動乱下での月見、姨捨山からの月見は もしかすると死の世界に思いを馳せるためかもしれません。
https://www.sarashinado.com/2011/07/16/82/ 【82号・平家物語の月見に刺激され更科紀行】 より
当地への松尾芭蕉の旅に、同行、お伴をした人がいます。芭蕉の門人の一人、越人です。北陸(越の国)の生まれなので越人(本名は越智十蔵)と呼び、名古屋で染物屋をしていたとされます。芭蕉より十数歳年下ですが、芭蕉の旅のきっかけには越人が大きくかかわっていたかもしれません。
動乱下での月見
芭蕉が更科の旅から江戸に戻ってまもなくまとめた「更科姨捨月之弁」(シリーズ前回81で紹介)の冒頭にその証拠となるものがあります。活字に起こしたものを下に掲載しました。書き出しの「あるひはしらら吹上ときくにうちさそわれて…」という文章に注目してください。
この言葉は平安時代の末期、貴族に代わって政権を握りながら滅亡した平家一族を描く「平家物語」の「月見」の章の中にある一節です。平家政権が対立勢力の源氏の攻勢を受け都を京から福原(神戸市兵庫区)に移したのですが、動乱の中でも平家の武者や女たちは戦争ばかりではなく「中秋のころになったのだから」と観月の名所をみんなで訪ねるという話が展開する場面です。この場面を芭蕉は当地に旅することになった動機として記しているのです。
「しらら」は石英砂のために白く見えることで知られる和歌山県白浜町の海岸、「吹上」は和歌山市西南の海辺の地区で、風が吹き上げるように吹いたことでこの名前があります。「あるひは」は「ある者は」の意味。ですから、この冒頭の部分は、中秋になって平家一族のある者は、これらの月の名所に観月に行ったと平家物語が伝えているのを聞いて、私はさらしな・姨捨の月をみないではいられなくなった、という表明です。
酔うと「平家」
更科への旅のエッセンスとも言える「更科姨捨月之弁」を芭蕉がなぜこの一節から書き始めたのか。越人が平家物語の謡いを得意にしていたからではないかと思っています。
そのことをうかがわせる資料が、芭蕉の文章に残っています。更科への旅を終えて越人とともに江戸に戻って冬に書いた俳書の中で、越人のことを「性酒を好み酔和すると平家を謡う、これ我が友なり」と紹介しているのです。「二日勤めて二日遊び…」とも記し、その明るい性格を芭蕉が気に入っていたこともうかがえます。
この越人とのコンビは更科紀行の内容にも影響しています。越人と同行することによって楽しい旅になったことを表現しているようにも思えるのです。木曽の道中では荷物を背負って腰が曲がった老僧と出会います。芭蕉はこの老僧と宿をともにします。夜、句を詠もうと思いますが、老僧がやたらと仏法の話をしてくるので困惑します。しかし、芭蕉はそれも旅の風雅とみなし、楽しんでいる様子がうかがえます。
平家物語といえば木曽義仲のくだりがよく知られていますが、越人はこの場で義仲を謡って芭蕉を楽しませたかもしれません。
琵琶も持参?
