命二ツの中に生きたる桜哉

http://www.basho.jp/senjin/s0803-1/index.html  【水口にて二十年を経て故人に逢ふ命二ツの中に生きたる桜哉芭蕉(野ざらし紀行)】 より

 「新しい自画像への挑戦」(谷地快一)、である『野ざらし紀行』の旅にあった芭蕉は、 貞享二年三月、水口宿で二十年ぶりに服部土芳と再会した。句はこの時の感動を伝えている。土芳の著述とされる芭蕉伝には次のようにある。

 「是ハ水口ニテ土芳ニ玉ル句也。土芳、此年ハ播磨ニ有テ帰ル頃ハ、はや此里ヲ出ラレ侍る。ナヲ跡ヲシタヒ、水口越ニ京へ登ルニ、横田川ニテ思ハズ行逢ヒ、水口ノ駅ニ一夜昔ヲ語シ夜ノ事也。明の日ヨリ中村柳軒ト云医ノモトニ招レテ、又此句ヲ出シ、廿年ノ旧友二人挨拶シタリ、ト笑ワレ侍る」(『伝土芳筆全伝』)

 「街道一の人留め場」として賑わったと言われる水口宿(東海道五十番目の宿駅、現甲賀市水口町)に芭蕉句碑を見にでかけた。米原、草津、貴生川で乗り換え、近江鉄道水口駅下車。たった一人の駅員さんが、芭蕉句碑のある「大岡寺」は「ダイコウジ」と読むこと、「無人の寺で寂れています」と残念そうな口ぶりで道順を教えてくれる。旧東海道に入るとすぐに山門が見える。境内は思いの外広く、説明板によると白鳳十四年(六八四)の建立、東海道の交通の要衝の地のため度々の兵火にあい、現在の寺は正徳二年(一七一五)の再建とある。

  芭蕉句碑は放生池のそばにあった。ちょっと尖った、形の良い自然石が二段の石の台座の上に据えられている。横に円筒形の石塔もある。句は『野ざらし紀行』に推敲される前のかたちである。

   いのちふたつ中に活きたるさくらかな        翁

 水口町歴史民俗資料館の解説によると、この句碑は寛政七年(一七九五)の建立で、台座には、建碑に関わった水口藩士外十一名の俳人の名が刻まれ、『伊勢参宮名所図会』(寛政九年序)にも出る。

  句の解釈は、推敲の前後で変わりはなく、「いま目の前に美しく咲く桜に相対し、二人の命がすぎてきた歳月と運命を思うと感慨深いことよ」となろうか。西行の「年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけりさ夜の中やま」(新古今)、運命を共にする二人という意味の「命二ツ」(謡曲「七騎落」)を踏まえるといわれる。おそらく唐詩の「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」も発想の背景にあるであろう。芭蕉が江戸に向けて伊賀上野を出るとき、まだ十歳の少年であった土芳は二十九歳になっていた。

  今回の旅で興味深く思ったことは、水口町史の資料に、この時芭蕉が泊まったとされる近くの蓮華寺に、「不断桜」という四季咲きの名木があったと伝えていることである。

  また芭蕉を慕い追いかけてきた土芳が、思いがけず行き逢う「横田川」は、実際は野洲川で、現地の解説板によると「野洲川のこのあたりを横田川と言い、幕府により通年架橋が許されず、渇水期を除き、舟渡が行われた」とある。現在も文政五年(一八二二)に建てられた、高さ十メートル余りの「横田の常夜灯」があり、往時がしのばれる。土芳が後に、芭蕉のいのちを継ぐような「三冊子」を残したことを思うと感慨深いものがあった。


https://blog.goo.ne.jp/mizubenoneko/e/1a0cca9870ee4353486794ceaee01533 【命二つの中に生たる桜哉      芭蕉】 より

インターネットの学習サイトgaccoの俳句講座の最終レポートが終わりました。今日はレポートをそのまま載せます。

4回のクイズはいつも締め切り1分前に必死で解答し、なんとか全部出せました。レポートは受講生相互採点制です。自分のを出すとほかに5名の受講生のレポートを採点しなければなりません。それも終わり、無事終了。

クイズやレポートは聞き続けるためのカンフルのようなもので、講義そのものの内容がすばらしかったです。内容をダウンロードしてこれからゆっくり聞きなおそうと思います。レポートは、芭蕉の句を一句選び。600字から800字程度で課題ポイントにそって書くというものです。今回の講義で「基底部」とか「干渉部」とか「新しみ」という言葉を知りました。これまで俳句はただ作るだけだったのですが、初めて理論をちゃんと学ぶことができて、個人的には句が作りやすくなりました。私はもともとお勉強が嫌いで、適当に作っていたので、これからはちゃんと勉強します。

