剛脚の俳聖

https://www.minyu-net.com/serial/hosomichi/FM20191007-421868.php  【【本宮・二本松】<よく見れば薺花咲く垣根かな> 剛脚の俳聖が本領発揮】 より

鬼婆がすんだと伝えられる観世寺の「岩屋」。くちばしのようにせり出した笠石が怪しい雰囲気を醸し出している

 「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)をたどっていると「芭蕉など、昔の人はよく歩いたもんだねえ」という声をよく聞く。何しろ、車や列車のない江戸時代、旅人は一般的に1日9里、つまり約36キロは歩いたといわれる。現代人が感心するのも当然だろう。

 同時に、芭蕉たちの移動距離に驚く人も少なくない。ときに1日約50キロ、2日で100キロ近いこともあった。「間違いでは」と言う人もいる。ある人は「剛脚が、芭蕉が忍者だったといわれる根拠の一つ」だと言う。

 大切にされる碑

 そんな、現代人の想像力を刺激する芭蕉たちの長距離移動の場面の一つが、郡山宿―福島城下間の約50キロである。

 四国遍路を完歩した経験を持つ、福島ペンクラブ五月会の黒津康司さん(68)=福島市=は「1日50キロを歩くのは十分に可能」と話す(「道標」参照)。とはいえ、ゆったり俳諧を楽しむようなスケジュールでなかったのも確かだ。

 「新版おくのほそ道」(穎原退蔵、尾形仂訳注)の評釈でも「十二里余を踏破したこの日の行程からみても、かつみ草を尋ねまわる余裕はほとんどなかったはず」と、厳しい旅程を根拠に、日和田宿での花かつみ探しの虚構性を指摘している。

 そんな特急運行の芭蕉に素通りされた土地が、本宮宿である。

 本宮市文化財調査委員を務める開運酒造社長の高田宗彦さん(81)は「宿場町として栄え、文人もいた。なのに『ほそ道』には本宮の『も』の字もない。これはおかしいと昔から思っている」と話す。

 確かにこの本宮宿周辺、昔から有力な俳人が現れた。芭蕉の時代には須賀川の相楽(さがら)等躬(とうきゅう)と親交を深めた人物がおり、後には芭蕉の作風を受け継いだ塩田冥々(めいめい)が全国的に知られたという。高田さんによると、芭蕉の句碑も市内に現在5基あり、これは白河、須賀川と同数だ。

 その句碑の一つを市内の名所「花と歴史の郷 蛇の鼻」に訪ねた。明治時代、豪農伊藤家が開いた広大な日本庭園である。

 高田さんによると、園内の句碑は芭蕉二百回忌の1893(明治26)年9月、本宮の俳人菊池素吟(そぎん)が県内の俳人たちから寄付を募り、本宮駅前に建立した。その後、昭和20年代に駅前の拡張計画で、当時の伊藤幟(のぼり)町長が所有していた蛇の鼻遊楽園(当時)に移設された。

 石碑の移転はよく聞くが、移転先で、ぞんざいな扱いを受けている例もある。そんなことが頭をよぎり、恐る恐る大庭園のゲートをくぐった。しかし杞憂(きゆう)だった。小ぶりな句碑が、園内の中央、名物の大きな藤(ふじ)棚の下で、大きな池を背にたたずんでいた。

 「特等席ですね」と言うと、満田幸弥支配人(51)は「園内で一番人通りが多い所。花の名所ですが、年に4、5人は、この句碑を目当てに来る人がいます」とうれしそうに応え、今春建てたという碑の案内板に目をやった。碑の句は

〈よく見れば〓(〓は草カンムリに舞)花咲く垣根かな〉

 定本は〈よく見れば薺(なづな)花咲く垣根かな〉(「続虚栗」)。「ふだんは気にも留めない垣根の根元に、よく見ると、ナズナの花が目立たずひっそりと咲いている」の意。1687(貞享4)年、芭蕉が深川の庵で詠んだといわれる。大藤の根元でひっそり、しかし大切にされている碑にふさわしい句だと思った。

 ちなみに高田さんによると句碑建立の発起人、菊池素吟の元には、建立2カ月前の1893年7月、俳人の正岡子規が訪れている。「ほそ道」をたどる新聞連載の取材の途中立ち寄ったようだ。どんな話をしたのか。

 伝説の地を見物

 さて、道を急ぐ。「ほそ道」ではこの先「二本松より右に切れて、黒塚の岩屋一見し、福島に泊まる」とある。黒塚の岩屋は、鬼婆(おにばば)伝説で有名な安達ケ原の黒塚と鬼の岩屋のことだ。

 曽良の「日記」は、より詳しい。二本松の町はずれの亀ガヒ(亀谷)から右へ切れ供中(くちゅう)の渡(わたし)から舟で阿武隈川を渡り、対岸で杉の植わった黒塚、観音堂とその裏の畳み上げられた大岩を見物。寺の僧から、大岩がいにしえの黒塚で、杉の植わった塚は鬼を埋めた場所だと説明を受けた(意訳)―とある。

