心の内を俳句が受け止めてくれる

https://fragie.exblog.jp/33441938/ 【自身の心の内を俳句が受け止めてくれることで、何度も救われました。】より

秋海棠。暗がりに咲いていることが多いが、花の色はまことにあざやかで人目をひく。

艶やかにして野趣がある。

講談社版の『日本大歳時記』(水原秋櫻子・加藤楸邨・山本健吉監修)の「秋海棠」の解説の項目をみていたら、飯田龍太の解説である。

「(略)一茎を折って花瓶に挿すと、素人でもそのままさまになる。花期は初秋。湿気のあるところを好み、控え目の花だが、雨の日でも案外凛とした姿を保っている。秋海棠といわれれば、なるほど海棠の花に似たところはあるが、しかしこの名は適切を欠く。実物にふさわしい、もっといい名前にかえられぬものか。」

俳人・飯田龍太は、この名前がやや不満でおられたようだ。こんな率直な解説もおもしろい。

この「秋海棠」は、「断腸花」という別名をもつ。

しかし、この歳時記では、傍題としても記していない。

「断腸花」はもっと論外ということなのだろうか。

手許の歳時記をいくつか当たってみたのだが、「断腸花」を傍題としているのと、そうでないのとがある。

なにゆえ「断腸花」の別名をもつのか、知りたいと思ったのだが、手許にある歳時記をしらべた限りでは、その由来に触れているものはなかった。

もうすこし調べてみようかとは思うが。。。。

 そのほとり秋海棠の濡れ易し   後藤夜半

新刊紹介をしたい。

塙千晴句集『おかへりの声(おかえりのこえ)』

四六判小口折表紙帯有り 192頁 二句組。

著者の塙千晴(はなわ・ちはる)さんは、1974年兵庫県生まれ、2007年に「知音」に入会、2014年「知音」同人、俳人協会会員である。本句集は第1句集であり、知音代表の行方克巳氏が帯文を、西村和子氏が序文をよせている。

 しやぼん玉膨らみたくて歪みをり

地球ほどのしゃぼん玉を吹こうとする。いやいやをするように、ゆっくりと膨らんでゆく、――次の瞬間壊れてあとかたもなくなるかもしれない。(略)仕事と家庭を両立させながら、千晴さんはきっと彼女の世界をしっかりと切り開いてゆくことだろう。

行方克巳代表の帯より抜粋した。

西村和子代表は、塙千晴さんの初学のころからの俳句から現在にいたるまでの句を丹念にとりあげ、鑑賞をしている。ここでは句集名となった一句についての鑑賞を紹介したい。

 かなかなやおかへりの声もう聞けぬ

「おかえり」と迎えてくれるのは家族だけだ。この句からだけでは詳しい事情は分からないが、実家の亡きお母さんのことを詠んだものだ。結婚して十年以上たった頃でも、作者が実家へ行く度にお母さんは「おかえり」と迎えてくれた。息子娘に関わらず、母親とはそうしたものだ。しかしもうその声は聞けない。その悲しさと寂しさと虚しさをかなかなの声が語っている。

句集名になった句であることからも、この句集を編む一つの契機になったことが偲ばれる。

本句集の担当はPさん。Pさん曰く、「母恋いの句集です」と。

Pさんの好きな句は、

 夜濯のシャツ手のひらにはりつきて    追ひ抜かれ追ひ抜き返し街薄暑

 生命をもてあまし馬冷さるる       母見舞ふ桜の写真撮りためて

 鳥帰る小さきものこそ逞しき       出勤の喉に張り付く寒さかな

 夜濯のシャツ手のひらにはりつきて

作者自身のシャツだろうか、それとも夫のシャツか、仕事から帰って汗まみれとなったシャツを洗濯する。昼間の仕事務めの身体はかなり疲れてはいる。洗濯をしたシャツが疲れて脱力した腕にはりついてからまる。腕にべったりとはりつくシャツは重たい、しかし、その冷たさは気持ち良くもあり、身体を潤してくれるようでもある。この一句は、心情的なことにいささかも触れていないが、作者の肉体感覚とその心情がヒシヒシと伝わってくる一句だ。ひたすらな描写が、「夜濯ぎ」という季語をじつにリアルにさせている。わたしも好きな一句である。

