実は忍者? 二足のわらじ、松尾芭蕉が京都に残した隠密物語

https://www.tm-office.co.jp/column/20151221.html  【実は忍者?二足のわらじ、松尾芭蕉が京都に残した隠密物語(前編)】 より

 人生、何事にも「お金」がかかる。幸せを運んでくるのも、また不安を運んでくるのもお金。経済的な安定を確保した上で、仕事もプライベートも充実させたい……という欲張りなのが現代人の悲しい性というもの? となれば、一つのことに打ち込んでいるだけでは事足りない。「二足のわらじ」の人生を歩もうではないか。あの俳句の神様・松尾芭蕉もそんな生き方を貫いた一人。2回にわたって芭蕉の生き方について考えてみました。

「今年こそは」を現実に

 一年の計は元旦にあり――と、元旦に新年の抱負を抱く人は多いもの。「今年こそは」と新たな計画を立てて一人ウキウキするのも、お正月ならではですね。ちなみに、若いビジネスパーソンは新年にどんな抱負を抱いているのか、2015年1月8日にマイナビニュースが男性会員300人を対象に調査して発表した2015年「今年の抱負」を見ると、こんな感じです。

1位:お金をためる         34.0%

2位:仕事を頑張る         19.0%

3位:プライベートを充実させる   11.0%

(マイナビニュース「今年の抱負」2015年1月8日記事より抜粋)

 女性を対象としたデータは2014年に発表されているのですが、プライベートと仕事の比重が逆になる程度で、やはり1位はお金をためることが目標のようです。現代の若い世代において男女間の考え方に大差はないようです。

 つまり、この調査を見る限り、若いビジネスパーソンの目標はまずはお金、その上で仕事とプライベートの充実といったところでしょうか。そうであれば全部一度にゲットできる生き方こそが、最も理想的といえるかもしれません。

 そこで今回は、「実は忍者だった」と噂される俳聖・松尾芭蕉と、芭蕉を尊敬しまくった「画家でもあった俳人」与謝蕪村のエピソードから、お金も仕事もプライベートもみ~んな充実させてしまう二足の草鞋ライフの極意を探ります。

 メッセージを与えてくれるキースポットは、洛北にひっそりとたたずむ「金福寺」。最近では日本人だけでなく、「HAIKU」の名所として外国人観光客の注目を集める一方、女性からも「かわいい猫に会える隠れ寺」として注を集めている「二足のわらじをはく」名刹です。  「新年こそは」と思っているあなた、今のうちに「二足の草鞋ライフ」の極意をゲットしましょう。きっと良い年になりますよ。

実は忍者だった? 謎めいた俳聖・松尾芭蕉

 私は子供のころから忍者が大好きでした。漫画「忍者ハットリ君」や「赤影」など忍者の物語に触れるたびにワクワクして「将来は忍者になりたい」と真剣に思っていました。

 しかし、あの俳聖・松尾芭蕉が忍者だったという説には驚きました。松尾芭蕉といえば、あの「おくのほそ道」を記した俳句の神様ではありませんか。ドロンと消えたり、手裏剣を使ったりする忍者とは、イメージ的に結び付きません。

 ところが、仮に「おくのほそ道」を深堀りしてみても、多くの謎が出てきます。たとえば、裕福ではなかったはずの芭蕉がなぜ、遠い東北や北陸へ行けたのか、長旅の旅費は誰が出したのか、現実的に考えてみると不思議です。

 また、当時46歳だった芭蕉が、険しい山が連なる東北の“道なき道”約2400キロをたった150日で歩き通したというのですから、ものすごい健脚を感じざるを得ません。さらに、江戸時代は庶民が気楽に旅に出られる時代ではなかったはずなのに、芭蕉はどのように関所を“突破”したのでしょうか。考えれば考えるほど、不思議です。

 しかし、このような疑問はすべて「芭蕉は実は忍者であり、幕府の命令で諸藩の動向を内偵するために、全国各地へ出向いた。俳諧師はその隠れ蓑だった」と仮定すると腑に落ちるのです。

 長旅の旅費も幕府が出したと考えれば「なるほど」と思えますし、関所も幕府の手形があれば通過できます。そして何より、道なき道を歩き通した物凄い健脚も、忍者だったら何の不思議もありません。

