https://tenki.jp/suppl/kous4/2021/01/21/30202.html 【「三本の杖」は何を意味する?小正月行事「どんど焼き」の深層とは《前編》】より
天にも届かんばかりのどんど焼きの火柱。壮大な火祭りはなぜ全国に?
1月も早くも下旬となりました。正月(一月)のうち、元旦から人日の節供(1月7日)までの七日間は大正月と呼ばれていて、正月行事の中心です。これに対し、旧暦時代には新年初めての満月となる一月十五日(またはその前日十四日と翌日の十六日を含む三日間)は、古来小正月と呼ばれ、大正月に次ぐ重要な日とされました。小正月行事として全国的に分布するのが、とんど焼き、どんど焼き、さいと焼き、左義長などと称される火祭りです。広い野や畑、社寺の境内などに青竹で櫓を組み、飾り終えた正月飾りなどを燃やし、またその炎で餅や芋、団子、地域によってはみかんやスルメなどを持ち寄って火であぶって食べ、健康福徳を授かる予祝行事です。この火祭り祭祀にはある古い精霊が関わっていました。
小正月行事は、小豆を加えた小豆粥(十五日粥)や、粟、キビ、稗(ひえ)、ゴマなどの雑穀と米を炊き込んだ「七種(ななくさ)粥」を食べて厄払いをする風習や、餅を団子状にして枝にたわわに飾る餅花が知られます。
また来訪神としてもっとも有名な秋田の「なまはげ」も、現在では大晦日に来訪行事が行われますが、かつては小正月の行事で、古来この日の重要性は大きく、全国にさまざまな行事が伝わります。
そして全国区的な小正月行事といえば、やはり「どんど焼き」でしょう。祭りの形態は地域により差異があり、関連行事も膨大なものですが、基本的には正月飾りである注連縄や松飾り、前年の守り札、書初めの習字などを、青竹で高く組んだ櫓にくべて焼き払い、周囲で歌い踊りつつ飲食して、実り豊かで幸せな一年であることを祈る予祝行事です。
その規模は地域によりさまざまですが、高さ5メートルを越す大きな櫓を組むどんど焼きも多く、その炎はまさに雲を焦がし、天に届かんばかりの壮大さで、印象的です。関西や中国地方でとんど焼き、北海道や東北、関東の大部分ではどんど焼き、鳥追い、鳥小屋、東海から中部、神奈川や埼玉などの西関東ではさいと焼き、道祖神祭、九州では鬼火焚き、ほんげんぎょう、そして北陸や京都などでは左義長などなど、さまざまな地域ごとの呼び名のバリエーション、傾向があります。
近年、大掛かりなどんど焼き行事の全国調査が行われました。
この火祭りの起源として長く定説とされてきた「平安王朝時代の貴族の行事『三毬杖(さぎちょう)』が民間に伝わり、どんど焼きになった」とする説は多くの点で無理・矛盾があり、どんど焼きの起源や由来は別に求めるべきであるとする提唱がなされています。
どんど焼きの起源は「三毬杖」。それってほんと?
「三毬杖」とは何でしょうか。古代ペルシャ帝国が起源の打毬(だきゅう)競技(騎馬もしくは徒歩で、チームを組んでスティックをもち、玉を打ち合って相手のゴールに打ち込むホッケーのような競技)が、中国に伝わり、やがて奈良時代ごろに日本の貴族たちにも伝わります。
多くの辞書や民俗事典、歳時記などでは、平安時代の宮中の正月行事の打毬で使用したスティック(毬杖)を三本組み合わせ、清涼殿などの庭で帝の宸翰(しんかん 天皇自筆の文書)などに火を点けて燃やし、蔵人や仕丁が囃し、楽人が楽器を奏で、舞人が舞うという「御吉書三毬杖(ごきっしょさんぎちょう)」の「さんぎちょう」が転化して、「左義長」として民間の小正月火祭り行事に変化した、とされています。
しかしこの説にはいくつもの誤謬や取り違え、誤解があります。
たとえば奈良県御所市茅原の吉祥草寺では、約1300年前の大宝元年(701)年に起源をもつ、修験道の開祖・役小角ゆかりの「茅原のトンド」が1月14日に行われています。つまり平安王朝時代よりも古い時代から小正月の火祭りは行われていたのです。
次に、毬杖(打毬競技)が正月の宮中行事だったのか、という問題です。