 追ひ抜かれ追ひ抜き返し街薄暑

会社勤めをしている作者である。本句集にはそんな務め人である自身の状況を詠んだ句が散見する。〈残業の夜ふけの窓に春時雨〉〈男らと競ひ干したり生ビール〉などの句から想像するに、生ビールのみならず、男性と肩をならべて仕事をされてきた方のよう。現在は役職にもついておられるようだ。掲句は、まさに出勤途上のことか、上五中七によって、そんな緊張感がみなぎっている一句だ。だってそうでしょう、普通、ショッピングや遊びで街をあるいていて追い越したり追い抜かれたりするという意識ってまずない。ゆったりと街をたのしみながら歩く、この句の状況はまさに会社人としての一句。「追ひ抜かれ追ひ抜き返し」で一気によみくだし、「街薄暑」で言い止める。うっすらと汗をうかべた作者の貌がみえてくるのでは。〈出勤の喉に張り付く寒さかな〉も、「喉に張り付く」の措辞が緊張の一日がはじまることを暗示している。

 曖昧な笑みを浮かべて新社員

これはわたしがおもしろく詠んだ一句である。西村和子さんは、序文でこの句やほかにいくつかの句をとりあげ、「冷静な人間観察と、人間関係を客観的に把握することのできる大人の視点を感じた。」と記されている。わたしはこの一句の「曖昧な笑み」が、おもしろいと思ったのだ。曖昧な笑みと感じた先輩社員である作者、新社員もそうやや硬直した笑顔だったのだろう。そりゃそうだわ、新しい会社にはいって緊張は極度に達し、しかし、笑顔をつくって明るくできるだけ良き印象をあたえたい。緊張の果てにつくった笑顔である。その笑顔をつかさず、作者は一句にしあげたのである。先輩社員の余裕である。ちょっと面白がっている作者であるかもしれないが、決して、冷徹な先輩ではないとわたしは思いたい。あるユーモアをもって新社員諸君を見ているのだ。しかし、「曖昧な笑み」は巧みだと思う、新しい組織のなかに組み込まれて緊張する若者の心根が見えてくる。

 桃色の傘差す男夜の雪

この一句、ものすごく勝手な鑑賞をしてしまうけどお許しねがいたい。「桃色の傘差す男」が目の前にいる。作者の目はその男に釘付けとなった、(とわたしは妄想する)。黒々とした夜の闇に降り続く雪の白さ、そしてあざやかな桃色の傘。なかなか色気のある男とみた。映画の一シーンのような印象的な場面。で、わたしはさらに妄想をしてしまうのね、この句下五が「雪の夜」だったら、それはもうなんというか、桃色の傘の男とこの作者はただならぬ関係へと発展していくこと間違いない、なんという甘美な夜であることよ。しかしである。この句「夜の雪」であることによって、その関係性は一変する。この桃色の傘の男は、すっーと作者の傍らを通り過ぎて行く。美しい一瞬の出会い。桃色の傘の残像をのこして、すべてが過ぎ去る。まことにわたし好み。「夜の雪」の下五に、わたしはぐっときたわけ。

 隙間風忘るる母の饒舌よ

この句「隙間風」が季語である。おもしろい一句だ。母の饒舌と隙間風との関係、一見なんの関係もなさそうであるが、隙間風をわすれさせるほど、(というのもすごい)母は娘に喋りつづけているのだ。久しぶりに帰ってきたわが娘に、話したいことはそれはもうたくさんある。そんな母の一方的なおしゃべりを娘は、ひたすら無心に聴いている。部屋にはいったとき、隙間風を感じて(あら、寒い)って思ったものの、母の話にこころ奪われてしまった。そんな母と娘の遠慮のない関係、お互いにおしゃべりをすることでどんなに癒やされてきたことか。「隙間風」という季語を巧く詠んでいる一句だと思った。その仲の良かった母も亡くなってしまった。〈かなかなやおかへりの声もう聞けぬ〉本句集のタイトルとなった一句である。〈母見舞ふ桜の写真撮りためて〉桜の写真を喜んでくれる母はもういないのである。

