https://moonsault.net/?p=5562 【シンとトニーのムーンサルトレター第211信(Shin&Tony)】より
2022.10.10 ムーンサルトレター鎌田東二ことTonyさんへ
Tonyさん、お元気ですか?
毎年恒例の「隣人祭り・秋の観月会」を今年は10月7日(金)に行いました。17時半から開始して、18時頃には空に月が上ったのですが、その後、大雨になって大変でした。やはり屋外でのイベントは難しいですね。天気予報では曇りだったのですが、自然はいつも想定外です。
隣人祭り・秋の観月会のようす
会場のみなさんは急遽ロビーに避難し、そこで月見御膳を召し上がられました。食事の間中、即興でバイオリン演奏が行われ、みなさん大喜びで、大いに盛り上がりました。その後、2階のバンケットに移動され、フラダンスや日本舞踊「玉兎」を楽しまれました。当日の夜は気温が18度と低かったので、結果的に寒い屋外よりも暖かい屋内の方が良かったかもしれません。
霊座光線をバックに
その夜は、雨が降る中でも「月への送魂」は行われました。夜空に浮かぶ月を目指して、故人の魂をレーザー(霊座)光線に乗せて送る新時代の「月と死のセレモニー」です。多くの方々が夜空のスペクタクルに魅了されました。「月への送魂」は、21世紀にふさわしいグローバルな葬儀の“かたち”であると思います。何より、レーザー光線は宇宙空間でも消滅せず、本当に月まで到達します。わたしは「霊座」という漢字を当てましたが、実際にレーザーは霊魂の乗り物であると思います。「月への送魂」によって、わたしたちは人間の死が実は宇宙的な事件であることを思い知るでしょう。
ヤフーニュースより
さて、「人間の死」といえば、わたしにとって最大のヒーローが亡くなりました。10月1日、「燃える闘魂」と呼ばれたアントニオ猪木さんがこの世を旅立たれたのです。わたしの人生に最大級の影響を与えた方でした。猪木さんは、1日、自宅で死去されました。79歳でした。難病「全身性アミロイドーシス」で闘病中だった。2,3日前から低血糖で体調を崩し、自宅での療養生活が続いていたそうです。前日持ち直しましたが、この日の朝、状態が悪化し自宅で息を引き取られたとのことです。
https://www.youtube.com/watch?v=mDoTaYYPNQA
猪木さんは、本名・猪木寛至。1943年2月20日、横浜市鶴見区生まれ。14歳で家族とともにブラジルに移住。60年、力道山にサンパウロでスカウトされて帰国し、日本プロレスに入団。66年、東京プロレスを旗揚げ。翌年、日本プロレスに復帰も団体を離れ、72年、新日本プロレスを旗揚げ。「ストロングスタイル」を掲げ、多くの名勝負を繰り広げました。76年には、プロボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリと異種格闘技戦を行い、MMA(総合格闘技)の源流になったとされています。98年4月、現役引退「全身性トランスサイレンチンアミロイドーシス」と闘病中の間も、Youtubeで動画配信し、わたしに元気を届けてくれました。
その猪木さんの最後の動画である「アントニオ猪木『最期の言葉』」が1日の夜にUPされました。9月21日に撮影されたもので、今回をきっかけに休止していたYouTubeでの活動を再開する予定だったといいます。猪木さんは東京都内の自室でベッドに横たわってインタビューに応じ、穏やかな表情を浮かべ、「見せたくないでしょ。こんなザマを。普通は。でもしょうがない。そしたら反応が逆なのか、同情というか。喜ぶファンもいる? そういうファンもいるということに自分はしっかりしなきゃなあと思います。見て欲しいというと抵抗はある。でもそれがこういう世間が猪木に期待してくれるなら、素直に応えるほかにないんじゃないですかね」と話しました。猪木さんが最後まで超一流のエンターティナーであったことがわかります。
https://www.youtube.com/watch?v=Wzm2qveUi54
それにしても、寝たきり状態となった猪木さんはベッドから自力で上半身を起こすこともできませんでした。わたしは、1976年6月26日に行われたアリ戦のときの猪木さんがずっとマット上に寝て、腹筋の力だけで上半身を起こしながら3分15ラウンドにおよぶ長い試合を闘い抜いたことを思い出して涙が出てきました。そして、「この人は、本当に、ずっと闘い続けてきたんだなあ」「この人は、最後までプロレスラーであり、最後までアントニオ猪木だったんだなあ」と思いました。
かつて、引退後の猪木さんの人相がどんどん悪くなっている時期がありましたが、この動画の猪木さんの表情はまことに穏やかで、目がとても澄んでいました。こんなに痩せ細って衰弱してしまった姿を人には見せたくないはずなのに、あえて弱い姿を見せる猪木さんは真に強い人でした。この人に並ぶ人はなかなかいません。スケールの大きさにおいても唯一無二の人でした。どうか、今は安らかに休んでいただきたいです。猪木さんの最期の姿は、わたしを含め、多くの日本人の「人生の修め方」に影響を与えたと思います。心より御冥福をお祈りいたします。合掌。
「お別れ会」の入口が水族館に!
