http://eternal-life.la.coocan.jp/n-back34.htm 【「草は枯れ、花はしぼむ、されど神のことばは・・・・」】より
「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせ
よ。花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルと
シャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。(イザヤ書35:1-2)」
「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、
草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹
きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこ
しえに立つ。(イザヤ書40:6-8)」
詩編133に「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」とありま
す。懐かしい皆さん方と、ここに一緒に集まって、神様を賛美し、み言葉を聞くのは本当に喜
ばしいことです。さて、久しぶりに曽根教会でお話しさせていただきますので、どんなことを
お話ししようかと考えたのですが、たぶん皆さんは高崎らしい話を期待しておられるのではと
思い、そのようなお話、佛教のことも出てきたり、臨死体験のことにも触れる話をさせていた
だこうと思っています。と申しましても、今日は主に花の話をさせていただくつもりです。実
はこれは6月の花の日に加古川東でした話なのです。6月の第二聖日、今年は12日でしたが、
教会の暦で「子どもの日」、または「花の日」でした。毎年この日は、子どもに関係のある説
教をしています。しかし、子どもというのは実はたいへん話しにくいテーマなのです。普通は
子どものように無垢で罪がないのが天国に行ける条件だと思われています。ところがキリスト
教の本筋から言うなら、子どもも罪人だ、幼子もイエス様の十字架なしでは天国に行けない、
ということになります。
これはロバート・L・ショート著『スヌーピーたちの聖書のはなし』からの引用で、以前私
が曽根教会に居りましたとき、2000年の6月の子どもの日にもお話ししているのですが、その
スヌーピーで知られているアメリカの人気漫画『ピーナッツ』の作者、チャールズ・シュルツ
は、漫画の主人公、愛すべきチャーリー・ブラウンについて、次のように言っています。
「『主は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。だ
れもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。』と
いう詩編14:2-3の“人の子”は『ピーナッツ』の中のこどもたちにおきかえられるでしょう。
(中略)愛すべきチャーリー・ブラウンについてさえ、シュルツはこう言いました。『彼は弱
く、虚栄心が強く、傷つきやすい・・・・子どもはみな、自己中心的ではないだろうか? それに
野蛮ではないだろうか? 子どもたちはみな大人の戯画なのだ。』(中略)けがれなき子ども
なんてどこにいる?しかしながら、子どもを罪深いものとみなす考えは、これまで人気がなか
ったし、これからも人気が出ることはないでしょう。」
そういうわけで、子どもの話をするのは気が重いのです。そこで今年はその日が「花の日」
でもあるということから、今まであまり取り上げたことがないのですが、花についての話をし
てみたのです。曽根教会では一度もしなかった話なので、「花の日」は終わってしまっていま
すが、そのお話しをしてみようと思います。
ところで、六月の第二聖日がなぜ「花の日」なのか、その由来がわかりませんでした。イン
ターネットで調べてみましたら、弘前学院聖愛高等学校のホームページに次のような文章があ
るのを発見しました。「『花の日』の由来は、1856年6月、アメリカのマサチューセッツ州の教
会でこどもの日礼拝が行われ、自然の中にあふれている神の恵みに感謝することから始められ
たとされています。この精神は次第に広がり、いつの頃からか、子どもを花にたとえてこの日
