うつせみの茅の輪を潜るけむりかな

Facebook田中 宏明さん投稿記事

昔に比べると人生をずいぶんとリラックスして生きていけるようになりました^ ^

その要因の一つにあるのは「固定された自分 などいない」という、感覚が定着して来たことが大きいと思っています

人は通常自分という存在は過去から継続している一つの人格だと思っています^ ^

でも、毎日自分の内側を覗いているとそうではない事がわかります

それはまるであらゆる電波を広い集める受信機にそっくりです

ある瞬間は未来のことを考え ある瞬間は 憎しみを感じ ある瞬間は 性欲でいっぱいになり ある瞬間は 憂鬱になり ある瞬間は 反抗的になり ある瞬間は 怒りに震えて

ある瞬間は 誰かの評価を気にして ある瞬間は 人のために 尽くしたいと思い

ある瞬間は こんな自分では 駄目だと感じています

もしあなたが 普段から快活で行動力に 溢れた人だったら 憂鬱や怠惰が自分

の中にムードとして 湧起こって来たら おそらくは いつものように 快活ではない自分に

戸惑うでしょう なんだか いつもの自分 らしさが感じられないからです

そして こんな自分では 人に会いたくないと 感じるかもしれません

相手が自分に求めているパーソナリティに応えられそうにないからです どうでしょう^ ^

そんな事って ありませんか? ある意味で多くの人は自分らしい自分を演じている役者の

ような者です そして社会は常に 一定した人格を 求めています

人格が安定していることは 社会人としての 必須条件であり あらゆる企業や組織は

そういう人を求めています

誰しも調子のいいうちはその人格を保つ事が出来ますが人の感覚は常に移り変わっていきます

誰も一定の人格でいることなど出来ません

だから常に一定した人格であろうとすることはとても強いストレスになります^ ^

だからといって気分にムラがある人はあまり好かれません

気分にムラがある人というのはある意味では素直と言えますが実際は深い自己否定の感覚が強い人が多いように思います自分の軸が普通の人よりも不安定なので外側の要因に影響を受けやすいのです