 そして、「芭蕉忍者説」を何より裏付けているのが、芭蕉が伊賀の出身で、江戸に住んでいたという事実です。

 伊賀は言わずと知れた忍者の里。戦国時代、伊賀忍者はスパイとして活躍していましたが、「本能寺の変」が起こったときは結束して、関西に入っていた徳川家康を守り、三河へ送り届けました。「伊賀越え」といわれる有名なエピソードです。そして、このことを恩儀に感じていた家康は、江戸時代に入ると伊賀忍者をまとめて江戸に呼んで幕府に召し抱え「公儀隠密(こうぎおんみつ)」としたのです。

 今、東京にある地名「半蔵門」は、伊賀から江戸に移り住んだ忍者・服部半蔵にちなんだものであることも、伊賀忍者がいかに大切に扱われていたかを物語っています。

 やはり、松尾芭蕉も「公儀隠密」として各藩の内偵をしていたのではないでしょうか。「おくのほそ道」も幕府が注視していた東北の伊達藩を探るためと考えれば、わざわざ険しい道を歩き通した意味もわかります。

古池や……有名な俳句に漂う“忍者の香り”

 また、有名すぎるこの名句にも忍者の香りがします。

「古池や 蛙(かわず)飛びこむ 水のおと  芭蕉」

 こんなことを言うと、俳句に詳しい方々からは「何を言うか! 俳句を何も知らないド素人がいい加減なことを言うな!」とおしかりを受けてしまうかもしれません。しかし「もし、自分だったら」と考えてみてください。

 史料によれば、松尾芭蕉は江戸では「俳諧(俳句の連句のこと)の宗匠」として著名な存在だったと記録されています。ただ、俳諧を売ったり、授業を行ったりしたところで、全国を行脚できるだけの旅費を稼げるとは思えません。それを裏付けるように、芭蕉は俳諧の先生をする傍ら、神田上水工事の事務職に就いていたという記録が残っています。

 そんなギリギリの生活をしていて、わざわざ俳諧を極めるために、気が遠くなるような「みちのくの長旅」へ出向くでしょうか。しかも、俳諧師としての名声は得ているのです。それを捨てて旅に出るよりも、名声を利用して江戸でさらなるチャンスを求めるのではないでしょうか。

 また「おくのほそ道」は、東北から北陸を回り、最後は伊賀へたどり着いています。ゴールがなぜ「伊賀の里」なのか。故郷といってしまえばそれまでですが、何か隠密の目的があるような気がしてなりません。

 そこで、あえて「俳聖・松尾芭蕉は実は忍者だった」と仮定して、京都に秘められたひとつの物語を探ってみたいと思います。あくまで独自の視点で掘り下げる「仮説」なので、俳句に詳しいみなさま、「そんな見方もあるんだ」くらいに思って、大きな心でお許しください。

芭蕉庵を抱く俳句の聖地「金福寺」

 京都の洛北に「金福寺(こんぷくじ)」というひっそりとした寺院があります。場所は観光客であふれる「詩仙堂」のすぐ近く。しかし「金福寺」に喧噪(けんそう)はありません。休日に訪れても、とても静かです。

静かな「金福寺」本堂

 最近では、かわいい猫に会える「ネコ寺」として、主に女性の人気も集めているそうです。私が訪れた時も、三毛猫の「福ちゃん」が出迎えてくれました。福ちゃんは縁側でのんびり昼寝をしていました。観光客であふれていたら、とてもこんな穏やかに寝てはいられないでしょう。この風景こそが“隠れ寺”ならではの風情なのかもしれません。

金福寺の「福ちゃん」

 江戸を中心に活躍した芭蕉がなぜ、京都のこの寺に「芭蕉庵」を残したのか、またなぜ与謝蕪村がこの寺に眠るのか、それを探るのが私の目的でした。もしかしたら“忍者の一端”がみつかるかもしれません。


https://www.tm-office.co.jp/column/20151222.html  【実は忍者?二足のわらじ、松尾芭蕉が京都に残した隠密物語(後編)】 より

 人生、何事にも「お金」がかかる。幸せを運んでくるのも、また不安を運んでくるのもお金。経済的な安定を確保した上で、仕事もプライベートも充実させたい……という欲張りなのが現代人の悲しい性というもの? となれば、一つのことに打ち込んでいるだけでは事足りない。「二足のわらじ」の人生を歩もうではないか。あの俳句の神様・松尾芭蕉もそんな生き方を貫いた一人。ひょっとしたら忍者だったかもしれない……芭蕉の生き方について考える、後編です。