さて、ではなぜ芭蕉がそこまで「あるひはしらら吹上」に思い入れを抱いたのか。敗者への共感が背景にあると思います。芭蕉は「朝日将軍」と呼ばれるほどに源氏勢力の切り込み隊長として活躍しながら後に鎌倉幕府を開く味方の源頼朝に見限られ滅んでしまった木曽義仲を、特に敬愛していました。後の旅になりますが「奥の細道」では、やはり平家打倒の功労者でありながら、結局頼朝に嫌われ東北地方に逃れざるを得なかった義経ゆかりの地を思い入れをもって訪ねています。
義仲、義経に限らず平家も含め滅んでいく武者たちを情感豊かに描く平家物語でしたので、そうした武者たちだって動乱の中で名月を見ようとする芸術心を持っていたことに学ぶべきものがあると考えたかもしれません。
死を前にした平家の人々だって月を大事にしたのだから、戦乱のなくなった江戸時代の自分なら余計に名月を観賞しなければならない。その場所は信濃のさらしなの里・姨捨山ではないか。それにしても美濃の国(岐阜県)の出発(8月11日)からわずか4日という強行軍の旅を私はなぜするのか―越人の謡いを聞きながら芭蕉はこんなことを確認し、また自問自答していたかもしれません。越人は平家物語を奏でる楽器の琵琶を持って同行したかもしれません。
中央の絵は芭蕉の更科姨捨来訪320年を記念した「まんが松尾芭蕉の更科紀行」(すずき大和著)の中で、越人が「月見」の章を謡っている場面。右が芭蕉です。左の写真は、芭蕉の来更250年を機に越人を顕彰し、長楽寺境内に昭和11年(1936)建立された石碑です。無名庵霞遊の出資揮毫だそうで、「越智越人随行塚」と刻まれています。
http://intweb.co.jp/miura/myhaiku/basyou_sarashina/sarashina01.htm 【「更科紀行(さらしなきこう)」 1688年 芭蕉45歳】 より
さらしなの里、姨捨山(おばすてやま)の月見ん事、しきりにすゝむる秋風の心に吹さわぎて、ともに風雲の情を狂すもの又ひとり、越人(えつじん)と云。木曾路は山深く道さがしく、旅寐の事も心もとなしと、荷兮子(かけいし)が奴僕(ぬぼく)をして送らす。おのおの心ざし尽すといへども、駅旅の事心えぬさまにて、ともにおぼつかなく、物ごとのしどろにあとさきなるも、なかなかにおかしき事のみ多し。 ・・・
「笈の小文」の旅から帰った芭蕉は、しばらく岐阜に逗留していた。そのころ、
「面白うてやがて哀しき鵜舟哉」
という句を詠んでいる。鵜に魚を捕らせる鵜飼は面白いというが、やがて哀しくなるのはなぜだろう。魚を捕らされている鵜の哀しさか、捕られた魚の運命か。そんなにナイーブなのだろうか芭蕉は。鵜飼の赤々と燃えるかがり火が消えた後、あたりは闇に閉ざされる。それが芭蕉の心情と重なって「やがて哀しき」となったのだろう。
8月になって、何を思ったか芭蕉は信州更科の姨捨山で月見がしたくなって、また旅に出る。風雲の情を狂わす風狂の人・越人を友とし、下僕を従えての馬上の旅だった。
送られつ別れつはては木曽の秋
岐阜を出て、中津川・落合宿を過ぎると中仙道・木曽路に入る。馬籠や妻籠などの有名な宿場が続いている。馬籠は島崎藤村が生まれ育った地で「夜明け前」の舞台。妻籠は、重要伝統的建造物群保存地区に指定され、昔ながらのたたずまいで、観光客が多い。芭蕉もこれらの宿場に宿をとったと思われるが、宿場名の記述はない。
芭蕉の旅は、更科の姨捨山から名月を観賞することが目的だった。「さらしなの里、姨捨山(おばすてやま)の月見ん事、しきりにすゝむる秋風の心に吹さわぎて」「風雲の情を狂す」旅に出た。芭蕉のいつもの旅の出立のパターンである。江戸時代前期、まことに風流なことである。芭蕉の風狂の心は、あくまでも会心の句をものすることにあることはいうまでもない。
寝覚めの床
白い岩肌とエメラルドの水のコントラストが美しい。
高山奇峰頭(かしら)の上におほひかさなりて、左は大河ながれ、岸下の千尋(せんじん)のおもひをなし、尺地(せきち)も平らかならざれば、鞍(くら)のうへ静かならず。只あやふき煩ひのみやむ時なし。
