Facebook斉藤 一治さん投稿記事
大自然のありのままの姿が仏さまの物差しであります。
人間の生老病死は勿論のこと、貧富、事故、災難などの中には仏さまの無限の慈愛が含まれています。
月は、光の90%を失った三日月であっても、光だけを見る人には美しい月に見えます。
人生も足るを知れば、どのような運命も感謝と喜びに変わります。
一指李承憲@ILCHIjp
無限の可能性と創造性は、執着のない、何もないところから出てきます。何かに執着していると自分の意志で人生を開拓できず、世間に導かれるままに生きていきます。執着すると勇敢になれません。何もないことに喜びや平和を感じる人は、生命が許す限り、愛のために、創造のために、純粋に存在できます。
FacebookOSHO Japaneseさん投稿記事
祈りとは何か?愛と明け渡しだ。愛がないところに祈りはない。Osho
花: 🌷🌸🌹🌼🌺🌻@lilacblueblue
決定されているが故に 僕らの可能性は無限であり、止められているが故に
僕らの「飛翔」は永遠である。 三島由紀夫
今日の誕生花:ローダンセ花言葉:「飛翔」
Facebook田中 宏明さん投稿記事
昔タイで麻薬組織のボスが運営している孤児院に連れて行ってもらったことがあります
そこには引き取られた孤児達の描いた絵が時系列で飾られていました
最初の頃はドス黒い殴り描きの色彩だったものが段々とカラフルになり少しずつ花や青空といった優しい絵に変わっていく様が描かれたいました^ ^
人の心は「安らぎ」でこうも変化していくのだと驚いたのを覚えています
ただ同時に麻薬はまた破滅と暴力とそれに伴う新しい孤児を生み出すことでしょう
ただ僕は善と悪に興味はありません僕たち自身が座っているテーブルの左右にも悪魔と天使が座っているのを知っているからです
あらゆる人は矛盾の中で生きています 光と影 慈しみと残酷さ 強さと弱さ そんな二極の中を 絶え間なく揺れ動く 振り子そのものです^ ^
「愛」とは何でしょう? それは可能性です^ ^ あらゆる醜さが 美しさに転じる可能性
あらゆる憎しみが 優しさに転じる可能性 あらゆる絶望が 喜びに転じる可能性
また、その逆もしかりです 愛は可能性です 「人間」がどこまでも下降していく可能性と
どこまでも 上昇していく可能性を ただ許している エネルギーです
愛はあなたや誰かを 癒すことも出来れば 殺すことも出来ます^ ^
それが「愛」の本質です もののけ姫に 描かれた「シシ神」は 僕から見ると まさしく愛そのものです 命を与えることも出来れば 奪いとることも出来ます そんな果てしない
あらゆる「可能性」を 許しているもの それが「愛」です^ ^
僕がいつも繰り返し 書き続けている「愛」とは そういった「愛」なんです
あなたが善人であろうと 極悪人であろうと それは愛の現れの 違いに過ぎません
ただ愛はその どちらにも偏ることなく それらを可能にすることをただ許しています
つまり愛とは善人と極悪人であり同時にそのどちらでもないのです なぜなら選んでいるのは「あなた」だから
我々には 善人になる自由があり 極悪人になる自由があり 平凡である自由があります
その自由こそが「愛」です「矛盾」とは愛を知らない人たちの言葉です
「愛」とは人間の持つ可能性の全てです そこから何を 選びとるかは あなただけの自由です 僕なら迷わず「愛」を選びます
つまりあらゆる 無限の可能性を^ ^ ワハハ🌈 らぶ💓
Facebook加藤隆行さん投稿記事【迷ったままでいい】
ボクは、というか自己肯定感が下がっちゃってる人は「優柔不断」な人が多いと思います。
なぜならば自分の想いを肯定(OK)することができないので、決めることができないからです。また未来に対して不安を抱えているので決めることに「恐れ」を感じてしまう。
決めた先の出来事に責任を負うことを無意識にも避けてしまうのです。
ボクは今でこそなんでも結構サクサク決めていける人になりましたが、まあ会社にいた時は
決められない人で、保留案件がいっぱいになって、たくさんの仕事を抱えてしまっていました。だから言われた作業はめちゃめちゃ高レベルで返すのは得意なのですが自分が決めて指示を出す側になったらあっという間にポンコツ社員になりました
でもまあこの「優柔不断」というのも見方によっては・慎重でよく考えている・多角的にものごとを分析している・相手の気持も考慮に入れて 考えていて優しいみたく いいところもたくさんある。
むかし、小学校の先生に「優柔不断はイケナイ」とこっぴどく教えられました。
たぶんこのメルマガを読んでいる優柔不断なみなさんもw たぶん母親などからも同じこと言われて 育ってきてるのではないかと思う。
だから 優柔不断、 つまり決められない自分が出てくると「決めなきゃ決めなきゃ」
