https://note.com/kkakehashi/n/n3625abe0fe4f 【ブックレビュー ”日本文化の核心 「ジャパンスタイル」を読み解く”】より
梯 慶太 Keith Kakehashi
私が代表を務めるHIRAKUコンサルタンシーサービシズのHIRAKUは元々京都大学こころの未来研究センターの佐伯啓思氏が監修する「ひらく」という定期刊行物に啓発されたものだった。佐伯氏の提言する「グローバリズムとイノベーショナリズムに場当たり的に適応するのではなく、専門諸科学の知見と協同して、分野を横断して多様な問いに向き合う」という姿勢に賛同したからだ。
その創刊号の巻頭対談が佐伯氏と本書の著者である松岡正剛氏で、テーマは日本文化の根源へだった。
松岡氏は編集工学研究所所長でブックナビゲーションサイト「千夜千冊」を今も続けている方で、編集的世界観にもとづいて日本文化研究に従事している。現時点での1771夜の最新レビューは何と病床の築地がんセンターからだ。
本書は先の巻頭対談と連動した形で、日本文化の核心に迫る2020年3月第一刷の新書である。バブル経済崩壊後に民営化とグローバル資本主義が金科玉条になり、新自由主義の邁進やマネー主義が日本を蹂躙した今、もう一度日本の哲学を安易な日本論ではなくディープな日本に降りて再構築する試みだ。
日本文化を解読する上で著者がジャパン・フィルターと呼ぶ特徴を本書の第一講から第十六講までからいくつか挙げている。以下そのうちのいくつかと、そして著者が主張するジャパン・コンセプトの検討について引用させていただく。
1. 中国語のリミックス
応神天皇の時代(四世紀から五世紀初頭)に漢字が百済から入って漢字を学ぶようになった際に、中国語をそのまま使っていくのではなく、漢字を日本語に合わせて使ったり日本語的な漢文をつくりだした。
そしてついに和銅四年(711年)の古事記で、漢字を音読みと訓読みに自在に変えて、音読みにはのちの万葉仮名にあたる使用法を芽生えさせた。
これは中国というグローバルスタンダードを導入し、学び始めたその最初の時点で早くもリミックスを始めていたということだ、と著者は指摘する。晩年に日本国籍をとったドナルド・キーンは「仮名の出現が日本文化の確立を促した最大の事件だ」と述べている。
そしてこの「漢」と「和」の成立は「デュアル・スタンダード」、行ったり来たりできる、「双対性(デュアリティ)」を活かすということだ、という。
2. 苗代のイノベーション
日本にとって大切な「コメ信仰」だが、それは著者は「苗代」というイノベーションが日本独自の画期的なものがもたらしたのだと指摘する。
水稲栽培は古代中国では直播で天然の降水で育てる天水農業が中心だったが、日本は稲が育ちざかりのときに長梅雨などに見舞われ、収穫間近になると台風などの見舞われることから、まず種籾から苗代で苗を作り、幼弱な芽をあらかじめ強く育てておいてそれをあらためて水田に植えかえるという育て方が中心となった。
非常に手間がかかることだが、これにより立春から数えて八十八夜に田植えをし、二百十日の台風の頃を過ぎて収穫の日を迎えるという「時の育み」のリズムをつくり、日本人にお米に対する敬虔なイノリ(祈り)をおこさせ、稲のミノリ(稔り)に対する喜びをもたらした。
3. 多神多仏の混淆感
外国人によく質問される定番はこの日本人の宗教観。一神教の国でもなく多神教の国でも無い「多神多仏の国」だといえる。
結婚式では神主さんの前で三々九度の杯をかわし、葬式ではお坊さんを呼んでお経をよんでもらって、家には神棚と仏壇が両方ある家も少なく無い。年末年始になるとクリスマスを祝い、年の瀬にはお節を用意し、除夜の鐘を聞き、正月には初詣に行く。各地にはお地蔵さんがいて、八幡さまにはお賽銭を上げ、手を合わせる。お稲荷さんや七福神をありがたがっている。
これは寛容なのか、無宗教なのか、信仰心が無いのか。
著者は日本人は歴史的に無宗教でも、信仰心が無かったわけでもないが、そのつど「信仰の向き」を選択している、という。欧米の宗教学者は、日本人の信仰は「シンクレティズム(混淆的信仰感)」だと言う。著者はそれではやや堅すぎるので「リミックス」をおこしたと捉える。