を『花の日』と呼ぶようになりました。」というのです。ではなぜ、その日が「子どもの日」
なのか、それが分かりません。そこでまた調べてみたところ、分かったのは、「子どもの日」
というのは国によっていろいろあるんだということで、日本と韓国は5月5日、中国は六一児
童節といって6月1日、カンボジャも同じです。ブラジルは10月12日ですし、ユニセフが決め
たらしい「アフリカ子どもの日」は6月16日、アンデルセンの誕生日4月2日は「国際子ども
の日」に定められています。誰が決めたのか、どうやら本屋さんの国際組織ではないかと思う
のですが、それとは別に国連の定めた「世界子どもの日」は11月11日という具合です。では、
私たちが守っている6月の第二日曜日というのはどんな曰くがあるのか、結局分からないまま
でした。前置きが長くなりました。本題の聖書の「野の花」のお話にはいりましょう。
少し前、NHKだったかの自然番組で、パレスチナ地方の砂漠に咲く野の花を見ました。普
段は不毛の砂漠ですのに、春になって雨が降ると、あっと言う間に芽が出て草が茂り、そして
ある日一斉に花が咲き出すのです。それは見事です。旧約聖書、雅歌2:11-12 の「ごらん、冬
は去り、雨の季節は終った。花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。この里にも山鳩の声
が聞こえる」という言葉はそのあたりのことをよく表しています。イエス様が「野の花がどの
ように育つのか、注意して見なさい(マタ6:28、ルカ12:27)」とおっしゃったのも、この春
の野の花が一斉に咲き出す不思議さ、見事さを踏まえてのことでしょう。そのときイエス様が
指して言われたのは何の花だったのか、知る術もありませんが、あるいはアネモネではなかっ
たかと言われています。アネモネは高さ15~30cm、4~5月頃、赤、青、白の花を咲かせます。
パレスチナの至る所に生育し、春の野辺を飾る代表的な花だとのことです。伝説によると、キ
リストの十字架刑以前には、パレスチナのアネモネはすべて白色か青色でしたが、ゴルゴタの
十字架から滴った血が、その下に生えていたアネモネにかかって以来、パレスチナのアネモネ
は目のさめるような真紅になったといいます。アネモネの他、考えられるのはチューリップ、
シクラメン、セイチカミツレ、ヒナゲシノの一種、白スイレン、ユリ、中でもシラユリ、イチ
ハツなどが考えられるとのことです。
で、これもテレビの画面で見たのですが、見渡す限り一面の野の花々は、また突然のように
枯れて消えてしまいます。それは、6、7月にかけて照り続く灼熱のため、また砂漠から来る熱
風のためです。そのために花は生命の無常の象徴とされるのです。まず、旧約聖書のヨブ記14
:1-2「人生は短く/苦しみは絶えない。花のように咲き出ては、しおれ/影のように移ろい、
永らえることはない。」詩編90:5-6「あなたは眠りの中に人を漂わせ/朝が来れば、人は草の
ように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい/夕べにはしおれ、枯れて行きます。」
詩編103:15-16 「人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消えうせ
/生えていた所を知る者もなくなる。」新約聖書でも、ヤコブの手紙 1:10-11「また、富んで
いる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去る
からです。日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいま
す。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。」 ペトロの手紙一1:24
「こう言われているからです。『人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のよ
うだ。草は枯れ、/花は散る』」と。このようにイスラエルの人々は、旧約の時代も新約の時
代も、花を単に鑑賞物として眺めず、人生との深いかかわり合いの中から、これを眺めたのだ