日々、人は亡くなり続けます。わたしにとって業界の大先輩たちも亡くなります。10月5日、わたしは埼玉県熊谷市にあるホテルガーデンパレスを訪れました。ここで、冠婚葬祭互助会の大手であるアルファクラブグループの故神田成二前会長の「お別れの会」が開催されたのです。冠婚施設数38,葬祭施設数443という冠婚葬祭互助会業界において一大グループを築き上げた神田前会長の「お別れの会」とあって、非常に盛大でした。ホテルの入口は、海が大好きだった神田前会長を偲んで、なんと水族館が再現されていました。ぐるりと水槽が設置され、入場者の頭上を魚が泳ぎ回っているのです。
バーチャル馬舎で記念撮影
わたしは、頭上の魚を見上げながら、「おいおい、ここは葛西臨海水族館か!?」と思いました。エントランスも海底の雰囲気で、神田前会長が愛したクルーザーをバーチャル操縦するコーナーもありました。さらに、日本庭園を通ると噴水から水と火が噴き上げ、ある建物の中に入ると、そこはバーチャル馬舎でした。神田前会長は競走馬を17頭も持っておられましたが、その中でも特に可愛がった愛馬と一緒の姿がホログラフィー映像で映し出されていました。さらには、参加者が一緒に記念撮影もできるというのです。もう、本当にすごすぎる! ここは万博の未来体験館か?
追悼演目で連獅子が登場!
「お別れ会」が始まって、追悼動画の後は、「追悼演目」。いきなり歌舞伎の連獅子が登場し、度肝を抜かれました。水族館、バーチャル馬舎の次は歌舞伎とは! センス・オブ・ワンダーの連続に、新時代の葬送スタイルというものを感じました。その後、献花の時間となりました。そのうち指名献花の順番が回ってきました。わたしは、故人の遺影をしっかり見て、「今までお疲れ様でございました。ありがとうございました」と心の中で故人に話しかけ、献花をさせていただきました。
献花のようす
献花の冒頭、祭壇上に故人のホログラフィーが浮かび上がり、今年の元旦に社員の方々向けのスピーチをして一礼している姿が映し出されました。指名献花が始まると、会場にどよめきが起こりました。なんと、参列者が献花をするたびに、左右のフラワーボールの横に故人の小さなホログラフィーが浮かんで、1人1人にペコリとお辞儀をするのです。おそらくは献花冒頭のスピーチ動画を使用したものでしょうが、このアイデアには唸りました。
故人のホログラフィーが浮かび上がる
拙著『ロマンティック・デス』(国書刊行会・幻冬舎文庫)で、わたしは21世紀の葬儀は故人の生前の面影をホログラフィーで再生すべきとして「幽霊づくり」を提唱しましたが、それが完全に実現されていました。2020年9月に行われたアルファクラブグループの武田相談役の「お別れの会」のときと同様に、優しい幽霊(ジェントルゴースト)の創造によって、新時代の葬儀演出を見せていただきました。このホログラフィーの幽姿、カメラでは撮影できないのです。目には見えなくてもカメラに故人の姿が写ることを「心霊写真」といいますが、これは逆で目には見えるのにカメラには写らない「逆・心霊写真」でした。
https://www.youtube.com/watch?v=9O9HZYknsQU
もうすぐ次回作『心ゆたかな映画』(現代書林)が刊行されます。わたしにとって2冊目の映画の本ですが、わたしは日々、さまざまな映画を鑑賞しています。8日、「愛する人に伝える言葉」というフランス映画を観ました。がんにより余命宣告を受けた男とその母親が、限られた時間の中で人生の整理をしながら死と向き合う姿を描くヒューマンドラマです。人生半ばにして膵臓がんを患ったバンジャマン(ブノワ・マジメル)は母・クリスタル(カトリーヌ・ドヌーヴ)と共に、わずかな希望を求めて名医と評判のドクター・エデ(ガブリエル・サラ)を訪ねます。ステージ4の膵臓がんは治癒が見込めないと告げられショックを受けるバンジャマンに対し、エデは病状を緩和する化学療法を提案。エデの助けを借り、「人生のデスクの整理」をしながら最期の日々を過ごす息子を、クリスタルはそっと見守るのでした。本作で、末期がん患者を演じたマジメルは、セザール賞の主演男優賞を受賞しました。
https://www.youtube.com/watch?v=38T-S_o58LE&t=2s