『万葉集』巻六には、奈良時代の神亀四(727)年、皇室の王子や貴族の子弟たちが宮廷の任務をサボって春日山に連れ立って出かけて「打毬の樂」を催したところ、にわかに雷雨にあい、恐れおののいて帰ってきて、その後罰として蟄居を命じられたというエピソードが記載され、この「打毬」が文献上の初出とされます。
続いて、勅撰漢詩集『経国集』(827年)の第八十九番・嵯峨天皇の漢詩「早春 打毬を観る」では、渤海使(渤海は当時中国北東部から朝鮮半島北部にかけて存在したツングース民族系国家)を迎えた正月十六日の踏歌節会(とうかのせちえ)の余興として、打毬ゲームを見物したさまが描出されています。
ところがその後、『日本紀略』の承和元(834)年の五月八日に、武徳殿での種種馬芸、射礼(じゃらい)などの武芸祭礼の一環として打毬が行われた記述を皮切りに、その後は『西宮記』の天暦九(955)年の五月六日の宮廷五月行事のアトラクションとして行われた記載など、正月ではなく五月行事として行われているのです。毬杖(打毬)行事は、平安時代前期に既に正月の行事ではなくなっているのです。
そもそも、嵯峨天皇時代の打毬行事にしても十六日に行われているので、小正月に毬杖を焚き上げるのは無理ですよね。打毬競技は、貴族の儀礼ではなく、京都市中の町民、特に子供たちの正月遊びとして平安期に盛んだったことがわかっています。
なぜ三本の毬杖を焚き上げる?その奇妙な行いにこそどんど焼きの秘密が
焼け落ちて燃えくすぶる火で持ち寄った食べ物を焼くのも楽しみ
毬杖の焚き上げが「さぎちゃう」として登場するのは、鎌倉時代末期から南北朝時代に著された『徒然草』(吉田兼好)です。
さぎちゃうは、正月に打ちたる毬杖(ぎぢゃう)を、真言院より神泉苑へ出して焼きあぐるなり。「法成就の池にこそ」と囃すは、神泉苑の池をいふなり。(第百八十段)
足利尊氏の執事・高師直(こうのもろなお)や鎌倉幕府滅亡直前に十日間だけ執権の地位についた北条貞顕など鎌倉武士と親交があった吉田兼好。
鎌倉末期から室町時代にかけて、武士たちの間で打毬が武芸の一環のレジャーとして正月などの楽しみとなり、また民間のどんど焼き(さぎちょう)を見習って、正月飾りや、遊戯や儀礼に使用したものをまとめて焼いたのかもしれません。その後、主に江戸時代ごろから、宮中での「御吉書三毬杖」が行われるようになったのです。
ですから、三毬杖が左義長(とんど焼き)になったのではなく、とんど焼きの風習がもとからあり、後に三毬杖がその影響を受けてはじまった、というほうが正しいのです。
「だけど左義長は三毬杖という名前から影響を受けてできた名前だろう」と言われるかもしれません。実はそこに問題の核心があるように思われます。
なぜ宮中の三毬杖では、毬杖(打毬のスティック)を三本組んで焚きあげるのでしょうか。その奇妙な風習について考察している資料はほとんど見られません。縁起ものの正月飾りや祭祀の道具、天皇の習字などを焼くことは理屈としてわかります。もし正月儀礼に使った武具・道具だからというのなら、「射礼」に使った弓矢こそ焚き上げにふさわしいようにも思います。
三本の毬杖は、何かに見立てられて燃やされたのではないでしょうか。だとするとそれは何か。そこにこそ小正月火祭りの、今では気づかれにくくなった古い精霊がかかわる深い意味があるのです。
後編でその謎解きを試みたいと思います。
https://tenki.jp/suppl/kous4/2021/01/23/30203.html 【不死鳥は炎とともに空高く・小正月行事「どんど焼き」の深層とは《後編》】より
正月満月の空に燃え上がるどんど焼きの炎
小正月(1月14日~16日)の火祭りとして知られるどんど焼き。前編では、その起源とされてきた三毬杖=左義長が、実はどんど焼きよりも新しいものであり、どんど焼きは古墳時代ごろから続く古い祭りである、ということを説き起こしました。しかし一方、三毬杖に見られる毬杖を三本組み合わせた櫓は、実はどんど焼きの深層を解き明かすヒントがこめられているのではないか。後編ではいよいよその謎解きに突入します。
そこにもここにも鳥・とり・トリ。原始、鳥は太陽だった
仁徳天皇陵。なぜ天皇陵・皇后稜を「みささぎ」というのでしょうか