と言われています。
「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」と歌ったのは林芙美子でした。芙美子の本籍
地で、出生地だとも言われる鹿児島県東桜島古里温泉に、今その歌碑があります。日本にも、
花は儚いものと考える伝統があったのです。その中でも桜は儚いものの代表でした。例のイロ
ハ歌もそうです。「色は匂へど散りぬるを」です。匂うばかりに美しく咲いていても、すぐに
散ってしまうというのです。そうすると、洋の東西を問わず、花は儚さの象徴であったようで
す。花が儚くないのはかえって興ざめなことなのかも知れません。オーストラリアにいたとき
の、ある日、私たちは、その国の人々のお墓がどのようなものであるか知りたくて、パース市
のはずれにある大きな公園墓地に行ってみました。広大な墓地にずらっと洋式の墓標が並んで
います。遠くから見渡すと、実に鮮やかな美しい花が供えてあるのが見えました。しかし、近
づくにつれて、それらが鮮やかすぎること、一つとして枯れたもののないことが分かってきま
した。そうなのです。それらの供花はみんな造花だったのです。花のいのちを儚さのまま受け
取ろうとする日本人と、何とか克服しようとする西洋人の違いでしょうか、すくなくとも私は、
花が儚くないのは興ざめなことだと感じさせられました。
花は、しかし、儚さの象徴だけではありません。説教の後、讃美歌第二編の192番「シャ
ロンの花イェス君よ」を歌いますが、雅歌2:1-2に 「わたしはシャロンのばら、野のゆり、お
とめたちの中にいるわたしの恋人は/茨の中に咲きいでたゆりの花」とあり、イザヤ書35:2で
はさらに「花を咲かせ/大いに喜んで声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメ
ルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る」と歌われているよ
うに、喜び、栄光、輝きの象徴です。シャロンの花とはどんなものなのでしょう。気になりま
す。調べてみましたところ、次のようなことが分かりました。聖書巻末の地図6『新約時代の
パレスチナ』をご覧ください。シャロン、Sharon、というのは、地中海沿岸のヤッファ(現在
のテル・アビブ、言行録10:9、ペトロが幻を見た町)からカルメル山まで伸びる平原で、早春
は、芽吹く青草と、色とりどりに競い咲く野花によって飾られ、肥沃な牧草地でもあったとい
います。年間を通じて水のある数本の川が、平原を西に流れ、海に注いでいます。沿岸はナイ
ル川の土砂が潮流に運ばれ、そのため、砂丘が発達して川口をふさぐために平原に湿地が生じ、
古代には利用されないまま放置されていた。しかし現在では排水され、農耕地として開発され
ているとのこと。地味は肥え、地下水が豊富なため、オレンジの栽培に適し、農業的経済価値
の高い地域になっているそうです。このシャロン平原に咲く喜びの象徴である、「シャロンの
ばら、野のゆり」は水仙とグラジオラス(あるいはアネモネまたはサフラン)ではないかと言
われていますが、とりわけ美しかったので決まり文句として残ったと思われます。しかし、そ
のシャロンの花もまた、虚しさから逃れることはなかったでしょう。
そして、そのようにすべてが空しい中で神の言葉だけが永遠で確かであると言われます。司
会者が読んでくださったイザヤ書40:6-8です。もう一度読んでみましょう。「呼びかけよ、と
声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永ら
えても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。こ
の民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」そ
うです、「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」のです。
さて、ここまで私は、この世の花のことばかり話してきました。来世では、永遠の生命の許
では花はどうなのでしょうか。聖書にはその説明は見あたりません。佛教のほうでは、よく知