桟(かけ)はし、寝覚など過て、猿が馬場・たち峠などは、四十八曲りとかや、九折重なりて、雲路にたどる心地せらる。歩行(かち)よりゆくものさへ、眼くるめき、たましひしぼみて、足さだまらざりけるに、かのつれたる奴僕いともおそるゝけしき見えず、馬の上にてたゞねぶりに眠りて、落ぬべき事あまたたびなりけるを、あとより見あげて危き事かぎりなし。・・・
木曽川が花崗岩を浸食してできた地形で、白い岩肌とエメラルドの水のコントラストが美しい。この名前の由来は、浦島太郎伝説によるらしい。竜宮から戻った浦島太郎が、知人を探して全国をさまよい、この地でお土産の玉手箱を開いたのだという。そこから「寝覚めの床」と呼ばれるようになったのだとか。芭蕉が「ねざめ」といっているのだから、それよりも前からそう呼ばれていたのだろう。木曾の山の中で浦島太郎伝説とは、不思議な話である。
芭蕉は馬に乗り、木曽川沿いの細い道をたどっていったと思われる。「寝覚めの床美術公園」には、昔をしのばせる道が、木曽川沿いに続いている。
越中(富山県)と加賀(石川県)の国境に倶利伽羅(くりから)峠がある。源平の世、木曾義仲(きそのよしなか)が活躍した古戦場で有名。ここに芭蕉の句といわれる、「義仲の寝覚めの山か月かなし」という石碑がある。「義仲の寝覚の床」のイメージと重なる。もともとは浦島太郎の寝覚の床だったらしい。寝覚めの床で人は何を思うのだろうか。夢なら覚めないでほしいのか後味の悪い、いやな夢だったのか。夢と現実。ここで芭蕉の句がないのが残念。僭越ながら代わりに私が、義仲の寝覚めの床か夢かなし 木曽駒の月はおぼろに寝覚め床 寝覚床夢のあとさきおぼろ月 失礼しました。
木曽の桟(かけはし)跡
写真の橋げたの道路は国道19号線で車が行きかっている。その道路の上にさらに橋げたが見えるが、それが中仙道の「木曽の桟」の道。
桟は橋ではなく、木曽川にせり出した岩山に張り付いた道のことで、岩の間に丸太と板を組み、藤のつるで結わえた桟のこと。1647年に通行人の松明で焼失してしまった。そこで尾張藩は56間(102m)の長さの、中央に8間(14.5m)の木橋をかけた石積みを完成させた。このことが、今も大岸壁として石垣に銘記されている、という。1741年の大改修と明治13年の改修で木橋の下はすべて石積みとなった。明治44年には中央線工事が始まった。(桟の横にある看板より)
木曽の桟の説明版
桟(かけ)はしやいのちをからむ蔦(つた)かづら
「桟(かけ)はしやいのちをからむ蔦(つた)かづら」の句碑。木曽の桟の横にある。
秋に撮った写真が、家に帰って開けてみたら設定ミスで失敗だった。落ち葉に埋もれた句碑があまりにも印象的だったため、春に撮りなおした。だか、やはりというべきか「秋こそあはれはまさりけり」だった。
妻籠宿は観光客であふれている。 芭蕉はこんなことを書いている。
夜は草の枕を求めて、昼のうち思ひまうけたるけしき、結び捨たる発句など、矢立取出て、灯(ともしび)のもとに目をとぢ頭をたゝきてうめきふせば、かの道心の坊、旅懐の心うくて物思ひするにやと推量し、我を慰んとす。わかき時拝みめぐりたる地、あみだの尊き数を尽し、おのがあやしと思ひし事ども、噺つゞくるぞ、風情のさはりと成て、何を云出ることもせず。とてもまぎれたる月影の、かべの破れより木の間がくれにさし入りて、引板(ひた)の音、しかおふ声、所どころにきこへける。まことにかなしき秋の心、ここにつくせり。「いでや月のあるじに酒振るまはん」といへば、さかづき持出たり。
芭蕉は宿で夜に、昼に見た景色や発句のかけらをまとめようとするが、納得できる句ができない。頭をたたいてうめいている。それを見た坊主は、同類が旅に倦んで苦しんでいると思い、慰めようと若い時に経験したいろいろな話しを、ぐたぐたと話しかけてくる。この坊主は道中、大きな荷物を担ぎよろよろと歩いていたところを芭蕉らが見かねて、荷物を芭蕉の馬にくくりつけてあげていた。
破れた壁の間から月影が木々に揺れて差し込んでいた。なかなかの風情だが、この坊主のおかげでだいなしになってしまった。風情もなにもあったものではない。馬鹿くさいから、酒でも飲むか。