リミックスは「エディティング」、すなわち編集。神仏習合も大胆な日本特有の編集力によっておこなったのだ、という。これを日本では「和光同塵」という。「ここ」の考えや現象と「むこう」の考えや現象をさまざまにまじった「塵」として同じくしていくことを言う。
「和光同塵」を神道と仏教の出自にあてはめたのが「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」。日本の神々は仏たちが化身として日本に垂迹してきたものだというものだ。
4. 静と動のデュアル
相撲には静と動が同居する。日本文化には茶の湯や生け花のような静のものとナマハゲやだんじり祭りのように荒々しいものが共存している。歌舞伎には「世話物」と「荒事」があり、お能にも神能と修羅物・鬼能がある。
この「静」と「動」の一対、併存してきたところに日本文化のいいところがある、と著者は指摘する。「和する系譜」と「荒ぶる系譜」が一対になっている。
「すさぶ」は漢字では「荒ぶ」。「遊ぶ」と綴ってもスサブと読んだ。こうして「すさぶ」と「あそぶ」は重なり、何か別のことに夢中になることがスサビと認識された。中心で荒べば和を乱すが、別のところで熱中するならスサビ(遊び)。
そして「わび・さび」の「さび」は実はスサビから出た言葉。サビは「寂び」と綴るが、もともとはスサビの状態をあらわしている言葉で、何か別のことに夢中になっていることで、きっとそこには夢中になるほどの趣きがあるのだろうなと思わせる風情を示す言葉、だと指摘する。
そしてスサビに徹していくことを、またそのスサビの表現や気分を鑑賞して遊べる感覚のことを、総称して「数寄」とか「数寄の心」という。スサビも数寄も物事に執着すること、こだわること。仏教では何かに固執することを「執着(しゅうじゃく)」と言って強く戒めるところを、あえて「好きなもの」として徹底し、何かに執着する態度に一転して美を見出すことが日本においては連続した。
「わび」は「侘び」と綴る。遁世した者は清貧に甘んじて、生活は切り詰められ、持ち物の物品は乏しい。特別なものは身辺にないが、心は澄み切っている。そういうところへ誰かが訪ねて来て、ゆっくりとお茶を差し上げる。いわば不如意を「お詫び」して、数寄の心の一端を差し出す。
これが「侘び」の出現。そこを訪ねたものにとって、亭主たちの「詫びる気持ち」こそが何よりも尊いものに感じられる。江戸時代になると「やつし」として生まれ変わる。
5. ジャパン・コンセプトを検討する
日本人は日本を説明したり解読したりするためのジャパン・コンセプトを仕上げて来たことがない、これまでは日本文化というと、能・歌舞伎や「富士山・ゲイシャ・浮世絵」や日本人の典型的な行動パターンを特徴的に検出してみせて、それですませているという傾向が多かった、と著者はいう。
著者はこれを打破するために、編集文化論の三つの角度で取り組んでいる。
(1)日本を方法として捉える
(2)日本文化は「アナロジカルに編集されてきた」と見る
(3)新たなコンセプトやキーワードを挙げて考える
(1)は日本の歴史文化の中にいろいろな方法があったのではなく、もともと方法が日本をつくった、日本は方法日本なのだという歴史観。
(2)は日本文化の特色を顕著に占める芸術や芸能には、その成り立ちから手続き(プロトコル)の確定をへて、道具立てから表現のパフォーマンスの定着と応用にいたるまで、つねに編集的なプロセスが追えるはずだという見方。
(3)は日本独特の用語によって日本文化のディープなところまで降りて、そのうえで現在の日本社会にまで浮上しようというアプローチ。
6. 西洋的な見方から脱出する。
筆者はまた、われわれはいつのまにか西洋的な認識方法や二分法的なロジックで、日本的な思考法を理解しようとしているから、日本的哲学や思考の特色を説明しようとするとわかりにくくなっている、という。
そうでは無く、そこに矛盾があるからといってそれを排除しないで、それを包含したまま前に進んでみれば、案外ひょっと抜け出て来れるかもしれない、とする。