られているように、『仏説阿弥陀経』は仏の国の美しくすぐれたありさまを説きそこに往生し
たいとの誓願を起こして、阿弥陀如来にこころをこらすなら、臨終に当たって仏が面前に立た
れ、死してその仏国に生まれると教えています。その仏の国の風景ですが、これがまた詳しい
ので、すべてを引用することはできません。一部だけ紹介しますと、「まことに、舎利弗よ、
(中略)安楽世界には七種の宝、すなわち金・銀・瑠璃・水晶・赤真珠・瑪瑙と琥珀とからな
る蓮池がある。(中略)それらの蓮池には蓮の花が生じていて、青い蓮、黄色い蓮、赤い蓮、
白い蓮のそれぞれに、それぞれの色と輝きがある。(中略)花の周囲は車の輪ほどもある。
(中略) また、その仏国においては、夜に三度、昼に三度、天の曼陀羅華の花の雨が降る。」
と。以下延々と続きますのでこの辺で止めておきますが、仏の国の花は様々な色彩を持った蓮
の花で代表されるようです。
さて、あの世の花ということでは、どうしても触れておかないでいられないのは臨死体験に
おける「花野」のことです。よく知られているように臨死体験の中でも、この「花の野」の体
験はかなり普遍的であるようです。私の母方の祖父がした臨死体験の話、花が一面に咲いてい
る野原を歩いていて後ろから呼ばれ、この世に戻ってきた話は、98年9月6日の説教「使徒信
条から、死にて葬られ陰府にくだり」の中でもお話ししましたが、立花隆さんが聞き集めた臨
死体験の証言集『証言・臨死体験(1996、文藝春秋)』からの証言を読んでみます。
奥津浩美さん(証言当時57)、17,8歳の頃、一酸化炭素中毒で意識を失って倒れ、臨死体験し
ました。「気がつくと、川のところにいて、向こう岸にとてもきれいなお花畑が見えました。
とにかくきれいで、明るいんです。花はすべて黄色で、花のほかに緑がいっぱいあって、花は
緑の中に咲いていました。緑はきれいな緑で、それからものすごく強い黄色の光で、あたりが
パァーッと明るくなっていました。」その川の向こう岸に先に死んだお祖父さんがいて、浩美
さんは川を渡って行って、一緒に花を摘みたいと思ったのだそうですが、「浩美、浩美」と誰
かが呼ぶ声が聞こえてこの世にかえってきたといいます。山本江里子さん(証言当時27)は交通
事故で意識不明の状態が三ヶ月も続き、その間に臨死体験をします。「大きな川が流れていま
した。わたしはその川の中にいるんです。向こう岸には花がたくさん咲いていました。赤、黄、
紫、オレンジなど、いろんな色の花が咲き乱れていました。丈は三、四十センチくらいで、花
びらが丸くて、先っぽがギザギザになっていて、ポピーに似ている花でした。モンシロ蝶のよ
うな白い蝶とアゲハがたくさん飛んでいて、すごく暖かい感じだったので、ここは春なんだと
思いました。」
以上のような臨死体験を聖書の記事と同等に置こうとは思いませんが、人類に普遍的に経験
されている体験で、光りの体験や出迎えてくれる友人のこと、先程の証言にも出て来ましたが
三途の川とも思しき流れに遭遇することと併せて、多くの場合、美しい花の野がある、それは
決して無視できないことではないかと思うのです。お葬式ではなぜ花を飾るのか、献花するの
か、事故の現場が人々の捧げた花で埋まるのも無関係なことではないと思えます。私が死ぬと
き、イエス様は私にも言ってくださるに違いないと思うお言葉があります。ルカによる福音書
23:43のあの言葉です。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と
いうのです。一生悪いことばかりしてきたであろうに、最後の最後にイエス様にお縋りした犯
罪人に対して言われたこの言葉は、罪の赦しと救い、行くべきところへ行けるということを宣
言する言葉、いわば、キリスト教の引導の言葉です。口語訳聖書では「あなたはきょう、わた
しと一緒にパラダイスにいるであろう」でした。パラダイス、この言葉からあなたは何を連想
しますか。天国です。極楽です。花園です。そのような花いっぱいの美しいところに行けるこ
とを信じて安らかに生きていけることは大変な幸せです。平安時代末、鎌倉時代初頭の歌人、
西行は「願はくは花のしたにて春死なむその如月の望月のころ」と詠んで、その歌の通り建久
元年(1190年)の2月16 日、河内国の弘川寺で 73 歳の生涯を閉じました。私たちもイエス様の