なんだろう、これは。「結び捨たる発句など、矢立取出て、灯(ともしび)のもとに目をとぢ頭をたゝきてうめきふせば」という芭蕉にも、当然に予想されることではあるが作句に苦しみ、呻吟することもあったのだ。それにしても芭蕉は、いい句ができない言い訳に、こんな坊主を出したのだろうか。
さて不思議なことに、「更科紀行」の俳文はここで終わっている。肝心の姥捨山の観月の話しはなぜかさっぱり出てこない、どうなっているのだろう。残念。 余裕の遊びか、なげやりか。
「更科姥捨月之弁」という俳文がある。 なぜかこの俳文で姥捨山の観月を扱っている。
義仲と巴御前の銅像
宮ノ越駅の近くの「義仲館」の前にある義仲と巴御前の銅像。
木曽町日義のJR宮ノ越駅の近くに「義仲館」があり、義仲の生涯を資料とともに紹介している。写真は義仲と巴御前の銅像。
この地は、義仲が平家追討の旗挙げところ。華々しく平家を打ち破り征夷大将軍に任ぜられながらも、後白河法皇の策略により大津の粟津ケ原で討ち死にした悲運の武将。
芭蕉は、こういうパターンの武将が好きだ。義経についても同様。
大津市の義仲寺(ぎちゅうじ)は、木曽義仲の墓所ということになっているが、義仲びいきの芭蕉は、ここで義仲といっしょにねむることを望んだ。芭蕉は1694年、元禄7年、大阪で逝去したが、「骸(から)は木曽塚に送るべし」との遺言により、この地、義仲寺に埋葬された。
その芭蕉が、義仲の里を通りながら、それについて何も言っていないのが気にかかる。
川中島の原と遠くに善光寺平
姥捨駅。川中島の原と遠くに善光寺が見える。
電車の先で線路が二股に分かれている。目前の電車は姨捨駅に入ってくるところ。下の線路に入ると長野の向かうことになる。
更科紀行では、木曽の山の中を抜けると、いきなり更科の里に入ってしまう。松本やその間の宿は飛び越えてしまって何もでてこない。
左の写真は、姥捨パーキングエリアからと、姥捨の駅からで、川中島の原と遠くに善光寺平が見渡せる。芭蕉は更科の里の八幡の風景とともに遠く善光寺平を眺めたのだろう。
篠ノ井線・姥捨の駅からの眺望は日本の駅の中で第二位だという。なるほど眺めはすばらしいが、ただそれだけではつまらない。スイッチバック式の駅という仕掛けもある。下の写真は篠ノ井線から姥捨の駅に入ってくる電車。電車の後部で左下におれている線路が長野に向かう篠ノ井線。駅の手前は行き止まり。
もうひとつ、 姥捨の駅を有名にしているものがある。姥捨て伝説と駅のホームからの棚田の眺めだ。棚田の眺めには期待していたのだが、下の写真のとおり。
線路の向こうは民家、その先の尾根の部分が猫の額の棚田の段丘。姥捨て伝説のある冠着山に続いている。
まだある。川中島の原と遠くに善光寺平を望み、姥捨山の観月の名所でもある。千枚田に写る「田毎(たごと)の月」でも有名。駅の売店で酒と肴を買って、田のあぜ道でひとり観月を予定していたのだが、姥捨は無人駅で当然売店もなかった。
今では、棚田を維持するのは大変なのだろう。平成8年から「棚田貸します制度」(オーナー制度)が始まり、棚田の保全を図っているという。棚田は特別史跡名勝天然記念物に指定されている。
棚田を開墾し、維持してきた先人のご苦労に想いをはせると、棚田の風景はかなしくも美しい。 姥捨て伝説が残るのも、少ない耕地にともなう生活の困窮があったのだろう。
「更科姥捨月之弁」より
ことし姥捨の月みむことしきりなりければ、八月十一日みの国をたち、道とほく日数すくなければ、夜に出でて暮に草枕す。思ふにたがはず、その夜さらしなの里にいたる。山は八幡(やはた)という里より一里ばかり南に、西南に横をりふして、すさまじく高くもあらず、かどかどしき岩なども見えず、只あはれ深き山のすがたなり。「なぐさめかねし」といひけんもことわりしられて、そゞろに悲しきに、何故にか老たる人を捨たらんと思ふに、いとゞ涙も落そひければ、
俤(おもかげ)や姨(うば)ひとり泣月の友
いざよひもまだ更科の郡哉
芭蕉の姥捨の句は、格調高くあわれ深い。だが、「月の友」とは何だろう。月のしたでわが身をはかなんだ姥がひとり泣いている、そういうイメージを友として姥捨ての月をみようというのだろうか。観月の友としてはイメージが暗い。この暗さを酒の肴にというのも暗いが、この暗さを楽しもうということだろうか。
