豊受⼤神宮(外宮)

https://www.isejingu.or.jp/about/geku/betsugu.html 【豊受⼤神宮(外宮)】より

正宮に次ぐお宮を別宮といいます。外宮の域内には「多賀宮」・「⼟宮」・「⾵宮」の3所の別宮が鎮座しています。

豊受大御神荒御魂

豊受⼤御神の「荒御魂」をお祀りする、外宮第⼀の別宮

多賀宮は、外宮に所属する四別宮のうち、第一に位しています。殿舎の規模も他の別宮よりも大きく、正宮に次ぐ大きさです。ご祭神は、豊受大御神の荒御魂。神様の御魂のおだやかな働きを、「和御魂」と申し上げるのに対して、荒々しく格別に顕著なご神威をあらわされる御魂の働きを、「荒御魂」とたたえます。

御鎮座地

御池にかかる亀石を渡り、98段の石段を上った小高い丘の上に鎮座します。

多賀宮の由緒と沿革

多賀宮は古くは「高宮」とも称され、延暦23年(804)の『止由気宮儀式帳』に「高宮一院等由気太神之荒御玉神也」と記されています。小高い丘の上にご鎮座されることからそのように呼ばれたと考えられます。

多賀宮は今から約1500年前、第21代雄略天皇22年に天照大御神の御神勅によって豊受大御神が丹波の国から御饌都神として迎えられ、豊受大神宮が創立されたのと同時に創建されたと伝えられています。外宮には多賀宮、土宮、月夜見宮、風宮の四別宮がありますが、多賀宮だけは『止由気宮儀式帳』および『延喜神名式』に記載され、他の別宮が後年、宮号宣下されたことに比べると、別宮として特別な待遇を受けています。

お祭りは正宮に準じて行われ、祈年祭・神嘗祭・新嘗祭の奉幣の儀も、正宮につづき勅使が参向して幣帛が奉られます。また、20年に一度の式年遷宮が、第一別宮のみ正宮と同年に斎行されることからもその重要性がうかがえます。

土宮

御祭神  大土乃御祖神

⽔防に功績のある⼟地の神を祀り、唯一正面が東向きの別宮

ご祭神は、大土乃御祖神。古くから山田原の鎮守の神でしたが、外宮の鎮座以後は宮域の地主神、宮川堤防の守護神とされ、平安時代末期に別宮に昇格しました。

土宮の付近は式年遷宮山口祭、御船代祭の祭場でもあります。

御鎮座地

御池にかかる亀石を渡り、右側に広がる深い杉木立の中に鎮座します。

土宮の由緒と沿革

土宮は、古来外宮ご鎮座の山田原の守護神として崇敬されてきました。延暦23年(804)の『止由気宮儀式帳』には「大宮地神」と記され、長徳3年(997)の『長徳検録』には外宮所管の田社32前の1座として「土御祖神社」の名を見ることができます。 しかし、田社とは今でいう末社にあたり、古代においては別宮ではありませんでした。

大治3年(1128)に宮川堤防の守護神として別宮に昇格しましたが、田社から別宮の地位に昇格したのは特別な理由があったものと推察されます。

現在、市街地の西を流れる宮川は、かつて幾筋かに分岐し、今の市街地も流域にあたりました。当時は治水技術も発達しておらず、氾濫による被害が相次ぎ、地域住民にとって宮川治水の感心は高く、土地の守護を司る大土乃御祖神に対する祈りは切なるものがあったことでしょう。また、外宮の祭祀を行う上でも洪水は支障をきたしたと考えられます。そのような状況の下で宮川堤防の守護神ということに重きが置かれ、大治3年に宮号宣下され、別宮に昇格したのです。

さて、他の別宮が全て南面するのに対して土宮だけが東面しています。保延元年(1135)のご造営の際もこの点が問題となり、朝廷においても十分検討されましたが、結局は従来通り東面に建てられることになりました。これについては南面に建てれば正宮を後にするとか、地勢の便宜上の理由に拠るとか、古来種々論じられてきましたが、詳らかにしません。但し、理由の如何にかかわらず、東向きにご鎮座するということは外宮ご鎮座以前にさかのぼり、古くからの姿を残したものといえます。

風宮

御祭神 級長津彦命

級長戸辺命 内宮の風日祈宮と同様に、「神風」を吹かせた風雨の神を祀る別宮

ご祭神は、風雨を司る級長津彦命、級長戸辺命で、内宮別宮の風日祈宮のご祭神と同じです。雨風は農作物に大きな影響を与えますので、神宮では古より正宮に準じて丁重にお祀りしています。

御鎮座地

御池にかかる亀石を渡り、多賀宮へ上る石段の左側に鎮座します。

風宮の由緒と沿革

風宮は、古来風社と称しておりました。しかし、『止由気宮儀式帳』、『延喜神名式』には記載がなく、長徳3年の『長徳検録』に初めて「風社在高宮道棒本」と記され、多賀宮へ続く参道沿い、杉の木の本にある小さなお社であったと考えられます。

それが内宮別宮の風日祈宮と同様、蒙古襲来の際、ご神威によって猛風が起り、襲来した敵軍10万の兵を全滅させ、未曽有の国難をお救いになったご霊験に応えるべく、正応6年(1293)に一躍別宮に昇格しました。その詳細な経緯は『増鏡』にみることができます。

元来、風宮は風雨の災害なく稲を中心とする農作物が順調に成育するように祈りが捧げられるお社でありましたが、元冦以来国難に際しては神明のご加護によって国家の平安が守られるという信仰が加わります。

幕末になると、欧米列強諸国による東洋進出がはじまり、日本もその侵略の危機に再び遭遇することになり、その際には中世以来の信仰は再度喚起され、朝廷は文久3年(1863)5月に15日間の攘夷御祈願を風宮と風日祈宮に捧げられました。


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