http://www.city.takizawa.iwate.jp/contents/sonshi/page05_chapter6.html【六章 切支丹宗】より
第一節 はじめに
奥羽に於て組織ある切支丹宗門の宗教伝道が行われたのはフランシスコ派のルイス・ソテロの活動と、耶蘇会のジェロニモ・アンジェリスの布教からである。
ソテロは慶長十六年(1611年)仙台藩主伊達政宗が、日墨間(メキシコ)の直接貿易を開こうとする熱望を奇貨とし、力を極めて海外人の使節派遣を慫慂し、一挙に東北の天地に神の王国を建設しようとした。しかしながら、このようなソテロの野心が禍いして、かえって堅実な布教の事業は、むしろ元和三年(1617年)から着々歩武を進めた耶蘇会の手に握られ、フランシスコ派はその後塵を拝することになったのである。結局奥羽における切支丹宗の宣伝は本邦切支丹伝道史から見れば、その衰滅期に付ける際において初めて救済の黎明を仰ぎ福音の響が伝えられることとなったのである。奥羽が切支丹宗の衰滅期に近付ける際に、ひとり東北の天地があたかも百花妍(けん)艶を競う春を現出したのは、長く江戸幕府当時の警戒区域の外に置かれたことと、家康の外国貿易開始の熱望が自ら切支丹宗禁制の決意を鈍らせ、家康と同じ意志のある政宗が外国宣教師を利用してその宿望を遂げようとして切支丹宗を歓迎する態度に帰せねばならなかった。
しかるに元和五年(1619年)より将軍秀忠を中心とする幕府の切支丹宗に対する態度が強硬となり、三代将軍家光の就職後諸藩に令して、元和・寛永のころにわたり、各地に切支丹大弾圧の嵐をひき起したために東北の切支丹は漸く衰微の気運に傾いたが、なお若干の宣教師は厳重な監視を逃れて潜行布教に従事した。
寛永元年(1624年)には、南部藩でも切支丹信徒に対する迫害が行われた。この地方は、かつてカルヴァリヨ神父が数度巡教しており殊に日本人神父マルチノ式見は、南部の城下町盛岡に足跡を印した最初の人と伝えられる。寛永元年南部利直のとき、十一月五日デイエゴ己右衛門が斬首せられ、トマ弁左衛門が氷の中に身を投ぜられて、転宗を拒み殉教した。越えて十二月十八日、盛岡においてマチアス(日本名を逸す)外一名が、マグダレナという婦人と共に殺された。マグダレナは五十歳の老婦人で、腹這いにして四回までも斬られたが、頑として信仰を棄てる様子がなかったので、遂に斬首され、屍は虎の餌として与えられたけれど、虎はこれに手をつけなかった。パジェスの伝える記事を見て、盛岡に虎がいることは、一見奇異に感ぜられる。しかし事実とよく符号するので、恐らく真実であろう。慶長十九年(1614年)大阪夏の陣後、片桐且元はその領邑茨木を没収せられ、さらに徳川家康から大和の郡山に封地を与えられたが、このとき南部利直は、茨木の城地受領をうけ、無事任を果して駿府に大御所家康に謁し、復命したのであった。ときに家康は、利直の労をねぎらい、柬蒲塞(かんぼじや)から献上してある二頭の虎を与えたので、利直乃ちこれを受けて帰国し、盛岡城内鍛冶屋門外(岩手公園東側の梅林の地)に檻を設け、地方(じかた)七十石をこれが飼料に充て、その中一頭は寛永二年(1625年)に、他の一頭は寛永二十年(1643年)に倒れたから、この迫害の折には、二頭生存していたはずで、マグダレナの屍は、恐らくこの檻に投ぜられたものであろう。