「グズグズ考えている自分はダメだ」と、自分を責める、否定する、ということをしはじめます。でも、実は決めなくてもいいことは決めなくてもいいのです。
人生の中で保留にしておいていいことは全然そのままでも問題はないのです。
寝かして熟成させておいてもたいした問題はないのかもしれないし 誰かが解決するかもしれないし、時が解決するかもしれないのです。
だから「ただ決められない」というだけのことをことさらに「問題だ!」「お前ダメだ!」と
思ってしまう必要は実はないのです。「優柔不断」という言葉がすでに悪いニュアンスを持ってしまっていますが、それはただの、先生の、親の、大人の偏った価値観なのです。
*
実はいま、決められず、悩んでいることがあります。
もう1年ぐらい。で、決められないと悶々としてくるのです。
決められない自分のふがいなさに無意識にもダメ出しがはじまるのです。でも決められないことは悪いことじゃない。いろんな方向から考えて自分に最適な解を導き出そうとしているだけ。それはそれ、自分を一生懸命、幸せにしようと試行錯誤しているのです。
だから、そんな自分を責めるのはやめようじゃないか。
そんな時は胸に手を当てて「決めなくてもいいよ」「そのままでいいよ」「迷ったままでいいよ」「優柔不断でいい」そう自分に伝えてあげてください。
今、ボクと同じような境遇にいる人。きっとココロが「ホッと」します。
ホッとして安心できた時、はじめてアナタは「決める勇気」を持つことができるのです(^ω^)
今日の話、昨日の「不安なまま安心する」と一緒に読むとよくわかると思います。
Facebook輝美琳さん投稿記事 今泣いているあなたへ
悲しくて辛くて 毎日涙が出て ただただこの底のない長い時間を やり過ごすことしかできなくて。。。でもいつしか時間が癒してくれる。
涙が出る時はたくさん泣こう。 後悔や思い出や 自分や誰かを責める気持ちや 心をつき刺す記憶も ゆっくりと浄化され、閉ざしていた本来の自分が現れるまで。
いつか太陽が輝き、マゼンダの花が咲き 若葉がニョキニョキと顔を出す日が来るまで。
https://ameblo.jp/seijihys/entry-12803880787.html 【おくのほそ道をいろいろ考える~万物流転こそ永遠の詩】より
蓮池の深さわするる浮葉かな 荷兮今日は上野池之端の「池之端句会」(旧・谷中句会)。いい句に出会えたし、いろいろな議論も出来て楽しかった。
句会のあと、上野池之端の中華料理店「東天紅」へ。全国にある「東天紅」の総本店。
ビールと一緒に「牛肉入りオイスター焼きそば」をいただいた。
ここは編集長時代、現代俳句協会の総会会場が必ずここだったので、年に1回は来ていた。
(今もそうなのかはわからない。)上野にはおいしい店が多いが、今日は昼食参加者9名。
土曜日の昼時、上野で9名がスムーズに入れる店はなかなかないので助かる。
不忍(しのばず)の池には「蓮青葉」が出ている。来月あたりは花が咲き始めるだろうか…。
今日は横須賀に戻っているが、横浜駅では「広島サミット」の為、ごみ箱が使えなくなっている。
さて、私は松尾芭蕉「おくのほそ道」を自分なりに勉強・研究したが、これまでもっとも基盤(?)にして来た本は、角川文庫『おくのほそ道』である。
その解説や訳注は穎原退蔵(えばら・たいぞう)氏(1894~1948)と尾形仂(おがた・つとむ)氏(1920~2009)が担当している。
角川文庫に限ったことではないが、学者の解説文は、どうも難解でそっけなく、なんとなく不親切な印象があった。
もっとも、一つ一つを「噛んでふくめる」ように解説していたら、とんでもない量になってしまうから、しかたのないことではあるが…。
私は「おくのほそ道講座」で皆に話をする時、学者の説を鵜呑みにするな!と主張している。
学説を鵜呑みにしてしまった時点で、その人の「思考力」「想像力」は停止してしまう。
「おくのほそ道」など「古典」を読む楽しみは、自分はこう思う。と、自分なりの鑑賞・説・考えを構築するのが楽しい。
そこから学者や俳人の意見を参考にしたり、照らし合わせたりしながら、自己の考えを修正したり、或いは尚且つ、異論を持ち続ける…、それが楽しい。
一例をあげてみる。「おくのほそ道」のフィクション・ノンフィクション問題。
今では「おくのほそ道」にはふんだんに芭蕉の「創作」が入っていることは誰もが認めることだが、つい最近までは、全て「事実」…、つまり「おくのほそ道」は、ノンフィクションの紀行文だと信じられていた。学者も…、というか、ほとんどの学者がそう考えていたのである。
仮に、明治時代や大正時代に、あなたが、私は「おくのほそ道」にはふんだんに「創作」が入っていると思う。などと発言しようものなら、一斉に嘲笑を浴びたはずである。
学者などからは、これだから素人は…。くらいは言われただろう。