 日記に書かれたこの風景は、供中の渡が橋に代わったほかは今も変わらない。巨石が重なりあった岩屋は、いつ見ても迫力がある。空中にせり出た笠(かさ)石のアンバランスな形は、巨大生物か宇宙船か―。芭蕉たちも見たはずだが...句は残っていない。

 岩屋のある観世寺の中村孝純住職(76)は「(鬼婆の悲劇を描いた)『黒塚』は、古くから歌舞伎や謡曲、浄瑠璃などで演じられ、当地にも人間国宝の方など著名人が多く訪れています」と話す。正岡子規も、本宮で菊池素吟に会った後、同地を参拝しており、三つの句を残した。

 芭蕉はどんなことを感じたでしょうねと問うと住職は、俳聖の特急運行を当然ご承知の様子で「さあ、先を急いでいたでしょうから」。

【本宮・二本松】<よく見れば薺花咲く垣根かな>

 【 道標 】時間かけて50キロを踏破

 松尾芭蕉は330年前の5月1日(陽暦6月17日)、郡山宿から福島城下まで約50キロを歩いたといわれています。50キロは結構長い距離です。果たして本当だろうか? ということですので、自身の経験などを基に考えてみます。

 私は今年の春2カ月かけて、四国お遍路88カ所を徒歩で巡りました。移動距離は計1200キロ以上です。この経験から、現代人の歩行速度は時速4キロ(1里)前後で、私の場合、最も適当な1日の歩行距離は25キロ前後であることが分かりました。

 お遍路する人の中には、1日約50キロ歩く人もいますが、毎日ではなく、宿や計画の都合上「やむを得ず歩く」という感じです。1日50キロだと、時速5キロぐらいにアップして歩くこともありますが、長くは続きません。やはり「時間をかけて50キロを達成する」ということになります。

 芭蕉の場合、日の出のころ、郡山宿をたち、日がまだ少し残るころ福島城下に着いたとされています。陽暦6月17日の日の出は午前4時16分、日の入りは午後7時2分。福島城下の入り口、信夫橋のたもとにある「江戸口」の木戸をくぐったのは、日がまだ残っていたころですから午後6時30分~7時ごろと考えられます。

 つまり、芭蕉たちの移動時間は、午前4時30分ごろから午後6時30分ごろまでの約14時間。時速4キロで歩き続ければ56キロほど移動でき、休憩や見物をしても郡山―福島間は完歩可能です。人が1日14時間以上歩くことも私の経験では可能でした。

 さらに、この日は快晴。しかも芭蕉たちは、須賀川宿で十分な休養を取り、前日は15キロぐらいしか歩いていません。当時の旅人の平均的な歩行距離という1日約9里(約36キロ)に比べ、50キロは確かに長い距離ですが、この日、46歳の芭蕉が歩き切ったのは本当だったと思います。(島ペンクラブ五月会会員・黒津康司さん)


https://www.sankei.com/region/news/170129/rgn1701290023-n1.html 【「芭蕉忍者説」を検証 三重大・吉丸准教授が起源など解説】  より

 俳人・松尾芭蕉(1644~1694)の愛好家や忍者ファンならずとも広く知られた芭蕉忍者説を考える講演会「芭蕉忍者説の傾向と対策」が28日、伊賀市上野丸之内のハイトピア伊賀で開かれた。三重大の吉丸雄哉准教授(日本近世文学)が、説の起源や信憑性を解説した。

 芭蕉忍者説には、芭蕉が伊賀の無足人(準士分の上層農民)で伊賀者(=忍者)として藤堂藩に雇われていたとする説や、芭蕉が歩いた「奧の細道」の足跡は忍者と思えるような健脚ぶりを示し、東北諸藩の情勢を幕府が芭蕉に探らせる裏の目的があったといった説がある。

 吉丸准教授はこうした説に対し、「芭蕉は無足人の流れをくむが、父の代ではすでに農民で伊賀者とは無関係」「歩く速度は当時の健脚な日本人と変わらない」と指摘。「芭蕉は早くから神格化され逸話の多い人物だが、忍術を使った話が残っていない」とも話し、忍者説を裏付ける痕跡は存在しないと強調した。ただ、「奧の細道」に同行した弟子の曾良(そら)の忍者説については「蓋然性がある」とした。

 また、芭蕉忍者説の起源として、作家の松本清張氏と考古学者の樋口清之氏が共同執筆した『東京の旅』(昭和41年)で特定の秘密任務を帯びた忍者として推測されていることを挙げ、推理小説家、斎藤栄氏の『奧の細道殺人事件』(同45年)や連続テレビ時代劇「隠密・奥の細道」(同63年~平成元年)などによって広く定着していく過程を明らかにした。

 吉丸准教授は「芭蕉忍者説は証明できない幽霊のような存在。芭蕉は偉大な俳人、世界に誇る詩人であり、忍者をセットにして評価を高めようとするのはおせっかい」と話した。

 講演は、三重大人文学部と上野商工会議所が企画した「忍者・忍術学講座」の第4回で市民ら約90人が聴講。第5回は2月18日午前10時半に同じ会場で、中部大人文学部の岡本聡教授が「芭蕉のネットワークと藤堂家」をテーマに話す。

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