この映画には、現役の癌専門医であるガブリエル・サラがドクター・エデ役で出演しています。冒頭、病院のスタッフ・ミーティングで1人の女性看護師の話を聴く場面から始まります。その看護師によれば、ずっと何日も入院中の夫に付き添っていた妻が夜の11時に久々に帰宅しましたが、夫はその10分後に息を引き取ったそうです。看護師が運転中の妻に連絡すると、急いで引き返してきた妻は号泣するばかりでした。彼女は、「夫の最期の瞬間が近いことに気づかなかったこと」「夫をたった1人で旅立たせてしまったこと」に強い罪悪感を抱きます。看護師は彼女に同情するも、何も言葉がかけられず、ただティッシュを渡しただけだったというのです。それを聴いたエデ医師は「死期を決めるのは患者だ」「患者は1人で死ぬことを選んだのだ」「死の10分前まで奥さんが一緒にいたことは無駄ではない」と言います。その言葉は慈愛に満ちており、かつ哲学的であったのが印象的でした。
https://www.youtube.com/watch?v=-SnNcuw4H28&t=5s
ブノワ・マジメル演じるバンジャマンは39歳の若さですが、ステージ4の膵臓がんで余命半年~1年の宣告を受けます。当然ながら、大きなショックを受けた彼は、戸惑い、あるいは怒りをおぼえます。その様子は、スイス生まれの精神科医キューブラー・ロスによる死に直面した人間の態度の五段階説(否認・怒り・取り引き・抑うつ・受容)を思い出させました。この説は、介護福祉士国家試験やグリーフケア士試験にも出る非常に有名なものです。しかし、最後にバンジャマンが死を受容したことには、エデ医師の「最期に愛する人に言うべき5つの言葉」を教えてもらってからのように思います。その5つの言葉とは、「赦してほしい」「あなたを赦します」「愛しています」「ありがとう」「さようなら」でした。シンプルですが、非常に含蓄の深い最期の言葉だと思いました。
『コンパッション都市』(慶應義塾大学出版会)
この映画には末期癌患者の終末医療の様子が登場しますが、非常に勉強になりました。現役の癌専門医であるガブリエル・サラが出演しているので、リアルに再現されていたことと思います。わたしは、宗教学者の島薗進先生が大正大学で行われた特別講義で初めて知った『コンパッション都市』という本を連想しました。米国バーモント大学臨床教授(パブリックヘルス、エンドオブライフケア)のアラン・ケレハーの著書です。「コンパッション都市」とは、「悲しみをともにする共同体」としての慈悲共同体です。その概念は、1986年の「健康づくりのためのオタワ憲章」(WHO)の原則を取り上げ、それを人生最終段階ケアに適用し、共同体の責任としたものです。慈悲共同体モデルでは、死にゆく人と非公式の介護者が社会的ネットワークの中心に置かれているという図を見ることができます。都市としての慈悲共同体は「コンパッション都市」と呼ばれますが、まさに互助会が創造すべきコミュニティのモデルではないですか! 英語の「コンパッション」を直訳すると「思いやり」ですが、多くの著書で述べてきたように、思いやりは「仁」「慈悲」「隣人愛」「利他」「ケア」に通じます。「ハートフル」と「グリーフケア」の間をつなぐものも「コンパッション」であることに気づきました。
『稲盛和夫一日一言』(致知出版社)
「愛する人に伝える言葉」を観て、わたしは「言葉は大切だな」と痛感しました。いくら心の中で強く思っても、言葉にしなければ相手には伝わりません。わたしが心から尊敬する経営者である稲盛和夫氏が、8月24日に90歳で亡くなられました。いま、ちょうど『稲盛和夫一日一言』(致知出版社)という本を読んでいるのですが、その冒頭には「魂から発せられた言葉は、表現が少々稚拙であっても、聞く人の魂に語りかけ、感動を与える。全身全霊を乗せた言葉にはある種の『霊力』があるからである。つまり言霊である。一所懸命、なんとか相手にわかってほしいという思いを込めて、文字通り心の底から出た言葉は、やはり、単なる話のための言葉よりも訴える力が強いのは確かだ。聞き手の感動を呼び起こすのもそれゆえにほかならない」という稲盛氏の言葉が書かれていますが、まったく同感です。「経営の達人」はたくさんいますが、稲盛和夫という方は「言葉の達人」でもあったのだなと改めて思いました。そして、想いを言葉にできる人こそが真のリーダーなのだと再確認しました。稲盛和夫氏にアントニオ猪木氏、最も尊敬する人物と最大のヒーローの2人を続けて亡くし、わたしは深いグリーフに包まれています。それでは、Tonyさん、次の満月まで。フランス映画を観たばかりなので、久々に、オルボワール!
