http://www1.pref.shimane.lg.jp/contents/kochokoho/esque/16/menu06.html 【人物歴史物語】 より
愛しき妻を失ったばかりの人麻呂は、突然、宮廷から石見行きを任じられた。
悲嘆に沈む人麻呂を迎えたのは、どこまでも碧あおい海。そして、一人の美しい娘だった。
万葉の歌人柿本人麻吊(人麿)が石見の国司に任じられたのは、大宝元年(701)以後のことである。国司といっても、守かみではなく、掾じょうか目さかんという下位の国司だったといわれる。持統・文武の両帝に仕え、数多くの優れた歌を残した宮廷歌人として、華々しい軌跡を描いた人麻呂が、一転して天ざかる鄙ひなの石見に下向しなければならなかったのは、実に謎めいている。
人麻呂は宮廷に仕えていた時代、幾人かの妻を持っていたが、とりわけ軽かるの里に住む女を深く愛した。その女が死んだとき、人麻呂は泣血哀慟きゅうけつあいどうして悲しんだのであった。悲嘆の消えぬ間に石見へ下る命令が追いうちをかけた。すでに五十路いそじの坂を越えていたと思われる人麻呂にとって、この命令は大きな衝撃であり、さらに深い孤愁に沈むこととなった。
しかし、下向した人麻呂は、目の覚めるような石見の碧い海を見たとき、思わず息をのんで立ちつくした。大和では決して見ることのない、鮮烈な海が広がっていたのである。断崖の海辺をいくつか越えると、やがて単調で荒涼とした都野津つのづの海岸へ来た。人麻呂には、限りなく広がっているこの単調な海浜が、奇妙に印象深かった。それは傷ついた魂をいやす不思議な海であった。
着任してどれほどの時が経たったろうか。人麻呂は土地の長者の家で、美しい娘依羅娘子よさみのおとめに出会った。まだ17、8だろうか。いかにも清楚で従順な乙女だった。すでに老境にあった人麻呂は、情熱の残り火のありったけをかきあつめて、彼女との愛に燃えた。決して辺土でのかりそめの遊びではなかった。人麻呂の柔和なまなざし、しっかりと包みこむおおらかな情愛に、依羅娘子は身も心も投げ出し、ひたむきに人麻呂を求めていった。人麻呂は、虚栄と偽善に満ちた都の女とは全く違った彼女に、清冽せいれつな魂を感じたのであろう。彼女のみずみずしい肌に触れるたびに、ともすれば荒ぶる人麻呂の心は和められ、この異郷の地で知り合った若い妻に、若者のような生命の息吹きと、新鮮な感動、さらに詩歌への新たなる意欲をかき立てられたのであろう。もはや片時も依羅娘子のもとを離れたくないほど、人麻呂の愛は深まっていた。だが、こうした逢瀬もそう長くは続かなかった。
やがて四度使よどのつかいとして人麻呂は都へ上ることになった。
石見の海み 角つぬの浦廻うらみを 浦なしと 人こそ見らめ 潟かたなしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 鯨魚いさな取り 海邊うみべをさして 和多にぎたづ豆の荒磯あいその上に か青なる 玉藻奥つ藻 朝羽握る 風こそ寄らめ 夕羽握る 浪こそ来寄れ 浪の芸むた 彼かより此かくより 玉藻なす 寄り疾し妹を 露霜の おきてし来れば この道の 八十隅やそくま毎に 萬よろづたび かへりみすれど いや遠に里は放てかりぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思い萎しなえて 偲ぶらむ 妹が門かど見む 靡なびりこの山
(巻二-一三一)
玉藻のなびくように荒に相抱いて寝たいとしい妻と、今引き裂かれていく。ああ、今一度依羅娘子が見たいと、やるせない別離の苦渋を切々と詠うたいあげる。
依羅娘子も答えて詠う。
な念おもいと 君は言えども 逢はむ時 いつと知りてか わが恋ひでらむ