だからといって、俳句は決して、頭でばかり作るものではありませんが、人に作り方を教えるときにはやっぱり理論が大切です。

私が、レポートに選んだ句は、芭蕉が「野ざらし紀行」の旅にでるときに、弟子の土芳が追いかけてきて、水口付近で、20年ぶりに再会したときの句です。水口は琵琶湖の近くにある町だそうですが、河野裕子さんの短歌にもでてくるので一度行ってみたいところです。

「命二つの中に生たる桜哉」 芭蕉

水口にて二十年を経て故人に逢ふ

 命二つの中に生たる桜哉        

 この句の基底部「命二つの中に生たる」 からは、古くからの友人と、互いに様々な人生の変遷を経て、こうしてまた花の中で出会えたことの感動が 伝わる。桜の花は、和歌の時代から、春になれば人々が開花を待ち望み、一時の咲き誇る姿を愛で、散り際を惜しみ、心痛めるといった穏やかならぬ儚 いイメージがある。しかし、この句においては、そのようなイメージとは違った、力強いイメージとしての桜が表現されている。芭蕉と友人の「命二つ の中に生たる」という文体にある桜は、会うことのなかった二人の二十年の歳月の中でも、毎年時期がくれば必ず咲くことを約束されている生命力に満 ちた桜である。「生きたる」という言葉が、それを表している。桜のもつ生命力によって、二人の二十年間のそれぞれの来し方にも命の輝きが増す。ま た干渉部「桜哉」は、二人の逢うことのできなかった歳月をも、今、共に桜を見ることによって新たに結びつけられていることを示す部分である。私が この句を選んだのは、「さまざまの事思ひだす桜哉」の芭蕉の別の句があるが、「さまざまの事」とはどんなことなのか、具体的に考えてみたかったか らである。芭蕉は桜の花に、平安時代から受け継がれてきたものとは別の、命を受け継ぐものとしての桜の新しい一面を詠んでいる。この新しみに感動 した。


http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/nozarasi/nozara27.htm#ku4 【命二つの中に 生たる櫻哉】より

「中にいきたる」は、「生きる」か「活きる」か。後者なら桜の花が活けてあったという情景描写(嘱目)であり、前者なら作者の想いである。

 芭蕉が「命」という語を使うのはよくよく感動したとき。西行の「小夜の中山」に通じるからであろう。芭蕉が江戸に出奔したとき土芳は10歳の少年、いまや立派に成人した土芳との19年ぶりの再会は、「命なりけり」の感慨を大いに感ずるものであったに違いない。まして、息せき切って跡を追ってきた土芳の心根を知れば知るほどにその想いは昂ぶったことであろう。

 なにはともあれ、芭蕉翁傑作の一つである。

大津に出る道、山路をこ(へ)て:峠道だが場所は不明。3月27日頃のことらしい。

任口上人:<にんこうしょうにん>。東本願寺門下の西岸寺 (さいがんじ)第三代住職宝誉上人のこと。任口は俳号。この翌年貞亨3年4月13日80歳の長命を終えて永眠。芭蕉とは京都時代、北村季吟門下としての交際があったらしい。だとすればこの時の再会は14、5年ぶりということになる。なお、芭蕉の京都時代は記録が乏しくていまだよく分からない。

故人:「故人」は死者ではなく、旧い友人のこと。ここでは、伊賀における蕉門の第一人者土芳(服部半左衛門)を指している。槍の遣い手として藤堂藩に仕えたが、後元禄元年、「些中庵(さちゅうあん)」を結ぶ。土芳が播磨に公務で出かけていた間に芭蕉は帰郷し、土芳が伊賀に戻ったときには芭蕉は既に出立していた。後を追った土芳はここ水口で19年ぶりに、松尾宗房(当時23歳の芭蕉)との感激の再開を果たした。実は土芳は、寛文5年、藤堂良忠主催の「貞徳翁十三回忌追善俳諧」で名声を博したのを機に迎えた芭蕉の第1号弟子で、当時土芳は9歳であった。水口での再会の模様は『蕉翁全集』によれば;「些中庵土芳その頃蘆馬と称す。此春播磨にありて帰る頃、翁ははや此国を出られければ、跡を慕ひて京に上る。同じ旅ねの夜すがら語りあかすとて、命二つの中に活きたる桜かな。翌日中村柳軒というふ医のもとに招かれ、此句にて二十年来の旧友二人に同じ句を以って挨拶しあたりと一興。其里の蓮華寺、伊賀の大仙寺巌州各四五日対話、歌仙などあり。」とある。

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