僕が言っている固定した自分など いない」というのは、そういった気分のムラとは違います

それは一つの「視点」なのです 自分に湧き起こる感覚を見ている視点です

怒りや喜びが 自分に湧いてきたら それを「見ている」という視点です

ああ、今自分にこんな感覚が起こっているなぁ 普段の感覚ではないけれどまぁ、これでいいや ^ ^ だってそれは 自分でコントロール出来る ものではないから

そんな「視点」を 持って自分の感覚を 見つめると そこに深刻さが生まれないのです^ ^

さらに言うなら 感情に巻き込まれる ことも少なくなります

怒りが起これば それが起こっているし 喜びが起これば それが起こっているだけです

こんな風に 言うと「なんだか 冷めている人なんですね」と言われる事もありますが

そうではありません^ ^それに一番近い感覚を言葉にするなら「平安」という言葉がそれに近いと思います

もしくは静かで穏やかな気持ちと言ってもいいでしょう

怒りを楽しみ 喜びを楽しみ 執着を楽しみ 嫉妬を楽しみ 情欲を楽しみ 悲しみを楽しむ

そんな人間に 備わっているあらゆる 感情を それに巻き込まれずに 味わっている

そんな感じです^ ^

もちろん瞬間的に巻き込まれることはありますが でも、すぐにまた距離をとって眺めます

これはまさに練習のたまものです

僕はよく心の筋トレと呼んでいますがまさにこの「視点」も継続して練習することで

定着していきます^ ^ つまり誰にでも出来るんです

後はやるか やらないか 続けるか 続けないかだけの 話しです^ ^

ただ人生において これ以上に有意義な 練習はないと思っています

なぜなら 本当に人生が変わるからです

お金持ちになったの 恋人が出来たの 貧乏になったの 恋人に振られたの といった

外的要因に影響を 受けなくなってくると 人はただ 存在しているだけで 至福に満ちている ことに気づきます

そうなればお金があろうが 少なかろうが 恋人がいようが いなかろうが それは本当にどちらでも 良くなってくるのです

ただおおむね 内なる「平安」を感じ出した 人は人生が好転して行きます

人もお金も 気分にムラのない リラックスした 人が大好きだからです^ ^

どうせ生きるならそんな人生がいいですよね^ ^

とまぁ、暑い日が続きますが皆さまも素敵な一日を🌈ワハハ🌈らぶ💓

*****

卑屈やコンプレックスは 自分と他人を区別し、無智ゆえに「自分だと誤解している自分」だけを愛する自我執着によると言われます。

縁起の法ではすべては相互に依存し 他から独立した固定した実態は無いと教えられ、観音菩薩の教えでは 全てのものは仏の胎児であり、仏になる存在だと教えられました。

これが本来の自己イメージのはずです。

宇宙の有機的な相互作用はよく 小宇宙といわれる人体に譬えられます。

目には目の役割があり 排泄物には排泄物の役割があり 善悪を超えて 優劣を超えて 全体のバランスを保ちます。

然し排泄物にはなりたくないと思っている方は多いのではないでしょうか?

それでも自業自得、カルマの法則に従えば 顕在意識の願いを超えて 自らの願いが 自らを排泄物に仕立て上げているといえます。

昔 結婚式に参列した時 新カップルへのはなむけの言葉として

「胸のオシャレなハンカチではなく 足元の雑巾になる喜び」という話を聞いたことがあります。

雑巾は一見汚く、胸の飾りには決してなりません。然し穢れをふき取り、全てを浄化してゆきます。黙って耐える奉仕の心を象徴します。

言いかえれば愛するものの幸せを自らの幸せとする 喜びを生きる姿とも言えます。

ハンカチも雑巾も自らが選択する役割です。

唯識論では 全てのものは心の現れであると説きます。

排泄物であることもハンカチであることも 心の現れであるということです。

言いかえれば自分だと信じている通りに 自分が現れてくるとも言えます。

「自分だと信じている自分」は「自己イメージ」とも言いかえられます。

イメージがどれほど 自分の存在そのものを規定しているか見てみましょう。

アメリカで死刑囚に対してした実験があります。

被験者として応募した全員に目隠しをし 手首に刃物で切ったような刺激を与えます。(もちろん実際はきっていません)まるで手首から血のしずくが滴り落ちることを連想させるように 水滴が落ちる音を聞かせると 全員死んでしまったという報告です。

また薬のプラシーボ効果はあまりにもよく知られていることです。

全てのものは心の現れであると言われる以上 100% 望めば叶わないことはないとも言えるわけです。

逆に望まないのに 現象として 生じていると見えることは 潜在意識が望んでいることが形になったと考えられるわけです。

潜在意識、マナ識には自覚できない信じ込み 色眼鏡、仮面がひそみ続けます。

パーソナリティという言葉をご存じですね。その語源はペルソナ、仮面、役割という意味です。

社会に生きる以上 役割を負い、仮面をつけ続ける必然性があるわけです。乳児として、子どもとして、大人として、男として、女として、日本人として、、、、、、数えあげるときりがありません。

ですから潜在意識と顕在意識が真反対の願いを持っていたら 顕在意識の願いは決して決して叶わないということです。

潜在意識と顕在意識が乖離していて 顕在意識で頑張れば頑張るほど 心のアクセルとブレーキは同時に踏まれ続け 卑屈コンプレックスから 無気力にさらに自責の念、自己嫌悪、自殺と行きついてしまいます。

卑屈コンプレックスを超えるには 優劣に対する視点変更、マナ識の浄化、カルマの清算、自業自得の知恵が大切だと言えます。

それにより 誤った自己イメージから解放されるとも言えます。

優劣に対する視点変更は 「競争原理に従えば劣って見える人」が 「共生原理に従うと優れて見える人になる」そんな視点変更ともいえます。

自己一致、自分を愛すること(足るを知る=自分の役割個性を知り 利他のために生かす道を歩むこと)がベースにあれば 卑屈コンプレックスの罠にはまらずに済むのではないでしょうか?

コズミックホリステック医療・現代靈氣

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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