(巻二-一四〇)
いつまた会えるともわからないのに恋せずにはいられません。と涙をこらえながら袖を振りつづけるのだった。
この別離の後、人麻呂と依羅娘女が再会したかどうかわからない。ところが「万葉集」は突如として人麻呂の死を告げる。
鴨山の磐根いはねしまける吾をかも
知らにと妹が待ちつつあらむ
(巻二-二二二)
自らの命が断たれる苦痛より、ひとえに自分の帰りを待ちこがれる依羅娘子に、思いを馳せる生々しい執着の歌である。
依羅娘子が人麻呂の死を知ったのはいつだったろうか。今や愛する人の死が、どうしようもない現実だとして、河原に身を投げ出して慟哭したのではないだろうか。人麻呂へのやみがたい愛憎の情を詠いあげる。
直じきの逢あいは逢ひかつましじ石川に 雲立ちわたれ見つつ偲はむ
(巻二-二二五)
依羅娘子が、その後どのような人生を送ったのか、それは今なお謎である鴨山の所在地と同じように、ようとして分からない。ただ明らかなことは石見の人々と風光が人麻呂の晩年を豊かに飾ったことである。(文:藤岡大拙)
https://www.manreki.com/library/kikaku/01haru-hitomaro/hazimeni/hazimeni.htm 【はじめに 柿本人麻呂とは - 高岡市万葉歴史館】より
はじめに
柿本人麻呂は、『万葉集』を代表するのみならず、日本文学史をも代表する歌人である。
天武朝に歌人としての活動をはじめ、続く持統朝には行幸に従駕して天皇を讃える歌を詠んだり、皇子たちに歌を捧げるなど、公の場で歌を詠むようになる。
その持統朝とは、日本最初の都城である藤原京が営まれた時代でもある。人麻呂は藤原京の建設を目にし、そこで生活したことは間違いない。そして、平城京遷都を見ずに亡くなったと考えられる。
このような人麻呂は、平安時代以降「歌の聖」として崇められ、やがて「歌の神」となる。
人麻呂が実際に生きた時代と、人々の中に人麻呂が生きていた時代を比較していただきたい。
柿本人麻呂
生没年経歴等一切不明。
『日本書紀』『続日本紀(しょくにほんぎ)』などの史書にその名は見えないが,『万葉集』に残された歌によって、持統朝から文武朝に活躍したと考えられている。『万葉集』の編さん資料のひとつとなった「柿本朝臣人麻呂歌集(かきのもとのあそみひとまろかしゅう)」には「庚辰(こうしん)年作」の七夕歌があり,天武9年(680)頃には歌を詠んでいたことはわかっている。
歌の内容からその生涯はさまざまに語られているが,想像の域を出ていない。『続日本紀』和銅(わどう)元年(708)の記事に見える、従四位下(じゅしいげ)で没した柿本朝臣佐留は,人麻呂の近親者と想像されるが,その関係はまったくわかっていない。
人麻呂は、神話の時代から脈々と続く歌謡の伝統と漢詩文の影響を統合したと言われる。そうした表現は、行幸に従った時の歌や皇子たちの死を悼んだ挽歌など,宮廷にかかわる長歌形式の儀礼歌に多くみられる。
妻との関係を詠んだ石見相聞歌(いわみそうもんか・巻二・131~139)や泣血哀慟歌(きゅうけつあいどうか・巻二・207~216),さらに自らの死をめぐって詠まれた自傷歌群(じしょうかぐん・巻二・223~227)なども,宮廷サロン的な場の要請に応えてよまれた「物語」的な歌ともいわれている。
経歴は不明ながらこうした歌が残っていたために,人麻呂の人生は平安時代初期から伝説化していったのである。
人丸神像
現在「富山県民会館分館内山邸」として広く知られている旧内山家の敷地内には,昭和36年(1961)に台風で倒壊するまで,人丸像をまつった祠(歌神社)がありました。展示した「人丸神像」は,その人丸像の複製です。