筆者はその代表を「ない」のに「ある」もの、すなわち「面影」だという。日本文化は「面影を編集してきた」、ジャパン・フィルターは合理的な論理で組み立てるものではなく、編集によって梳いていくエディティング・フィルターだった、とする。
7. グローバル化への対峙
日本は歴史的にグローバルスタンダードへ対峙してきた。そしてその都度グローバルスタンダードをデュアルスタンダード、すなわち「どこにも属さない状態」にしてきた。
そういう日本らしい方法を持っていたにも関わらず、昨今は無自覚にグローバルスタンダードを追求しているのではないか。その結果日本「何かに耐えている季節」にある、と著者は指摘する。
モノは溢れ、インフラは整っているが、何かに耐えている。挫折感のようなものすらある。失われた10年、20年とも言われる。平成の30年を振り返ってもハラスメントやポリコレを回避するために、新しい何かが生まれない。
ここで改めて日本という方法を自覚して、グローバルスタンダードを自覚的に学びながら、デュアル・スタンダードを作っていくことが今求められているということだ。
8. デュアルスタンダードの重要性
私自身これまで専門分野である人的資源管理でグローバルスタンダードの絶え間ない輸入を目の当たりにしてきた。しかし外資系企業では問答無用で導入されるグローバルスタンダードだが、外資系で無い組織では、グローバルスタンダードの直輸入ではうまく行くはずも無く、無自覚あるいは自然とデュアルスタンダード化していったように思う。
また日本人グローバルリーダー育成において、欧米のタレント育成手法がなかなかうまくワークしないことも見て来た。逆に外国人リーダーが日本の組織をうまくリードする例も未だ少ない。
果たして人的資源管理の分野で意識的にデュアルスタンダード化するには果たしてどういう日本という方法を意識すべきなのか。
昨日の東洋経済オンラインで「失敗の本質」の戸部良一氏が次のように言っていたのが興味深い。
日本の問題を考える際、文化論に落とし込むことの危険性を指摘しておきたいと思います。私は防衛大学校の国際関係学科で教鞭をとっていましたが、それは当時から学生に口を酸っぱくして指導していたことです。さまざまなケースを分析した後に、その原因を日本的な文化やその欠陥に求めたのでは、実は何も言っていないことと同じで、その結論は逃げでしかありません。
これまでグローバルスタンダードと対峙するに際して、二元論的に拒否する人のほとんどが「日本の文化の特殊性」を理由にした。しかし文化は言い訳にはならない。なぜなら「どこの国の文化も異なる」からだ。
著者はグローバルスタンダードを基に日本がエディティング・リミックスした好例として「たらこスパゲティ」、「コム・デ・ギャルソンやイッセイやヨウジ」,井上陽水や忌野清志郎や桑田佳祐、大友克洋を挙げる。「ヨーロッパのすべてがすごい」としつつ、ただし、「ヨーロッパのすべてですら、我々は切り替えられる」という何らかの力を、我々は本来持っているのだ。
引き続きグローバルスタンダードに学ぶが、日本文化の根源を知り、エディティングリミックスをすることで、行きつ戻りつするデュアルスタンダード、「どこにも属さない状態」に再構築することこそ今あらゆる分野で求められていることなのだ、そしてそれこそ「ひらく」なのだ、と改めて実感した。
https://gendai.media/articles/-/144636 【日本史上「最初で最大の文明的事件」…日本文化の起源とも言える「ある出来事」の「衝撃度」】より
日本は「壊れやすい国」
日本という国を理解するためには、この国が地震や火山噴火に見舞われやすい列島であることを意識しておく必要があります。
いつどんな自然災害に見舞われるかわからない。近代日本の最初のユニークな科学者となった寺田寅彦が真っ先に地震学にとりくんだのも、そのせいでした。日本はフラジャイル(壊れやすい)・アイランドなのです。
しかも木と紙でできあがった日本の家屋は、火事になりやすい。燃えればあっというまに灰燼に帰します。すべては「仮の世」だという認識さえ生まれました。けれども、それゆえに再生可能でもあるのです。こうして復原することは日本にとっては大事な創造行為になったのです。