いらっしゃるパラダイスの花の下に、死んで新しく生まれ変われることを信じて喜ぶ者です。
思うに、神様がお創りになったものは全てすばらしいのですが、その中でも花は最高に美しい
ものです。あの世はその美しい花で飾られている、そこへ行く道中も花いっぱいの野原だとい
います。行くのが楽しみですね。
(パレスチナ地方の植物に関してはキリスト新聞社版『聖書語句辞典』を参考にしました。)
Facebok田中 宏明さん投稿記事
「ねぇアジサイくん」「なんだい?」「君はもうすぐ枯れて 消えてしまうけれど」「うん」
「死ぬことは怖くない のかい?」「死ぬってなんだい?」「ええ?知らないの」「うん、知らない」「死ぬっていうのは 今の君の形が跡形も無く消えてしまうということだよ」
「それの一体何が 怖いんだい?」「そりゃこわいよ」「なぜ?」「だって死んでしまったら
もう友達とも遊べないし」「うん」「好きな人と一緒にいる ことも出来ないし 大好きなお菓子も食べられ なくなるんだよ」「うん」「それにきっとみんなが 僕のことを忘れてしまう」「うん」「それがたまらなく怖いんだよ」「ははは」「何がおもしろいの?」
「だっていつも君は 友達と遊んでいないから」「遊んでるよ!」「いや、遊んでなんかいないよ」「君は友達といる時も ずっと他のことを考えて いるじゃない」「そんなことないよ」「じゃあ、友達といる時 なぜふと虚しくなるんだい?」「ええ?」「友達が自分よりも
何か楽しそうなのを見て 君はふっと虚しくなるだろ?」「まぁ、たまにはね」
「それは本当に遊んでいるとは言わないんだよ」「君はずっと自分の劣等感や 相手と自分を比べる 「比較」と一緒にいるんだよ」「そんなことないよ!」「もしそうでなければ
本当に友達が幸せそうな時 なぜ一緒に心から喜べ ないんだい?」「そ、それは そうだけど」「それは好きな人と いる時もお菓子を食べる 時も同じなんだよ」「どういう事?」
「君は好きな人とも一緒にはいないし、お菓子も食べていない」「そんなわけないよ!」
「じゃあ君の好きな人が 他に好きな人が出来たら どうする?」「そ、それは嫌だよ」
「なぜ?」「だって自分のことを 好きでいてくれないと もう一緒にいれないじゃない」
「だろう?だから君は 好きな人と一緒にいたんじゃないんだよ」「どういう事?」
「君は君の所有欲と 一緒にいたんだよ」「そんなこと言っても 好きな人が離れていくのは
寂しいよ」「本当に相手が好きなら 相手の幸せを願うものだよ」「それはそうだけど」
「お菓子だってそうだ」「君はお菓子を本当に 味わっていたかい?」「そりゃもちろん」
「じゃあただ一心に 他の何にも気を取られずに ただお菓子だけを食べて いたかい?」
「いや、テレビを見ながら食べてたよ」「ほらね、それではお菓子と 一緒にいたとは言えない」「そのお菓子の色や質感や 歯触りや香りを覚えているかい?」「うーん、なんとなくは」「そう、君はそうして なんとなく生きているんだよ」「まぁ、そうかもしれないね」
「だから死ぬのが怖いのさ」「どういうこと?」「君は生を知らないんだよ」「でも、僕は生きているよ」「そうだね、ただなんとなくだ」「まぁ、そうかもしれないけど」
「生と本当に一緒にいる事が出来たなら」「死はどこにも ない事がわかるんだよ」
「どういう事?」「わたしは花になるまでの 全てのプロセスとずっと 一緒に生きてきた」
「小さな蕾が膨らみ はじめた時も」「最初に色づきを迎えたその瞬間も ずっと一緒にいたんだよ」「そうしてはわたしは ずっとその一つ一つの プロセスと共にいたんだ」
「だから今こうして 枯れていく時も変わらずに 共にいる事ができるんだ」
「でも、自分が消えていく のは怖いでしょう?」「いや、わたしの形が 無くなっていく時でさえわたしはそのプロセスと 共にいるよ」「でも消えてしまったら一体誰がそのプロセスと 共にいるの?」「そうか、きみは 肉体が自分だと思って いるんだね?」「そりゃそうさ」「ずっと「生」とともに いるとわかるんだよ」「何が?」「わたしは生きているのではなく 生かされているということが」「生かされている?」「そうだ、わたしは何も していないとわかるんだ」「どういうこと?」
「ひとりでに蕾が出て ひとりでに色づきがはじまり ひとりでに枯れていく」