寛永十五年島原の乱が起り、江戸幕府は国家統治上切支丹弾圧を厳密に励行することとなり、東北においても永年にわたり訴人相つぎ、当時いわゆる邪宗門の徒として幕府では宗教上の信仰が一家団欒のうちに行われる性質上、子々孫々相承け信仰する情があるのに着眼し、類族改の法規を定め、さらに五人組の制度によって隣保相監視して責を分たしめる制度をとり、実際必要ない時期に至るまでも取締りを続行したので奥羽における切支丹信徒は殆ど絶滅し、ひそかに信仰を維持するものも、これをみちびく宣教師なく、集会する教会なく、観世音またはいささかの霊物記号略府に託して、わずかにこれを伝えるに至ったのである。
第二節 庶民の宗門登録
火あぶりとなる殉教者
徳川幕府は、慶長十八年(1613年)西教を禁止し、切支丹宗徒でない証明として、仏門の宗門帳を提出せしめ、切支丹宗徒の絶滅をはかった。この仏門の宗門登録は、西教禁止の強化となり、戸口調査の精密となった。寺院において固定した檀徒を把握しているので、不慮の災害がない限り大きな浮沈が見られなくなったのは、中世と著しい違いであり、その意味では寺院が安泰となった。たとえばその寺院の檀徒の範囲が明らかとなり、それによる固定した収入が檀徒に仰ぐことが出来ると共に、宗派的結束を固めることができたのである。宗門登録帳は、西教禁止によって発生したから切支丹宗門人数改帳と称されるのはそのためである。然し当初の記帳は殆ど残っていない。宗門登録により、藩では為政的に思想の統一が出来たし、農民の逃亡を防ぎ、浪人や浮浪者を少なくすることができた。
はりつけの図
幕府は寛永十一年(1643年)五月になって、切支丹信奉を全面的に厳禁し、西欧諸国との往来を禁止した。そして西教を信奉するものは、ことごとく改宗を強いられ、その手段としてキリストを描き出している絵を踏ませ、そのものが信者であるか否かを試験しその信者は重罪人として扱われたのである。
南部領においても、寛永十二年・同十三年にわたり、その信者を調査しているが、それを調査した花巻・盛岡・遠野・郡山の切支丹覚書十九通によると、それだけで侍十人と妻子二十九人、職人八人と妻子七人、町人十三人と妻子二人、下人一人、以上百七十六人である。武士や町人、職人もあり、農民にもある。その内金掘りというのは鉱山労務者であり鉱山にかくれて信仰を続けていたものもあった。
藩外の出身者別では、安芸三人・淡路二人・大阪四人・伊勢四人・尾張二人・信濃三人・越中越後五人・関東一人・会津若松三人・相馬二人・伊達七人・津軽二人であり、生国不明のもの三人、およそ四十人は他所ものであった。この範囲は南部駒の取引範囲とも一致している。残りは領内の出生であろう。
浅岸大葛発見のメダル拓影キリシタンの像後藤寿庵像
信者の中には、師匠を水沢の後藤寿庵とするものが二十五人、その系統のものが八十余人であるから、後藤寿庵はいかに大きな影響を南部領に与えたかが推察される。そしてこれだけの古文書では、北上河東の山地に信者が多い。寛永十三年、南部重直が幕府から譴(けん)責された一条に、領内に、切支丹宗徒の多くでたことを指摘されたが、尤なことであった。これらの西教徒の調査詮議は、盛岡は宗門奉行四戸下総守・高屋四郎左衛門・郡山分は郡山城代野田理兵衛、花巻分は花巻城代栗屋川五兵衛・鈴木多蔵(与三衛門同人らし)、遠野分は横田城主八戸弥六郎が責任者となって書上げている。その他の地方の分は不明である。
これら信奉者の処刑については、盛岡は十一人、郡山は七人に子供三人、花巻分は六十四人に子供二人、その前に五人と子供三人があり、処刑九十人に及んでいる。その処刑者中には十歳より以下のもの二十三人に及んでいるのは、当時の風とはいいながら悲惨である。
寛永二十一年(1644年)四月十八日、盛岡城下で、キリシタン信徒、新田東膳なるものが病死したので、城下南部の祗陀寺に埋葬している。
四月十八日(南部藩日誌寛永二十一年四月十八日の条)