小正月火祭り行事の名称として、近畿や北陸を中心に見られる「左義長(さぎちょう)」という名称。これを宮中の「三毬杖」に求める説があったことを前編で解説しました。
大規模な調査によって、これはほぼ間違いとされるようになりましたが、逆に筆者は、小正月の火祭り行事の名称として古くから「サギチョウ」「サギッチョ」という呼び名があったのだと考えています。ただし、それは、「三本の毬杖」の意味ではありません。
天皇陵を「みささぎ」と呼ぶのはご存知かと思います。「御ささぎ」の意味で、「ささぎ」とはミソサザイともスズメともされますが、古くは鳥類全体を呼びならわす言葉でした。
古墳時代に帝位にあった仁徳天皇は、生前の名は「大鷦鷯天皇(おおさざぎのすめらのみこと)」で(仁徳の名は崩御後の諡号)、世界最大の前方後円墳に鎮まるこの名君の「おおさざぎ」から、天皇陵全般を「みささぎ」と呼ぶようになったとされます。
では仁徳帝はなぜ「おおさざぎ」=「大きな鳥」という名だったのでしょう。古代の日本では、鳥は帝王と重ねられるほど神聖で、神に等しい存在だったのです。白鷺などのサギ類の「さぎ」も、「ささぎ」から派生したと考えられます。
つまり、「鳥」を表す「ささぎ」「さぎ」に、接尾語の「ちょ」がついて「さぎちょう」です。
千葉県各地で小正月から立春の間の時期に行われる祭事・おびしゃ(御日射)。射日神話(十の太陽の九つを射落とす神話)をもとに、太陽に住むという八咫烏などを描いた的に弓で矢を射抜く予祝神事です。千葉の一部地域ではどんど焼き自体を「おびしゃ」と言います。陰陽で太陽は陽であり、陽は奇数であることから、八咫烏は脚が三本。実はさぎちょうの三本の毬杖は、八咫烏の三本脚をあらわしたものだったのではないでしょうか。また、千葉県や茨城県では、どんど焼きを「あわんどり」(安房ん鳥)と呼ぶ地域もあります。
どんど焼きは、全国各地で鳥追い神事(鳥による農作物への被害を駆除する祈念行事)と結びついています。山形県上山市の奇祭「カセ鳥」(火勢鳥)も小正月行事です。カセ鳥は藁納豆のような装束(ケンダイ)に全身を包んだ演者が焚き火の周りで踊り歌います。そしてカセドリに扮した演者たちに、村人は水を浴びせかけます。火伏せと害鳥駆除のまじない行事であるカセドリは、かつては全国で見られた小正月行事で、実際熊本県や福岡県など、山形から遠く離れた九州の一部地域で、どんど焼きを「カセドリ」と称する分布事例が見られます。
柳田國男は著書『先祖の話』の中で、全国各地に伝わる「トリバミの神事」「オトグヒの祭り」について言及し、兵庫県芦屋の「鳥塚」では、村の子供たちがカラスの身振りをしながら各戸を訪れ、正月のお供えの食べ物をもらっていくというならわしや、東北で正月ごろに行われる餅を藁でつつんで高い枝にかけ、鳥が食べに来てついばむのは吉祥とする「ヌサガケ」などの事例を紹介しています。
秋田県三種町上岩川の小正月の火祭りは「勝平鳥追い」と言い、かがり火の周囲を子供たちが回りながら鳥追い歌を歌います。同じく秋田のにかほ市象潟横岡と大森の小正月行事は、人が中に入れるほどの大きな藁がけ小屋「セノカミ小屋」を作り、その中に賽の神を祭って一晩供物をささげ、翌日火をかけて燃やすというもの。焼いた小屋の周りを子供たちが回り巡りながら、やはり鳥追いの歌を歌います。
岐阜県恵那市野井地区のどんど焼きでは、村人が笹や竹、紙で白鷺の人形を作り、これをどんど焼きの巨大な櫓の頂点にかかげ、火にかけて燃やします。
どんど焼きにあらわれる鳥のモチーフはあげればきりがありません。いかに関係が深く切っても切れないものかがわかるかと思います。歳神や賽の神が習合はしていますが、どんど焼きで燃やされる(天へのぼってゆく)神霊の本体は、どうも「鳥」らしいのです。
「とんど」「どんど」にこめられた本当の意味とは
太陽の化身である八咫烏は、神の「魁(さきがけ)」つまり「ミサキ」でもあります
太陽の化身である八咫烏は、神の「魁(さきがけ)」つまり「ミサキ」でもあります
