https://nakamura-iin.com/2021/10/22/1216/ 【万物流転】より
まず余談です。今回の総選挙、国民の関心はいかに?
私の住む最寄りの駅で現職の衆議院議員が演説されていました。ところが“道行く人は誰ひとりも見向きもしない”(三善英史の雨)
この度は知の巨人の方々に登場して頂きます。
まず哲学者の梅原猛先生の著書「戦争と仏教」(2005年発刊)です。その中に小エッセイ、演歌はなぜ廃らないのか?という項があります。日本に深く根付く仏教、その中核教義の一つの無常、すなわち生滅変化して移り変わり、しばらくも同じ状態にとどまらないこと、演歌がこの日本人の琴線に触れるというのです。演歌が数多く取り上げる“別離”“破恋”“怨念”が無常感と親和性があるからだというのが梅原先生の説です。
さて昭和45年のヒット曲、石田ゆりさんの「悲しみのアリア」からです。
どのような悲しみなの?どのような淋しさなの?細胞生物学者でもあり、歌人でもある永田和弘先生ならこのように問われるのではないでしょうか?先生の著書「知の体力」の中で精神科医でもあり、歌人でもある斎藤茂吉さんの短歌を取り上げられています。母の死を詠んだ一連です。
死に近き母に添寝(そひね)のしんしんと遠田(とほだ)のかはづ天に聞(きこ)ゆる
のど赤き玄(つば)鳥(くらめ)ふたつ屋(は)梁(り)にゐて足乳(たらち)根(ね)の母は死にたまふなり
死に近き母に添寝をして、普段は気にもならない蛙の声が天にも届くかと思われるほどに聞こえてくる。そしてふと見上げると喉の赤いつばめが二羽梁に止まっていた。ここには「悲しい」とか「寂しい」とかそのような気持ちの心情を表す言葉は何一つ使われていない。短歌のかなり高度な感情の伝達の技を先生は示されました。だから演歌の歌詞は奥ゆかしさに欠けると私にも思えます。
でもなぜ私たちの心に届く?おそらく歌手のサビの部分でのこぶしといわれる唱法によるのかもしれません。
さて今の若者、演歌には全く興味を示さない。一つの証として50回連続出場の五木ひろしさんが今年の紅白歌合戦を辞退されたことがあると思います。
解剖学者の養老孟司先生の「バカの壁」です。養老先生も鴨長明の方丈記を取り上げ、万物流転を説いておられます。“行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。”朝に死ぬ人があるかと思うと、夕方に生まれる人があるという人の世の習わしは、全く水の泡に似ているということである。
今の世の中、情報で溢れている。その情報は実は常に変わっているようにみえて、ひとコマひとコマは止まっている。でも若者たちは刻一刻と変化する情報を万物流転と勘違いして自分だけは変わらないと思っている。だから自分はいつまでも同じ自分、自分たちも流転していると思わないと、演歌は理解できないのかも。
そして今でも行く川の流れは絶えずして長良川は流れます。鮎の塩焼きを肴にゆっくり秋の夜長を過ごしたいですね。
https://note.com/kyomu_vp_2/n/nbeb3cdbc862f【「諸行無常」をめぐる言葉の解釈】より
仏教用語の、「諸行無常」。
世のすべてのものは移り変わる。また、人生は儚く虚しいものである。…というのが一般的に知られている意味でしょう。この言葉に関して、先日ハッとさせられる一文に出会いました。
もし物事が移ろわなければ、子どもの成長も、病気や怪我の治癒も叶いません。
月刊誌『致知』にて、理論物理学者の佐治晴夫さんが『宇宙の摂理と人間の生き方』を語った記事に現れたこの一文。万物の存在は常に揺れ動いていることによって保障されている。
そのため宇宙は絶対停止の状態では存在できない、という宇宙の原理。そして、諸行無常という言葉が現れる『平家物語』の有名な一節。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵におなじ
人生の虚しさや儚さが綴られているこの一節も、見方を変えると実は宇宙の摂理が見えているような気がする、と佐治氏は言います。
そして、次のように述べています。
もし物事が移ろわなければ、子どもの成長も、病気や怪我の治癒も叶いません。世の中は諸行無常だからこそ意味があるのではないでしょうか。
儚さや虚しさなど「負」の感覚を抱く元々の意味に対して、別角度から捉えた、前向きであたたかな解釈です。
調べてみたところ、経営の神様と言われる松下幸之助も諸行無常について次のように述べています。
“諸行”とは“万物”ということであり、“無常”とは“流転”というようにも考えられますから、諸行無常とは、すなわち万物流転であり、生成発展ということであると解釈したらどうかと思うのです。
言葉には、もちろん本来の意味があります。
しかし、その本来の意味に囚われず、思い込みを一旦捨てて違う角度から捉えることで、言葉の意味・印象がガラリと変わる。
私たちは、解釈によって言葉の意味を「変える」ことが出来る。
それは、言葉を扱う人間だからこそ出来る、生きる力の一つだと思います。
言葉だって、時代によって移り変わる。
諸行無常を受け入れて、言葉と伴に流れるように生きていきたいですね。
https://konosuke-matsushita.com/column/cat71/post-59.php 【諸行無常は生成発展――松下幸之助のことば〈46〉】より
その昔、お釈迦さまは、“諸行無常”ということを説かれました。この教えは、一般には“世ははかないものだ”という意に解釈されているようです。そこには深い意味はあるとは思いますが、そのような解釈をすることによって、現世を否定するようになり、生きるはり合いをなくしてしまうようであれば、これはお互いの益にならないでしょう。私はそのように解釈するよりもむしろ、“諸行”とは“万物”ということであり、“無常”とは“流転”というようにも考えられますから、諸行無常とは、すなわち万物流転であり、生成発展ということであると解釈したらどうかと思うのです。いいかえますとお釈迦さまは、日に新たでなければならないぞ、ということを教えられたのだということです。
『人間としての成功』(1989)
解説
松下幸之助がいうように、諸行無常とは世のはかなさをいっていると多くの日本人が認識しているようですが、仏教用語の辞典などを見ても、そのような語義は明確化されていません。ならばお釈迦さまの本意とは、実際どうだったのでしょう。
お釈迦さま、すなわちゴータマ・シッダールタは、釈迦族の王子として生まれ、幼少期に何不自由なく育つ中、世間の荒廃を見、次第に人生の苦に悩むようになり、ついには出家の道を選んで、苦行のすえ悟りを得る……というのが一般的な理解です。その偉大な足跡を生半可な知識で解釈することは避けるべきかもしれません。ただ幸之助のように、人の道に役立つよう、先人・偉人の知恵を善なる方向に生かすべく、自分なりに解釈することは、それもまたよし、としていいのではないでしょうか。
考えてみれば、王族のお釈迦さまとは格段の差があるとはいえ、幸之助も富裕の家に生まれつきました。しかし、物心つくころには、父の米相場での失敗により家が没落してしまい、どん底から人生をスタートすることになります。“商売人として身を立てよ”という父の言葉を一生の支えとして生きることを宿命づけられた幸之助は、食べるために、まず仕事をしなければなりませんでした。
商売、事業に成功してからも、苦難は襲いかかりました。太平洋戦争敗戦という国難にあたり、幸之助自身、身内、さらには親族同様に深い絆で結ばれた社員とその家族の生活を背負って、上を向いて歩いていかねばなりませんでした。そうした運命に素直に従って生きた人間だからこそ、お釈迦さまの教えを尊重したうえで、悲観的ではなく、楽観的にとらえた。それはごく自然な業だったといえましょう。
0コメント