「芭蕉忍者説の傾向と対策」

https://www.human.mie-u.ac.jp/kenkyu/ken-prj/iga/kouza/2016/2016-7.html 【第1回「"忍者の里"の原像-壬生野の結衆、城館と春日神社-」(後期)】 より

「"忍者の里"の原像-壬生野の結衆、城館と春日神社-」要旨

伊藤裕偉

戦国時代の伊賀国には、「戦国大名」と呼ばれる権力者がいません。それは、大きな権力者による支配を望まない風土だからと言われています。忍者を育んだその個性について、壬生野地区(伊賀市川東・川西・西ノ沢)を素材に解説しました。

壬生野地区は、平安時代後期(西暦12世紀初め)には春日社(奈良市)の荘園でした。春日神社(川東)が地域の精神的主柱で、その拝殿は室町時代の造立と考えられている古建築です(県指定有形文化財)。

この一方で、ここには一辺50m程度の土塁を巡らせた方形の小規模城館が多数見られます。城館はひとつひとつが独立し、武力を持った領主の家です。独立意識の強い彼らですが、川東の春日神社を心の支えとするという点ではまとまっていました。

織田信長による2度の伊賀責め(天正7年・同9年、1579・1581年)で、伊賀の人びとによる連携組織である「惣国一揆」は崩壊したと言われています。しかし、信長死後に勃発した羽柴秀吉と柴田勝家による主導権争い(天正10・11年、1582・83年)に伴い、壬生野の人びとは「一庄惣」という組織を立ち上げました。天正11年5月、彼らは川東の春日神社をはじめとした4所の神社に立願します。立願状には、壬生野だけでなく、広く伊賀国の安定を願う旨が記されています。「惣国一揆」の精神は継承されているのです。

彼らの祈りが通じたのか、伊賀国に侵入していた筒井順慶は退却します。そしてその年の9月、壬生野一庄惣を中心に春日祭が催されました。現在、春日神社春の例祭で催されている「長屋祭」は、戦国時代末期の春日祭を起源としています。

壬生野地区では、春日神社拝殿や城館の土塁など、戦国時代の景観を彷彿とさせる素晴らしい文化遺産を数多く目にすることができます。これは、江戸時代を通じて維持されてきた景観に他なりません。信長によって伊賀は壊滅されたと言われますが、壬生野の景観を見ると、戦に勝ったのは実は伊賀ではないのか、と思えてきます。


https://www.human.mie-u.ac.jp/kenkyu/ken-prj/iga/kouza/2016/2016-8.html 【第2回「日本忍者映画史」(後期)】 より

「日本忍者映画史」要旨

マンス・トンプソン

日本忍者映画の歴史は今まで全体的に研究されていないため、研究家のマンス・トンプソンが8年間ほどかけて日本忍者映画の世界を明確化しようとしてきました。現在では、約80本の日本忍者映画と映画資料を集め、また映画評論家や研究家と話したり、映画監督にインタビューをしたりすることにより、現在本を執筆するとともに日本忍者映画史について語りはじめています。本講演では、日本忍者映画の規模と進化を紹介しました。第三の忍者映画ブーム、代表的な映画や役者、社会的な背景を語りながら、基礎的な忍者映画史を話しました。忍者映画は次の三つの段階に区分できます。

第1 戦前〜60年代: 忍者 as 妖術使いと忍者コメディ

第2 60年代:忍者リアリズムとくノ一映画の時代

第3 70年代〜現在:メイク忍者映画グレイトアゲーン!

また、よく知られている豪傑自来也からあまり見られるチャンスがない貴重な映画映像まで紹介し、監督から聞いたバックストーリーも語りました。

Japanese Ninja Movie History

For the last 8 years, researcher Mance Thompson has been trying to unearth the hidden story of Japan's ninja movie industry. This history has until now gone unnoticed and unresearched by any Japanese movie critics, historians, or any other academics. As such, the speaker has personally amassed some 80 Japanese ninja movies and movie related materials, as well as consulted with movie critics and interviewed two directors who made ninja films in Japan. Having reached a clear picture of the Japanese ninja movie world up to this point, he has now begun sharing his research with the public in coordination with writing a book on the topic. The scale and evolution of the genre, three Japanese ninja booms, and major movies and figures(actors and directors) were all discussed during this presentation. The social factors that influenced the Japanese ninja movie industry were also included so that those new to the genre could develop a basic understanding of its history. The theme of the presentation was as follows:

Part I 1912-1960: Ninja as Magical Samurai and Ninja Comedy

Part II The 1960s: Ninja Realism and the Kunoichi Craze

Part III 1970s-Present Day: Making Japanese Ninja Movies Great Again

A few excerpts of flims such as the famous Gouketsu Jiraiya as well as some rare pre-war ninja films were shown and some of the back story learned from Japanese directors was shared during the presentation.


https://www.human.mie-u.ac.jp/kenkyu/ken-prj/iga/kouza/2016/2016-9.html 【第3回「猿飛と霧隠-江戸文学の中の忍者-」(後期)】 より

「猿飛と霧隠-江戸文学の中の忍者-」要旨

高橋圭一

猿飛と霧隠は真田幸村の家来として、江戸文学の中で生み出された忍者(忍び)です。

史実の真田信繁(幸村)は、夏の陣での壮絶な討死によって世間に名を轟かせましたが、それ以前は父昌幸に隠れて目立たない存在だったようです。その幸村を日本一の大軍師としたのは、江戸時代の小説の一ジャンルである「実録」です。実録については、当時の条例などを引いて詳しく説明いたしました。