校正スタッフのみおさんの好きな句は、〈マウンドを降り全力で麦茶干す〉「全力で」という部分から中学か高校の野球部の風景を想像します。」と。

今回、句集を作りたいとの思いに至り、これまでの自身の句を見直す中で、私の心がいつも「家族」と「仕事」によって大きく揺れ、そして満たされてもいたことを改めて感じました。その過程で、中学高校時代からの友人たちから多くの刺激を受け、支えてもらったことが、自分をもっと表現したいという思いの芽生えにもつながっていました。こうして、徐々に自分の弱さや人には言えない心の内を俳句に託せるようになり、いつの間にか俳句は、自分にとって大切な話し相手になっていたのです。

句集の章の分け方は、自分自身の心を揺り動かして来た出来事を軸にすることとしました。

夫の存在に助けられながら、仕事、そして自分の不甲斐なさに向き合って、毎日をただ無我夢中で過ごしていた時期(「ゆつくり」)、勤め先で工場に配属され、新しい業務、そして、初めての役職というプレッシャーと格闘していた頃(「生麦酒」)、夫が海外赴任となってから帰任するまでの一人の時間(「帰任」)、母の闘病に寄り添った三年四か月(「母見舞ふ」)、そしてその母との別れと遺された父への思い(「あの時」)、それらの経験を通して得た自分なりの成長を喜べるようになった今(「今時の子は」)。

とりわけ、亡き母の闘病期間は、自身の心の内を俳句が受け止めてくれることで、何度も救われました。句集名「おかへりの声」はその母への思いを託した句からとったものです。

「あとがき」を抜粋して紹介した。

本句集の装釘は和兎さんであるが、表紙の装画は、塙千晴さんのご希望による写真を加工したものである。

この日傘の女性は、塙千晴さんのお母さまである。

まさにかなかなの声が聞こえてくるような風景である。

 冬の星添ひ遂げるとはいづこまで

最近のこの句に注目した。(略) 遺されたお父さんの生き方を見て作者自身の人生にも思いが及んだのだ。こうした精神の領域にまで踏み込んだ作品が生まれたことでこの句集の魅力が深まったと感じるのは私だけだろうか。(西村和子/序より)

「「私の句集」と心から思える一冊になったことたことをとても嬉しく思っています。そして、あとがきと重なりますが、これからも一日一日を大切に俳句と歩んでいきたいです。」

と、上梓後の感想をくださった塙千晴さんである。

 ねえと言ひああと言はれてのどかなる   塙 千晴

日々を多忙に働いておられる塙さんであるが、こういう一句もあって、わたしはホッとしたのだった。


https://deus-ex-machina-ism.com/?p=31193 【俳句の歴史とコミュニケーションの観点からの俳句の読み】より

俳句の歴史

俳句のルーツは連歌にある。連歌とは和歌31文字の上の句(五七五)、下の句(七七)を複数の連衆(連歌・連句の会席に出て詠み合う人々)が交互に読み継ぎ百句つくるものとなる。

例えば、天正10年(1582年)に、”街道をゆく – 丹波篠山街道“でも述べた丹波篠山城を築いた戦国武将の明智光秀が愛宕山威徳院において開いた連歌では「発句」(一番最初の五七五)として「ときは今あめが下たる五月かな」と詠んでいる。この連歌興行は本能寺の変の直前に行われたので、上記の句は謀反の決意を示したものではないかと憶測を読んだ曰く付きの句となる。

連歌は、平安時代に和歌を詠む貴族たちが、私的な場の座興として始めたといわれている。それが室町時代になると公の正式な詩歌と見なされ、政治とも密接な関わりを持つようになる。明智光秀や”街道をゆく – 芸備の道“で述べた毛利元就、”街道をゆく-甲州街道“で述べた武田信玄など多くの武将が戦勝祈願として戦の前に連歌を詠み、神社に奉納している。また連歌は複数人で長時間かけて行うものなので、中央(京都)の様子を探るなど貴重な政治の情報ツールでもあった。