熊本城の破損や首里城の炎上は心を痛める出来事でしたが、その復原こそは多くの人々の願いとなった。そのため「写し」をつくるという美意識が発達します。
ひるがえって、日本列島は2000万年前まではユーラシア大陸の一部でした。それが地質学でいうところのプレートテクトニクスなどの地殻変動によって、アジア大陸の縁の部分が東西に離れ、そこに海水が浸入することで日本海ができて大陸と分断され、日本列島ができあがったと考えられています。
このような成り立ちをもつゆえに、日本列島が縄文時代の終わり頃まで長らく大陸と孤絶していたという事実には、きわめて重いものがあります。日本海が大陸と日本を隔てていたということが、和漢をまたいだ日本の成り立ちにとって、きわめて大きいのです。
史上最初で最大の文明的事件
その孤立した島に、遅くとも約3000年前の縄文時代後期までには稲作が、紀元前4~前3世紀には鉄が、4世紀後半には漢字が、いずれも日本海を越えて大陸からもたらされることになったという話を、第1講でしておきました。「稲・鉄・漢字」という黒船の到来です。
とりわけ最後にやってきた漢字のインパクトは絶大でした。日本人が最初に漢字と遭遇したのは、筑前国(現在の福岡県北西部)の志賀島から出土した、あの「漢委奴国王」という金印であり、銅鏡に刻印された呪文のような漢字群でした。
これを初めて見た日本人(倭人)たちはそれが何を意味しているかなどまったくわからなかったにちがいありません。
しかし中国は当時のグローバルスタンダードの機軸国であったので(このグローバルスタンダードを「華夷秩序」といいます)、日本人はすなおにこの未知のプロトコルを採り入れることを決めた。
ところが、最初こそ漢文のままに漢字を認識し、学習していったのですが、途中から変わってきた。日本人はその当時ですでに1万~2万種類もあった漢字を、中国のもともとの発音に倣って読むだけではなく、縄文時代からずっと喋っていた自分たちのオラル・コミュニケーションの発話性に合わせて、それをかぶせるように読み下してしまったのです。
私はこれは日本史上、最初で最大の文化事件だったと思っています。日本文明という見方をするなら、最も大きな文明的事件だったでしょう。ただ輸入したのではなく、日本人はこれを劇的な方法で編集した。
https://gendai.media/articles/-/147757 【なぜ日本は「ヤマト」なのか…日本人が知らない「意外な真実」】より
国号「日本」の成立
ニホンかニッポンか、どう発音するかはべつとして、「日本」という国号はどこで決まったのかというと、7世紀後半から8世紀あたりです。それまでは「倭」です。自称していたわけではなく、中国の歴史書の『後漢書』倭伝、『魏志』倭人伝、『隋書』倭国伝などが、日本のことを「倭」と、日本人を「倭人」と示したので、それに従っていたのです。「倭の五王」のように中国の皇帝から将軍名をもらっていた時期もありました。
当時の倭国は、朝鮮半島の百済や半島南端の加羅(加耶)諸国と軍事的にも交易的にもアライアンスを結んでいて、独立国家というほどではなかったのだろうと思います。それが百済に軍事的支援を頼まれ、倭国は663年の白村江の海戦に臨むのですが、そこで新羅と唐の連合軍に完敗してしまった。これでいよいよ自立の道を選ぶことになったのです。ここから日本が一国として組み立っていくことになります。
斉明天皇から天智天皇にバトンタッチがされた時期でした。このときに「日本」という国名がほぼ決まっていったと思われます。『三国史記』新羅本紀には「670年に倭国が国号を日本に改めた」と記されていた。
ということは、天智天皇の治世が新たな世のスタートであることを示すために、(とくに唐に対して)「天皇」表記と「日本」表記とをほぼ同時に決めたのだろうと思います。律令としてこうした表記が制度化されたのは701年の大宝律令でのことでした。だから制度史的には「日本」という国号は701年に成立したのです。
なぜ日本がヤマトなのか?