右上の写真の山は冠着(かむりき)山1252mで、姥捨山といわれている。月を探して雲の切れ目にようやく見つけることができた。 残念ながらおぼろ月。この直後にもう見えなくなってしまった。中秋の名月にはちと早い9月22日の月ではあったが、姥捨ての棚田に出た月を撮ることができた。下の写真は、棚田の向こうの姥捨山の上に出た月。
わが心なぐさめかねつ更級や姥捨山に照る月を見て (大和物語 姥捨)
「古今集」にあった詠み人知らずの句が「大和物語」に取り入れられたものだという。「なぐさめかねつ」と芭蕉も引いている。
「大和物語」より 姥捨
信濃国に更級といふ所に、男住みけり。
若き時に、親は死にければ、をばなむ親のごとくに、若くより添ひてあるに、この妻の心憂きこと多くて、この姑の、老いかがまりてゐたるを、常に憎みつつ、男にもこのをばの御心のさがなくあしきことを言ひ聞かせければ、昔のごとくにもあらず、おろかなること多く、このをばのためになりゆきけり。
このをば、いといたう老いて、二重にてゐたり。
これをなほ、この嫁、所狭がりて、今まで死なぬことと思ひて、よからぬことを言ひつつ、「持ていまして、深き山に捨てたうびてよ」とのみ責めければ、責められわびて、さしてむと思ひなりぬ。
月のいと明かき夜、「嫗ども、いざたまへ。寺に尊きわざすなる、見せ奉らむ」と言ひければ、限りなく喜びて負はれにけり。
高き山のふもとに住みければ、その山にはるはると入りて、高き山の峰の、降り来べくもあらぬに置きて逃げて来ぬ。
「やや」と言へど、いらへもせで、逃げて家に来て思ひをるに、言ひ腹立てけるをりは、腹立ちてかくしつれど、年ごろ親のごと養ひつつ相添ひにければ、いと悲しくおぼえけり。
この山の上より、月もいと限りなく明かく出でたるを眺めて、夜一夜、いも寝られず、悲しうおぼえければ、かく詠みたりける。
わが心なぐさめかねつ更級や姥捨山に照る月を見て
と詠みてなむ、また行きて迎へ持て来にける。
それより後なむ、姥捨山と言ひける。
「慰めがたし」とは、これが由になむありける。
姨捨の月
「わが心なぐさめかねつ」このフレーズが心かかってとれない。
姥捨駅のすぐ下に長楽寺がある。門を上がって左手に「月見堂」、中央の大きな岩が「姥石」、境内には多くの歌人・俳人の句碑が並んでいた。「月見堂」の前の石碑には「芭蕉翁面影塚」とあり、右横の面に「俤や姨ひとり泣月の友」とある。「姥石」にはここに老人を捨てたという言い伝えもあるそうだ。
姥捨ての伝説と棚田。それに「田毎の月」や中秋の名月の観月という趣向が加わり、複雑な状況。哀しい伝説の場が観月の名所になるというのも、風流人の風狂なのか。だがここで句を読むのは至難の業。 「「なぐさめかねし」といひけんもことわりしられて、そゞろに悲しきに、何故にか老たる人を捨たらんと思ふに、いとゞ涙も落そひければ、」と芭蕉も書いている。「いとど涙を落」とすというのは単純なパターン化で、やや興ざめではある。芭蕉はこういったパターン化を否定しているはずなのだが。
俤や姨ひとり泣月の友
いざよひもまだ更科の郡かな
更科や三よさの月見雲もなし 越人
ひよろ/\と猶露けしやをみなへし
身にしみて大根からし秋の風
木曾の橡(とち)うき世の人の土産かな
送られつ別れつ果は木曾の秋
芭蕉「更科紀行」より
さすがに姥捨ての歌枕、駅のホームには芭蕉ファンと思しき数人のおぼあさん。そのうちの一人が芭蕉のなんとかという句をしきりに思い出そうとしていた。わたしも手伝おうとしたが、とうとう思い出せなかった。わたしも芭蕉の「あの句なんだが」という仲間に入ってきた。
はずかしながら、今回の旅の収穫?
旅行けば 棚田の上に おぼろ月
我が心 薄ぼんやりと 姥捨の月
田のあぜを 駆け上がり見れば 姥捨の月
なるほどの なぐさめかねて 姥捨の月
これではやはり、修行がたりない。
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