きりしたん新田東膳、熱気煩い、今日病死二付而、儀俄弥五左衛門見て祗陀寺に土葬す。仲塩漬、望月長兵衛言上。
キリシタン宗徒なるがため、重罪扱いにされ、塩漬・土葬という措置をうけている。儀俄が検死して町奉行の望月が処理にあたったことが知られる。死骸に塩を振りかけて埋葬することは重罪犯人の処置である。但し入牢中でも改宗を誓い、同門のものを信者であると告げると、他人を訴えたとしてその罪を赦された。また一人が信者であれば、妻及び両親兄弟子供は同罪とされ、その卑族は玄孫まで類族として死後も検死をうけた。如何に西教禁止を徹底して取り締ったかが知られる。
第三節 切支丹宗弾圧
一 人別改
(一)転(ころび)切支丹類族
転切支丹類族は一本肝煎の手許、一本は藩の奉行に差出す。各町村各戸に亘ってその宗派を明かにする。
(一)五人組の制度
連帯責任の法により隣保相監視、更に僧侶をして注意を怠ることのないようにした。万一隠し置く際は名主五人組を重科に処すべきことを令している。
(一)寺手形の定寺請証文
甲、切支丹御改証文の事
私家内御法度の切支丹宗門にて御座なく候、則ち寺請状取り
置き差し上げ申し候これを証文とす件の如し
嘉永元戊申年八月
〇〇〇〇
〇〇〇〇殿
乙、切支丹御改請証文の事
私姐御手箇警固並に足軽共御法度の切支丹宗門にて御座なく
候残らず証文取り置き申し候御用の節差し上げ申すべく候そ
のため証文件の如し
年 月 日
姓名花押
〇〇〇〇殿
(一)人別改帳、人数改帳(戸籍簿)
戸毎にその属する寺院の印章が捺され、最後に総括して寺院が自己の旦那に相違なく切支丹信者にあらざる旨を証して署名捺印している。
二 切支丹類族改
一度切支丹信者となったものが、迫害の結果国に棄教を誓っても内実はなおその信仰を固持することは有り勝のことである。なお家族中の幾人かゞ真に転宗したとして、その中には深く信仰の道に入り堅持して動かず、老木の根幹は腐朽に傾いたことが、却って分蘗(けつ)せる枝葉が繁栄する観を呈することもないではない。よって貞享四年(1687年)六月次のごとき令を発している。
覚
(一)前々切支丹宗門之由にて本人有之(これある)に於てほ
1 何年以前何方に而倹儀有之(これありて)而
2 何年以前ころび候邪宗門之者にて候得共
3 切支丹を依訴人任候其科を被成(なされ)御免在所に帰罷在候哉共訳委細書付可被申(申さるべき)事
第四節 本村のきりしたん
本村の切支丹について、大坊直治氏の調査を列記する。
定
一、きりしたん宗門は累年御制禁たり自然不審成る者これあるに於ては申し出へ御褒美
(宣教師)
ばてれんの訴人 銀五百枚
(宣教師の次位)
いるまんの訴人 銀三百枚
立かへり者の訴人 同断
同宿並宗門の訴人 銀百枚
上の通りこれを下さるべくたとひ同宿宗門の内たりといふ共訴人の出る品により銀五百枚これを下さるべく穏し置他所よりあらはるるに於ては其所の名主並に五人組迄一類共に厳科に処せらるべきものなり仇て下知件の如し
天知二年(1682年)五月 奉行
元緑十六年(1703年)六月二十八日
切支丹彦市二女かつこ岩手郡大釜村百姓三七妻病死例の通り死骸見届けさせ塩詰仕り置き候段委細吉田友右衛門村松喜八郎(盛岡宗門奉行)江宗門御奉行向井定右ェ門、玉井半助(両人は江戸屋敷宗門奉行)より申し越し候に付いて道中六日振り江戸へ四戸権蔵申し登す
古切支丹類族死矢の覚
奥州岩手郡大釜村本人彦町二女かつこ四男
才三郎
元文五年(1740年)二月六日七拾壱歳にて病気仕り候死骸相改め申し侯処相違御座なく候に付き旦那寺同村禅宗東林寺寺内におい土葬取り置き申し候上の外死失御座なく侯以上
元文五年六月二十三日 宮田 瀬兵衛
苅屋与一右衛門