近世前期の文学、『大坂物語』『難波戦記』...と時代が下るにつれて幸村の活躍は増え、近世中期に成立した『厭蝕太平楽記』に至ってその天才軍師・豊臣の忠臣という像が完成します。と共に、『厭蝕太平楽記』で初めて猿飛佐助と霧隠(才蔵の名はまだありません)が一度づつ登場します。原本のコピーで、名前の書かれていることを確認してもらいました。さらに『厭蝕太平楽記』を約四倍に増補した『本朝盛衰記』が近世後期には出現します。そこでの猿飛と霧隠は卓越した忍びとして、主として情報収集・報告、及びその操作に携わります。ただ一度、霧隠が他の四人の忍びと家康の旗本勢四五百人と戦った挙げ句、鉄砲組に囲まれるや、忍術で姿を消すという場面が描かれています。ここは原文を読んでもらいました。江戸の忍びも、立川文庫の猿飛・霧隠並みの腕を持っていたようです。


https://www.human.mie-u.ac.jp/kenkyu/ken-prj/iga/kouza/2016/2016-10.html 【第4回「芭蕉忍者説の傾向と対策」(後期)】より

「芭蕉忍者説の傾向と対策」要旨

吉丸雄哉

松尾芭蕉を出自から忍者と見なす説は「芭蕉は無足人(准士分)の末流だが、父の代ではもう農民」「無足人は忍術を身につけ働いた伊賀者とは別の身分で、忍術を身につけていた者は稀」「母の出生は資料をきちんと解釈すれば百地氏と関係づけられない」ので無理がある。

「奥の細道の行程から健脚なので忍者」という説は、最大でも一日60キロの日がある程度で他は健脚な当時の日本人と変わらない移動距離なので否定できる。

そもそも芭蕉忍者説の起源は松本清張・樋口清之『東京の旅』(光文社、昭和41年)である。以後、結論先決めで理屈をつける形で芭蕉忍者説は発展してきた。斎藤栄『奧の細道殺人事件』(光文社、昭和45年)や連続テレビ時代劇「隠密・奥の細道」(テレビ東京。昭和63年~平成1年)などフィクションも様々登場し広まっていく。

出自や身体能力からの説明が難しいため現在では反証可能性のない芭蕉隠密説が生き残っている。芭蕉は逸話の多い人物だが忍術を使った逸話もない。戦後の忍者ブームを経て芭蕉と組み合わせる発想が生まれたのだろうが、芭蕉忍者説は芭蕉にとっても忍者・忍術にとっても益のない発想である。


https://www.human.mie-u.ac.jp/kenkyu/ken-prj/iga/kouza/2016/2016-11.html 【第5回「芭蕉のネットワークと藤堂家」(後期)】 より

「芭蕉のネットワークと藤堂家」要旨

岡本 聡

芭蕉の『おくのほそ道』の旅が、藤堂家の利害関係と関わっていたのではないかというのが今回の講演の趣旨である。芭蕉の主筋である藤堂高久は、堀田正俊暗殺後から、側用人の牧野や、柳沢、老中の阿部などに接近していた事が窺える。その事から考えると芭蕉が、深川において江戸代官伊奈半十郎が拝領した土地に住み、江戸代官の職務の一つであった、幕府御料巡検に荷担していたとしても不思議ではない。曽良が、綱吉没後に、幕府の資金を預かり、幕府巡検使随員としての旅に出た事は、村松友次氏『謎の旅人 曽良』に詳しいが、『おくのほそ道』でも曽良が資金を預かっているのである。芭蕉の旅が決して風雅だけを目的とした旅ではなく、幕府御料の視察を兼ねた旅であり、芭蕉の旅をつなぐと、四国、九州を除いた御料を押さえる事になる。それが藤堂新七郎家に仕える側近宛ての手紙に見られる「四国九州の方一見残し置候」という表現は、逆に言えば、今までの旅が藤堂家に依頼された旅である事を示唆している。これも、後の柳沢吉保と芭蕉との間接的関係から考えても、「柳沢の玄関番」と揶揄された藤堂高久の為にやった仕事の一つであると考えられるのである。


https://www.human.mie-u.ac.jp/kenkyu/ken-prj/iga/kouza/2016/2016-12.html 【第6回「忍者の近現代」(後期)】 より

「忍者の近現代」要旨

森 正人

本発表は、忍者・忍術使いという形象がどのような意味や価値を、明治時代から戦争期にかけて与えられたのか、それはどのような社会的な背景なのかを明らかにする。資料として、明治時代以降の新聞資料や刊行物を用い、そこに記述された内容を検討した。江戸時代から歌舞伎や講談で演じられてきた忍術使いのイメージは、1900年代初頭に、立川文庫や朝日文庫など少年向けの文庫シリーズが成立するなかで、二つの変化を見せる。すなわち、忍術の多様化と忍術使いの若年化である。この時期、忍術を科学的に理解しようという態度も強まる。それは心霊や超常現象を科学的解明する態度と共鳴していた。ただし、一方で科学的な解明を求めつつ、他方で前近代的な超常現象を依然として好む人も多く、忍術はこの二つの態度の間に置かれてきた。前近代的な関心から忍術を理解する考え方の端的な例は見世物小屋での忍術の上演である。そしてこのような科学、近代と前近代的なるものの併存こそが日本の近代の時代性であり、忍者はそれを象徴していたと言えるだろう。発表では伊藤銀月と藤田西湖の記述からこのことを明らかにした。1930年代の戦争の時期には、忍術使いの「耐える、忍ぶ」側面が強調され、日本の精神性の表れとして、国策に取り込まれる。さらにスパイとしての側面も取り上げられる。戦後の国際化が強調される1980年代、忍者がアメリカ映画に認められていくなかで、世界に誇る日本文化の一要素として意味づけられる。さらに戦争が終わると忍者は日本が国際化時代に誇るべき文化と言われるようになる。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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