こうして日本が「日本」国を名のるのは8世紀前後だったということなのですが、その後の天武天皇以降の時代に『古事記』や『日本書紀』を編纂していくなかで、そこに「日本」という表記が貫かれていたかというと、そうでもありません。記紀神話には日本のことを「葦原中国」とか「豊葦原」とかと記しています。これは国号というより、「水辺に葦が生い繁っている豊かなわれらが国」という意味です。
「秋津島」とか「大日本豊秋津島」というふうに表記されることもある。これは本州のことです。本州・四国・九州・隠岐・壱岐・対馬・淡路島・佐渡をまとめて「大八島」「大八州」(おおやしま)と言っていました。8つの島から成っているという意味です。記紀の「国生み」の場面で生み出された島々です。
そのほか「瑞穂国」という言い方もしている。こちらは稲穂が稔っている様子から付けたもので「お米の国」とみなしたからです。5円玉がその様子をデザインしています。平成14年、第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行が合併したとき、この瑞穂を行名に選んで「みずほ銀行」が誕生した。
倭にはじまって瑞穂国にいたるまで、そうしたいくつかの呼称を示しつつ、だんだん「日本」という表現が確定していくわけです。けれども、その日本はニホンやニッポンとは読まなかった。どう言っていたのか。「やまと」と称んでいたのです。日本と綴ってヤマトと訓読みしていたのです。
私たちはいまでもいろいろな意味で「大和」という言葉をつかいます。大和朝廷、大和政権、大和ごころ、大和魂と言いますし、奈良はずっと「大和の国うるはし」です。そのほか倭媛、大和絵、大和三山、大和人形、大和撫子、大和川、大和郡山、大和煮、戦艦大和、大和文華館、クロネコヤマト、宇宙戦艦ヤマト……などとつかってきた。
大和はいろいろなところに顔を出しています。大和をダイワと読むと大和ハウスや大和書房や大和自動車交通や、大和證券やかつての大和銀行など、もっとたくさんの大和が目白押しになる。
ある時期から、この大和に「日本」という漢字をあてました。日本と綴ってヤマトと読ませた。なぜ日本が大和なのか。もともと日本をヤマトと訓んでいたのでしょうか。
すでに述べたように、ヤマトには古くは「倭」という漢字があてられていたはずです。「倭」という文字は「委ね従う」とか「柔順なさま」という意味をもつ漢字で、中国人が古代日本人の様子や姿恰好や行動からあてがった暫定的な当て字ですが、渋々というより、まだ漢字の意味を十全に理解していなかったわが祖先たちは、自国を「倭」と称します。
のちに学識豊かな公家の一条兼良がこの説を採っています。一説には、日本人が自分たちのことを「わ」(吾・我)と言っていたからだともいいます。この説は平安時代の『弘仁私記』に書いてある。また江戸の儒学者の木下順庵は「小柄な人々」(矮人)だったので、倭人になったという説を書いています。
ところが、この「倭」を日本側(朝廷)は「ヤマト」と読むことにした。8世紀の天平年間のころには「和」の文字が定着し、そのうち日本国のことを「大和」「日本」「大倭」などと綴るようになったのです。
どうしてヤマトという呼称が広まったかといえば、初期の王権の本拠が奈良盆地の大和の地にあったからで、やがてそれが畿内一帯に広がり、さらには日本国の呼称を代行するようになったからだと思われます。ヤマトを地理的に一番狭くとれば、大和は三輪山周辺のことをさします。
語源的にいえば、もともとヤマトは「山の門」です。奈良盆地から大阪側を見ると連綿と続く笠置山・二上山・葛城山・金剛山と続く山々を眺めていた大和人たちが、自分たちの土地を「山の門」と言いあらわしたのでしょう。ここに大和政権が誕生し、飛鳥・藤原・奈良時代がくりひろげられた。それで国の名をヤマトにした。そういう経緯だったのだと思います。
奈良時代の次は平安時代ですが、そこは今度は山城国と称ばれました。ヤマシロとは「山の背」(やまのせ・やまのしろ)のことです。平安京からすると、あの奈良の山々が背になったのです。山城国は山背国であったわけです。
こうして奈良の朝廷が大和朝廷になり、その大和朝廷が律する国が「日本」になったわけでした。
さらに連載記事<「中国離れ」で華開いた「独特な日本文化」が機能不全に…その「残念すぎる末路」>では、日本文化の知られざる魅力に迫っていきます。ぜひご覧ください。
*本記事の抜粋元・松岡正剛『日本文化の核心』(講談社現代新書)では、お米のこと、柱の文化について、客神の意味、仮名の役割、神仏習合の秘密、間拍子と邦楽器、「すさび」や「粋」の感覚のこと、お祓いと支払いの関係、「まねび」と日本の教育など、日本人が知らない日本文化をわかりやすく解説しています。「知の巨人」松岡正剛が最期に残した「渾身の日本文化論」をぜひお読みください。
【「中国離れ」で華開いた「独特な日本文化」が機能不全に…その「残念すぎる末路」】
「わび・さび」「数寄」「歌舞伎」「まねび」そして「漫画・アニメ」。日本が誇る文化について、日本人はどれほど深く理解しているでしょうか?
