の国(岐阜)の長良川に面して、川がよく眺められる様になっているたかどのがある。

ここの主を賀嶋氏と云う。金華山が高くそびえており、低い山や高い山が西の方に重なり合って、近くでも、遠くでもない距離に見える。田畑の中にある寺は、杉木立の中にある村にあり、隠れてよく見えない。

岸に沿って建つ民家は、竹の塀の緑もあおあおとしている。白くさらした布がところどころに引き伸ばしてある。右岸には、渡し船が浮かんでおり、そこらあた りに住む人の往来が激しい。

漁村(川魚を捕り生計を営む人の集落)が沢山あり、漁師が魚捕りの網を曳いたり、

釣をたらして漁をしている。そのような様子 (人々が忙しくそれぞれ働いている光景)も、

私のお邪魔している水楼(川に面して建てられている高い建物)でも同じで、皆が忙しく

働いていて、私をもてな してくれている。やがて日が暮れてゆき、夏の日が長いのも忘れる

位に日が沈むと、すぐに月が出て、夕日の影が川面の波に写っている。鵜飼の篝火が近くに見 えてきて、私のいる高い建物の下で鵜飼をすると云う、本当に珍しい見物ができたことである。

かの有名な中国の瀟湘八つの景色と、西湖の十の地も、すがすが しいこの景色の中に

あるように思われる。私のいるこの建物に名前を付けるなら、十八楼とでも本当にいいたい事だなあ。

 「このあたり目に見ゆるものは皆涼し」

この水楼からの景色は野も川も森も村々も遠い山も総てがすがすがしいことよ

                       (十八楼女将 伊藤泰子訳

https://dagwu.com/nagaragawa/html/03021601/03021601_nr01.html 【解 説:芭蕉と岐阜】より

 松尾芭蕉は生涯に4度,美濃を訪れています。なかでも貞享5年(西暦1688年)の来訪では,岐阜に一月余り滞在し,長良川で鵜飼いを見物したり,連句の座が開かれたりと,大変歓迎されました。

 芭蕉は美しい自然に恵まれた美濃,金華山と長良川,とりわけ鵜飼に強くひかれたようで,数多くの作品を残しています。中でもこのときに詠んだ「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」の句は芭蕉の代表作の一つとして有名です。

 このとき芭蕉は岐阜の油商「賀島善右衛門(かじまぜんえもん)」の長良川を望む別邸に招かれ,この屋敷を十八楼と命名し,そこから見える自然,漁村や人々のようす,命名のいわれなどを「十八楼の記」として残しています。

 そのときの句が「このあたりめにみゆるものは皆涼し」です。

 芭蕉が滞在した妙照寺の境内には芭蕉が自ら植えたとされる梅の木が今でも残っており,季節になると満開の梅の花が参拝者を迎えます。

 芭蕉がこの寺を去るときに残した句が「やどりせむあかさの杖になる日まで」です。

 この他にも芭蕉は,岐阜の自然や人々への思いを詠んだ句を数多く残しています。

 「城跡や古井戸の清水先とは(わ)む(ん)」芭蕉が金華山の麓にある松橋喜三郎の別邸を納涼のため訪れたときの句です。

 「夏来ても,ひとつはの一葉かな」滞在先の妙照寺で詠んだ句です。

 岐阜市内に残る芭蕉の句碑を訪ね,芭蕉の足跡をたどることにより,私たちは芭蕉と岐阜の知人門人との交流や芭蕉の旅への憧憬,自然や人々に対する愛着を知ることができます。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000