「まぁ、たしかに そうかもしれないけど」「それは君たちも同じだ」
「ある日誕生して 身体はひとりでに育ち そしてひとりでに 年老いていく」
「それは君が したことかい?」「いや、僕では ないよ」「そうだろう?」
「じゃあ一体誰が しているというの?」「それを君たちの言葉 にするなら」
「何?」「それに一番近い言葉は」「だから何?」「愛だよ」「愛?」
「そうだ、あなたを生かし 成長させているものだよ」「それが愛なの?」
「そしてそれは 君自身のことなんだよ」「僕自身、、。」「愛は死なない」
「なぜ?」「愛は全てを創造する エネルギーだからだよ」
「でも愛って一体 なんのためにそんな ことをしているの?」「ははは、それは 誰にもわからない」「アジサイくんにも?」「そうだ、なぜなら愛は 理解するものでなく それを生きるために あるんだよ」「どういうこと?」「さっきも言っただろう?」「えーと何だっけ」「あらゆる瞬間と 共にいるということだ」「それが愛を生きる ということなの?」
「そうだ、生命力に 溢れている時も」「枯れて散りいく その瞬間とも 決して離れずに いるということだよ」「それが真に生きる ということなんだよ」
「真に生きる」「そうだ」「そして真に生きた人は 真に死んでいくことが出来る」
「どうして?」「その人は生の全ての プロセスを楽しんだからだ」「楽しんだ?」
「そう、だから生に 一切のやり残しがないんだよ」「そうなの?」「そうだ、だから
君もあらゆる瞬間を 楽しんで生きることだ」「熱が出てしんどい時も?」
「もちろんだ、生において起こる全てのプロセスを 味わいつくすんだよ」
「そんなこと出来るかな?」「なぁに簡単だよ」「本当に?」「ただ今を生きるだけで
いいんだから」「今を生きる?」「そう、今を生きた時そこに時間はない」
「でもいつか僕たちは 死んでしまうよ」「君が本当に死と共に いることが出来たら」
「君は死がどこにもないことがわかるんだよ」「それはただの 移行に過ぎないと わかるんだ」「本当に?」「では試しに お菓子を食べる時に それと共にいてごらん」「お菓子は君の口の 中で咀嚼されて 形を失うだろう?」「うん」「ではお菓子は消えたのかな?」
「ううん、僕のお腹に入って栄養になるんだよ」「死もそれと 同じだよ」「形を変えて生き続けるんだ」「でも一体何が生きているの?」「お菓子は何で出来ていた?」
「えーと、砂糖とか小麦粉かな」ではその砂糖と小麦粉は どこから来たんだい?」
「うーん、土かな」「では土は?」「うーん、地球かな?」「では地球は?」
「うーん、宇宙かな?」「では宇宙は?」「うーん、それはわかないよ」
「そうだ、わからなくていい」「どうして?」「宇宙が君だから」「僕?」
「そして宇宙を創造しているものが愛だ」「また愛か」「そうだ、ここで きみに質問だ」
「何?」「愛は死ぬと思うかい?」「いや愛は死なないよ」「どうしてだい?」
「今アジサイくんと話しをして感じたんだ」「何をだい?」「きっと全てが愛だということを」「うん、必ず感じるはずだよ」「どうして?」「なぜなら君が」「何?」
「愛そのものなんだから」 ワハハ🌈 らぶ💓
***
時の概念はとても大事です。和多志は ティーリッヒの「永遠の今」の影響を受けました。
火の鳥伝説も 心を揺さぶるものでした。
若き日 ニヒリストであった和多志は ニーチェがツァラトウストラとして語った「死後の世界はない」という言葉に安堵の息をつきました。
然し霊魂不滅(エネルギー不滅の法則)とも知るに至りました。
中学生の頃、和多志は生きる意味を探し続けても得られない故、ニヒリズムの淵に落ち込んでしまいました。
生きることも死ぬこともできない必死のあがきの中で 「生きる意味を問う」ことを放棄し 生かされているものとして 創造主の意志に沿うものとして「生き方を問われるものになろう」と決め 啓示宗教であるキリスト教に掛けて人生を歩み続けました。
しかし、キリスト教の時の概念が直線であることに疑問を持ってしまいました。
聖書改ざん説を読んだこともありますが イエスを殺そうとしたアウグスティヌスに原因があるとは驚きです。
世界の前と後ろを切り離すとはどんな意味でしょう?ローマ帝国だけが世界だったからでしょうか?異次元のものをこの世にもたらす役割とは啓示を受ける祭司の役割だということでしょうか?