芭蕉庵を抱く俳句の聖地「金福寺」

 さて、「ネコ寺」としても知られる京都の洛北にある「金福寺(こんぷくじ)」。目当ての「芭蕉庵」は、三毛猫の「福ちゃん」がのんびり寝ている本堂より少し高い、京の町を一望できる丘の上にありました。

 寺に伝わるエピソードによると、この芭蕉庵は、徳川家康(!) が開基した「円光寺」の僧で芭蕉と親しかった鉄舟と、京に立ち寄った芭蕉が語りあった場とされています。なんでも鉄舟とは金福寺が一時、荒廃したとき再興した僧侶だそうです。

芭蕉庵

 エピソードでは「風流を語り合った」とされていますが、芭蕉が訪ねた鉄舟が、徳川家康が開基した円光寺の僧ということを考えると、別の展開が見えてきます。もしかしたら、この場所も隠密の情報交換の場だったのではないでしょうか。

 仮に本当に芭蕉が、親しいだけで鉄舟を訪ねたのだとしたら、なぜ、すぐ近くの本拠地「円光寺」を訪ねなかったのでしょう。その方が不思議です。

 もしかしたら、鉄舟は京の町を一望できる場所だからこそ金福寺を再興し、最も京の町が見渡せる場所に庵をつくって、芭蕉を呼んだのかもしれません。ちなみに金福寺はもともと平安時代864年に円仁が創建した天台宗の寺でしたが、次第に荒廃し、江戸時代中期に円光寺の鉄舟により再興されて以来、その末寺になっています。

 なぜ、平安時代に創建された寺を、徳川家康が創建した寺の僧が再興したのでしょうか。その目的が京を見渡せる場所にあったのだとしたら、幕府の思惑が透けて見えます。芭蕉と鉄舟が親しかったのも「公儀隠密の仲」と考えれば不思議はありませんし、この場所で忍者と僧が京の町を見渡しながら情報交換をしたと仮定すると、すべてに合点がいくのです。

芭蕉と鉄舟が語り合った芭蕉庵内部。蕪村の句が飾られている。

芭蕉を崇拝した与謝蕪村の謎

 さらに、その85年ほど後、俳諧の中興の祖とされる与謝蕪村が金福寺を訪ね、すっかり荒廃していた「芭蕉庵」を再興しました。芭蕉を敬拝していた蕪村は、江戸時代後期の1764年(安永5年)、庵を再興し、1781年(天明元年)、俳文「洛東芭蕉庵再興記」をしたため、金福寺に納めたそうです。そのとき詠んだ句がこの句です。

耳目肺腸 ここに玉巻く 芭蕉庵   蕪村

 耳目肺腸とは全身を意味する漢語です。ただ、私は耳目の漢字から忍者を想像してしまいました。蕪村の有名なこの名句と、イメージが大きく異なることにも違和感を覚えます。

春の海  終日(ひねもす)のたりのたりかな  蕪村

 ちなみに、「日本近代誌の父」といわれる詩人・萩原朔太郎は、与謝蕪村の俳句について以下のように解説しています。

蕪村の句の特異性は、色彩の調子(トーン)が明るく、絵具が生々しており、光が強烈であることである。そしてこの点が、彼の句を枯淡な墨絵から遠くし、色彩の明るく印象的な西洋画に近くしている。

(「郷愁の詩人 与謝蕪村」萩原朔太郎著/岩波文庫より引用)

 私も素人ながらに、与謝蕪村の句にはどこか絵を思わせる情緒を感じます。しかし先に紹介した芭蕉庵の句だけは、別物に思えてなりません。無粋すぎますが、「耳も目も肺も腸もここに集中させ、玉のような情報を巻いた芭蕉庵」とも読めてしまうのです。

 さらに、いらぬ想像もかき立ててしまいます。もしかしたら蕪村は芭蕉を「忍者として尊敬」していたのではないかと……。

 そう考えると、与謝蕪村が芭蕉の足跡を追って「おくのほそ道」のルートをみずから歩き、原文に俳画を描き加えた「奥の細道図巻」(国宝)を制作した意図もわかります。また、蕪村が大阪に生まれながら20歳の頃に江戸に入り、俳諧を学んでいるうちに芭蕉に憧れ、僧に化けて東北地方を周遊したというエピソードもうなづけます。

 もちろん、俳句や俳諧が好きで、その道で生きていこうと思ったのは事実でしょう。しかし、それだけでは生活が成り立たないので、芭蕉のように「公儀隠密」として幕府に就職することを目指したのではないでしょうか。また「おくのほそ道」を得意の絵で描いた背景には、幕府へ「こんなこともできますよ」と自己PRするためだったのかもしれません。

