花の春

https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498750855.html【松尾芭蕉の「花の春」の句について】

薦を着て誰人います花のはる  松尾芭蕉 (こもをきて たれひといます はなのはる)

春になると、この句はいつも私の心の中を大きく占める。そしてどこかモヤモヤとするのである。まず第一に「意味」がよくわからない。いや、述べている内容はわかる。

薦(荒い莚)をかぶっている中にどんな人がいるのでしょう?という意味である。

ただ、この句が何を言いたいのか、いまいちわからない。

調べみるとこういうことらしい。

都の新年の春…、めでたさとは裏腹に、街路には乞食の僧がたくさんいる。

しかし、この中に、かの西行法師のような、自ら風狂の世界に飛び込んで、世捨て人に身をやつした高貴な方もいることでしょう。

「おくのほそ道」を読むとわかるが、芭蕉はとにかく「世捨て人」が大好きだ。

世捨て人のいるところを見つけると、ウキウキ(?)と出かけてゆく。

福島須賀川の可伸、松島の雄島の場面がそうである。そして深く感動するのである。

芭蕉には、乞食に身をやつし、世捨て人として生きることに、はてしない憧れがあったようだ。

世間の人から見れば、汚らしい乞食僧も芭蕉には、掲句のように見える…、ということだ。

もう一つ、気になることがある。(実はこちらがメインの疑問だ。)

「花の春」という季語である。これを辞書で調べてみると、

1、花の咲く春2、新年の美称とある。

私が疑問に思うのは、1)の意味では「春」つまり、今時分の桜が咲き乱れている頃。

2)の意味では「新年」になる。

つまり、この言葉は「春」と「新年」、両方の意味がある、ということだ。

私の推測だが(たぶん、当たっていると思うが…)、本来は2)の意味である。

旧暦と新暦は大雑把に、一ヶ月くらいのずれがある、と考えればいい。

昔は正月に梅が咲いたのだ。だから「花の春」である。ところが新暦になると正月に梅も、もちろん桜も咲いていない。今の感覚で言えば「花の春」は桜の頃であろう。

それで1)の意味も生まれた、ということではないか。

で、あるから本来「花の春」は新年で、芭蕉のこの句ももちろん「新年」の句である。

ただ、私の中では、この句をしきりに思い出すのは、今時分の桜咲く頃である。

こんな風に鑑賞してみたい。

桜吹雪が舞う中、多くの人が花見に浮かれている。

そんなにぎやかなところにも、ところどころに乞食に身をやつした僧が、薦をかむって座っている。

ああ、きっとこの中には、私たちなどが及びもしない優れた人がいるのだ。

きっと濁世を厭い、乞食に身をやつし、世捨て人として生きているのだ。なんと尊い人だろう。

もちろん、この鑑賞は季節を間違っているが、なんとなく桜咲く頃に思い出して、上記のように(個人的には…)鑑賞している。

余談だが、もう一つ解せないことがある。

「花の春」に他にどんな句があるだろう、と調べてみたが、まったく見当たらない。

ひょっとして、これは芭蕉の「造語」なのか、という疑問がある。

ご存知の方がいたら、ぜひ教えていただきたい。


https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498750857.html 【命二つの中にいきたる桜かな      松尾芭蕉】 より

(いのちふたつの なかにいきたる さくらかな)

私が一番好きな桜の句は、さまざまのこと思ひ出す桜かな    芭蕉

だが、掲句も同じくらい好きである。

とにかく、命二つという表現がもの凄い。

この句は芭蕉最初の紀行文『野ざらし紀行』にある。

(正確には『おくのほそ道」以外、紀行文と呼ぶべきではないのだが、ここでは紀行文とする。)

水口にて、二十年を経て故人に逢ふとある。水口は今の滋賀県にある東海道の宿場町。

私も東海道踏破の旅で歩いた。

東海道を歩く 水口宿  https://blogs.yahoo.co.jp/seijihaiku/34883943.html

古い街並みが残り、かつての東海道の面影を色濃く残しているところである。

この「故人」とは、亡くなっている人、という意味ではなく、古い知人のことで、伊賀上野の弟子・服部土芳(はっとり・とほう)のことである。

芭蕉が滋賀大津を立ち、東海道を下った、と聞いた土芳は、なんとか芭蕉に会いたいと思い、追いかけ追いかけ、ここ、水口で追いついた。

芭蕉は20年ぶりの再会、そして、わざわざここまで追いかけて来てくれたことを喜び、掲句を詠んだ。芭蕉は寛永21年(1644)の生まれ、土芳は明暦3年(1657)生まれ。

二人が再会をしたのは貞享2年(1685)であるから、この時、芭蕉は約40歳、土芳は約28歳。で…「20年ぶりの再会」であるから、芭蕉は20歳、土芳はなんと8歳の時以来である。

その8歳だった少年が、郷里の先輩で、天下に名を轟かせる芭蕉に憧れ、俳諧の志を持ち、わざわざ訪ねて来たのだ。芭蕉もさぞうれしかったことだろう。

この句は、西行法師の駿河・小夜の中山での和歌、

年たけてまたこゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山    西行法師

(としたけて またこゆべしとおもいきや いのちなりけり さよのなかやま)

【訳】年老いて、また、この小夜の中山を越えるなど、思っていただろうか。いや、思ってもみなかった。命があったからこそなのだなあ…、小夜の中山よ。

を踏まえて詠んだ句と言われている。

この和歌の鑑賞についてはこちらを見ていただきたい。

東海道 金谷~日坂3 小夜の中山 https://blogs.yahoo.co.jp/seijihaiku/33175512.html

俳句では「命」「心」などは軽々しく使うな、とよく言われる。

俳句とは「命」を詠うものであり、「心」を詠うものだからである。

つまり言わずもがな…なのである。しかし、芭蕉はこの時、「命」を堂々と詠んだ。

今、命を詠わずしていつ詠うのか…。

私の命、君(土芳)の命、この二つの命の中に、今、桜が生きているのだ、と高らかに詠いあげた。

この「桜」は20年という月日、大きな時の流れの象徴であろう。

こんな句を、未来に燃える若者に贈ることが出来る芭蕉の力は本当に凄い。

土芳はのち、伊賀蕉門の重鎮として、芭蕉の教えを書き残した「三冊子」を未来に残した。

「三冊子」は、芭蕉俳諧研究の最高峰の俳論として今も重用されている。

きっとこの句があったからこそ…であったに違いない。

ミーハーだが、私もこの「命二つ」という言葉を使って、いつか優れた句を詠みたいと願っている。

余談だが、30代の頃、角川春樹さんと句会をし、春樹さんが、命二つ冬の銀河を渡らうか

という句を出した時、この句に驚愕し、心底嫉妬したのを懐かしく思い出す。



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