公の場での高尚な連歌が確立されると、歌を詠むための約束事や作法も増える。それに対し「もっと自由で面白い詠み方があってもいいのではないか」と庶民の間で流行ったのが「俳諧(はいかい)連歌」 となる。俳諧とは滑稽やユーモアを表す言葉で、笑いを軸として遊戯性、庶民性を高めた歌が俳諧連歌となる。これは、江戸時代を通じて身分の高い人だけなく、町民や農民の間でも人気となり、元の連歌とは違う俗性で普及し、それらを「俳諧」と呼ぶようになった。

そのような江戸時代前期(1680年頃)に、”街道をゆく 秋田散歩と松尾芭蕉と菅江真澄と人形道祖神“等でも述べている俳諧師・松尾芭蕉が現れ、これまでの諧謔(かいぎゃく:面白い気の利いた冗談)を旨とする俳諧を、質の高い文芸に昇華された。芭蕉は「さび」(寂しさ)、「しおり」(繊細な余情)などの独特の理念をもって、静寂の中にある自然の美や人生の悲哀を詠んだ「閑かさや岩にしみいる蝉の声」、その幽玄・閑寂を尊ぶ作風は「蕉風」と呼ばれ、今でも俳句の理念の一つとされている。江戸時代には、その後与謝蕪村「鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな」や小林一茶「我と来て遊べや親のない雀」など芭蕉を慕い俳諧の道を目指す俳人が輩出している。

特に江戸後期に、それまで都会を中心に広まっていた俳諧が農村まで浸透、それを象徴するかのように現れたのが小林一茶となる。一茶は当時少なかった農民出身の俳人で、ユーモアの裏側に人生の悲哀を詠み人気を博した。

明治期になると、さらに詩歌の一大変革が生じる。当時、新聞社の社員であった正岡子規が、俳諧の興行や句会で作られるありふれた作風を「月並調」と記して批判、五七五七七の俳諧から発句の五七五だけを独立させた。正岡子規は、それまで日本の詩歌で美しいと思われになかった日常の小さな実感にこそ俳句の真髄があり、自分が見て触れて感動したことを詠めば、そのまま文学になると宣言した。

この子規の論評後に「俳句」という言葉が一般に用いられるようになり、近現代の「俳句」が誕生した。子規は、写実的な句を「写生」と呼び、美術用語を俳句に持ち込み、俳句を新しい文学として捉えた。「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」

子規の俳論は西洋思想を織り交ぜた斬新なものであり、特に若い俳人を魅了し、その中から高浜虚子「流れゆく大根の葉の早さかな」や、河東碧梧桐「赤い椿白い椿と落ちにけり」、中村草田男「夕桜城の石崖裾濃なる」、石田波郷「女来と帯まきいずる百日紅」等の作家が輩出した。

さらにその後尾崎放哉「咳をしても一人」や種田山頭火「分入っても分入っても青い山」等の、俳句の五七五の定型や季題にとらわれない自由な表現法を提唱する「自由律俳句」の一派が現れる。

俳句の読み方とコミュニケーション

俳句は元々連歌から始まったことから一人で世界観を作り上げる小説とは異なり、共同作業で成り立つ要素が多く、また現在のツイッターに代表されるSNSのように日常の一コマを短文で伝える手段でもある。

つまり俳句は「読まれる」ことが前提のコンテンツとなる。不特定多数の「読み手」たちによる俳句の読み方は、読者の存在を前提にした俳句の「詠み方(作り方)」に影響を及ぼす。一方で、「詠み方」の変化やバリエーションによって読み手側の「読み方」も拡張・変質する。この俳句観に基づけば、再帰的に、つまり自らに翻ってくる形で「読み方」のモードが揺れ動きながら、パラダイムシフトが生じてきたと解釈することもできる。

このような見方も人それぞれであり、絶対的な真理があるわけではない。むしろ、そのような差異があるからこそ、そこにコミュニケーションが生じ、俳句を読むことの広がりを感じることができるようになる。

俳句においては、音とリズム、つまり韻律がもっともその根幹をなすと考えられている。あえて挑発的に表現すると、俳句は「十七音(くらい)の音数に合わせて言葉を整えるゲーム」ということができる。そして大切なのが、その十七音がのっぺりとした棒の状態ではなく、五/七/五の三つの部位になんとなく切り分けることができるところにある。

