言の葉も茂りて室の八嶋かな

https://ameblo.jp/lifeskills/entry-12283925472.html 【天地創造】より


母なる大地にそよぐ風。風はルン、神の息、聖霊ともいわれます。

風が肉体に入って 命をいただく。新しい風を寿ぎ希望を受け取り 豊かに育まれる和多志たち。風は氣、氣運とも呼ばれます。

和多志が出会った天地氣運は天軍の歌を歌い 自らの意志を語ります。

和多志は 創造主の波動は 創造主がスピン(全ては自転・公転。光は波動であるとともに回転する粒子)で謳い交わすことで 生まれると(内なる声から)聞いています。

創造主の波動は原子さえも動かすほど 超微細だということです。

倍音は低音(低周波)である程 生じやすいことは周知の事実です。 

自分の脳波を鎮めれば 他の波動と共振しやすくなります。

全ては自転公転をするゆえ 風はどこにでも存在します。

光は叡智、水は愛、土は母なる大地と言われ、人間は土の塵から創られ、神の息(風)が吹き込まれて生きたものとなり(息の仕方は生き方とも言われます)、やがて塵に返る存在です。

経絡は氣の通り道であり「氣の滞りは病となる」とはよく知られていることです。

ストレスは任脈を詰め、氣を滞らすといいます。 

地球に存在する命とエネルギー、存在の源は太陽であり、天照大神、大日如来、など 太陽は信仰の対象とされてきました。

初日の出を礼拝する慣習も存在します。  セドナで日の出の瞑想をしたことがあります。

日の出の神々しいさまを観たくてもサングラスを持たない和多志は サンバイザーを用意しました。サンバイザーを通してみる日の出の荘厳な様に感動し、涙が溢れました。  

そこに赤い竜を観ました!!!

後ほど知ったことですが 赤い竜は尾骨にあるクンダリー二エネルギー(生命の根源エネルギー)の象徴とされます。竜は魂をくわえるとも言われます。

セドナでのこの体験は 太陽から生命エネルギーが降りてくるさまを目撃したと言っても過言ではありません。太陽はお天道様と呼ばれ 天そのものの象徴です。

無条件に誰にでも同じようにエネルギーを送り続けます。

和多志の生きているここでは 生命エネルギー(プラウナ)として魂の成長を助けていただいているのではないかと思います。

アニミズムは幼稚な信仰と考えられていますが 言葉による汚染を受けない 頃の 素直な魂感覚と言えるのではないかとも思います。


Facebook森井 啓二さん投稿記事

太陽の暖かさと心身の温かさ、大空に広がる空気と肺の空気、山を吹き抜ける風と呼吸、

海の水と身体の体液、清流の水と血液の流れ、身体を構成する素材と大地も、全く同じもの

多種多様な大自然も、広大な宇宙も、私たちの体も、たった5つの要素(地・水・火・風・空)から構成されている。

てんぷらうどんでさえ、5つの素材では作れないのに、

たった五つの要素からすべてを創り出してしまう神の創造エネルギーの素晴らしさは、想像を絶します。

「精解 神の詩」最新刊は来月発売予定 かも。


Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事

風のように

 人生に穴があく、という言葉で、人生に起きた「辛さ」を表現した方がいました(からだにぽっかり穴があくという感覚もあります)。

 その、人生に開いた穴から、これまで見えなかったものが見えたというのですね。穴のおかげで見通しがよくなった、気づきを得たとのことです。穴からしか見えない景色があるのです。

佐賀は有田の生まれで、若くして亡くなった歌人に笹井宏之という方がいます。15歳ころに発症した難病でほとんど寝たきりという生活となり、その後、佐賀新聞に短歌を投稿されるようになりました。

えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい

切れやすい糸で結んでおきましょう いつかくるさようならのために

透明感にハッとします。あいた穴から、風が吹きぬけているようです。読み手には、その繊細さが心地よいのですが、そこには等価な耐えがたいものがあります。その耐えがたい苦しさを優しい言葉に変換していくのが、彼の澄んだ魂なのでしょう。

いまさらに表現ということを考えます。自らの魂をどう表現するか。文芸とか芸術だけでなく、私たちの「日常」との付き合い方にもあることですね。美しく生きていくということです。


