「宮沢賢治」と「ゴッホ」

https://ibuhato.blog.fc2.com/blog-entry-1509.html 【宮沢賢治とゴッホに繋がりがあった、ということ知ってました?】より

ゴッホ自画像 (撮影 オルセー美術館にて)

地元 岩手の詩人 「宮沢賢治」と「フィンセント・ファン・ゴッホ」 との繋がりについて、これほど難しいことを、わたしごときが書けるわけがない。書くなんて、身の程を知らない!と頭の隅に追いやっておりましたが、このタイミングで書かないで、いつ書くの?というような、大きな波が、うねりが、やってきました!

先日発表の直木賞 「銀河鉄道の父」(門井慶喜著)これは、賢治の父のお話

芥川賞は 「おらおらでひとりいぐも」(若竹千佐子著)若竹さんは岩手、遠野市出身。

題名の「おらおらでひとりいぐも」は賢治の詩「永訣の朝」での妹トシの言葉。

今、なぜか賢治にスポットライトが!

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そして、東京都美術館では「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢。」「ゴッホ 最後の手紙」という映画も上映中。

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ということで、わたし流、平易な言葉で、分かりやすく(というより、わたしの頭で理解できるレベルで)書いてみることにします。

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先日、映画「ゴッホ 最後の手紙」では、ゴッホの作品が動き出すという新感覚に酔いしれました。映画、冒頭の動き出す作品が この「星月夜」

(星月夜)(夜のカフェテラス)(糸杉と星の見える道)(オーヴェルの教会 ・ 撮影 オルセー美術館)その他たくさんの作品が動き出し 視覚的にも心理的にも、迫りくるものありました。

そして最後の最後が、一番見たかった「ローヌ川の星月夜」(オルセー美術館で、この作品はオランダに貸し出されていて、見られなかった!)

(ローヌ川の星月夜)

初め、星だけが大映しされ、「あっ?ひょっとして、ローヌ川の星月夜?」徐々に絵が下に動き、黄色いガス灯と欄干、そして川に映る灯り、河原の二人が現れた時には、感涙しそうに。

ゴッホの難解な生きざまに、理解しがたく 頭が混乱状態でしたが、最後のこの絵の登場で、高揚し、熱い気持ちで余韻を楽しむことができました。

(上の絵画の画像は、絵葉書を画像にしたものです。)

「星空」の描かれている絵が多い、ということに気づきます。この星空が、「銀河鉄道の夜」へと~~???

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ゴッホ展 巡りゆく日本の夢・東京都美術館

パリ時代とアルル時代前半に、浮世絵や 日本に関する文献を集め、日本に高い関心を寄せていたゴッホ。パリ万博をきっかけとして巻き起こった日本芸術熱「ジャポニズム」は、印象派への影響大だったようです。そういえば、モネの浮世絵コレクションも有名です。

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数年前のことです。花巻市胡四王山にある リニューアルされた「宮澤賢治記念館」を訪れた時、(玄関前の花壇には、バラ、グルース・アンテブリッツ の蕾が、開花を待っていました。)以前、モリスと賢治とのつながりを勉強したことで、それまでとは ちょっと視点が異なり、賢治が岩手国民高等学校で講義した「農民芸術概要綱要」 などを、しげしげと、読んでみたり、、、その時、ふと、流れる映像の中に一瞬ですが、ゴッホの「星月夜」を見つけ、なぜ?なぜ?え?賢治とゴッホと関係があるの?

(流されていた画像 ゴッホの「星月夜」)

わたしは 賢治と同じ花巻に生まれ、小さい頃より、必然的に郷土の偉人、賢治について勉強する環境にありました。そのおかげで、浅くではありますが、賢治のことは大体は知っているつもりでおりました。ところがところが、あの偉大なゴッホと賢治とがつながっている?

この歳にして、それは初めて知ること!けっこうな衝撃でした!

(このブログを見てくださっている花巻出身、岩手出身の方たち、知ってました?知らなかったでしょう~?)と、ふたりの接点が気になりだしたのでした。

ゴッホは1890年に37歳で亡くなり、その6年後賢治は生を受け、やはり37歳で亡くなる。2人は 生前その作品が売れることはなく、作品が認められたのは、亡くなった後である、ゴッホは弟テオを愛し、賢治は妹トシを愛す、また、宗教との関わり等 共通点があった、ようです。

そして、わたしが最も興味を持ちましたのは、ゴッホが弟テオに宛てた600通もの手紙の中の「汽車に乗ってタラスコンやルアン行くように、われわれは星へ行くのに死を選ぶのかもしれない。生きているあいだに星の世界へ行けないのと、死んでしまったら汽車に乗れない・・・・・」(難解な手紙です わたしには理解不可能)

などの文章から賢治は あの、「銀河鉄道の夜」 をインスピレーションしたのでは?という説です。

また、賢治は「ゴオホ・サイプレスの歌」として四首の短歌を残していることから、ゴッホについて勉強し、強く惹かれていた、ということは容易にわかります。

以上のこと等をふまえ、あらためてゴッホの描く「星空」の部分をじっと見つめていますと、

なぜか、汽車が煙をはいて登っていくのが見えてくるから不思議です~

ウィリアム・モリスと賢治との関係を調べた時もそう思いましたが、賢治は、モリスでもゴッホでも、興味のある全てにおいて、本を深く読み文献を読みあさり、絵画を鑑賞し、という紛れもない猛烈な勤勉家であった、ということ。