昨年逝去した「知の巨人」松岡正剛が、最期に日本人にどうしても伝えたかった「日本文化の核心」とは。
2025年を迎えたいま、日本人必読の「日本文化論」をお届けします。
※本記事は松岡正剛『日本文化の核心』(講談社現代新書、2020年)から抜粋・編集したものです。
「ジャパン・フィルター」が機能しなくなる
大和本草や国学のような国産物の開発、日本儒学の研究といった連打は、政治や思想や文化における「中国離れ」を引きおこします。日本はこのままいけるんではないか、もっと充実した国になれるんではないか。宝暦天明期や文化文政期には、そんな驕りさえ出てきます。
ところが、そこにおこったのがアヘン戦争(1840)です。イギリスが清を蹂躙した。幕府が唯一親交を温めてきたオランダ国王からの親書には、「次は日本がやられるかもしれない」という警告が書いてありました。これは「オランダ風説書」という文書に示されています。
実際にもロシアの戦艦が千島や対馬にやってきて、通商のための開港を求めます。幕府は外国船打払令などを連発して、これを追い払おうとするのですが、効き目がない。
そうこうするうちに、ついに「黒船」がやってきて(1853)、この対処に戸惑った幕府は解体を余儀なくされました。海外向け、外交上のジャパン・フィルターの持ち札がなかったのです。やむなく攘夷か開国かで国内は大騒動です。これで明治維新に突入することになったのです。
「中国離れ」で華開いた「独特な日本文化」が機能不全に…その「残念すぎる末路」
「中国離れ」で華開いた「独特な日本文化」が機能不全に…その「残念すぎる末路」
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こんなふうになったのは、黒船に代表される西洋の近代科学の力に圧倒されたということもあるでしょうし、同時にその西洋の力によって、かつての日本にとってのグローバルスタンダードであった清国がなすすべもなく蹂躙されたアヘン戦争という事件を間近に見たせいでもあったでしょうが、いずれにしてもそこで、それまで日本が保持していた何かが損なわれたのです。
「和魂漢才」から「洋魂米才」へ……
これまでの日本であれば、グローバルスタンダードを独特のジャパン・フィルターを通して導入していたはずのものが、西洋の政体と思想と文物をダイレクトに入れることにしたとたん、つまり「苗代」をつくらずに、フィルターをかけることなく取り込もうとしてしまったとたん、日本は「欧米化」に突入することになったのです。
これを当時は「文明開化」とは言ってみましたが、でもそこからは、大変です。列強諸国のほうが、裁判権とか通商権などに関してフィルターをかけようとしたのです。
西洋の文化を受け入れるに際して、あまりに極端なオープンマインド、オープンシステムで応じたために、中国の文物を受け入れるに際しては機能した「和漢の境をまたぐ」という仕掛けがはたらかなくなりました。
こうして「和魂漢才」はくずれ、できれば「和魂洋才」を律したかったのですが、そこもどちらかといえば「洋魂米才」があっというまに広がっていきました。このことは明治の大学が「お雇い外国人」にそのスタートを頼んだことにもあらわれています。
仮名の発明から徳川時代の国学まで続いた「中国離れ」は「列強含み」に変わったのです。それではいかんと奮起して日清戦争と日露戦争に勝利できたあたりから、日本主義やアジア主義を唱える新たなムーブメントもおこりますが、その動向はまことに微妙なもの、あるいは過剰なものとなっていきました。
さらに連載記事<日本人なのに「日本文化」を知らなすぎる…「知の巨人」松岡正剛が最期に伝えたかった「日本とは何か」>では、日本文化の知られざる魅力に迫っていきます。ぜひご覧ください。
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