ところが、昭和13年。旅の同行者「河合曾良」の旅日記が再発見され、発表されると、「おくのほそ道」内の、芭蕉の「創造した部分」が注目され、「おくのほそ道」はフィクションを多く含んだ紀行文という事が定着した。
つまり、多くの学者の主張していた「ノンフィクション説」は誤りだったのである。
同じように「おくのほそ道」の、蚤虱馬の尿する枕元の句の「尿」を「しと」と読むか、「ばり」と読むか、というのも多くの学者が間違えていた(…と言っていいだろう)。
そのことは以前に書いた。
『おくのほそ道をいろいろ考える~「尿」(ばり)か(しと)か?』
(山形県最上郡最上町 封人の家) 蚤虱馬の尿する枕元 芭蕉(のみしらみ うまのばりする まくらもと) 先日、訪れた「封人の家」。「封人」(ほうじん)…
リンク
ameblo.jp
学者は今現在の資料や文献を見て判断する。
新しい資料や文献が発見されれば、その学説は簡単に吹っ飛んでしまうことは多々ある。
だから今の「異説」も、何か一つの文献や資料が見つかれば、それが「真実」となる可能性は十分にある。
さて、(前置きが長くなったが…)学者の解説を大いに参考にさせてもらいながらも、一方で「反発」もあり、穎原氏や尾形氏の淡泊な解説もいささか冷めた目で見ていた。
が、先日、尾形氏の『芭蕉のこころをよむ~「おくのほそ道」入門』(角川ソフィア文庫)を読んでいたら、実に丁寧で情熱的な文章に、これまでの尾形氏に対する印象を改めた。
その中で、珍しく、私的な思い出、というか、『おくのほそ道』研究のきっかけが書かれていて、とても感動的だった。
ここで一つ、個人的なことを申し上げてたいへん恐縮ですが、私が芭蕉に強く引かれるようになったのも、学生時代、この芭蕉の〝不易流行”という言葉に触れたのが最初の機縁であった、ということを申し添えさせていただきましょう。と尾形氏は告白する。
「不易流行」とは、
「不易」=変わらないもの、永遠「流行」=変わってゆくもの、流行
という意味であり、「おくのほそ道」の重要なテーマとなっている。
私の学生時代は、太平洋戦争の真っ最中で、在学年限も旧制大学三年のところが、二年半に短縮されました。卒業をすれば兵役が待っており、その先には戦死の運命が待っている。
そういう状況の中で、命のせつなさを思うとともに、昔から語り継がれ、読み継がれ、愛されてきた古典の生命といったことを思うことも、またしきりでした。
有限の生、限りある命を通して、どうしたら永遠なるものにつながることができるだろうかと、魂の救いを求めて乱読を重ねる中で、この文庫本を通じて芭蕉の〝不易流行”という言葉に触れ、そこに今の悩みに応えてくれるものがある気がしたのです。
私のように平和な時代に生きてきた者には簡単に想像出来るものではないが、戦争に行き、やがて死ぬことを宿命づけられた若者の心中はどんなに切ないものか…。
その中で「永遠」とは何か? をひたすら考えていたのである。
尾形氏は「不易流行」について、「万物流転」…つまり「あらゆるものが変化する姿」それこそが「永遠の真実」という考えが「不易流行」なのだと考えた。
万物流転ー変化することこそが、この宇宙のすべてに通じる永遠不変の真実なのだ、という思想が、頭ではなく、奥の細道の旅の実践の中から、歩くことを通し、体でとらえられたものであったところに、重い意味がある、といえます。
旅の中に生涯を送り、旅に死ぬことは、その宇宙の恒久不変の原理にもとづく、最も純粋な生きかたであり、わが尊敬する李白・杜甫・西行・宗祇ら詩の道の先人たちも、みな旅の中で死んでいる、と芭蕉は続けていますが、それは、最も純粋な言葉である詩は、そのような最も純粋な生きかたを通してこそ生まれる。
この文章を読んだ時、私は、芭蕉がなぜ旅に行き、旅に死のうとしたのか。という疑問に大きく近づいたような気した。旅に生き、旅に死ぬことは「不易流行」の実践そのものであり、「不易流行」の最も純粋な生き方最も純粋な生き方によって、最も純粋な詩が生まれる。
これが芭蕉の「旅の思想」と言っていい。
この文章に感動し、私は「おくのほそ道」を歩いているが、私の旅の目的もまさしくそういうことなのだ、という、今までのもやもやした気持ちが晴れてゆく心地がした。
私も旅の中で、「純粋な俳句」を生み出したい…、これが「芭蕉追慕の旅」の目的であったのだ。
ちなみに尾形氏は、昭和18年(1943)に海軍予備学生として土浦海軍航空隊に入隊し、終戦を迎えたが、東京大空襲で家族全員を失った。ほぼ天涯孤独の身となったのである。
尾形氏の心中には、常に、万物流転のさびしさが流れていただろう。
そして、「おくのほそ道」の中で、万物流転の中に「永遠」を見つめようとした芭蕉の生き様が、大きな励みやぬくもりとなっていたに違いない。
やはり学者というのは偉大なものだ、と反省した次第。
0コメント