「とんど」「どんど」という呼称を、「どんどん焼いて焚きくべるから」とか、「歳神が訛ったもの」などの説明がされることが多いのですが、これはほぼ俗説。現在はどんど焼きという呼称が全国の半分ほどを占める多数派なのですが、もともとの呼び名は「とんど」で、これは唐土(中国大陸)から渡ってきた火祭りだから「とうど」と呼ばれていたものが転じたと説明されています。「とうど=唐土」がとんどの語源というのは大いにあり得ることです。しかしそれですと、中国由来のお祭り(たとえば七夕やひな祭り)もどうして「とうど」と呼ばないのかという疑問が湧きます。むしろこの唐土は、七草粥を刻むときに唱える
七草なずな 唐土の鳥が日本の国に渡らぬ先に ストトントン
という囃し歌の「唐土の鳥」のことだと考えるべきです。『荊楚歳時記』(6世紀ごろ)に「正月夜多鬼鳥渡」と書かれているように、九つの頭のある鬼車鳥が、正月ごろに多くやって来るとする信仰がありました。唐土の鳥とはこの鬼車鳥を指し、深読みすれば冬の疫病、インフルエンザなどのウイルス病を示しているとも考えられます。
また、今も幼児語として残る「とっと」という鳥の俗称(くだけた呼び名)もこれが語源なのではないか、とも考えられます。
中部や東海地方を中心にして、どんど焼きを道祖神の祭りとする地域が分布します。これもどんど焼きの主役が実は鳥であると解釈すると説明可能です。道祖神、賽の神、岐(くなど)の神は、境界の守護者である導き(道引き)の神で、猿田彦大神と習合しています。先ほど言及した八咫烏は、日本神話の神武東征で神武勢を導いたことから、神の先触れにして導きの神霊「ミサキ(道先)」として知られます。柳田國男は、猿田彦はまた「オミサキ」でもあろう、と述べています。ミサキは神の眷属としてさまざまな動物の姿をとりますが、カラスにかぎらず鳥の姿とされることが多い精霊です。
「神の伝令」としての聖なる存在である鳥と、疫病などをもたらす災厄としての鳥。古い起源をもつ神霊は祝福と呪いの両面をもち、「事八日」の来訪神とも重なります。
どんど焼きで焼かれる鳥とは、伝説のフェニックスだった
焼き尽くされて灰となり、復活する不死鳥を追体験する行事かもしれません
焼き尽くされて灰となり、復活する不死鳥を追体験する行事かもしれません
さらに掘り下げれば、「みささぎ」という言葉は「身、捧(ささ)ぐ」が由来とも考えられ、いけにえの子羊を神前に捧げて焼く古代ユダヤの燔祭(はんさい)を想起させます。燔祭の起源は、ヘブライ人(イスラエル人)の始祖アブラハムが、わが子イサクを神に捧げて殺そうとした「イサクの燔祭」とされ、聖なる存在が身を捧げて火にかけられ、炎とともに天へと合一するというイメージは、実はどんど焼きにも共通するのです。「ミサキ」がイサクとも関係するとすれば、神の伝令であるはずの「ミサキ」が、全国各地で不幸な死を遂げた亡者の怨霊だとか、船幽霊だとか、祟りなす地縛霊的な悪霊だとする信仰があることも説明がつきます。イサクは実際には殺されず、寸前ですくわれていますが、もし親愛する父に本当に屠られていたとしたら、それは大怨霊にもなるだろうと想像できます。
そして私たちは、紅蓮の炎に焼き尽くされ、灰の中から復活するとされる鳥の存在を知っています。エジプトではアオサギとも重ねられた太陽の母鳥ベンヌ(Bennu)、そしてギリシャの伝説に登場するポイニクス(φοῖνιξ)、すなわちフェニックス=不死鳥です。
遠い古代、はるか西の果てのエジプトで発祥した太陽神の死と再生の神話体系は、中東のユダヤ教、ゾロアスター教、キリスト教の教義の基礎となり、やがて日本にも伝わりました。ゾロアスター教の葬送は鳥葬で、ここにも鳥が深く関わります。
太陽神の化身もしくはシンボルとしての鳥の精霊の燔祭は、日本に伝わると当初は聖なるミサキ(ミササギ)ととらえられていましたが、時代が下るにつれ、豊作や健康祈念の祭りへと変質し、主役である鳥の存在も、素朴な鳥追い行事へと変化していったのではないでしょうか。
(参考・参照)
先祖の話 柳田國男 筑摩書房
体育・スポーツ史概論 木村吉次 市村出版
遊戯から芸道へ:日本中世における芸能の変容 村戸弥生 玉川大学出版部
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