前書付宗門御奉行指出に付き今日江戸江七日振り飛脚をもってこれ
を差し登らす
古切支丹類族死矢の覚
奥州岩手郡大釜村本人彦市二女かつこ五男
三之亟
元文五年八月二十九日六拾八歳にて病死仕り候死骸相改め申し侯処相違御座なく候に付き旦那寺同郡同村禅宗東林寺内において土葬取り置き申し候
上の外死失御座なく候以上
天文五年十月二十三日
宮田 瀬兵衛
苅屋与一右衛門
古切支丹類族死矢の覚
奥州岩手郡大釜村本人彦市二女かつこ(子)斉三郎娘
せん
延享三年(1746年)寅年十月十五日四拾九歳にて病死仕り侯死骸相改め申し候所相違御座なく旦那寺同村禅宗東林寺寺内において土葬取り置き申し候
上の外死失御座なく侯以上
延享三年丙寅年十月二十三日
今渕十郎左衛門
中野 半兵衛
切支丹宗門御届
切支丹宗門従前より無懈(け)怠今以て相改め申し侯先年仰せ出でられ候御法度書の趣弥相守り、私領中在々に至る迄遂穿鑿(せんさく)穿鑿家中の者下々迄是亦僉(せん)会議致し候処不害なる者御座なく侯(年月日を逸す)
同御達
領中在々家中の者下々たる者に至る迄、若し此以後、不審なる者これあるにおいては早々申し出ずべく相達し侯事
切支丹宗門御改帳
天昌寺 岩手郡滝沢村 六右ェ門 六八歳
一、曹洞宗 女 房 五七歳
亀 蔵 三二歳
女 房 二七歳
留 八 一八歳
合五人(男三人女二人)
本誓寺 小左ェ門 四五歳
一、浄土真宗 女 房 三八歳
仁 太 一五歳
な つ 一九歳
母 六八歳
合五人(男二人女三人)
天昌寺 久 作 五九歳
一、曹洞宗 女 房 四五歳
寅 蔵 二二歳
合三人(男一人女一人)
本誓寺 小右ェ門 五一歳
一、浄土真宗 女 房 四八歳
千 太 三一歳
女 房 二二歳
合四人(男二人女二人)
家数四軒 壱組
上の通り組合仲間人別吟味仕り候処疑敷者御座なく候条御改帳差し上げ申し侯若し以来切支丹宗門の者は申すに及ばす一人成り共隠密仕るにおいては急度曲事仰せ付られべく侯後証のため依て件の如し
文久三年(1863年)四月
滝沢村肝入
六右衛門
大坊守衛殿
基督教の禁令と宗門改
例年の如く切支丹宗門御穿鑿(せんさく)については仰せ付け侯検問吟味仕り疑敷者御座無く候条宗旨改め書き上申の事
宗名 村 名
戸主 家族
上の家内人別相改め疑敷者これなく侯間組合長差し上げ申し候若し
以来切支丹宗門の者は申すに及ぼす人数一人も隠密仕り候はゞ組合
中屹度曲事仰せ付けらるべく後証のため仍て件の如し
年 月 日 何々村組頭 某印
領主 殿宛
前書の通り拙者知行所百姓共家内人別吟味を遂げ疑敷もの御座なく
侯条組合帳請け取り差し上げ申し候若し以来切支丹宗門の者申すに
及ばす人数一人も隠密仕り侯に於ては急度言上仕るべく侯後証のた
め仍て件の如し
年 月 日
領主 名印
宗門改係宛
以上のべたごとくキリスト教については最も厳重で、特に元禄のころは宗旨をかえて転(ころび)キリシタンになり、仏教に転向しても子孫五代までは寺社奉行が監視をなす有様で、死亡した場合は一々屈を出させたのである。しかも江戸屋敷に報告し、さらに幕府に申出る。その上許可なくして葬ることが出来ぬので塩付になし約一カ月間許可を待ち、死体の検査終了まで葬るわけには行かなかったという。葬った結果をも報告せしめたのである。元禄以後は藩の許可のみにて葬らしめたのである。前述のごとく、子孫五代を類族といったがそれが大釜の彦市だったのである。
このようなキリスト教の禁止のため、鎖国政策を行なって、西洋の思想・文化を禁じ、人々を士農工商の身分的階級制度の中に閉じこめることになったのである。
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