Facebook相田 公弘さん投稿記事

「二つの花を間違うな」というお話です。

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伝えるという意味で参考になるのは、室町時代に世阿弥の著した「風姿花伝」です。

「風姿花伝」は650年前の単なる能の古典ではありません。

現代人につながる言葉、ヒントが詰まっています。

人間の本質とか、人間の考えというのはいつの時代も、何百、何千年の時空を超えて通じるものがあり、それを一冊の文献として世阿弥が残したものです。

世阿弥は何も世間一般に発信するためにメッセージを残したのではありません。

能という芸術が100年以上続くよう、彼がその人生をかけて得た蘊奥(=奥義)を後世に残したのです。

舞う人がどう舞えば、人に伝わるか、能にはどういう役割があるかなどが書かれています。

それが現代の我々に普遍的なメッセージとして強く響いてくるのです。

同書で私が最も共感した教えは、人間は自己を更新し続ける努力を惜しむべきではないという一点です。

何が大事かと言えば、謙虚さや真面目さです。

「風姿花伝」には「時分の花(じぶんのはな)」と「まことの花」という言葉が出てきます。

時分の花とは、若い人が持つ若さゆえの鮮やかで魅力的な花のことですが、盛りが過ぎると散ってしまいます。

これに対し、まことの花とは日々の鍛錬と精進によって初めて咲く花を指します。

人間は修業によって本当の花になって感動を与えられるようになるのです。

世阿弥はこの二つの花を間違うなと言っている。

若い時分に脚光を浴びることを自分の本当の実力だと慢心するなかれというわけです。

90秒にかけた男 ジャパネットたかた創業者 髙田 明 著 日経プレミアシリーズ

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世阿弥は「初心忘るべからず」という言葉をのこしました。

この言葉は、初めの頃の「やるぞ!」っていう意気込みや「志」、気持ちを忘れないように・・・ではないそうです。

世阿弥が言った本質は、最初の頃の「未熟な自分」、「初心者の頃のみっともない自分」を折にふれて思い出すことにより、「あのみじめな状態には戻りたくない」と思うことでさらに精進できるのだ、と世阿弥は説いています。

芸の未熟な自分をも支えてくれた人達が大勢いるのです。

自分で自分を見つめ直し、未熟な自分を支えてくれた人達に少しでも恩を返せるように精進し、いつまでも謙虚でいなさい!ということです。

そして、芸を極める上で「謙虚さ」の大切さをこのようにいいました。

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どんな滑稽な役者であっても、もしその演技によいところを見つけたら、上手な人でもそれを真似るべきです。これは道を極めるための、第一の方法でしょう。

世の中には、もしよいところを見つけても、自分より下手な人間であれば、その技術を取り入れてはいけないように考える常識があります。

ただ、そうした狭い心に縛られているのでは、どうあっても自分の欠点を知ることはできなくなります。これは能において、「極めることを不可能にする心理」です。

また下手な役者も、もし上手な役者の悪いところに気づけば、「上手な人にも欠点があるのだな。だとすると、初心者の自分であれば、さぞや欠点は多いのだろうな」と考え、そのことに恐怖を抱き、他人に自分の芸のことを尋ね、芸に工夫を凝らすようになっていくでしょう。

稽古にもいよいよ励むようになり、他の技術はすぐに上達していきます。

これをやらず、「上手い役者かもしれないが、オレはあんなふうにおかしな演技はしないぞ」と、自分のことを棚に上げて慢心するばかり。

自分のよいところすら本当にわかっていない役者とは、だいたいこのようなものなのです。

自分のよいところを知らないと、悪いところも「よい」と思ってしまいます。

この状態だと、どんなに年数を経ても、能の腕は上がりません。

下手な人の心のうちとは、こういうものでしょう。

「風姿花伝」(世阿弥 著 / 夏川 賀央 訳 / 致知出版社)

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自分はまだまだ未熟だなあと思える人は、成長が止まりません。周りと比べていないのです。

なりたい自分や目標に対して「まだまだ」と言っている。少しずつでも成長し続ける人には敵いませんね♪

コズミックホリステック医療・現代靈氣

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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