 現在、就活でエントリーシートのほかに、人事部の目を引く自己PR書類を添えることと同じことです。しかし残念ながら、幕府から内定をもらうことができず、蕪村は京都に入り「芭蕉庵」を再興することで俳諧の道を歩く礎にしたのではないでしょうか。

 ここまで「仮説」をたてると、ますます俳句に詳しい方々から激怒されそうですね。とにもかくにも、金福寺には、芭蕉庵に寄り添うように与謝蕪村の墓と、蕪村一門の俳人の墓が立ち並んでいました。いずれも、芭蕉が鉄舟と見渡したであろう京のまちを一望するように。

与謝蕪村の墓

井伊直弼の隠密だった「村山たか」の謎

 しかし、金福寺に伝わるもうひとつのエピソード「村山たか」の逸話は、芭蕉忍者説に通じるものがあります。彼女は正真正銘の「公儀隠密」だったからです。

 村山たかは、井伊直弼が彦根城下で蟄居生活を送っていたころ情交を結んだ「愛人」で、井伊直弼が大老となり「安政の大獄」を行っている際には、京都にいる倒幕派の情報を江戸に送るスパイとして活躍したそうです。このことは史実として記録されており、村山たかは日本の政権に属した女性工作員(スパイ)として史上初めて名を留めることになりました。

 しかし1860年(安政7年)、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された後、1862年(文久2年)に捕らえられて三条河原にさらされましたが、女性という理由で命を助けられ、出家して金福寺の尼になったのです。

魅惑の「二足のわらじライフ」

 松尾芭蕉と与謝蕪村、そして村山たかのエピソードを基に、芭蕉忍者説をたどってみましたが、いかがだったでしょうか。もちろん、これだけで芭蕉が忍者だったと確証できるものではありません。しかし、忍者と俳聖の「二足のわらじ」をはいた芭蕉の人生からは、「上手に生きるヒント」がたくさん見えてきました。これは、現代を生きる私たちにも役立ちそうです。

 もちろん「うちの会社は兼業禁止」というビジネスパーソンは多いでしょう。そんな人は、芭蕉を見習って「俳句」を詠んでみてはいかがでしょうか。また規律の多い銀行員の傍らシンガーソングライターとして大成した小椋佳さんのように、音楽の世界を追求してみてもいいかもしれません。

 そういえば俳句は、世界で最も短い詩「HAIKU」として海外で少しずつ人気が出ているようです。なかでも2012年にノーベル平和賞を受賞したEUの、初代大統領ファンロンパイ氏は熱心な俳句の愛好家として知られています。

 以下は、ファンロンパイ氏が読んだ「HAIKU」です。

An old dog faithfully plodding at hismaster’s side.

Growing old together.

(飼い主と 年老いの犬 相連れて)

The three disasters.

Stoms turn into a softwind.

A new, humanewind.

(三災後 仁愛の風 流れ込む)

NHKニュース「おはよう日本」2013年11月6日放送

「俳句“HAIKU”世界で人気」より抜粋

 このときのNHKニュースによると、「HAIKU」は今や世界70か国に広まっており、各国で読まれる俳句は、「3行に分ける」「季節感を取り入れる」といった簡単な約束事のみで、あとは自由に詠まれているそうです。

 私が金福寺を訪れた時も、イタリアからやってきたというHAIKUファンに会いました。彼らは松尾芭蕉も、与謝蕪村もすでに知っている様子で「BASYOU、BUSON、素晴らしいですね」と、イタリア人らしい明るい表情で私に語りかけてきました。

 もしかしたら、これから「HAIKU」は世界で通用する詩として、もっと注目されるかもしれません。だとしたら、今から俳句を詠めるようになっておくと、国際人としてのビジネスを後押ししてくれるかもしれません。

 これを機に、俳句、やってみますか。「やってみよう」という人は、ぜひ、新年の抱負に加えてみてください。

金福寺

【参考資料】

 「入門 松尾芭蕉」(宝島社)

 「郷愁の詩人 与謝蕪村」(萩原朔太郎著/岩波文庫)

 NHKニュース「おはよう日本」ウェブサイト

 「佛日山 金福寺」パンフレット ほか◆参考資料

 「入門 松尾芭蕉」(宝島社)

 「郷愁の詩人 与謝蕪村」(萩原朔太郎著/岩波文庫)

  NHKニュース「おはよう日本」ウェブサイト

 「佛日山 金福寺」パンフレット ほか

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