2022年10月10日 一条真也拝
一条真也ことShinさんへ
Shinさんの今月のムーンサルトレターは哀悼と鎮魂の響きに満ちていますね。特に、アントニオ猪木さんと稲盛和夫さんへの。2人ともShinさんにとってかけがえのない大きな存在、エンパワーメントしてくれる先達だったのだと認識を新たにしました。
毎年恒例の「隣人祭り・秋の観月会」を10月7日に行なった際、天候が急変して大雨になったとか。野外でのセレモニーの難しさを実感されたようですが、自然が人間の思うままにならない最大のものであることを、昔から口を酸っぱくして言って来て、だからこそ、「自然畏怖」と畏敬と謙虚さが必要なのだといつも思っていますが、屋内に避難された後、雨の中でも「霊座光線」を月に向かって放射して「月への送魂」をされたのは流石です。
アントニオ猪木さんの引退後の「人相」がだんだん悪くなっていったとのことですが、そのことは、彼が参議院議員となったことと関係があるのでしょうか? プロレスラーとして元気溌剌として活躍していたアントニオ猪木さんが政治家となったことで、孤独と窮屈さと閉塞感を人一倍感じていたのではないかと推測します。政治的には彼の理解者も支援者も大変少なかったのではないでしょうか? 政治家たちは、北朝鮮との関係なども猪木流パフォーマンスと見ていた節もありますし、さまざまな非難や誤解や無理解もあったことでしょう。しかし、猪木さんがスポーツを平和を結びつけて実現しようとしていた彼の理想や理念はわたしはとても共感しておりました。
稲盛和夫さんに関しては、前にもお話ししたように、京都大学こころの未来研究センターに在籍中にインタビューに出かけたことがあり、そのインタビュー記録は以下から全文読むことができます。
http://kokoro.kyoto-u.ac.jp/jp/kokoronomirai/pdf/vol7/kokoronomirai-vol.7_10-31_2data%202-11.pdf
特に、その6頁から7頁にかけての以下のところを読んでいただきたいのです。
目次
1. <小学 6 年生で宗教と出会う
<小学 6 年生で宗教と出会う
鎌田 極端に言うと、逆境が 2 種類の人間をつくり上げるように思うんです。 1 つは、今おっしゃるような、逆境に強くて、人に感謝する、利他的なこころが生まれてくるタイプと、もう 1 つは、自分さえよければいいというので、逆境の中をエゴイスティックに生き抜いていく利己的なタイプ。
逆境を利他的な方向に生き抜くか、利己的なほうへ生き抜くか、この 2 つの道があると思うんですけれども、そこで利他のほうへこころが向かうのは、ものの考え方とか、感じ方とか、そういうものがやはり大きく作用していると思うんです。
稲盛 そうですね。確かに逆境というものが、人を 2つの方向へ分ける。どちらかというと、世をすね、ひねて、エゴイスティックな人間になっていく人のほうが多いのかもしれません。