神社の創建は江戸時代の明和6年(1769)で,明和二年に内山逸峰(うちやまはやみね)が石見国高津の人丸明神まで参拝に行った折り,現地でもらいうけた柿の枝を京都で人麻呂像に彫らせてまつったのです。
明和6年は,賀茂真淵(かものまぶち)が亡くなった年で,その名著『万葉考』は前年に印刷刊行されたばかりでした。
すでに『寛永版本』や北村季吟『万葉拾穂抄』,契沖『万葉代匠記』などは世に出ており,明和8年の江戸滞在の折りのメモには,書店で見た値段が記されています。
しかし,おそらく逸峰は,当時の「歌書」や「名寄(なよせ)」で『万葉集』の歌を読んでいただけであろうと考えられています。
鴨山の 岩根の小松
我をかも 知らでや千代の 緑栄ん
逸峰が記し残した人麻呂歌ですが,他のどの文献にも見られません。どこかでひとり歩きした人麻呂の歌なのでしょう。
内山邸人丸神像(複製)
◆内山逸峰著「草稿 西国道記」より
逸峰が石見国の柿本神社に詣でた時の長歌および反歌には、逸峰の苦労する様子や喜ぶ様がこまやかに叙述され、人丸神像の由来が語られている。
明和二つの年長月四日、石見国美濃郡戸田村、柿本御社にまうで奉りける時の短歌。御誕生所也。
はるばると 思ひ越路の 旅人の 海山多く 過渡り さはりもなきは
千早振 神の助けに あらざらばいかでかはとぞ おもほゆる
いでや名高き 石見のや 高角山の 神がきに 五日よるひる 宮籠り
比しも秋の 半過 磯うつ波と 松風と 声うち添て よそならば
秋の淋しみ 有べきを 所がらとて 我身には 只糸竹の 調べとも 聞なしぬれば
うば玉の よるもすがらに たのしみの 心は更に よの人の 思ひはしらじ
御姿を 拝まばやとて 思ひたち 己が宿りし 高角や ふもとの御寺
朝霧と ともに立出 小松原 分行程に 朝彦も ほのぼの見えて
秋ながら 影うららかに さしのぼる □□とかに はてしなき 浜の真砂路
是や此 よむともつきぬ ことのはの 道のしるべや
あし引の 山を南に 北はうみ もろこし迄も つづくなる
うらもはるかに 思ひやる 心の内の ながめこそ 詞に出て
よしあしを 何とか人に 石見潟 高角山に つづきたる 持石木阿弥
ふた村を 越ゆればこれぞ 戸田の里 顕はれ出し
御姿の 宮居いづこと 尋れば そことしられて かたらひが
家に立より 此神の をさなすがたを 拝まんと いへど中中 ゆるさねば
かさねていたく たのみしに 秋田かる身の いとまなみ
鶉衣を ぬぎかへて すがたそぞろに あらためて 鑰やうの物 取出し
御社へゆき 御戸開き 拝めば高津に かはりなき 老の御姿 おはします
わきにたたせ 給へるは 年の比ほひ 五か六つ 程にも見えて
立すがた 此御神の いとけなき 御身をぞたて はごくみし
かたらひふたりが すがたをも 作りすへつつ
右左 わけてぞならべ 置にける
さて夫よりも かたらひが 家に帰りて 筆柿を 一つたべよと 乞ければ
其柿の木は 昔より おのが苑にて 栄えしが
近き頃より 枯にけり 其あとよりも ひこばへが 又生出て 若木ゆへ
このみのことは 持あはず さらば何とぞ 筆柿の 枝のはつれも あるならば
えさせよかしと たのみしに わづか斗の 枝一つ
あたへし事の うれしさよ 都に帰り 御すがたを
きざみて世世に 敷島の 道の守りと 仰ぎ見んかも
反歌
言の葉の 道栄えつつ 柿本 かたらひてゆけ 千とせ万代
かたらひが 垣の内に 御はかの 有を教へければ 拝み奉るとて
尋ねきて 何と言葉も いはみがた 名高き人の 奥の山ざと
たどりきて 袂も裾も 露草に 己がなみだや 置そはるらん
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