「円環の生命観」とはあの世にこの世が包含されているということでしょうか?
神道はあの世(あめ)とこの世(うつしよ)を分けますが「ま」を至るところに見出し あの世とこの世を一つとして考えていたのでしょうか?
今・ここしかないといわれます。その今ここは永遠。高橋惠子さんは永遠の命を魂に根差した命と語っています。
坂村真民bot@shinminbot
大切なのは かつてでもなく これからでもない 一呼吸 一呼吸の 今である
thanatology@thanatology_bot
この世に生まれること、死ぬこと、みんな手品のようなものさ。今いたのに、もういない。神だけが永遠の実在で、他は皆はかない幻だよ。水だけが永遠の実在で、水の泡はできたかと思うと、すぐ消える。泡は水に帰る。水から生まれて、同じ水に帰る。(ラーマクリシュナ)
thanatology@thanatology_bot
人生とは、機会が与えられる永遠の「今」だ。魂には昨日も明日もない。(エドガー・ケイシー)
Facebok相田 公弘さん投稿記事
松本零士氏のSFアニメである『銀河鉄道999』は、主人公の星野鉄郎が永遠の命を得るために、「機械の体をくれる星」を目指して旅をする物語である。
ところが、ついに「機械の体をくれる星」にたどりついた鉄郎は、永遠の命を手にした人々の堕落ぶりに驚愕する。
何しろ永遠の命を約束されているのである。
今日やらなければならないことなど何一つない。
生きる意味を見出せない人々は怠け呆け、酒におぼれ、永遠の命を捨てて自殺する人までいる始末だった。
その様子を見て、鉄郎は「限りある命の価値」を知るのである。
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雑草に学ぶ「ルデラル」な生き方 稲垣栄洋 著 亜紀書房より
http://dokusume.com/modules/store/index.php...
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「限りある命の価値」
限りが有るということは、儚く悲しい事かもしれないけれど、限りが有るからこそ、美しく輝くものでもありますね♪
有限には、無限の可能性が秘められている!桜もアジサイも、ひまわりも紅葉も、日本人が愛してきた四季も、
移りゆくものを受け入れ、情緒的なとらえ方をしてきたからこそ、変化を楽しんでいられるのでしょう♪
この限りある人生、どう使い、どう生きるかは、自分で選択できます。
自分は一体何に時間とお金を使うのか?で、人生が決まるといわれています。
本を読んだり、自分を磨くことに、時間やお金を使う人でありたいですね♪
命も時間も有限ということを知れば知るほど、学びたくなるのは僕だけでしょうか(😊)b
最後に、道元禅師の問答をご紹介して終わります。
あるとき、弟子の一人が道元禅師に質問しました。
「仏教では、みな平等だと教えます。なのに何故、成功する人と成功しない人がいるのですか?」
道元禅師は答えます。
「成功する人は努力する。成功しない人は努力しない」
なるほど確かにそうだと思い、一度帰った弟子ですが、また一つ疑問が生まれます。
「人間にはどうして努力する人と、しない人がいるのですか?」
それに対し、「努力する人には志があるし、努力しない人には志がない」フムフム確かに、しかしまた問いが生まれます。「どうして志のある人と、志のない人が出てくるのでしょうか?」すると道元禅師はこう締めくくります。「志のある人は、人間は必ず死ぬということを自覚している。死を自覚して今を生きていこうとする。志のない人は、死の自覚がない。
故に軽薄で、いい加減な生き方をしてしまう」
今日の話が、皆様のお役に立てれば幸いですm(_ _)m ※魂が震える話より
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