私の場合には、幸いだったと思いますが、小学校 6年生のときに結核にかかって、それで旧制中学の受験に失敗したんです。私の家の離れのほうに、父親の弟夫婦と、その下の弟、つまり、私から見ると叔父・叔母が住んでいたのですが、その一番上の叔父が結核にかかって、私が小学校 5 年生のころに死んで、続いてすぐに、奥さんも結核にかかって死に、下の弟の奥さんも、それから 2 年ぐらい経って死んだんです。 3 人目の叔父さんが結核で療養しているときに、私も結核を発病しました。叔父・叔母は亡くなって、次の叔父がもう青瓢簞みたいになって寝込んでいるわけですから、近所の人たちには、「あそこは結核の血統だ。かわいそうに、和夫ちゃんとももうお別れだろう」と言われて、自分もそういうふうに思っていました。
当時、谷口雅春さんという方が仏教の教えの真髄をベースに、「生長の家」という新興宗教をおこしていました。それを母親が信仰し始めて、私も、そういう集まりに 2 、3 回連れていってもらいました。これは私の結核を治そうという気持ちもあったんだろうと思います。
当時、隣にご夫婦が住んでいて、奥さんがきれいな人でした。その方が生け垣の向こうから、「和夫ちゃん、気分はどう?」とか言ってくれるわけです。その奥さんも「生長の家」の信者で、「こんな本が出たよ」といって、縁側まで『生命の實相』という本を持ってこられる。それを貸していただいて、貪るように読んでいった。
鎌田 小学 6 年のときに、谷口雅春さんの本を読んで人生哲学を学んだ。ずいぶん早いですね。
稲盛 そうしているうちに、空襲が激しくなってきまして、中学 1 年のときにはもう青瓢簞で寝ている間がないといいますか、空襲がありますから逃げて防空壕に入らなきゃいかん。夜中に雨あられと焼夷弾が降ってきて、周囲の家がどんどん燃える中を母や兄、妹たちと逃げていく。そういうことがしょっちゅうありました。そうやって逃げ回っているうちに、大病はどこかへ行ってしまいました。
そういう宗教的なバックグラウンドが、小学 6 年生から中学に入るまでずっとありました。そんなことがあったから、逆境の中でも変なほうに行かないで、いい方向に行ったのではないかと思います。
鎌田 今お話を伺って、本当によくわかりました。そういう自分の支えになる経験があるかないかというのは、逆境の中でどう生き抜くか、その方向を決めますね。
稲盛 そうですね。それがまた、会社ができてから、私を非常にいい方向にリードしてくれた。今言われて気がついたんですけれども、昨今は宗教が非常に軽視されていますが、そういうものに触れるか触れないかによって、人生が大きく変わるのかもしれませんね。>(稲盛和夫インタビュー「動機善なりや、私心なかりしか」京都大学こころの未来研究センター学術広報誌「こころの未来」第7号、2011年9月30日発行)
稲盛さんは小学校6年生の頃、したがって、12歳前後に大本から出た「生長の家」の創設者の谷口雅治の大著『生命の実相』を「貪るように読んで」いたのですよ。小学生で。生死の境にあった少年稲盛和夫さんが、です。この読書体験とその後の結核の療養と回復の過程で、稲盛和夫さんの死生観の核が出来たのだとわたしはこのインタビューを通して理解しました。その死生をさ迷う原体験があるからこそ、稲盛さんの「私心なき」利他的な行為が出来たのだと確信します。
ところで、冠婚葬祭互助会の大手アルファクラブグループの故神田成二前会長の「お別れの会」、すごいですね。そのアイデアと果敢な取り組みに感心しました。Shinさんも凄いけれども、神田成二さんも凄い方だったんですね。型破りな。業界の風雲児だったのでしょうか?