実際に用語として、冒頭の五音を「上五(かみご)」、中央の七音を「中七(なかしち)」、末尾の五音を「下五(しもご)」と称する。これは音数によって名称を変化させることができ、例えば中央が八音の場合は「中八」、末尾が六音の場合は「下六」と慣例的に呼ぶ場合がある。

このようなタームが用いられているように、俳句が五七五の三つの部分に分かれていることが、韻律にとってとても重要な働きをする。なぜなら、十七音の連なりにおいて、上五と中七、中七と下五のあいだにある微妙な間、この糊代あるいは折り目のような空白部分が、俳句のリズムを規定しているからに他ならない。

古池や蛙飛び込む水のおと 松尾芭蕉

現在、日本語話者の人口にもっとも膾炙していると想定される芭蕉の句を、声に出して読むと、普段俳句に触れていない人でも、上五<古池や>と中七<蛙飛び込む>の間に休符を置き、中七と下五<水のおと>のあいだでも軽い間を置く。しかも前者の間の方が後者の間よりも微妙に長い間をおくこととなる。

このような無意識のリズムや抑揚が、ただの棒状の十七音を、起伏にあふれた韻律にせしめている。初学者の多くが俳句を清記する際に上七・中七・下五のそれぞれの間に空白を挿入する「分かち書き」をしてしまうのも、この無意識のリズムをある意味で「忠実に」書記してしまっているからであると思われる。意識的でない限りは分かち書きを行わないのがデファクトスタンダードとなる。

間があくということは、そこで意識の上でも何らかの変化が生じることにつながる。そのもっとも従順で、俳句の構造として意識されているメカニズムが「切れ」となる。原始的な「切れ」の多くは、リズムの切れ(「句切れ」ともいう)を契機に、意味上の断絶を呼び込むことができる。

また「切れ」に付随して「切れ字」というものもある。代表的なものは「や」「かな」「けり」で、切れ字は明確に、書き手が構成する醜態の意識のあり方を示唆する記号となる。

桐一葉(きりひとは)日当たりながら落ちにけり 高浜虚子

虚子の句は「落つ(落ちる)」という動詞に対する詠嘆となる。主体の意識は、桐の大きな一葉が落ちる光景に引き寄せられている。だからこそ<日当たりながら>という描写とゆったりした韻律が活き、落葉の一瞬がスローモーションのように引き伸ばされた錯覚すら覚える。

十七音程度の俳句を、立体的で起伏に富んだものにするために寄与するものとして「季語」がある。季語は詠み手と読み手が少なくとも季節感や地理、場面設定、心情などの様々な側面から重曹的なイメージを共有可能にするキーワードとなる。

俳句において季語が重要視されているのは、論理的になんら必然性のない歴史の成り行きだが、今なお季語は短い音数の中で句中の主体を取り巻く状況や心情、興味の対象等を効率的に示唆する。一般に、句中に季語が一つだけ含まれている作品がほとんどであること、季語のない「無季俳句」や季語が重複されている「季重なり」を忌避する詠み手や読者が多いことは、情報量の過不足を避けたいというインセンティブから、表裏一体を成す。

俳句とは、その異常な短さという形式と闘い、形式を往なし、形式を見方につけようとした人間の「わざ」の蓄積となる。

“コミュニケーションについて“で述べているように、コミュニケーションとは人と人とが様々な方法を用いて、情報や意見、感情を交換し合い、理解し合うプロセスや方法を指すものであり、コミュニケーションは人間関係を形成し、深化させる重要な要素でもある。また、”特別講義「ソクラテスの弁明」より「哲学とは何を目指すものなのか」について“では、このコミュニケーションを通じて人と人が共通で認織できる概念を作り上げることが哲学であり、この共通認識を作り上げるには抽象的な概念からスタートするのではなく、コミュニケーションを行う個々の人間が現実に体験している現象をすり合わせながら行うべきであると述べられている。

俳句に込められた思いや感情は、そのままでは抽象的な言葉の連なりとなるが、これに対して季語などのしばりをかけることで、多くの人が共有できる形にし、さらに音やリズムなどを限定した形式とすることで、感情的な共有も行えるようにしたものが俳句だと言えるのではないだろうか。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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