直木賞の「銀河鉄道の父」でも、とかく賢治は裕福な家庭に育ち、いわゆるお金持ちのボンボンとして育ったという言い方をされます。

が、裕福な環境にあり、才能があったとしても、彼の勤勉さ、探求心等がなければ

素晴らしい作品として世に残ることはなかったでしょう。岩手の誇る偉人です。

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賢治記念館は、」昨年、また、リニューアルされた様です。行ってみます。

モリスについて、展示されていたなら、嬉しいのですが。

皆様も、行かれた時は、ゴッホの映像を探してみてください~


https://www.cf.ocha.ac.jp/archive/ccjs/sympo/sympo13/paper7.pdf 【宮澤賢治とファン・ゴッホ】より

国際日本文化研究センター・総合研究大学院大学教授 稲賀 繁美

本報告の前半では、ファン・ゴッホと宮澤賢治とに焦点をしぼり、一方から他方への影

響という次元にとどまらず、相互照射によっていかなる作品の解釈が可能となるか、実験

的な解読を試みたい。宮澤賢治がファン・ゴッホの作品に白黒の 図版で接し、そこから直

接的な霊感を得、ファン・ゴッホに言及する詩作をなしたことは常識に属する。だがそこ

でなぜ賢治はとりわけ《星月夜》のイメージに強く惹かれたのだろうか。

「ゴオホ・サイプレスの歌」を含むのは『春の修羅』だが、宮澤賢治は、オランダの画

家もまたひとりの修羅であることを見抜いていた。そこで糸杉のイメージは、賢治にとっ

ていかなる啓示だったのか。聖なる山、天に聳える頂、空にむかって身もだえするように

伸びる樹木の肖像。そのかなたに輝く星と月と。それらのイマジュリーは賢治の詩的宇宙

にどのように接木され、独自の展開を示していったのだろうか。

さらに自己犠牲による世界の幸福という強迫観念が、ファン・ゴッホと宮澤賢治におい

て、共通の夢想となり、そこには、死生観にいたる共鳴がみいだされる。ふたりの宗教的

藝術家の、星空への憧れは、どのように彼らの想像力に働きかけていたのか。その脈絡に

迫ってみたい。さらに藝術家を星の輝きに譬える系譜のなかで、ファン・ゴッホの事例が

宮澤賢治とあい照らしあう関係に置かれた、という日本の状況にも検討を加えたい。

後半、あるいは全体討議では、ファン・ゴッホの日本での受容がいかに民国期の中国に

おいて翻訳され、伝承されたかを扱いたい。20 年代の上海を中心とするモダニズムの潮流

のなかで、いかにファン・ゴッホは東洋の画人として尊重されるようになったのか。それ

はひとりファン・ゴッホに孤立した現象だったのか。近代の東洋にあって、ファン・ゴッ

ホの受容とはいかなる意味を担っていたのか、に話題を広げつつ考察を試みたい。


https://www.youtube.com/watch?v=VyYJOi3X898

https://book.asahi.com/article/14351424 【宮沢賢治「銀河鉄道の夜」 不条理な死を受け入れ、明日を生きる】より

平田オリザが読む

 私の名前「オリザ」はラテン語で「稲」という意味で、戦中派の父が、どうか息子は食いっぱぐれがないようにと、宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」からとってきたらしい。

 宮沢賢治は一八九六年、明治三陸大津波の年に岩手県花巻に生まれ、一九三三年、昭和三陸大津波の年に三七歳の若さで亡くなった。生前はほとんど評価はされず、没後、遺稿の出版が相次ぎ急速に知名度を高めた。

 「銀河鉄道の夜」は一九二四年に着想、執筆。その後も推敲(すいこう)、改訂が繰り返され、現在流布しているストーリーは、戦後もしばらくして発見された第四次稿と呼ばれる作品である。

 物語はジョバンニとカムパネルラという二人の少年が、銀河鉄道に乗って宇宙を旅する形で進んでいく。そして結末、カムパネルラは川で溺れそうになった友人を助けようとして亡くなっていたことが明らかになる。

 この不思議な童話は、多様な解釈を許容する。私は、この作品をフランスで上演した際、一人の少年が旅を通じて様々な人と出会い、そのことによって友人の死を受け入れ成長していく物語として劇化した。

 カムパネルラは、いじめっ子のザネリを助けるために溺死(できし)する。それは極めて不条理な死だ。最終盤、カムパネルラのお父さんは「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから」と息子の死を受け入れ、「ジョバンニさん。あした放課後みなさんとうちへ遊びに来てくださいね」と気遣いさえ見せる。

 親しい者の死を受け入れることは、宇宙を一周、経巡るほどに時間がかかる。それでも私たちは他者の死を受け入れ、明日を生きていかねばならない。津波という理不尽に命を脅かす災害が、賢治の作風に無意識の影響を与えていたのかもしれない。

 宮沢賢治は、大正文学の牧歌の時代から昭和前期の文学の混沌(こんとん)への端境期に、東北の片隅で生まれた小さな種だった。しかしこの種は死後、美しい大輪の花を咲かせることになる。=朝日新聞2021年5月15日掲載

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