わたしもそんな「嵐を呼ぶ男」たちの仲間入りしたいものです。「人に笑われるリッパなニンゲン」になることをモットーとしてきたわたしも。
わたしの方は、この9月から10月にかけてほど、忙しかったけれども、「おもろい」思いをした日々はありませんでした。イベント続きでしたが、列挙してみます。
9月3日 新潟市の医療法人ささえ愛よろずクリニック10周年記念イベントで講演と歌(90分)
9月4日 東京都西荻窪のほびっと村で「吉野の霊性」についての講演と歌「弁才天讃歌」1曲
9月6日~7日 「顕神の夢」展企画者とともに奈良県吉野郡天川村の天河大辨財天社参拝と柿坂神酒之祐宮司さんとの懇談
9月10日 第87回身心変容技法研究会と兵庫県六甲で沖ヨガ大会での講演
9月16日~20日 北海道「吟遊詩人の旅」:17日旭川、18日札幌、19日函館 詩の朗読と歌と地元の詩人のみなさんとの交流
9月23日 横浜高島台で「TONY&KOW 絶体絶命~いのちのよみがえりLIVE」(2時間)
10月1日~12日 京都府亀岡市の大本本部みろく会館3階ラウンジで「須田郡司・鎌田東二写真展」開催
10月2日 みろく会館ホールで須田郡司さん、大元総務部長の山田歌さんとともにトークイベント+歌1曲「神ながらたまちはへませ」(2時間)
10月9日 大本天恩郷神苑参拝見学と第4回いのちの研究会セミナー「ケアとうたとアート」基調講演と歌1曲「神ながらたまちはへませ」とパネルディスカッション(3時間半)
10月10日 ホリスティックヘルス主催「比叡山登拝フィールドワーク」の案内とソマティック心理学協会での「オルダス・ハックスリー」についてのシンポジウムへのシンポジスト参加
本当に休む暇がなかったですね。ようやり切ったと、我ながらおもいます。めちゃくちゃ、「おもろかった」です。若い頃から、ずっと、こんなことをやりたかったんだなあ~、とつくづく感じた次第。旅芸人みたいな生活を。「吟遊詩人」という言い方はお高く留まっているようですが、文字通り、歌を歌い、詩を朗読して歩くので、正真正銘の文字通りの「吟遊詩人」だとおもっております。
北海道のことは、本当に語ることがいっぱいですが、9月16日に羽田空港を経由して旭川空港に降り立つと、詩誌『フラジャイル』主宰者の旭川の詩人柴田望さんが迎えに来てくれていました。柴田望さんとは初めてお会いしたのですが、故山尾三省さん(屋久島に在住した詩人、1938-2001)の実妹の小樽在住の詩人の長屋のり子さんが紹介してくれたのです。今回の北海道「吟遊詩人」の旅はすべて長屋のり子さんが設定してくださったもので、長屋さんに大感謝!
17日旭川、18日札幌、19日函館と、3日連続で、地元の詩人たちと詩の朗読と対話を重ねたことが非常に刺激的でした。特に、最初の訪問地の旭川で、17日の朗読会の前に立ち寄った三浦綾子記念文学館と旭川文学資料館での2人の文学者との出会いは、今後わたしの仕事に大きく関与してくる気がしています。
https://www.youtube.com/watch?v=VBvqMcDOQzw
一人は小説家の三浦綾子で、もう一人は詩人の小熊秀雄です。三浦綾子さんのことは、テレビドラマ化された「氷点」で知っていたし、いくらかテレビ番組も観たことがあるような記憶があります。が、小説作品そのものは1点も読んだことがなかったのです。また、彼女がキリスト者であることも知ってはいましたが、それが彼女の文学活動や作品とどのようにつながっているのか、関心はあったもののまったく知らなかったのです。
それが今回の三浦綾子記念文学館の見学で大転換しました。三浦綾子が文学者として、また信仰者として、生涯のテーマとしたのが、「罪」と「悪」と「救い」だということを知ったからです。そこで、これから、本格的に、『三浦綾子全集』を読まねばと強く思った次第です。
わたしはこれまで遠藤周作さんの大ファンであることを公言してきましたが、それは遠藤さんが人間の弱さとそれゆえに犯す犯罪と悪の表現に強く惹かれてきたからでもあります。三浦綾子は遠藤周作より1歳年上で、遠藤より3年長生きしていますので、ほぼ同時代を生きたキリスト者です。
満州の大連育ちの遠藤周作と北海道の旭川育ちの三浦綾子が、二人とも「日本」という国に違和の念を抱きながら育ったであろうこと、そして、それが彼らの文学創作に深いところから影響を与えただろうこと、そのことを考えてみたいと思うに至りました。来年また北海道を訪ねるつもりですが、その前に三浦綾子の主作品は読んでおきたいですね。そして、今回ご縁をいただいた柴田望さんを始め、地元の詩人の方々と三浦綾子論を対話してみたいとおもいます。
さて、今回わたしがもっとも衝撃を受けたのは小熊秀雄という詩人の存在でした。小樽で私生児として生まれ育ち、旭川で新聞記者(旭川新聞)となって活動を始めた小熊秀雄の詩人としての多彩で多作で豊穣で爆発しているその作品群に、衝撃とともに、強い関心を抱きました。この詩人の「闇」と怒りの深さと、「批評」の鋭さ。たとえば、実に辛辣で皮肉の効いた「文壇風刺詩篇」とか。これもまた生ぬるい「日本」に生きている者からは生まれてこないロンギヌスの槍のような射力があります。彼の日本の小説家や詩人たちに加えた辛辣に射抜いた批評詩は日本の「文壇」には完全に異質でありながら、見事な批評性とエスプリとブラックユーモアを称えていて、文学的達成としても見事で、たいへん優れています。きっと、圧倒されますよ、Shinさんも。
小熊秀雄は、また、「旭太郎」というペンネームで、大城のぼる画『火星探検』(中村書店、1935年)の原作を書いているのですよ。これは、手塚治虫や松本零士にも影響を与えたとのことです。
この類稀なる知性と苛烈な批評性がどこから生まれたのか? そして、その「心の闇」の深さも含めて、再度か再再度か現代に蘇る詩人であることは間違いないとわたしは思っています。これらが大きな収穫でしたが、最大の収穫は北海道の生身の詩人たちとの邂逅でした。これはたいへんありがたくも、これからの道の実践に励みとなるものでした。ほんとうに。
9月23日、秋分の日の横浜でのライブは、日本最初のシェアハウスであった横浜高島台のしぇあはうすのオーナーの世古壽實さんの絶大なるご協力で実現しました。その世古さんも長屋のり子さんのお友達です。
そのシェアハウスのスカイラウンジとオーシャンラウンジの2ヶ所で2部に分けて開催した「TONY&KOW いのちのよみがえりLIVE」は、わたしにとって、次なる展開点になるとても貴重なライブだったと思っています。神楽鈴を振りながら、1曲目の「神ながらたまちはへませ」を歌っている最中に、ガーっとものすごいエネルギーが入ってきたのですよ。あたかも憑依されたかのように。
https://www.youtube.com/watch?v=715X5sCIyZs
こんな体験は、1988年12月12日に、「神道ソングライター」として初めて人前で歌って以来の体験でした。埼玉県浦和にある浦和教育会館の会場で、24年前のわたしは、その時、日本の歌の始祖であるスサノヲに、「歌っていいよ!」と背中を押された気持ちがしたものでした。そして、来年で歌い始めて25年。ようやく少し前進できたようにおもいます。
10月9日の京都府亀岡市の大本本部みろく会館3階ホールで「ケアとうたとアート」を基調報告した後、最後に歌った「神ながらたまちはへませ」も感慨無量でした。
というのも、「神ながらたまちはへませ」という祈りの章句は、大本の開祖・出口なおと聖師・出口王仁三郎が唱え始めたものだったからです。1975年、わたしは出雲大社に参拝し、龍笛を奉奏して神道研究の今後を誓い、その後すぐに京都府綾部の大本を訪ねてみろく殿でこれまた龍笛を奉奏し、さらにこれからのわが神道研究のありようを誓い、覚悟を固めたのでした。そして47年経って、第四詩集『絶体絶命』(土曜美術社出版販売、2022年5月30日刊)の第1章で、「大国主」の神を初めて本格的に歌ったのでした。自分でも思いがけない予想外のことでした。
https://www.youtube.com/watch?v=jyIlEz7r55s
https://www.youtube.com/watch?v=AXZ2Gt1-qHo
https://www.youtube.com/watch?v=RVpWUA5_zBk
最後に、本年最後のライブの宣伝をします。
年末の12月18日に、東京の学芸大学前の碑文谷のライブハウス「APIA40」(http://apia-net.com/;予約先・ticket.apia40@gmail.com)でCD『絶体絶命』のレコ発ライブを行ないます。これは、CDのパーフェクトな再現をめざすライブで、これがうまく演奏できたら、自分でも一つの達成であり、現代の琵琶法師として、また「吟遊詩人」として、ようやっと一人前の仲間入りできるかな? と言えそうな記念すべきライブになるはずです。そんな記念の、節目のライブに向けて、全身全霊で取り組みたいと思います。よろしくお願い申し上げます。
それではShinさん、次の満月まで、くれぐれも御身お大事にお過しください。
2022年10月12日 鎌田東二拝
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